【史料】観光客・旅行者から見る満洲国奉天市社会

作業中・史料づくり

  • メモ
    • 主査曰く、満洲研究では都市社会において日本人と中国人、露西亜人、その他民族は分断されており没交渉だったというイメージであるとのこと。そのため、鉄道や百貨店なども非日本人は日本人経営のものを利用しなかったという。また逆もしかりで、日本人は満人街へ出かけることなどなかったとされているらしい【この辺先行研究微妙・書き方に工夫必要?】。それ故、日本人が満人街へ観光に行っていたことを示し、観光客の視線から都市社会の様相を描き出すことには意義がある(とのこと)。

【目次】

1.奉天 附属地と城内は分断していたか?

「古くから城内と満鉄附属地とは、別々の生態系を持つてゐて、両者がまるで交渉なく、旅行者にとつては二つの世界が自由に見られるという風に描いた旅行記が多く、外国人のものは大概さうなつてゐる。〔……〕多分に外国人の古い伝統的な観方に捉はれたものである。これは外国人が、今日でも東京には吉原とゲイシャ・ガールだけしか存在してゐないかの如く書くのが、一つの伝統となつてゐるのに似てゐる。城内の四平街には五階建の吉順洪(老號)、吉順隆、吉順絲房といふ3つの高層建築の百貨店が並んでゐる。〔……〕これらの店には例の裸のエレベーターがあり、商品も相当に揃つてゐる。〔……〕城壁外の満鉄附属地だけが近代化して、城内は近代化してゐないといふやうな印象記を書くのは誤りである。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、42-43頁

2.満洲国立博物館・旧跡

2-1.博物館が示す支那の文化の跡・遼の唐三彩

「古い都としての奉天に於いて特に印象の深かつたのは、国立博物館と北陵であつた。戦跡としての北大営の忠霊塔を拝したことも忘れられない。博物館が示す支那の文化の跡は豪華なものであつた。遼の唐三彩焼のごときは、驚嘆すべきものであつた。北稜の石像、石馬のごときは張り切るごとき精彩があつた。この二頭の石馬は太宗の乗馬を形どつたもので、一日百里をゆくと称せられて野戦に偉勲あつた愛馬であつたのだ。私には南京の孝陵の彫刻は、これなどよりはよほど劣つてゐるやうに思へた。北稜は清朝第二代太宗文皇帝の陵墓で、奉天駅の北方6粁のところに在る。境域の周囲約8粁ある。廟の拝殿には燕夥しく巣くつて、数千となく飛び交つてゐる。甍は黄に美しい草が生えてゐる。屋根はともかくなぜ境内の雑草を刈らぬかと不思議に思つたが、これを生やして置いて適当な時期に刈ると相当な金高になるといふ。」
白鳥省吾『誌と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年、71-72頁

2-2.湯玉麟私邸・白亜三層楼・陳列品

「〔……〕観光バスに乗り、ビューロー氏の案内で一行は市内見学に出かけた。〔……〕先づ忠霊塔に参拝して英霊に敬意を表し、続いて訪れたのが国立博物館である。この博物館の在る所は三径路十緯路と云ふのださうだ。附属地の方が日本流の町名だから判りよいが此処の様に商埠地の内は名称がややこしくて判り憎い。此の建物は熱河の阿片王と謳れた旧東北軍閥の驍将湯玉麟の私邸跡で、支那式の広大な門を入ると広くて立派な洋式庭園を有し、その奥にある贅美を尽くした白亜三層楼がそれである。陳列品の主なるものは周漢時代の銅器、天下稀に見る刻絲、刺繍をはじめ、遼、宋、金時代の陶磁器、宋、元以来の名書画、北魏以後の墓誌契丹文字、哀冊類、その他熱河離宮に秘蔵されてゐた世界の珍宝等三千五百点を収めてゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、133頁

2-3.国立博物館で目が引かれたもの等

国立博物館は三階建の白い洋館で、三階の窓からは近くのアメリカ領事館の星条旗が見える。博物館の表に骨董店があるのをみて門をくぐると、玄関で写真機を預かりますといふ、この博物館はむしろ美術館と呼んだ方がよく、仏像、服飾、仏画、銅器、陶器、郎世寧の「平定伊犁回部全図」清、明、宋、各時代の書画、順治、康熙、乾隆帝の御筆、刺繍、刻絲などが陳列され、屋外の納屋風の建物に墓誌が置かれている。〔……〕ここにも古い時代の支那陶器と、青花、五彩、粉彩等の磁器が若干ある。専門家の見る価値を別にして、「三彩劃花盤」、「三彩碗」などの美しさに惹きつけられる。前者はグリーンとイエロ・オーカーが基調となつてゐる。「黄釉長頭瓶」などといふのも目につく。古い時代の陶器といふものは、研究資料として大切なものであらうが、古いことだけで直ちに美術品といふ資格に合致するかは疑問だ。「景泰藍氷箱」といふ乾隆帝時代の大きな氷をいれる箱がある。「避暑山荘、銅版と木版画の対照」と手帳に書いてあるが、どういふつもりで覚書をとつたか、いまはわからない。勿論、支那ではじめてつくられた清朝の銅版画をみた時の感想である。動物土器のなかに、周、漢、唐各時代の鶏がある。魚、犬、豚もある。この博物館は、かつて湯玉麟の私邸だつたといふが、湯は往年の熱河軍閥で、満洲建国後叛旗をひるがえし、熱河から追ひだされ男である。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、432頁

2-4.遼時代の陶器は満洲色・支那の陶器の区別

〔豊田〕「〔……〕洋車にのり、もと湯玉麟の邸宅だつた博物館をみに行つた。遼時代の陶器にはいかにも満洲色があつた。濁つた黄色、変つた形状。規格の正しい支那の陶器からみると幼稚な形をなさない想像力があつた。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、73頁

3.奉天

3-1.駅前の異民族混交の様子

「7時半奉天駅に下車、ホームで次の列車を待つ、待合室に「小心小倫」の掲示がある。小泥棒に注意しろといふのだ。山海関奉天間を往復する傷病兵収容の軍用列車も着く。支那人を満載した錦州発の汽車も着く、ホームは日支人で忽ち一杯になる、支那人の赤帽は赤い布でへりを取つたチヨツキを着けて右往左往、支那旅館の客引きどもは胸と背に館名を大きく書きあらはしただぶだぶの服を着て、大きな声で呼んでいる。」
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933 、34-35頁

3-2.富裕階層 国際都市

「午前8時列車は奉天駅に滑り込んだ。〔……〕広大な駅を出た。赤煉瓦の立派な大建築、流石は旧満州首都の玄関口である。古き都……、この国の貴族でもあらうか、純支那族の龍の刺繍した紳士や淑女の幾組かが下車し、之れを迎ふる黒塗馬車。そのほか福々しい、人品のある貴顕貴婦人も数多く散見した。白衣の鮮人、長袖をだらりと着流した満人、色とりどりの服装、流石は国際都市の面目躍如として描かれてゐる。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、70-71頁

4.城内のデパート・百貨店

4-1.吉順絲房① 四平街・店舗の壮麗・看板・満人たちの様子

「〔……〕奉天市街を一巡する事になつた〔……〕外城壁はとうにこわれて、今では見る事が出来ない、内城の大西門、高さが三丈五尺、厚さが一丈八尺、瓦を積みあげた城壁の門をくぐると、ここは四平街といつて奉天の銀座通りである。店舗の壮麗も去る事ながら、我々お目を奪ふのは看板のデコレーションである。金色燦爛たる文字入りの装飾看板が店前一ぱいに展開され、そこには満洲人がうようよと往復している。ここでの第一の大商店は吉順絲房綢緞布荘である〔……〕エレベーターで5階の屋上に登ると、ここからは奉天全市を眺めることが出来る、内城の旧宮殿も足もとに見える、城壁も四角につらなつてゐる、軍用機が雲間に飛行してゐる〔……〕」
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933 、85頁

4-2-A.吉順絲房②A 屋上での食事・展望 旧張学良邸(国立図書館)・大南門・北陵・北大営・喇嘛塔・附属地

「〔……〕城内唯一の展望地点たる四平街の百貨店吉順絲房の五層楼上に登つて、食事をなしつつ城の内外を展望した。石造や煉瓦造の建物、泥造の旧式家屋が雑然と立並び、車馬の砂塵は濛々と立ち籠めて争乱の巷に似ず殷賑の市街である。時めいた張学良の洋風公館は図書館となり、かの日露の役大山大将の入城に名高い大南門裡に高くそれと指すことが出来る。【稍々彼方壁外小南関路の辺りに立つ2つの尖塔は天主教会堂、小北門外の白塔の影、更に眸を遠く放てば西北郊外の野に這へる長き緑は北陵、更に右を見渡せば北大営、兵工廠煙突の彼方に立てるは喇嘛の東塔、南塔の彼方は渾河の平原、西塔空に浮き立つ涯には附属地の連りが視野に入る。約1時間これ等の展望をほしいままにして〔……〕」
杉山佐七『観て来た満鮮』東京市立小石川工業学校校友会、1935 、101頁

4-2-B.吉順絲房②B 上記②Aと吉順絲房からの眺めの描写が全て同じ。パンフレットか案内記かの剽窃か?

「我々は最後に城内に於て唯一の満人大百貨店たる吉順絲房の露台に立つて大奉天の全市街を見渡す事が出来た。ここに立てば城内の様子は総べて眼科に指呼することが出来る。〔……〕城郭は尚厳かに城の固を示し、清朝の昔を語る宮殿の甍と共に今尚都城の匂ひを高めてゐる。南方に当つて高くそびゆる城門は今見て来たばかりの大南門で、その少し手前には張学良の洋風公館、今の国立図書館を指す事が出来る。【稍々彼方壁外小南関路の辺りに立つ二つの尖塔は天主教会堂、小北門外の白塔の影、更に眸を遠く放てば西北郊外の野に這へる長き緑は北陵である。それより視野を右に移せば、無電台の北は事変に名高き北大営、兵工廠の煙突の彼方に立てる喇嘛の東塔、南塔の彼方は渾河の平原、西塔に浮き立つ涯には附属地の連り】が見える。附属地一帯は大広場附近を中心として大厦高楼並び立ち大都市の威容を示してゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、139-140頁

4-3.吉順絲房③ 喇嘛塔とラマ教を深く信じる満人について

「城内の展望は四平街にある満人経営のデパート「吉順絲房」の屋上が最も好適とされていゐる。我々もこれに昇つて城内を展望するのである。〔……〕同所より北方を望む景である中央の塔は城の東西南北に各一座ずつ建てられた「喇嘛塔」の中「北塔」と称す一座である、喇嘛教を深く信仰する満人は、都城鎮護の為に建立したものと云ふが、此の塔は独り奉天のみでなく、他の城至る処にあり、往時支那に於ける喇嘛の強大なる勢力の程が偲ばれて興味深い。更に眼を南方に転ずれば、眼下に此城の中枢たる宮殿の豪壮なる甍が展開する〔……〕」
志村勲『満洲燕旅記』、志村勲、1938 、46-47頁

4-4.吉順絲房④ 美しい様子

「城内は全くの満人街で回教徒の飲食店や瓜を食べつつ歩いてゐる支那の男の人等珍しい風景だ〔……〕吉順絲房という百貨店は実に素晴らしかつた」
大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940 、52-53頁

4-5.吉順絲房⑤ 「奉天三十年」クリステイー博士の病院

〔新田〕「城内の繁華街四平街の吉順絲房(百貨店)の屋上から、奉天市街を眺める。実に大きな、人家密集した大都会の感じだ。遠くに北陵の森も見え、また別の所に立つと、小河沿の水も見える。ふと、あの「奉天三十年」の著書クリステイー博士の病院はどの辺だらうなどと思つて眺める。もう夕暮れ近い。水北門を出ようとする所にある余り綺麗でない料理店の店先で、包子がいかにも食欲を唆るやうな湯気を立ててゐる。そこに入つてその包子とタンを注文する。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、102-103頁

4-6.協大百貨店 満人百貨店における満人の買い物の様子

「協大百貨店といふ勸工場にはいつてゆく。木綿の粗末な靴下やシャツ類がたくさんある。とに角スフでなくて木綿である。スフの靴下が見本に置いてあつて、満人がとんでもないスフ的日本語で、木綿品をよく見よといふ。一番奥に文房具店があり、万年筆に「自来水筆」と書いてある。ハーモニカが並んでゐて、満人の中学生が満洲美人の人形ブロマイドを手にとつて熱心に眺めてゐる。〔……〕普通の満人の洋品店には店員がたくさんゐて、1人の客に必ず1人の店員がつく。〔……〕「Taltarin 五淋断根」といふ花柳薬の広告は、ヴエイルをまとつた裸体のダンサーが踊つてゐる切抜きを写真立てのやうに立てたもので、これを四五人の満人労働者がキヤツキヤツと笑ひながらのぞきこんでゐる。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、438-439頁

5.奉天城内

5-1.城内① 支那街・看板・雑踏・文字の国

「再び馬車を雇ひて市中を見学仕候、今日は方面をかへて奉天城内へと向ひ候、城門を潜れば全く支那街にて支那色を帯びたる金看板の商舗の間に、銀行、会社、貿易商等の横文字の点在し、商埠地の大通りは日に歳に美観の増し行くを覚え候〔……〕流石満洲国第一の都市だけありて、〔……〕城内は殊更の雑踏を極め自動車馬車の往来激しく、身動きの出来ぬ有様にてあの太文字の大きな横掛けの看板のみ目立ち居り候、支那は文字の国にて、看板の意味の深長なる、文字の使ひ方の古代的なる思はず失笑禁ずる能はざるもの有之候、一例を申せば、サービス百パーセントと云ふ処ならん、旗亭の軒下に「恋人的犠牲」と云ふものさへ見受け申候、意味深長の最たるものならんと愚考仕候。車は宮城、学良邸を経て転向場末の感あれ共工業地帯を一巡仕候、木材公司、製麻所、製糖所、航空所等々誠に満洲シカゴの名に恥ぢざる工業地帯にして伸び行く当市の発達は、満洲国教育のバロメーターに有之候。」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、40-41頁

5-2.城内② 賑やかな風景・格別の人だかり

奉天城内は格別賑やかに候、まして物見高い彼等殊更夕景は一層甚だしきを覚え候、男と云ふ男、娘も子供も、左住去来、雑然と大声を上げ居り申候、支那警察官はかひがひしく交通整理をいたし居り候。大声で量り売る縁日行商、売る人も品買う人も汗だくだく、又之を見んとする閑人、田舎のお百姓まで交へて格別の人だかりに候、元来満州国人は声は高く強く、一寸見には喧嘩としか見え申さず候、まだ言語の通ぜざるがましかと愚考仕候、涼みの人まで交へてとても動けぬ人だかりに候。」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、47頁

5-3.城内③ 支那街 商埠地と城内を往復

支那街では濃厚な色彩、緻密な彫刻的店飾も、目も綾な金看板、赤い布い金文字で浮き出された旗、或るは縦に或いは横に雄坤なる筆勢に躍つてゐる文字、扠ては満洲独特の騒音を漲らせて往来する男女の群、何だか全満洲の繁栄が、殷賑が、悉く茲に集められたかと云ふ気がした。商埠地から城内を堺ひする小西辺門の、龍の躍つた門の下をも数回往復して、万丈の黄塵を浴びつつ車馬の絡駅たる活況をも見た。厳めしき城門と、万里の長城を連想させる厚い、高い城壁と、その付近の夥しい人の流れとにも充分満洲都市の気分を味わふことを得たのである。」
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933、91頁

5-4.城内④ 市場の様子

「〔……〕城内市場を見に行つた。内城の外側、城壁に沿ふて大西門から大東門に至るまで狭長な市場が出来てゐる。〔……〕即ち大西門より小南門迄は、古着屋・鍛冶金具屋、小南門から大南門迄は雑貨店・骨董品店・大南門から東南角迄は、野菜屋・獣肉屋・東南角から大南門迄は家具屋が多い。支那人が雑閙して縁日の様だ」
杉山佐七『観て来た満鮮』東京市立小石川工業学校校友会、1935 、101頁

5-5.城内⑤ 満人町 四平街・満人大商店・有閑満人の漫歩・大南門

「附属地を東に通り抜け、商埠地を越へると、街は一転して純然たる満人町となる〔……〕此城壁に囲まれた市街は、四平街、鐘楼南大関、鐘楼北大関等が井桁に交叉し、表通りには満人大商店が並び、横町には青楼、妓楼、其他の娯楽機関があり、それ等を廻つて有閑満人が三々五々漫歩している。洵に殷盛を極めた光景である。そして城内と城外の連絡は、東西南北に各大小二つの門によりてなされてゐる。就中大南門は、奉天落城の直後、大山司令官が晴の入場を行つた門であり、馬上悠々たる将軍の英姿と共に、我々が常に画上で印象の深い史蹟である。」
志村勲『満洲燕旅記』、志村勲、1938 、46頁

5-6.城内⑥ 城内の繁昌・裕福らしい生活振り

「城内は画然として整うてゐる。相当に大な洋行、公司、官銀号など金看板が軒を埋めてある様子を見ると、相当に繁昌して居り、活気もあり、服装から見ても裕福らしい生活振りである。〔……〕看板が道路の両側にずらりと掲げられ、支那式ではあるが、相当に窓飾りもしてある。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、80頁

5-7.城内⑦ 四平街の大商店櫛比・店舗の構えと装飾

「城内は美しい宮殿を中心にして、方形の内城とそれを囲む不整楕円形の辺城とからなる満洲第一の平城である。〔……〕城門に通ずる大道は、いづれも最近市区改正を終り、実に整然たるもので商業極めて殷賑、特に小西門から小東門に通ずる四平街は欧風の大商店櫛比し、人馬織るが如き繁華振りを見せてゐる。城内の大商店は欧風の建物でこそあれ、店舗の構へ、装飾は所謂支那式を発揮して赤、黄、青の原色華やかに如何にも満人街らしい賑やかさを失はない。〔……〕八辺門を開き辺城と内城との間は、民家稠密し幾多の胡同(横町)を成してゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、137頁

5-8.城内⑧ 満人町・様々な満人・ひっくり返したお玩具箱

「〔……〕奉天城内に入つた。此処は満人町で、狭い道に、ごてごてと小さい歪んだペンキ塗りの家が建ち並んでゐる。様々な満人が往来し、「アララーラー」と叫んで行く馬車や、荷馬車や、まくは売の前にしやがんで、まくはを食いながら蔕を其処ら辺にまき散らしてゐる人や、姑娘やら、小児やら—。まるで塵と埃の中に、お玩具箱を引つくり返した様な光景だつた。」
松井秀子『大陸奉仕行』、興亜保育協会、1941 、101頁

5-9.城内⑨ 屋台に群がる苦力、見つからない泥棒市

〔新田〕「城内に入つた。崩れかけた城壁は、見上げる夕空にくつきりした線を画して立っており、そこの広場の所では、あらゆる食物の屋台店に苦力らしい風体の薄汚い満人がわいわい群がつてゐる。武田女史は、ここにあるといふ泥棒市を私達に見せようとして交番で訊ねたり、通りかかつた満人に訊いたりして、教えられた通りに行つてみるが、どこにもない。つい少し前、女史もそれを見たばかりだと云ふ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、79頁

5-10.城内⑩ 富裕層の満人の着衣・城内での食事

〔井上〕「旧城内の商店街は、さすが大廈高楼が軒を並べて行き交ふ満人の着衣まで立派である。某百貨店で、うどんを食ひ、更に町はづれの薄汚い料理屋で、天津包子といふものを食ふ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、94頁

5-11.城内⑪ 混雑・衣服・焼き餃子

〔豊田〕「満人街の混雑といつたらない。誰ひとりのんびりしてゐない。みないそがしそうに動いてゐる。桶のなかの泥鰌のやうだ。紺の綿入服が雑踏する情景はへんに量感があつて象徴的だ。地についた民族姿といはうか。子供たちもわめいて煙草を売つてゐる。みな定価よりも高い。山査子の赤い実を串にさして売る。これはいかにも満洲らしい風物である。四平街のデパアト吉順絲房の屋上にのぼる。奉天市街が一望のうちにある。教会のゴシック建築、旧王城、張作霖の旧邸宅、すぐうしろは城壁で、くづれかかつた遼塔がたつてゐる。日が暮れかかる。焼餃子をくふ。大蒜臭くてこいつはうまいともいへない。影絵芝居に案内してくれる筈だつたが飯河君も濱野君もあまり興味はないらしく、いつの間にかお流れにされてしまつた。僕はあんなものが妙に好きでたまらないのだが。奉天満洲の大阪らしい。その商業的旺盛さはおどろくべきものだ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、98頁

6.奉天における人力車と馬車

6-1.市内5銭の人力車

「駅に着いて誰もが驚くのは人力車、馬車の多い事だ、自動車も多いがそれは敢えて驚くに足らぬ。日本人と見れば乞食然とした半裸体の車夫が長い梶棒を引いて前後左右にやつて来る「乗れ」といふのだ。斯うなるとどれに乗つてらよいか分からぬ、成る可く人相のよい綺麗なのに乗らうと見廻はしてもそれらしいのがない、兎や角してゐる中にトランクの一つは甲の車に乗る「成る程これはうまい商畧だ」満洲といはず支那といはず車銭の安いのは我々旅行者には何よりも嬉しい。どこ迄いつても先づ大抵拾銭やればよい、それに奉天では市内5銭だから彼等の汗の値段も泣きたくなる程安い〔……〕安いから従つて需要も多い、時間の余裕さへあつたら見物は洋車(人力車)に限る。然し馬車も幌があつて乗り心地が良よく二人づれなら尚更よい。私は奉天を洋車の街、馬車の都といひたい。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、90頁

7.歓楽施設

7-1.支那風呂

「〔……〕支那風呂に出かけた、〔……〕堂々たる風呂だ、旅館か料理屋かにしか見えぬ。〔……〕ずんずんと奥の方に通される「やあ居るぞ」支那人が、5、6人共同風呂に入つてゐる。一目見て直ぐ引き返し今度は2階に上がるとボツクスが幾つも並んで居る、中に陶磁製の風呂桶がある、之が2等らしい。その少し先に案内のボーイが鍵を開けた部屋を見たら、風呂桶の外に寝台が2つ並んでゐる。差しあたり日本の家族風呂である、之が1等だ、入浴しては茶を飲み、唄を唄ひ、昼寝をしては又入る、床屋も居る、爪切りも居る、料理も食えば酒も飲める、支那人の享楽生活の半面がよく現はれてゐる。之で1日70銭とは高くない。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、91-92頁

7-2.春日通① 平康里 書館・閣・堂、打茶園

「〔……〕尋常5年の満洲子さんと春日通の方面を散歩した。大道には瓜や桃を売つてゐる程暑い晩であつた。足はいつの間にかネオンサインのまなゆき人込みの多い街に出た「叔父さん、ここ平康里よ」〔……〕左右には多くの脂粉をこらした厚化粧の支那美人が門前に出てゐるではないか。〔……〕私は思ふた「料理屋としても変だ」「廓か」「然し奉天市街の真中だ、いや本屋があるぞ」看板にはたしかに何々書館と書いてあつた。然し本は勿論陳列されていない、では図書館か、中に入れば本は1冊もなく、支那美人がそこかしこに居るではないか流石に私も驚いた〔……〕2、3軒漁つて見た、中庭に入ると、太った大入道が何やら云ふと、呼び子に応じて奈良公園の鹿が集まるやうに色取り取りの女が集まつて来る、一々芸名をいふ、其の中から好きなものを選べといふのだ。嫌ひなら左様なら、といつて出て行く、出て行く者も、中に居る女も平気だ大陸的であつさりしている。〔……〕書館の外に「閣」「堂」と名のある家もある。書館は一流で、閣は二流、堂になると等外のインチキである。又満洲支那には打茶園といふ事があつて1弗出せば妓女の部屋で夜12時頃迄茶を呑み漫談をし唄を唄ひ、うたた寝をして帰れる仕組みもある。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、93-94頁

7-3.春日通② 書館=妓楼

「「私は図書館も経営して居るから、珍本を売る書店へ行き度いですが」「よし、よし、天下無類の珍本屋へ案内しやう」と○○氏はぐんぐん先に立つて奉天銀座の称ある春日町通を行かれる。看板には「艶楽書館」とある。艶物本屋かと思つて店内に入るとドツトばかり女群が押寄せ、口々に「私を呼んでくれ」と連呼する。「なんだ!」其は妓楼だつたのである。妓楼の事を満洲では書館と云ふのである。」
村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938 、21頁

8.観光案内

8-1.満洲観光連盟

満洲国には奉天の満鉄鉄道総局内に満洲観光連盟があり各地に支部をつくつて業務の研究と連絡をはかつてゐて、重要な都市には大概観光バスがある。雑誌には『満洲観光連盟報』が当事者の連絡雑誌として観光され、日本国際観光局満洲支部の『観光東亜』が一般の観光雑誌となつてゐる。私は旅行から帰つてそれらの観光雑誌にそれぞれ一文を徴せられたが、同時に日本観光連盟の『観光連盟情報』からも「満洲・北支のホテル」といふ一文を求められた。観光バスが乗客の記念写真をとるのは、京城でもそうであつたが、バスの切符が三食刷名所絵葉書の一端についてゐるのなどは、大同のやうな天井の破れたボロバスでも、ちやんと同じやうな絵葉書切符をくれるから微笑させられる。ミシンのはいつた切符をちぎると、絵葉書が記念として乗客の手に残るわけである、満鉄の機構のなかにも旅客課が観光事業を受け持つてゐて観光叢書をだしてゐる〔…・〕」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、422-423頁

8-2.満鉄旅客課

「鉄道局は昭和8年(大同2年)3月満洲国の国有鉄道の経営を委託された際設置され、当時は鉄路総局と呼ばれてゐたが、昭和11年10月全満鉄道機構の改革に伴ひ、国有鉄道と満鉄会社線の一元的運営が行はれることになつて鉄道総局と改称された。〔……〕ここで我々のやうな視察者が訪ねてゆくのは旅客課であるが、映画宣伝などは弘報課で取り扱つてゐる。旅客課からは多数の宣伝用パンフレットが刊行されてゐる〔……〕」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、428頁

9.映画

9-1.『揚子江艦隊』東宝、1939

「光陸電影院といふ映画館では、東宝の「揚子江艦隊」を上映してゐる。〔……〕揚子江の波をけたてて進む軍艦が見え、大砲のはげしい録音がきこえる。〔……〕顧客は全部満人らしく、文字通り満員である。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、440-441頁