パンフレットや観光案内で取り上げられている哈爾濱の地域資源を機能ごとに整理、分類。
観光コース
- コース①
- コース②
エリア
新市街(南崗/新家崗)
埠頭区
- 「〔……〕裸踊りや私娼窟や怪しげなバアや、等等等の暗黒面を抱含してゐるだけに、ハルピン夜話やハルピンの猟奇秘話は、多くはこの埠頭区から生まれ出るのだ。それ程此処は夜を生命としてゐる〔……〕」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、17-18頁)
- 「埠頭区は道裡と云ひ松花江に接して新市街と埠頭区を結ぶ跨千橋(虹霽橋)上から一望の下に俯瞰される商業区で凡ゆる享楽機関、暗黒街を設けた下町とも称すべき処である。中央を真直に松花江に通ずる中央大街(キタイスカヤ)は哈爾濱の銀座とも云はれる処で、中央大街に並行して新城大街があり満人経営の百貨店や大商店が多い。夏の夕暮のキタイスカヤの散歩は哈爾濱の魅力と言はれてゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115頁)
馬家溝
- 「馬家溝は一部の露人間で「皇帝の村」と云はれ主として革命後の亡命露人の集団的部落で新市街に接続し日満露人の雑居する郊外住宅地で飛行場と兵営がある。この周囲は全く都会と思はれぬ牧歌的な情緒をもつてゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115頁)
旧哈爾濱(香坊)
- 「旧哈爾濱は露国の植民当初に建設された街で満人間には香坊」と言はれ新市街から4粁、今は主として工場地帯となつて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)
ナハロフカ(新安埠)
- 「ナハロフカは埠頭区の西に隣接し低地を成し満人は偏瞼子と呼んで居る。哈爾濱の貧民窟で近年白系露人が多く居を構へて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)
地段街
- 「内地人のビジネスセンターとして商公会を始め銀行大商店や内地大会社の視点出張所等が軒を並べてゐる。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「石頭道街、売買街、透龍街と共に日本人の密集地帯にして殊に地段街は日本大会社、銀行の支店及び百貨店等が終結し北満経済発展の中枢神経的存在である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、9-10頁)
八区
- 「八区は埠頭区と傅家甸の間に介在し油房、工場倉庫等多く工業地区であると同時に鉄道貨物の取扱所で八区一帯に引込線が網状をなして居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)
傅家甸
- 「南満を飛び越えて、上海の文化を其儘取入れた街として余りにも有名な所で、住人は30万と言はれ、哈爾濱人口の三分の二を占めて居る。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「傅家甸は純然たる満洲人の町にして人口約18万全市人口の三分之一強を占めてゐる。その文化の発達せることと、繁華なることは全満その類を見ない。蓋しこの文化は満洲流のものとやや異なり。上海文化の影響を直接受けてゐるので著しく欧風化してゐる。正陽街は本区の代表的な街でその繁栄は埠頭区の繁華街を摩せんとするの趣きがある。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、11頁)
- 「傅家甸は埠頭区に接続して俗に「道外」と言はれ「濱江」と言はれるのは此処である。頭道街から二十道街まで街路整然と伸びた大市場で正陽街の雑沓は驚嘆に値する。実に支配人が建設した代表的市街として上海に次ぐ大市場を成し、現在北満農産市場を支配する経済的中心地である。満洲に於て近代支那文化の最も発運したのは実にこの傅家甸である。傅家甸の北側は松花江の江岸となり、鉄道総局を初め、公営、私営の埠頭は殆どここに並んでゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115-116頁)
歓楽郷
キタイスカヤ
- 「鋪道に咲く陽樹、両側に並ぶ異国風の高楼、それに流れる日、鮮、露人の漫歩、エキゾチツクなキタイスカヤ風景」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「哈爾濱がキタイスカヤか、キタイスカヤが哈爾濱か……それ程キタイスカヤの名は有名である。日本人は哈爾濱銀座とも云ふ。ロシヤ人の商業街の中心地にして両側にはロシヤ独特の重厚なる建物が並列し、石畳の鋪道には散策の外国人が軽快なるステツプを運び、凡そ東洋色から掛け離れた雰囲気は旅行者にとり最も印象的である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、10頁)
- 「ロシヤ美人はキヤバレーにも居る。然し真にレフアレインされたタイプのものを目撃しようとならばキタイスカヤの午後から宵へかけて、若しくはブチスタン(埠頭区)の市立公園の夕涼みにでも出掛けるがよい。若しもそれが夏だつたら、キリリとしまつてすんなりと伸びた脚・脚・脚のオンパレードを目撃することが出来るし、その中には必ずハルピンならでは見ることの出来ないやうな美しい異国婦人も発見出来やうといふもの。ジプシイ風に東部に風呂敷をみたいなものを巻きつけてゐるものは今では次第に影をひそめた。彼女等も亦世界を風靡してゐるスマートな服飾美を追ひ求めやうとしてゐるらしい。断髪に巻毛にハイヒールにルージユに……伝統的なものと先端的なものがごつちやになつて醸し出す異国趣味も亦棄て難いといふべきか。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、6-7頁)
キヤバレー
- 「キヤバレーとはロシヤの踊り場ですが、ダンスホールとは異り、ロシヤ料理あり、ステージあり、バンドあり、ロシヤ美人の酌む甘酒に酔ひ、美人と踊り、合ひ間のステージの催し物を眺め、国際都市の絢爛豪華の夜を更すのはまた甚だ味なものであります。経費は色々ですが先づ二人位で7、8円辺りから4、50円、100円と段階があります。これは飲物と、食物によつて差が出来ます。 フアンターヂヤ 埠頭区軍官衙、カズヘツク 同中央大街、オケヤン 同中央大街、ドラゴン 同中央大街、ボンモント 同田地街、モスコー 同中央大街、ロンドン 同中央大街、エデム 南崗義州街、右の内ステーヂのあるのはボンモントとフアンターヂヤだけです。其他日本カフエーにもキヤバレーと称するのが数軒あります。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、17-18頁)
- 「キヤバレーにはカフエー式なものと、もつと本格的なものとがある。が、カフエー的なものでも一方に舞台をしつらへ楽手が数人でジヤズを奏でてくれるから、レコード音楽に終始してゐるカフエーに比べると室にみなぎつてるリズムの感覚だけでも全然ちがつたものを汲み取ることが出来る。それにパートナーはみんなロシヤ人だ。踊りをこなしは下手くても、柔らかな金髪の感覚や白い肌から発散する体臭はまさしくエキゾチシズムだ。若しも火酒にでも少しく酔つてゐる時だつたら尚更気分が出るだらう。此処も亦ハルビン旅行者の一度はのぞいて見なけれなならぬ歓楽境かもしれない。キヤバレーで有名なのは埠頭区官衙のフアンタヂヤ、北満ホテル下のカヂノなど、何れもステーヂに立つて歌つたり踊つたりする女と、遊客のサービスを乍ら客とステツプを踏むダンサアとがある。ここではダンサアと切符が不要ないから、遊興費としては飲んだ酒と食べた料理代だけですむ。が、勿論酒も料理も普通の料理屋よりも高いのは必定。が、どうせキヤバレーを見物しようといふやうな連中は踊りばかりで欲望の満たないものが多いのだから、招んだダンサアに馬鹿な金を費はせられる場合が多い。ビール2,3本で夜を徹して踊つたなどといふ英雄はなかなかゐない。この外一流料理店ギリドヤン、アメリカン・バアなどでもダンサアがゐて夜の客にサービスしたり一緒に踊つたりしてゐる。三流どころの地下室のキヤバレーにもオーケストラがある。此処の女達はダンサアともウエートレスともつかぬ私娼的なものが多い。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、43-44頁)
カフエー
- 「これは日本人の経営で市内に数十軒散在して居ります。最近は満人カフエーも見受くるやいになりましたが未だ幼稚極まるものです。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、18頁)
- 「ハルビンでは邦人の所謂カフエーが料亭の領域を、そして女給が芸者の職場を侵すことなしに弥栄に栄へてゐる。激増した邦人と軍人との大衆的慰安所としてのカフエーは、皇軍の入城以来始めて出現し僅か3,4年の間に猛烈な勢いで増へ、ロシヤレストランやキヤバレーをさへ唖然たらしめてゐる程である。場所柄此のカフエーはキヤバレーを模したものが多く卓子を周囲に置き中央は広々と空隙にしてある。レコードの音楽につれ女給と客とが躍るためにである。だから哈爾濱のカフエーの女給になるには、すくなくともクヰツクステツプやブルースやトロツト位は心得てゐなければならないのだ。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、42-43頁)
ダンスホール
- 「二つありますが共に日本人経営です。 チケット 10枚綴り 2円20銭」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、18頁)
- 「キヤバレーは盛んだしカフエーでもダンスが踊れるのだから、ハルビンではダンスホールは経営してゆけないだらうと云はれてゐたのに、昭和10年の春からいざ蓋を開けてみると何のことは無い大入り満員の盛況さだ。真に踊りを楽しまうといふダンスマニアに取つてはカフエーのエロダンスやキヤバレーのインチキダンスでは満足出来ぬものらしい。矢張充実したバンドの奏でてくれる本格的な音楽に乗つて、滑りの良いフルワーを泳いで歩くところに英国風なスマートな真のダンスの味があるのであらう。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、44-45頁)
ロシヤ劇場
- 「キネマ全盛は世界の趨勢である。だから此処でも、その観衆はキネマに奪はれ、劇場はだんだん寂れてゆく傾向にある。従つて現在ハルビンにはロシヤ人の観客を目的とする常演劇場はない。劇といへば東支クラブ(新市街大直街)同じく東支従業員技術クラブ、カビトール、アトランチツク等の活動写真館等で時々上演した程度で、それもオペラか喜劇劇に限られ、ドラマは殆んど上演されなかつた。一時ハルビンで鳴らした舞台俳優のエレン・アルロフ等は、ハルビンを後にして旅興行に出たきり帰つて来ず、歌劇俳優として有名なシヨマンスキー、ウイテレス、ウエリカーノフ、女優のバトリーナ、喜歌劇俳優のトロボフ、スウオリン、同女優のシジコワ等も、北鉄接収後の情勢の変化-赤系露人の帰国とそれに変る満日人の入哈-で果して今後もその盛名を保つてゆけるかどうかあやぶまれてゐる。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、38-39頁)
支那劇場
キネマ館
- 「ハルビン在住のロシヤ人ポーランド人、その他の欧米人は8万人以上と推定されてゐたが(北鉄接収前)これら外人を観客とするロシヤキネマ館は相当に多く、欧米もの並にソヴエツトものを上映してゐた。その主なるものをあげると埠頭区の蒙古街の『バラス』、新市街義州街の『ギガント』、同大直街の『ウエシ・ミール』馬家溝の『スター』埠頭区九道街の『アメリカン』同面包街の『カビトール』同中央大街の『モデルン』同紗漫街の『アトンランチツク』等で、日本版などと洒落たものはないのだからトーキーになつてからはうつかり飛び込むとチンプンカンプンで何が何だかさつぱり分からなかつた。然しこれらの情勢も北鉄接収ですつかり変つてしまつた。支那キネマ館は傅家甸に4館ある。天津もの上海ものが主として上映されてゐるが、近く満洲国の映画が上映されることにならう。日本のキネマ館は哈爾濱座と平安座とである。哈爾濱座は古くからある日本の劇場で、演劇、浪曲、万歳、映画などをやり、劇場と寄席とシネマ小屋とを兼ねた、日本在留民の慰安の殿堂であるが、最近邦人が増加してキネマ上映が要求されるやうになつたので日活系の配給館となつた。平安座はこれと対抗して松竹系のものを上映してゐる。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、40-41頁)
料理屋
- 「ハルビンの料理と云へば何と云つてもロシヤ料理に指を屈しなければならない。ロシヤ料理は異趣ある料理として世界的に有名である。ハルビンを訪ふた者は是非一ぺんロシヤ料理を味はうの必要がある。量が多いこと、あぶらつこいこと、安価なこと、これは始めて(ママ)ロシヤ料理を食べた者の誰もが感ずるところである。大体ロシヤ人は極く上流の家庭をのぞき、一般に朝と夕は紅茶又はコーヒーとパン、それにバター、チーズ、ソセーヂ、スズコなどで極く簡単にすませる。その変はり昼はアベアードと称しスープ、肉、魚肉などの本格的な料理を食べるのである。然もそのアベアードは自宅では食べず多く料理屋で摂るのだ。だから何処の料理屋でもこのアベアードだけは特に念入りに安く食べさせる習慣となつてゐる。普通のアベアードはスープと肉又は魚肉1皿に紅茶、又はそれに甘いものを加へたものでパンは食べ放題である。小食なものは肉の入つた褐色のスープだけで満腹する位である。それで最低40銭60銭位で、80銭1円も出せば相当なものである。昼はそんなに安価のくせに夜の料理は高い。それは、夜料理屋で食事をするといふのはブルジョワ階級で贅沢の部類に入るから安価なものを食はす必要がないからだ。その変り料理の種類は多い。モデルン、ミニヤチユール、オシチエブコフ、ヨツト・クラブ、東支クラブ、ギドリヤン、カズベツク、ロゴヂンスキー、グランドホテルなど云ふ所でなら、まあ内地への土産ばなしになるやうな料理を食べさせてくれる。が、もつと安直な所では、キタイスカヤの地下室あたりを選べばよい。支那料理は此処ではさして有名ではないし、日本料理のことなんか尚更ら此処に書き立てる必要はなからう。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、41-42頁)
植民地神社
戦跡
伊藤博文公胸像と遭難地点標識
- 「明治の元勲伊藤公が日韓合併の礎石となつて遭難された駅頭にはこの悲痛な事件の追憶の為め標識が作られ、大正14年日露協会と居留民会によつて青銅の胸像が作られ、居留民会楼上に安置されて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116-117頁)
- 「明治42年10月26日、哈爾濱駅埠頭の露と消えし伊藤公を偲び在哈居留民会及び日露協会が発起人となり浄財2万円を募って胸像を作成、これを居留民会公会堂内に安置した。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、9頁)
- 「1925年、安広満鉄総裁児玉関東庁官後後藤新平子、天羽ハルビン総領事等の発起で、日露協会と居留民会によつて故伊藤公紀年(ママ)胸像建立義捐金を募集し、浄財2万余円を得、翌年新海竹太郎氏の手で青銅製の胸像を製作し、民会ビル楼上の公会堂内へ大理石の台上に安置されてある。尚ハルビンの駅頭の遭難現場には公の郷里から寄贈された大理石を真鍮の環に入れて紀年(ママ)としてある」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、34-35頁)
志士の碑
- 「新市街から旧市街に通ずる大街道の西南方に忠霊塔及日露戦争の折、特別任務を帯びて銃殺された沖、横川両氏、脇、中山、田村、松崎四勇士の碑があり永久に邦人の脳裡から忘れる事の出来ないものである。尚附近に、当時軍探偵として銃殺された、小林、向後両勇士の碑もある」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、117頁)
- 「横川、沖等の六志士が、日露戦争勃発と共に露軍の鉄道爆破の重要任務を帯び、横川、沖は途中露軍に発見され、哈爾濱に護送せられ明治37年4月21日「天皇陛下万歳」の声と供に銃殺されたかが此記念碑は横川、沖外同じく壮途空しく消えた4名の碑である。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「六烈士の事蹟は日露大戦を飾る悲壮なエピソードとして既に人口に膾炙せらるところである。即ち敵の鉄道爆破の使命を帯びて北京より蒙古路を辿り富拉爾基(フラルヂ)近くに潜入せる沖、横川、脇、田村、中山及び松崎の六氏は不幸敵軍に発見せられ、沖、横川両氏は武運拙く事半ばにして敵手に捕はれ哈爾濱刑場の露と消えた。一旦虎口を脱せる他の四氏も土民に匪賊と誤認せられて、襲撃を受け衆寡敵せず遂に蒙古高原に万斛の恨みを呑んだのである。志士の碑は六烈士の英霊を合祀せるものである。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、8頁)
- 「伊藤公と共に日本人にとつての追慕の的は、郊外にある沖、横川等6烈士の遺跡である。沖、横川、脇、田村、中山、松崎の6烈士は日露戦争中、露軍の輸送路を中断すべく嫩江のフラルキ大鉄橋を爆破の計画を樹て、ラマ僧に身をやつし、内蒙古を経てフラルキ駅付近に潜入、機会をうかがつてゐるうちにコサツクに発見され、沖、横川両志士は捕縛され、他の同志はその場からは逃走した。捕縛された両烈士は哈爾濱に護送され、4月21日軍事探偵として銃刑に処せられた。逃走した他の4烈士は西へ西へとのがれ鉄路破壊と敵状視察に余念もなかつたが、蒙古の百姓に馬賊と誤解されて攻撃を受け、衆寡敵せず恨みを呑んで蒙古の露と消えた。この4烈士も露軍の背後へ奥深く潜入して大脅威を与へたことだけで多大な功績をあげたものとして後世その殊勲を称へられてゐるのである。これら護国の鬼と化した6烈士の忠魂碑は、沖、横川両烈士が露と散つた旧ハルビン郊外の野つ原に建立され、ハルビンを訪れた邦人は必ず此処に霊を弔ひその功を讃へる事績となつてゐる。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、35-36頁)
二烈士の碑
- 「小林大尉と向後伍長が明治38年3月20日、連隊長の命に依つて、敵情視察の企図に捕はれて、北満の露と消えた記念碑である。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「六烈士は民間側の代表的志士であるが、小林、向後両氏は軍を代表する烈士である。日露大戦酣なる時、敵状偵察の使命を帯びて小林中尉は向後一等卒を帯同、身を農民に身を寠し敵中深く潜入中、吉林附近に於て捕へられ、哈爾濱刑場の露と消えた。其の遺骸は行方不明中のところ30数年後、処も奇しき沖、横川烈士憤死の地附近に於て発見され、その地に記念碑を建立した。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、8頁)
忠霊塔
教育施設・官公庁
博物館
- 「新市街中央寺院の脇にあり商工部、人類学部、生物学部、医学部等に別れ東清鉄道建設当時から満蒙関係参考資料が網羅されて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、117頁)
- 「大陸科学院分院で、館内には、北満の農、林、満、砿、漁業及地質学、考古学、宗教、風俗等に関する貴重な諸資料で充満して居る。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「満蒙を科学的に認識せんためには本博物館の時を惜しんではならない。本館は商工部、医学部、生物学部並に人類学部の4部門に別れ、満蒙に関する貴重なる資料は悉く陳列してある。参観料一般人20銭、学生10銭」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、5頁)
- 「満洲文化研究会の所管で新市街中央寺院広場に面したロシヤ古代建物の香り高いモスクワ商品館の内にある。ハルビンを訪ふたものは必ず観覧の要のある満蒙を知るための参考資料が沢山収集されてある。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、36-37頁)
国立大学哈爾濱学院
宗教施設
孔子廟
- 「文廟とも言ひ民国18年8月張煥相閣下、張景恵閣下等に依つて建立されたのである。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「満洲に於ける孔子廟中、最大、且つ最も華美なるものにして、輪奐の美眼を奪ふに足る。民国15年、時の東省特別区長官張煥相氏の建立にかかる。当時ソ連革命後共産思想滔々として哈爾濱に侵入せんとせるを以て、これを排撃し、東洋古来の道徳を尊重するためこの廟を設けた。工費73万元(哈大洋)、竣工に要せる日子3ヶ年半。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、6頁)
極楽寺と文廟
- 「新市街と傅家甸の中間にあつて哈爾濱唯一の支那寺院で華美、荘厳の点では満洲屈指のものである」(117頁)
- 「民国12年、時の東省特別区長官朱慶瀾将軍の建立にかかる満洲第一の大寺院であり、その壮麗なること孔子廟と伯仲す。年中香煙縷々として絶ゆる時なく、春の灌仏祭には近郷近在より参詣の善男善女10万を下らず、頗る盛観である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、6-7頁)
- 「ハルビン唯一の支那寺院で、日本の禅宗に似た宗旨である。1922年東省特別区長官に任命された朱慶瀾大将が仏教信者だつたのでハルビンに支那寺院の無いのを嘆じて建立したものである、新市街と傅家甸の中間にあり、山門に刻した極楽寺は大将自らの筆になるものである。善美結構を極めたもので、満洲にある支那寺院中第1位に置かれべきものだとの定評がある。文廟は朱大将の後任張煥相が、敬神化の立場から極楽寺に対峙して自己の勢威を利し寄付金を集めて建造したもので、外観の美は極楽寺に劣らぬ程である。極楽寺の南方数丁の所にある。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、37頁)
- 「極楽寺は新市街と傳家旬との間にあり市内唯一の支那寺院(西歴(ママ)1922年創建)でこの南方数百米に文廟がある。」(東亞旅行社編『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942、88頁)
外人墓地
- 「新市街、大直街の北端、広大な地域に亙つてスラブ墓地、猶太人墓地、タタール人墓地があり十字架、シナゴーガ及弦月は夫々の宗旨を表すもので、ある意味でも最も異国的な処である」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、117頁)
- 「緑と花に包れた大理石の墓標、その清浄美と荘厳美には思はず感にうたれる。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「「皇帝の命により極東第20旗のコマンドールたりし父、ミハイルの霊ここに眠る。」十字架を負ふて建ち並ぶ墓標の一つに斯ふした碑銘を見る。外人墓地は国外発展の先駆者たちの安らかなる眠りの地である。広大なる墓域は亭々たる緑樹に包まれ、閑寂にして清澄、如何にも最後の安息所に相応しい。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、7頁)
ニコライエフスキー大寺院
- 「ニコライエフスキー大寺院は邦人には中央寺院と呼ばれ露人はサボール(大寺院)と言ひ新市街内にあり様式は古代ギリシヤの寺院建築を模したものと言はれる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、117-118頁)
- 「1名サボールと呼ばれる哈爾濱最古のロシア寺院で、1903年に東支鉄道従業員の寄付で建てられたものである。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「ロシヤ人と寺院は宛も日本人と神社と等しく、彼らの殖民の最初の事業は寺院の建立である。市内随所に見るロシヤ寺院は嘗て彼らの栄華を偲ばせると共に彼等の宗教心の熱烈なるを物語つてゐる。本名はニコラエフスキー・サボールと云ひ、単にサボール(大寺院)とも呼ぶ。満人は喇嘛台と称す。古代ギリシヤの建築様式を採り哈爾濱に於ける代表的寺院である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、5頁)
- 「哈爾濱の市街美に大きな役割を果たしているものの一つは露西亜寺院の大伽藍である。今尚帝政露西亜の夢を漂はせその名残を留めている。」(東亞旅行社編『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942、88頁)
イエルスキー寺院
ソフイースキー寺院
猶太仁寺院
鉄道
哈爾濱鉄道局
哈爾濱駅
三棵樹の鉄橋
- 「これは、北満と朝鮮と更にこれを裏日本に繋ぐ新交通路として、従来の北満日本間の経路に一大変革を齎した拉濱線と濱北線を結ぶ松花江の橋梁である。この鉄橋の特色は、千四十米で捐斐長良川の橋には及ばないが、構造の新しいこととその建設時間が短かつたといふ点は、東洋一どころか世界に誇るべきものがあるのである。即ち構造は三段階に分れ、上段が人道、中段が列車、下段がインスペクション・カーの専用と云つた変つたものである。これは場所が場所だけに、進行中の列車に危害を加へたり、妨害したりの危険を防ぐために考案されたものである。架橋工事は間組の請負で1932年冬から翌年の冬までが僅か1年で竣工し、上段の人道は翌年6月までを要したが、何としても短時間竣工のレコードホルダーではある。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、36頁)
自然
松花江
- 「其の源を一は興安嶺に、一は長白山脈に発したスンガリーは、下流同江にて黒竜江に合し、ハバロフスクニコライウスクに流れ間宮海峡に注ぎ、春は流氷、夏は太陽島、秋は舟唄、冬は橇と四季が楽める。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)
- 「キタイスカヤの北端に洋々として流れる大河は松花江である。ロシヤ人はこれをスンガリーと呼んでゐる。本江は上流を右折して長白山脈に、左折して小嶺安嶺享け、下流は満ソ国境を画する黒竜江に合流してゐる。哈爾濱は松花江の内懐ろに抱かれて生誕し、育まれて今日の大をなした。謂はば松花江は哈爾濱の生みの親である。鉄道建設前は北満唯一の交通路にして対露貿易の幹線であつた。現在でも二千屯級の汽船が巨姿を浮べて貨客の輸送に黒煙えを上げてゐる。江中には幾多の島嶼を有しキタイスカヤ対岸にも遠浅の島があり、これを太陽島と呼び別荘地帯にして、夏季は水泳場を兼ねた遊園地として賑ひを呈す松花江の落日は凡そ絶景である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、10-11頁)
- 「哈爾濱は従来陸上ばかりが観光の対象とされて居りましたが、今年から遊覧コースの一部に松花江が加へられるばかりでなく、観光協会では10人乗りと、5人乗りのモーターボート2艘を用意致しまして一般のお清めによつて松花江上を縦横に遊覧致すことになつて居ります(料金は未定)」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、16頁)
- 「冬の大松花江は偉大な氷原である。自動車に或いは橇に、大氷原をドライブするの爽快さは日本では一寸味へぬ所である。又尺余の氷を割つて穴釣りをするのも一興である。が、何と云つてもスンガリーの持つ異国情緒は夏に於て満喫すべきだと思ふ。ボートを操り、行き交ふ蒸気船やジヤンクを縫ふて一日を過すのもよからうし、俗を避けて糸を垂れ太公望たるも亦面白いし、河面を撫でて吹き来る風に涼を貪りながら河畔の料亭で渇をいやすのもよい。夏は別荘か水浴で暮し身体を鍛へるのを習慣としてゐるロシヤ人は、金持ちも貧乏人も皆手軽なスンガリーの別荘地に遊んで水浴する。この習慣が育てあげた水浴場と別荘は、ブリスタンとナハロフカ寄りの江岸に多い。キタイスカヤを北にスンガリーの江岸に出で、上手を見渡すと、色とりどりその形又さまざまな瀟洒な別荘が見へる。それは太陽島で、ここには水浴場の施設があり、流行の水着に豊満な肉体を包んだ青い眼、黒い目のロシヤ婦人が、いとも朗らかに戯れてゐる。さながら河の人魚といつた形だ。この島と対岸の別荘地ザトンの江岸には料理店、掛茶屋、掛小屋などが出来る。それから上の同じ中洲の十字島、その江岸も別荘地で且つ散策地としても知られてゐる。ブリスタン側のキタイスカヤから4、5丁上流の岸に東支鉄道のヨツトクラブがある。半ば岸へ乗り上げた船みたいな格好に造つた木造の建物である。ここはハルビンのブルジョワ階級の涼みに押しかけるレストランで、切符を求めて入るやうになつてゐる、10時からオーケストラが初まると(ママ)みんな川風に裾を吹かせ乍らダンスを踊る。だから此処へ遊びに行く連中は対外パートナーを同伴するのである。江上では二人連れがボートに興じ、クラブではダンスに興ずる―まさにベニスにでも行つたやうな気持ちがする。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、33-34頁)
- 「キタイスカヤの人波を縫うて色とりどりの行人の顔を見比べながら松花江に出づれば涼風が快く頭髪を撫で、江岸に立つて四顧すれば下流近く江面を壓する松花江の大鉄橋を望む。江上に浮ぶ無数のボートや林立する帆船や、江防艦隊等が遺憾なく大江の風貌を発揮し、対岸から太陽島にかけて人魚の群れ遊ぶ様、正にエキゾチックな裸体健康美の競進会だ。自らボートを操つて中流に放歌するもよし、水浴に平日の行楽を費やすのもよければ、魚釣に俗塵を避けて冷たいクワスに渇を医するのも亦よい。哈爾濱をそこはかとなく柔かい情緒に包むものは夏の緑樹とこの大松花江の流である。」(東亞旅行社編『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942、152頁)
- 「哈爾濱松花江対岸の楡と泥柳の森に囲まれた一帯の地をザトンと称されて居り、一流銀行会社の保健館、露人別荘が樹間に並び建ち、哈爾濱人士のオアシスとして親しまれている。」(東亞旅行社編『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942、152頁)