【草稿】満洲国の観光 第1章「満洲国における観光政策の展開」

一応、文章化したもの。ネタだし的な草案。

はじめに

 「満洲国」(中国では偽満、中国東北地方、ここでは歴史上の呼称に鑑み満洲国とする、以下括弧なし)が建国される以前にも、満洲への観光は行われていた。満州への観光は満鉄の鮮満案内所やジャパン・ツーリスト・ビューローによって宣伝や誘致、旅程の作成、旅館や切符の手配などが行われていたのである。
 それでは、なぜ満洲国は従来通りの観光事業を続けたのではなく、観光を国策として展開しようとしたのであろうか。ここでは満洲国の観光国策を担った満洲観光委員会、満洲観光連盟、各都市の観光協会から満洲国の観光国策の実態に迫りたい。さらに満洲国が整備した交通インフラから生まれた新しい観光ルートについて論じていく。

1.満洲国の観光国策

1-①.満洲観光委員会の行政組織上の位置づけ

 満洲国の観光は、国の行政機関上、どのような位置づけであったのだろうか。まず満洲観光委員会が、1937年2月満洲総務庁情報処(のち弘報処)に設置された。昭和18年版の『満支旅行年鑑』には、満洲観光委員会が設立された趣旨、その組織、機能が記載されているので確認する【史料1】。
 まず設立の趣旨からは二つのことが読み取れる。第一に、「観光事業諸機関を整備統制して内外旅行者の便を図る」ことである。ここから、これまで満洲国の観光事業を展開してきた満鉄やジャパン・ツーリスト・ビューロー満洲国により統制されるようになったことが分かる。第二に「満洲国及四囲の情勢の宣伝等により国策の遂行を期す」ことである。ここからは満洲国の観光国策として宣伝などのプロパガンダを行おうとしていたことがうかがえる。
 続いて満洲観光委員会の組織については、「在満各機関観光事業関係者を以て組織」するため、これまで満洲国の観光を担ってきた従来の機関から人材を調達する広範な組織であった。また、観光委員会の委員長には総務庁次長が充てられ、委員らは総務庁次長により委嘱された。満洲国では総務庁中心主義がとられており、総務庁は国務院で重要な位置づけにあったため、観光委員会も国策上決して軽くはない地位を占めていたことが分かる。
 最後に満洲観光委員会の機能について確認する。満洲国の観光国策について審議決定するのが観光委員会の役割であるが、では実際にその決定事項を実施するのはどの機関だったのだろうか。このために設置されたのが満洲観光連盟である。こうして満洲国の観光機関の行政上の位置づけとしては、満洲国-国務院-総務庁-情報処(弘報処)-観光委員会―満洲観光連盟―各都市の観光協会という縦のヒエラルキーが生じ、トップダウン式に観光事業が展開されるようになった。

1-②.満洲観光連盟

 満洲観光委員会により1937年3月に鉄道総局旅客課内に設置されたのが、満洲観光連盟である。観光委員会の決議事項を実際に実施する機関であった。具体的な実施事項としては、「観光施設、接遇、対内外宣伝、観光観念の普及と観光事業に関する情報の収集交換、連盟報の発行、他団体との連絡協調等」【史料2】が挙げられる。これら事業のうち、その特徴として特筆すべきなのが、観光週間の実施と世界各地の知識人の招聘である。

1-②-a.観光週間の実施

1-②-a-i.第1回観光週間
 まずは観光週間について。満洲国では国策として観光週間が2回実施されている。1回目は1940年9月15日~21日までであり、2回目が1941年6月16日~22日までである。
 第1回目の目的は「国土宣揚」であり、対外的には満洲国の独立性を示し、国内的には国民陶冶をはかるものである。ここでは観光を「国の光を世界に観すこと」であり「広く他の土地、他の国に住む者に紹介すること」と定義している【史料3】。観光の効用としては、国際協調、国際的地位の向上、貿易の隆盛などを挙げているが、特に「外国をして躍進する自国の国情と平和を愛好する国民の真価を充分認識せしめる」ことに注目したい。満洲国はリットン調査団の結果、民族自決による国民国家の創出とは認められなかった。そのため、中華民国とは異なる独自の文化と歴史のある国民国家であることを示す必要があり、外国人の満洲認識を深めさせるために、観光が利用されたのである。
 一方、国内的には国民陶冶のために満洲国の観光が利用された。満洲国には国籍法が制定されなかったため国民としての一体性を法的に求めることが出来なかった。それゆえ、入植者が多い移民社会の中で、大衆に地方や都市の認識を深めさせ、誇りを持たせる必要があったのである。
 以上により、第1回観光週間は「国土宣揚」のもとで、満洲国の独立性を示し、満洲国の国民陶冶を図ることが観光事業に期待されたのである。
 
1-②-a-ⅱ.第2回観光週間
 第2回観光週間は、1941年6月16日~22日に行われたが、第1回の「国土宣揚」とは目的が異なる。第2回の目的は、観光厚生である【史料4】。ドイツやイタリアでは、総力戦体制を整備し大衆を国家に動員するために、労働者の厚生や福祉が重視され、その余暇活動して観光事業が展開された。日本や満洲国でも厚生運動が盛んに唱えられ、観光は「観光厚生」としてその一端を担ったのである。
 

1-②-b.欧米知識人の招聘

 満洲観光連盟の事業の二つ目の特徴として、欧米知識人の招聘が挙げられる(表1)。これもまた満洲国を傀儡とし、独立国家と認めない国際連盟への対策である。様々な国から観光客誘致が図られているが、中でも多いのがアメリカの教育関係者たちである。彼らを満洲国に招聘することで、満洲国の情報を発信させ、傀儡国家ではない実態を持つ国家として現出しようとしたのである。

1-③.観光協会の観光事業

1-③-a.奉天観光協会の各事業の特徴

奉天観光協会の特徴として挙げられるのが各種旅行団の催行である。戦跡参拝からハイキング団まで多くの団体旅行を組織している。特に日露戦争満州事変に関する戦跡が豊富にあるのが奉天であり、戦跡への巡拝は数多く組まれている。また奉天清朝と関係が深い地域であり、北陵・東陵という観光資源がある。北稜が清朝第二代ホンタイジの陵墓で、東陵が清朝初代ヌルハチの陵墓である。これらの陵墓を参拝した証として入門証が配布されている。奉天はまさに清朝色が観光資源となっていた。そして奉天観光協会は観光業に従事する人材の育成にも力を入れており、時々講習会が行われていることが分かる。

1-③-.b新京観光協会の各事業の特徴

新京観光協会の特徴としては、まず初めに出版攻勢が挙げられる。リーフレット、パンフレット、地図、絵葉書など大量の印刷物を発行している。また従業員を観光バスに乗せて新京観光を経験させていることも重要であり、サービスを提供するホスト側の観光認識を深めようとしている。そして新京では、昭和15年度、16年度にペストが発生しているにも関わらず観光客が訪れていることが特色である。さすがに昭和16年度はペストに加えてガソリン統制のため観光バスの利用者は減るが、それでも4万815名が観光バスに乗っており、10万を超える人が観光案内所を利用している。

1-③-c.哈爾濱観光協会の各事業の特徴

ポスター、地図、パンフレット、写真などは他の各観光協会と同様であるが、歴史的特質としてロシア時代を観光資源にしていることが挙げられる。松花江湖畔にロシア料理店観光亭を開き、ロシアグルメを提供している。また、この松花江において煙火大会を何度も開催している。そして哈爾濱といえば、いわゆる夜の観光で有名であるが、昭和14年度にはこの夜の観光を発展させるための座談会が開かれている。そして夜の観光関連として女中の育成にも力が入れられており、昭和13年度と14年度には女中を実際に哈爾濱観光させている。また土産物の開発・販売にも力を入れており、創出支援や販売斡旋なども行っている。

2.満洲国時代の「観光」観

 現代の観光イメージとして行楽的な物見遊山を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。当時の満洲国においても、非常時下において観光を行うための意義づけや正当化が行われていた。ここでは『満洲観光連盟報』から、満洲観光を正当化するためにどのような理論や効用が唱えられたかを見ていくこととする。

2-①.新秩序

 満洲国の観光をどのように捉えていたかは様々な見方があるが、まず第一に挙げられるのが新秩序である。満洲国を世界新秩序のさきがけとし、満洲国を見ることで世界新秩序を見ることができると唱えている【史料5】。
 また新秩序に関し、東亜新秩序を建設するにあたって日満支三国の相互理解を観光によってなそうと主張する観点も見られる【史料6】。観光によって実際に満洲国に来て貰うことで、国のことをより深く知ってもらい、正しい認識を持たせることが観光事業の意義であるとしている。
 最後に新秩序に関して、資源開発としての観光が挙げられる【史料7】。大東亜戦争は長期持久戦であり、武力だけではなく経済戦や思想戦が重要になってくる。そのため資源開発が求められ、現地調査や現地と中央の連絡、異民族の人心掌握が必要であり、観光がその役割を果たすというのである。
 以上により、観光の役割・機能として、新秩序建設を挙げ、日満支の相互理解や長期戦の資源開発のためには観光が必要であると唱え、満洲国の観光を意義づけているのである。

2-②.満洲国独立国家

 満洲国観光の機能として期待されていたものの一つに、満洲国が独立国家であることを示すというものがある【史料8】。上述したが満洲国は傀儡国家だとされており、民族自決による独立国家だとは国際連盟から認められていなかった。そのため「驚異的発展の有様を親しく観せる」ことで満洲国の独立性の問題が解決できることが期待されていた。

2-③.観光厚生

 これは1-②-a-ⅱ.第2回観光週間で述べた事項と重なるものであるが、満洲国時代後半になってから新たに観光の機能として付与されたのが、観光厚生という概念である。一見すると支那事変後の戦時下の中で観光を行うことなどできないというイメージがあろう。しかしながら、総力戦体制は長期持久戦であり、国民を戦争に動員するために福祉と厚生が求められ、その要請に応えたのが観光だったのである。
 既にナチス=ドイツやイタリアのムッソリーニ政権では国民を戦争動員し、生産力を上げるために労働者に対して福祉と厚生の充実が図られていた。ナチス=ドイツでは国家事業により失業を吸収し労働者の余暇を充実させフォルクスワーゲンなど国民が乗用車を供給するなどの政策を展開していた。この余暇活動で重視されたのが、観光であり、労働者に積極的休養を与えることで、国家に対する支持と労働生産性の向上を図っていたのである。これらドイツやイタリアの諸政策を満洲国でも取り入れることが提唱されたため、厚生観光が満洲国でも取り入れられたのである。この観光厚生という概念は、第2回観光週間で結実することとなる。

3.満洲国の観光実態

 満洲国は日本との間の人の移動をスムーズにするため、様々な政策を行っていた。ここでは観光に関するものとして、旅券制度、費用概算及び日程、北鮮ルートの開発を取り上げる。

3-①.旅券について

 まず満洲国と日本の間においては、旅券の査証も携帯も必要なかった。税関検査はあったが、旅券の検査はなかったのである【史料10】。ここで着目したいのは、日満間で相互に査証と旅券を免除していることであり、満洲国から来日する人々も旅券の携帯が必要なかったのである。
 このようにして制度面においても満洲国と日本の行き来は保障されていた。

3-②.費用概算及び日程

 それでは、日本から満洲国への観光は、費用がどの程度かかり、何日間旅行し、どのようなルートを辿ったのであろうか。『満支旅行年鑑』で提示されている旅行モデルでは、3つのコースが作られている【表2】。満洲国への渡航は主に大連航路、関釜連絡船、北鮮航路の3手段あるが、同じルートで往復することはなく、周遊するパターンを取っていた。往路大連航路のコースは14日、往路関釜連絡船は13日、往路北鮮航路は17日間となっている。旅費は3等が124円~155円、2等が180円~218円となっている【表3】。『値段史年表 明治・大正・昭和』(週刊朝日編 朝日新聞社 1988)によれば、公務員の初任給は1937年で75円(1986年で121600円)なので、手の届かない額ではないことが分かる。

3-③.北鮮ルートの開発

 従来、日本から満洲国への経路は二つに限られていた。一つ目は大連航路であり、神戸から乗船して大連に上陸し、満鉄本線を使うルートである。二つ目は関釜航路を用いるルート。下関から乗船して釜山で上陸し、京釜線(釜山-京城)と京義線(京城新義州)で朝鮮を縦断、新義州から対岸の安東に入り、安奉線(安東-奉天)で満鉄本線に入る。このように満洲に至るには2つのルートがあったわけだが、満洲国が成立すると新たに第三のルートが作られた【史料11】。それは新京から京図線で図們に至り、そこから満鉄に委託された朝鮮の北鮮線を通って北鮮三港である雄基、羅津、清津に入り、さらに日本海航路を取って新潟・敦賀・伏木等の日本海沿岸諸都市に至るというルートである。これにより東満・北満との接続が可能となり移民村の視察に使われた。また戦争末期に大連航路と関釜航路が封鎖されると、日本海航路を使って大陸との往来がなされた。

終りに

 ここではリサーチクエスチョンとして、「なぜ満洲国は従来通りの観光事業を続けたのではなく、観光を国策として展開しようとしたのであろうか」という問いを設定し、満洲国の観光国策を明らかにした。
 満洲国は観光を単なる物見遊山として捉えるのではなく、満洲国統治に利用しようとした。それが、民族自決の独立国家・総力戦体制・東亜新秩序・観光厚生という機能だったのである。
 傀儡国家である満洲国の実態を示し、総力戦体制の基地として資源開発を円滑にするため人の移動を活発にし、東亜新秩序を形成するため日満支の相互理解を図り、労働者を国家に動員するための厚生運動として連関して、観光国策が展開されたのであった。
 また、満洲国による新たな交通インフラの整備も観光と関係がある。満洲国建国後、京図線を開発し北鮮三港を整備することによって従来の交通路とは異なる第三のルートが生まれ、新しい人の流れが生じた。
 このような観光国策は従来のように満鉄鮮満案内所やジャパン・ツーリスト・ビューローが独自に観光事業を行うだけでは成し得ず、国家が主導しなければ実現しなかった。だからこそ、満洲国にとって観光国策が重要な意味を持っていたのである。

史料 旧字は適宜改めた。下線部は引用者による。

史料1.満洲観光協会の成立

満洲観光委員会(国務院総務庁弘報処内)
【趣旨】
満洲国及関東州に於ける観光事業諸機関を整備統制して内外旅行者の便を図ると共に満洲国及四囲の情勢の宣伝等により国策の遂行を期す。
【組織】
(一)在満各機関観光事業関係者を以て組織し事務所を国務院総務庁弘報処内に置く
(二)委員長一 委員若干名を以て組織
(三)委員長は国務院総務庁次長を充て委員は委員長之を委嘱
(四)幹事長一名、幹事若干名を置き委員長之を委嘱
【機能】
(一)本委員会は観光機関の整備、観光事業の統制指導に関する事項等を審議決定す
(二)本委員会は満洲観光連盟を指導し、其決議事項は該連盟をして之を実施せしむるものとす。
『満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、昭和17年12月25日発行、439頁

史料2 満洲観光連盟の成立

満洲観光連盟(鉄道総局旅客課内)
【創立】
康徳4年(※引用者註-1937年)3月
【沿革】
康徳4年3月満洲観光委員会の事業機関として誕生し漸次各地の観光協会を加盟せしめ観光施設、接遇、対内外宣伝、観光観念の普及と観光事業に関する情報の収集交換、連盟報の発行、他団体との連絡協調等に力を致し、漸次本事業の統制発達を促進して今日に至る。現在加盟団体は大連、旅順、奉天、鉄嶺、撫順、新京、吉林、哈爾濱、安東、承徳、錦州、東満、斉斉哈爾、鞍山の各観光協会である。

史料3 第1回観光週間 国土宣揚観光報国

「観光とは国の光を世界に観すことである、一地方、一都市、一国の正しい事情を、その土地、その都市、その国に住む者に知らしめる許りでなく、広く他の土地、他の国に住む者に紹介することである。それは、相互の理解と友好を増し、やがて正しい国際間の平和と協調に貢献し、真の理解による国際親善の美しい宝を結び、その国の国際的地位の向上となり、貿易を隆盛ならしめ、自国品の輝しい海外進出の進路を開拓することとなるのである。又外国をして躍進する自国の国情と平和を愛好する国民の真価を充分認識せしめるならば、それは、その国その国民に対する尊敬と信頼のかたちとなつて表はれてくるのである。斯く観光事業は幾多の指標を持ち国家社会の利益と進歩の源泉となるのであつて、その効果の如何は一国の消長に迄影響を与へるものである。我が満洲国は建国以来9年を経、内に産業の勃興発達と、外に友邦各国間の親善を増しつつあるとは謂へ、尚国内一般の智徳徳育を初め、民族協和精神を基調とした、高い国際的意義を涵養することが今日の急務たることは言を俟たない。これなくしては、満洲国の国際的品位向上は望めないのである。以上の見地に基づき、今般全満一斉に、第1回観光週間を実施し、その地方その都市の持つ誇を一般に紹介認識せしむると共に、更に、国民大衆に観光の根本観念を植付け、以て文化方面よりの国民の向上を図らむとするものである。」(「国土宣揚観光報国の熱誠こめて 第1回観光週間実施さる」、『満洲観光連盟報』4(5)、満洲観光連盟、1940、33頁)

史料4 第2回観光週間 観光厚生

「観光事業の先進国である独逸では、クラフト・ドルヒ・フロイデ(歓喜力行団) 伊太利ではドーボ ラーロ(余暇善用団)の如く国民特に勤労階級の厚生、福利増進の為に一大組織を結成し、積極的に各種保健方策の実施、観光視察の充実を図り、観光事業と国民厚生運動は渾然として一体を成してゐるのである。我が満洲国に於ても観光事業を改善振興して、民族の協和精神を基調とした国民の健全なる慰安、休養を図ることは非常時下長期建設の今日根本問題として採り上ぐべき、早急にして而も重要なる社会政策の一つであることは今更論を俟たない。以上の見地に基いて昨年の「郷土愛護」「国土宣揚」に重点を置いた観光週間を、本年は更に之を普及延長して「観光と国民厚生運動」の密接不離なる関係を一般大衆の各層に至るまで浸透せしむとするものである。昨年との目標こそ異れ、此処に観光週間を実施する目的は、他の文化運動に比し一見立ち遅れの感ある我が満洲国の観光事業をして、より高度の認識を国民に徹底せしむるものであつて、之が為には凡ゆる目標角度より「観光」そのものを検討して、国家社会の利益と進歩の源泉とならなければならない。本年度観光週間実施の目的も亦此処にあることは謂ふ迄もない。」(「観光厚生 第二回観光週間の幕開く 自6月16日 至6月22日」『満洲観光連盟報』5(6)、満洲観光連盟、1941、38頁)

表1 満洲観光連盟が招聘した外国知識人

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史料5 世界新秩序と観光

「〔……〕日本肇国精神、換言すれば世界新秩序同盟の精神を建国と同時に実行しつつある見本は、この満洲国である。然りとすれば、この満洲国を観ることは、世界新秩序同盟諸邦の指す所を、如実に観ることであり、その意味で、満洲国は、現在の長所も短所も、これ等同盟諸国、寧ろこれから加盟せんとする国々の人に、良く観せたいものである。先般、協和会全国連合協議会が新京に開かれると、日本と中国とから数名の見学者があつて、熱心に見聞して帰国されたが、あれは新体制への発足に対する一つの要求であつた。これと同様に、世界新秩序への発足として、満洲観光は、従来の観光といふ字を使ふのが一寸気がひける程、厳粛な意味で大いに必要である。」(長谷川宇一(関東軍報道班長)「世界新秩序の前進と満洲観光」『満洲観光連盟報』5(1)、満洲観光連盟、1941、3頁)

史料6 東亜新秩序 日満支の相互理解としての観光

「日満支三国は政治に経済にまた文化に各方面に亘つて相互に相助け手を繋いで東亜新秩序建設の基礎を固めねばならぬ秋である。善隣友好、経済提携、共同防衛の実現を期し、同時に新文化を創造せねばならぬ。文化政策としての観光事業は此の点から極めて重大な使命を持つてゐる。即ち先づ東亜共栄圏内に於て相互の文化的理解を深め、その向上発展に資すると同時に、進んで世界各国並に各民族の間に絢爛たる東洋文化の真体を普及徹底せしめ、真の国民外交の実を挙げるためには観光事業が極めて有効だと信ずる。〔……〕「来て貰ひたい」の指標の次に来るべきものは「知つて貰いたい」「正しい認識をして欲しい」といふことであつて、文化政策としての観光事業の意義もここにある。日満支三国の相互理解が完全なれば東亜新秩序の建設も完遂せられ、国際的理解が深められれば真の平和に立脚する世界新秩序建設の可能性もそれだけ増大する。観光事業の果すべき文化的使命は決して小さくはないのである。」(八田嘉明(東條内閣鉄道大臣)「文化政策としての観光事業」『満洲観光連盟報』5(1)、満洲観光連盟、1941、5頁)

史料7 東亜新秩序建設・長期持久戦・資源開発・異民族支配・観光

「〔……〕日支事変も、大東亜戦争も、何れも、東亜新秩序の建設を目標とした、持久戦である、持久戦の特徴は、戦争状態が長期に亘ること、勝敗が武力ばかりで決せられず、経済戦、思想戦等が大なる役割を持つことである。殊に大東亜戦争の場合は、世界最大の生産を持つた英国及米国、場合に依つては、蘇連をも対手に長期に亘る経済戦を戦ひ抜かねばならぬのである。而して、長期経済戦の内容は、日満華及南洋の資源を拓くことと、此れが為に、各民族の人心を収蹟して、日本を信頼し、資源開発に心から努力せしむることである。資源開発計画には、現地の実地調査、中央と現地の連絡がなければならぬ。異民族の人心収蹟の為めには、日本と現地相互国に「百聞一見に如かず」に従つた、頻繁な連絡が行われねばならぬ。茲に、観光の新しい時代の任務が生れ出る。観光の任務はフランス式の外客、外貨誘致から経済戦、思想戦の一縦隊として大東亜戦争の重大なる新任務が付与されたのである。」(山口重次(元・奉天市副市長)「大東亜戦争と観光の新任務」『満洲観光連盟報』6(3)、満洲観光連盟、1942、6頁)

史料8 満洲国の独立性

満洲国が短時日の間に之だけ国の内容、外観を整備するに至つたことは世界でも稀れに見る例である。満洲建国以来のこの驚異的発展の有様を親しく観せることによつて東洋民族の偉大性と文化を確かり把握せしむることが出来よう。また、満洲国の独立性に関し屡々疑惑の眼を差向ける人々もこの国が日本と不可分の関係に於て立派に独立国として発達しつつある実情を観ればその誤解も直ちに氷解するのである。」(八田嘉明「文化政策としての観光事業」『満洲観光連盟報』5(1)、満洲観光連盟、1941、5頁)

史料9 厚生運動と観光国策

「一体、此の"厚生"と云ふ文字は、国民の生活内容を豊富にすることを意味するものであるが、最近では、此の用語に特別の内容をもたせて、国民の日常生活で、余暇を善用して、正しい慰安と、教養によつて、人格を陶冶し、心身を鍛練して、国民の精神と体位の向上を計り、延いては、生活刷新の実をも挙げやうとする各種の催しや企てを厚生運動と云つてゐるやうであるが、之を一口に、平たく云えば、”仕事の余暇の善用により、明日への労働力を貯へる運動”と言つても差支へあるまい。そして、其の重要な運動として取上げられたのが、国民の体位向上と、国民的な健全娯楽の問題である。〔……〕私は”観光”が、健全娯楽として、それ等の音楽、演劇、映画や文学と同じ高さにあり、然も変化に富み、且つ体位の向上をも兼ねてゐるところに一日の長があるのではないかと信ずるものである。〔……〕歓喜力行団(K・D・F)が、今日のやうに世界的に知られてきたのも、主として其の”休暇倶楽部”の組織であることは、論を俟たないところであるが、此の事は換言すれば、余暇善用として、観光旅行が、如何に適切であるか、といふことを裏書きしてゐるわけである。〔……〕此の意味に於て、雄大な大陸的景観に恵まれている満洲では、今後大いに之等の景観地を、国民的な体位向上と厚生運動の道場として活用するところに、大陸らしい観光新体制の重要な面があるのではあるまいか?〔……〕現在の観光旅行は、所謂成金や、農閑期のお百姓の物見遊山的な時代から、”百聞は一見に如か”ざる旅行の知性化時代を過ぎて、国民的な保健、厚生化時代に成長してきたのである。」(野間口英喜(満鉄理事)「厚生運動と観光国策」『満洲観光連盟報』5(1)、満洲観光連盟、1941、7頁)

史料10 満洲国入国には査証も旅券の携帯も不要

「第一章「旅券査証ノ概要」(三)旅券及査証ノ相互免除 (1)旅券ノ相互免除 
(B)日満間旅券ノ相互免除
満洲国側二於テ日満両国ノ特殊関係二基キ本邦人ノ入国二対シ旅券又ハ国籍証明書ノ携帯ヲ必要トセサル関係上本邦側二於テモ満洲国国民ノ本邦渡来二対シテハ相互的に旅券又ハ国籍証明書ノ携帯ヲ必要トセサルコトニ取扱ヒ居レリ」
(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10070004900、本邦渡来外国人ニ対スル旅券査証ニ関スル規定ノ綱要/1936年(米_26)(外務省外交史料館)」5-6)

表2 旅程(『満支旅行年鑑』より作成)

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表3 経路と旅費

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史料11 京図線と北鮮三港

「海克(克山海倫間)、拉濱(拉法)、敦図(敦化図們)の新線開通に依つて、満洲交通系も一変した。そしてチチハルハルビン間の豊饒な農業地帯を繞る斎克、海克、呼海の三線は、名も斎北(チチハル北安)濱北(ハルビン北安)線と変へられた。又敦図線は従来の吉長吉敦線と連絡し、以上三線を併せて新京と鮮満国境の図們間を京図線と命名、営業を開始した。京図線を北鮮の海港雄基(将来は羅津)清津につなぐ北鮮鉄道も満鉄に移管され、昭和8年10月15日から新京清津間に直通列車を運転することになつた。二十年来の懸案として多年待望された吉会鉄道は、茲に始めて実現を見た訳だ。」(「日鮮満直通幹線成る」『満洲グラフ』第2巻第1号(第3号)昭和9(1934)年1月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第1巻、ゆまに書房、2008年、44-45頁)