【整理・分類】満洲国奉天における観光資源の機能的分類 (地図・観光バスのルート・観光資源の宣伝紹介)

以下のパンフレット・観光案内で紹介されている奉天における観光資源をその機能から分類。
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【目次】

地図

1.鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4

1-1.最新大奉天市街案内図(2,3,5コマ)

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1-2.奉天遊覧バス(7,9コマ)

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2.奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939

2-1.奉天観光案内図(13-14コマ)

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観光バス

1.短コースのルート

  • ①駅(旅館)-忠霊塔-国立博物館-北陵(又は北大営)-城内-吉順絲房(百貨店)-帰着
    • (『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)
  • 奉天駅-忠霊塔-同善堂-北陵-北塔-柳条湖-北大営-城内-奉天神社-奉天
    • (鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4)
    • (奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939)
    • (『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12)

2.長コースのルート

  • ①駅(旅館)-奉天神社-忠霊塔-国立博物館-同善堂-城内-故宮殿前通過-吉順絲房-満蒙百貨店(又ハ七福百貨店)-帰着
    • (『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)
  • 奉天駅-忠霊塔-国立博物館-北陵(昼食)-北塔-柳条湖-北大営-天斎廟-城内-同善堂-奉天神社-鉄道総局-鉄西工業地区-南部住宅街-奉天
    • (鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4)
    • (奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939)
  • ③駅-忠霊塔-国立博物館-同善堂-北陵-北塔-柳条湖-北大営-城内-奉天神社-鉄道総局-鉄西工業地区-三軒家(大越中佐白刄の地)-于洪屯-駅(6時間)

満洲国が清朝の後継であることを歴史的に実体化するもの

天壇

  • 「天壇は太祖皇帝が即位の時、此の地に来たり遥かなる天に向つて、それを告げた処で、又出征に際しては戒衣の将卒を檀下に集めて香を焚き、生贄を供へて武運長久と戦勝を天に祈つた所で、昔は丘の上に高さ9尺径9問の台が築かれてあつたと伝えられてゐるが、今はただ朽ち果てた寄り木に囲まれて、崩れかけた瓦壁によつて、やつと位置を残してゐる程度であるが、不思議なことはこの中に立つて物云ふと、遠く天とも地ともなく木霊となつて返つて来ることである。(大南辺門東へ二粁)」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

奉天城・宮殿

  • 「駅より4粁、大西門から入れば真直ぐに宮殿の前に出る。奉天城は清の太祖及び太宗の宮居した處で宮殿は金鑾殿と称し東西100米、南北269米、その境域は大内宮闕、大政殿、文溯閣に分れて正面には、皇帝が政を聴いた崇政殿がある。文溯閣は一名図書楼と言つて有名な貴書四庫全書6052函を蔵して居る。以前は参観を許されて居たが昭和11年5月以降宮殿の拝観は禁止された」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、75頁)
  • 奉天城内に在り、清の太祖及太宗の宮居として有名である、天命10年太宗高皇帝が遼陽から遷都して以来北平に遷都するまでの19年間の皇城で、宮城は金鑾殿と称される、太祖の時工を起し太宗の天聰6年完成したが後ち乾隆帝が増築した、東西100米、南北269米の甎壁で囲まれ、大内宮闕、大政殿、文遡閣があり、正面の崇政殿に玉座が設けられ又歴代の宸筆扁額などあり、殿後にある日華楼は皇子、霞綺楼は皇女の勧学所である。又、永總、關雎、衍慶、麟趾の各宮があり、その後方に清寧宮がある、また図書には有名な四庫全書6千752函を蔵してゐる、満洲事変後暫く拝観を許されてゐたが今日では禁止されてゐる。」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ)
  • 「城には元初に創建されたと伝えられてゐるが、清の太祖が天聰5年に現存のものに改築せし洵に清朝興隆の歴史と共に忘るべからざる発祥の帝城である。而して天命10年(西紀1625年)太祖高皇帝が遼陽から遷都して以来順治元年北京に遷するまで19年間の皇城で宮殿建築の一部は太祖の時に初まり(ママ)、太宗の天聰6年に完成し後に乾隆帝が大改築したものである。奉天城は故宮殿を中心として方形の内城とそれを囲む不整楕円形の辺牆とからなつてゐる。内城は瓦礫で城壁の長さ6粁、高さ10米66糎、8門を開いて内はこれ等に通づる大道が井字を為してゐる。故宮殿は奉天駅より4粁、大西門から入れば真直ぐに進んでその前に出ることが出来る。宮殿の一般拝観は禁止されている。辺城は周囲16粁の土壁であつたが今は破壊されて概ねその形を失つてゐる。辺牆と内城との間も民家稠密して居り近年交通通信上の障害から大南門と小東門を除く他の六楼門並に十字路の鐘楼、鼓楼は全く取毀されて昔日の威風はないが、城郭は尚數かに城の固めを示し清朝の昔を語る宮殿の甍と共に今も都城の匂を高めてゐる。而して大奉天都邑計画に基き康徳8年度以降城壁の東部により取壊し作業が開始されたので数年後には一部城門のみを除いて完全に其悌を失ふ筈である。」(『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)

北陵

  • 「陵は清朝第二代太宗文皇帝の陵墓で、境域の周囲約8粁、外壁1.7粁、内壁の高さ6米余で入口には一大牌楼が立ち前三門(正門)を潜って進めば碑楼がありこの間は両側に獅子、走獣(白澤)麒麟等の石獣が並び、内二頭の馬の石獣は太宗の乗馬を形どつたものとして著名である。更に三層楼を為す陸恩門を潜れば廟の拝殿である隆恩殿がある。拝殿の後方には明楼と寝陵があり、半円形の壁に囲まれた寝陵は太宗文皇帝の霊枢が葬られてゐる。寂静の奥津城に競ふ結構の荘と配合の妙は清朝の全盛期を偲ばすものがあり奉天人士の行楽地となつて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76-77頁)
  • 奉天駅の北方6粁、陵は清朝第2代太宗文皇帝の陵墓で隆業山昭陵とも称されてゐる、270余年前崇徳8年の築造にかかり翌順治元年太宗皇帝の霊枢を祀り、越へて順治8年陵の完成を俟るて孝瑞文皇后を合祀した、境城の周囲約8粁、外壁1.7粁、内壁の高さ6米余、境内には昭陵聖徳神功の碑、隆恩殿、寝陵があり、老松鬱蒼として四季緑をたたへてゐる、北稜の周囲は公園で又国立競馬場もある、春夏の季節には遊覧バスを運転し、奉天に来る観光客の誰しもが杖をひいている。」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、10コマ)
  • "室生犀星「北陵の石仏」
    • 「石仏と云つても奉天の北陵にある石獣のやうなものを見ると石仏の本格的なものであつて燦然として見惚れ、驚きと讃嘆を深くするばかりである。私はああいふ立派な石獣を見たことがない、獅子、走獣、麒麟、馬、駱駝、像、などの石獣は本物よりも大きく丸彫りにされ、石質は腐食しないでこのごろ作つたばかりのやうに見え、壮麗といふよりも、厳めしい美しさである。そのうちの二頭の石馬は太守の乗馬を形どつたものに稱はれてゐる。永年の風雨に石の肌が一さう滑らかになり、各々の石獣の首や手足の円みは製作当時よりも一層円く、柔しくなごやかに見えるー私はもつと永い間、kれらの石獣を見て居れば宜かつたと思ふくらゐであつた。帰来、どういふ石仏を見ても、これらの石獣を見たときのやうに美しさを感じたことがないからである」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、9コマ)"
  • 「陵墓として知られているが、乃木第三軍の歩兵第28連隊の苦戦したところとして忘れることの出来ないところである。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)
  • 奉天駅の北方6粁、清明第二代太宗文皇帝の陵墓で陵業山昭陵と称す。境域の周囲約8粁、磚道の両側に並ぶ石獣は有名である。隆恩門内の拝殿の背後には「太宗文皇帝之陵」の碑文ある明楼があり、半円型の壁に囲まれて寝陵がある、順治元年、太宗文皇帝の霊柩を葬りなほ孝瑞文皇后をも合葬している。『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)

東陵

  • 「奉吉線の東陵駅に下車するが便利である。別に奉天駅前から総局経営の奉撫線乗合バスによれば約1時間で往ける。東陵は天桂山福陵と称し、清の太祖高皇帝を葬つたもので渾河の右岸に臨み老松の中に、朱壁縁瓦聳え附近の天然風水の勝は又特別である。(観覧料は北陵、東陵共、大人国幣三角若は金三十銭、学生、小児二角又は金二十銭、普通団体十人以上一角五分又は、金十五銭、小児一角又は金十銭、制服軍人及び6歳以下無料)」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、77頁)
  • 「天柱山福陵が正称であるが普通東陵と呼ばれてゐる、清の太祖高皇帝を祀り城内から東方約14粁のところにある、陵城は周囲約16.3粁その結構は北陵と酷似してゐる。」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、10コマ)"
  • 「東陵は旧名を福陵と云ひ、北稜並に、與京城に在る啓選山永陵と共に清朝三陵の一つで、清の太祖高皇帝を祀れる陵である。太祖高皇帝(ヌルハチ)は、満洲の山林草河が生んだ一代の英傑で、殆んど功を収めたが、惜しくも天命11年寧遠城の戦ひに敗れ、永眠されたものである。陵境たる天柱山は周囲四邦里余、四囲鬱蒼たる松林に囲まれ、剰へ渾河の清流を臨み、山を環つて流るる山紫水明の景観は北陵にも優るものである。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、18コマ)
  • 「城内から東方約14粁、天柱山福陵と称へ清の太祖高皇帝を葬つたものである。渾河の右岸に臨み全丘老松を以て蔽はれた中に朱壁縁瓦が聳えている。天然風水の勝はかの昭陵及び肇祖、興祖景祖、顕祖等の遠祖を葬つている永陵(興京)よりも遥かに秀で、その結構は北陵と全く酷似している。」『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)

満洲国が中国とは異なる独自の歴史・文化を持つことを証明するもの

国立博物館

  • 「建物は湯玉麟の私邸を改造したもので白亜三階建の高壮なものである。仏像、服飾類、陶磁器書画、古代遺品等多数が二十一室に分類陳列され見学価値多いところである。」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、77頁)
  • 「古代文化、支那文化を一堂に集めた国立博物館奉天の持つ誇りである。旧三経路十緯路にある、その白亜の三層楼は旧東北軍閥の巨頭湯玉麟の私邸であつたもので壮麗を極めてゐる、陳列品は遼、宋、金時代の陶磁器を初め宋元以来の名所画、北魏以後墓誌契丹文字、哀冊その他刻絲、刺繍等珍宝三千五百点に及んでゐる(拝観料大人10銭、学生5銭、軍人学生3銭、子供1銭である。)」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ)"
  • 「古代支那文化を一堂に集め聚めた此の国立博物館満洲国文化の歴史を語るに相応しく世界に誇るものである。贅美を尽くした白聖の三層楼は、もと熱河の阿片王と謳はれた旧東北軍閥の巨頭湯玉麟華やかなりしと当時の私邸であつたものを事変後の康徳2年5月に改修、博物館として再生したもの、館内の室数は22に及び、陳列せる珍宝3千5百余点の中には遠く千六百年前の土器もあり、刻絲1枚に20万円の評価を下されてゐる等、一片の土瓦にも古を偲ぶ文化の跡が想像されて、終日飽くことを知らざる名宝が収められている。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、8コマ)

清朝の威信を社会事業から示すもの

同善堂

  • 「本堂は光緒7年(1881年)左忠荘公の設立に係る社会救済事業の一施設で貧民、医務、孤苦、工芸の四部に分れ相当整備された方法で経営されて居る。私生児の捨子を受取る救生所、逓入した娼婦を収容する済良所、乞食を収容する棲流所等は珍しい施設である。」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76頁)
  • 奉天で最も完備し且つ古い歴史を持つ社会事業であると共に観光奉天で欠くことの出来ない所である、小西關高豪廟に在り光緒11年の設立で貧民、医務、孤苦、工芸の4部に分れ貧困児老衰者の救済、孤児の養育、授産場等も完備し、殊に私生児の捨場である救生所、遁入せる娼婦を収容する済良所、乞食を収容する楼流所などは特に珍風景である。」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ)
  • 「光緒7年当時天然痘が流行を極めた際、後に日清戦役の猛将、左宝貴氏が私財数万円を以つて、天然痘予防、育児、保護、貧民救済のため、開設したに始まり、現在では満洲唯一の慈善事業として堂内の収容人員も一千名を超えてゐるが、特筆すべきは救生門(捨児を受取る窓)済良所(逃避し来れる娼婦を収容する所)等で、世界各国にも類なきものと謂われてゐる。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、17コマ)

珠林寺

  • 「此処は同善堂の事業の一つとして霊柩の保管を掌つてゐる。同寺に郭松齢夫妻、張作張学良の子息等の霊が所謂呉越同舟の形で保管されてゐたが、張作霖の霊柩は康徳4年6月2日に協和会主催の下に盛大な超渡式が行はれ今は母堂並に夫人の眠る墓地、錦州鸚鵡山麓に葬られ、安らかな永遠の眠りについてゐる(小東門東へ一粁)」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

中国系寺院

喇嘛仏教

黄寺
  • 奉天小西辺門外、瀋陽公園の北にある。皇寺ともいひ本名は蓮華浄土宝勝寺と称し崇徳3年建立、満洲に於ける数多き喇嘛寺院の総本山ともいふべきものである。」『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)
  • 「本名は宝勝寺と云ひ、皇寺とも謂はれてゐる黄喇嘛教の寺である為にこの名があるが、満洲に数多くある勅建喇嘛教寺中の総本山とも称すべき名寺として知られ建物の結構荘厳なことは随一で、毎年陰暦1月14日の祭典には近郊在から、此処の有名な打鬼祭(喇嘛踊り)をみに来る人達で、さしも広大な寺内も埋め尽くされて了ふ程である。この打鬼祭は日本に於ける節分の豆撒きに匹敵する催しで、奇妙な面を被つて悪魔払いを面白く踊るものである。(小西辺門外)」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)
西塔
  • 奉天城外の西方に護国寺塔といふ都城鎮護のための勅建にかかる四座の喇嘛塔がある。西塔はその中の代表的なもので西塔大街に沿い延濤寺の境内に古色蒼然たる姿を聳立させている。」『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)
法輪寺
  • 「西塔と共に護国寺塔の一つである喇嘛の北塔は此の寺に聳えて居り、寺境にある天地廟には涅槃寂静相を表現した奇怪な男女交歓の像(天地仏)が併置されて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76頁)
  • 「西塔と共に護国寺塔の一である喇嘛の北塔はこの寺に聳えている。天地廟には涅槃寂静相を表現せる怪奇な男女交歓の像(天地仏)を存置している。」『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)

道教

太清宮

植民地神社

奉天神社

  • 琴平町にあり、天照皇大神、明治大帝を合祀し奉天市民崇敬の宮である。」鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、10コマ
  • 「日露戦役の故局を告ぐるや当地に移住する者年を追ふて増加発展するに至り、我が国風を維持し、国体の精華を発揚せんが為め、大正4年11月大正天皇御即位大典を機として、在奉邦人が一致協力して、その経営を進め、翌5年鎮座祭を行ひ、天照大神、明治大帝の御二柱を合祀、現在に至つてゐる。境内数万坪には樹木繁り参拝者自ら神々しさを覚える。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、17コマ)

戦跡~血を流した日本が満洲国に於いて特殊権益を持つことを証明するもの~

忠霊塔

  • 奉天駅前の千代田通りに面し、魏然として中空に聳へ立つ壮麗な六稜ピラミツト型の忠霊塔は、日露戦役に護国の神と化した戦没勇士を初めシベリア事件、鄭家屯事件、寛城子事件、満洲事変等の英霊3万5038体を合祀する由緒ある記念塔で、毎年春秋2回盛大な招魂祭が執行される。」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、10コマ)

北大営

  • 満洲事変の発端地で、昭和6年9月18日午後10時30分張学良麾下の王以哲軍が、奉天文官屯間の柳条溝に於て満鉄線を爆破し対日戦線の挙に出た、当時虎石台守備隊第三中隊の河本中尉は数名の巡察兵を率ひ夜間警備演習中突如この爆音に接するや、直ちに其の一名を虎名台に急報せしめ一方支那兵を追撃し、寡兵よく応戦し、程なく急行軍して来た援隊と共に猛襲を加へ北大営攻略の作戦に出た、この時兵営内精兵約1万は猛然起つて我軍に迫つたが大隊本部及第一第四中隊の援隊を得て、午後11時50分敵兵舎爆撃の戦法に出で我軍は撫順鉄嶺両部隊の到着により一層優勢を加へたので、流石の支那兵も悉く浮足となり兵舎の猛火煙を見つつ御前5時20分完全に我軍に占拠された、この戦闘に於て我軍は戦死2名負傷者22名を出したが支那兵は三百廿の死体を残してゐた(奉天駅より馬車で約10時間馬車賃往復2円、自動車で30分特定料金4人乗4時間貸切10円)」(鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ)"
  • 「我軍僅かに五百の寡兵で、敵精鋭一万余を算する北大営に迫つた。此の夜の兵舎は何と思つてか舎内には昼をあざむく様な電燈が煌々と輝き敵状は手に取る様に明瞭に見ることが出来たので、敵機関銃の猛射をものともせず突撃を敢行、弾丸尽きも銃剣の白兵戦に次ぐる肉弾戦の苦闘の結果、遂に午前5時20分完全に日章旗を翻すことが出来た満州事変最初の激戦地で、兵舎の屋根は飛び、壁は打破かれ、今になほ残る銃痕は当時の激戦を眼のあたりそぞろ想はすものがある。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、10コマ)

柳条湖

  • 「此の日昭和6年9月18日午後10時30分張学良麾下の王以哲軍は南満鉄道奉天天文官屯間北大営附近の柳条湖に於いて鉄路を爆破し、対日戦線の挙に出た。当夜虎石台守備隊第二大隊第三中隊の河本中尉は6名の兵を引率、夜間警備演習中で、北大営西の鉄道線路に沿ひ、北より南へ奉天駅の方向に向つて前進して来ると、約2百米後方の此の地点に於て大爆音を聞き、事態重大とみて直ちに部下1名を虎石台に急報せしめ、一方爆破作業の支那兵を追撃射殺し、北大営附近に迫ると塔つじょ東側の高粱畑より2百余と思はれる支那伏兵から一斉射撃を受けたので、直ちに応戦程なく急行軍して来た援隊と共に猛射を与へ、北大営攻略の戦に出たもので満州事変発祥の地として永久に記念さるべき地点である。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、10コマ)

大南門

干洪屯(李官堡)

  • 「第二軍の苦戦したところで竹内連隊長の率ゆる歩兵第六連隊は干洪屯方面より、吉岡連隊長の率ゆる歩兵第33連隊は南方三軒家より攻勢に出たが、敵の大群の逆襲を受け、第33連隊は全滅吉岡連隊長は壮烈な戦死を遂げ、第六連隊も又竹内連隊長以下戦傷者二千数百名に及び、残る者僅かに三百克く占領地を死守して奉天大会戦の勝因を作つたところで僅か一日の戦ひに小銃弾26万を消費したと云ふ激戦地である。付近には武人の亀鑑として謳はれてゐる大越中佐自刃の地が今に尚残つてゐる。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

産業

鉄西工業

市場

  • 「内城の外側城壁に沿ふて、大西門から大東門に至るまで狭長な市場が構成されて居て、古着、鍛冶金具、雑貨、骨董品、野菜、獣肉、家具、等の店が夫々軒を並べて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76頁)

鉄道総局

自然

小河沿

  • 「外城の東南隅にあたり大東門を出て南すれば小河沿に至る。これは旧運河の跡で本名を万泉河といひ小瀋水とも呼ばれてゐる。橋の布置面白く蓮を植えてあり花時は紅白の蓮花が美しい。夏季満人の遊園納涼地となつている。」『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942.12、80-81頁)

盛り場

花柳街

  • 「その名も、柳町に10間房に大東区に数多い芸妓と酌婦が美を競ふてゐる。代表的な家を挙げれば、金龍亭、金楽、金白館、蔦家、菊文、梓山、湖月、松鶴、泉、よね家等がある。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

平康里

  • 奉天でなければ味へない満人紅燈街で、旅の徒然に『開盤子』も一興と云ふべきである。学良華やかなりし時代には時の満人高官達が夜毎通つたと云はれてゐる。艶楽書館はその代表的なものである。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

ダンス

  • 「明星、スターブロード、ウエー、と三軒のポールルームがある。時局柄まり派手にやつてゐないが、内地では味はへない異国的な雰囲気だけは失はれない。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

カフエー

  • 「五彩に輝いたネオンに包まれて芳酵な和洋酒と美女が縫ふクツシヨンの陶酔境は、正に此処が随一、銀鈴、グランド祖国船場会館、改良軒、上陸、みち草、等、此の他に異色カフエーとしてロシア美人ばかりのボルガがある。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

喫茶

食堂

  • 「簡素に手軽にそして低廉な安心して食事の出来るところは、満毛食堂、ガスピルグリル、オリエンタルその他で、高級なものにヤマトホテルグリルがある。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

映画館

  • 「大陸劇場、新富座、平安座、南座奉天館、演芸館、奉天劇場、銀映劇場が満洲国策映画協会の配給下のもとに映画封切を行つてゐる、城内外には別に満人向映画上映館として、光陸電影院、雲閣電影院、亜洲電影院その他3、4館がある。」(奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ)

満洲芝居