第一節 戦争・敗戦
一、北海道空襲 及び 二、敗戦
1945年7月14日、15両日、北海道空襲が起こり、根室、釧路、室蘭、函館、網走など道内38市町村が被害を受ける。北海道空襲は日本敗戦の大きな要因となる。その理由は本州と北海道を結ぶ青函航路が壊滅し、北海道の石炭が京浜工業地帯に送れなくなったから。
道民は北海道と本州が切り離されるのではないかと危惧するが、さらにソ連が参戦する。1945年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告、9日未明にソ満国境及び南樺太北緯50度線を南下、豊原は占領される。樺太国境守備隊第125連隊はほぼ全滅に近く、稚内は大泊からの避難民であふれた。
1945年8月15日、玉音放送。日本の戦時機構は崩壊し、戦時中に保たれていた秩序が崩れ落ちる。軍から市民に戻る復員が進行する。
第二節 米ソの影・米軍占領と北方領土
一、飢えとヤミ市
国家が生産者から強制的に買い上げる「供出」により、消費者が「配給」でそれを購入する統制経済は機能せず。買い出しで「衣」を「食」に変えられない場合、ヤミ市で配給価格より高い値段で購入することになった。
北海道の推定消費量はコメ換算で月21万1420石だが、1945年のコメ収穫予算。主要食糧作物作況調査では、コメ換算で81万3780石だった。北海道の主食遅配は47年7月に極点に達し、道内平均50日、最高90日遅れた。
二、米軍が上陸、間接統治
1945年10月5日、連合国軍のうち米第8軍直属の第9軍団司令部と同軍団中最右翼の第77師団主力が小樽に上陸、札幌を目指す。拓銀ビルに第77師団司令部を設営した。
1945年12月、米軍日本占領史上初めての重大事件が北海道で発生。第77師団糧秣倉庫に忍び込んだ日本人3人組がMPを刺殺、逃亡した。
第77師団の後にやってきた第11空挺師団長のスウィング少将は、ヤンキー丸出しで、札幌・真駒内キャンプ・クロフォードを建設し、「進駐軍競馬」を行った。第11空挺師団の次にやってきたのは歩兵第七師団だった。
三、北海道社会党の実力
戦前、無産運動家だった渡辺惣蔵は東京の下町から札幌(現在の丸井今井デパート西館出入口)に移住した。1945年12月、渡辺惣蔵は日本社会党支部北海道連合会(社党道連)を設立。田中長官選出の選挙の際には、市町村長、市町村議会議員、道長官、道議会議員、衆議院議員と5回続けて選挙があったが、渡辺惣蔵は五段階・連呼方式を行った。
社会道連は米軍のタコ部屋解放に立ち会った。46年8月真駒内のタコ部屋が摘発、9月には夕張で摘発されたが、夕張での摘発の際、社会道連の一人が同行した。
四、農地改革
北海道の解放農地面積は全国の5分の1。52年10月までに6万5750人の地主から34万7582haの農地が買収された。さらに国有地などを加えた35万3587haが農民に売り渡され、12万850戸が自作農になった。特に、空知の蜂須賀農場の解放が有名であった。1920年の調査では50町歩以上の地主1065人のうち323人が、千町歩以上の地主22人のうち16人が北海道に集中しており、そのほとんどが不在地主で、北海道の小作地面積における不在地主所有地の割合は45.7%で全国最高であった。
五、北方領土返還をめざし
1945年8月、南サハリンからの引き揚げ船3隻がソ連の小型潜水艦から攻撃を受け、留萌沖で2隻沈没、1隻大破した。9月5日、ソ連は北方4島の占拠を完了。1万7千人の日本人は本土へ送還され、大部分の人が根室に居住している。12月には安藤石典がGHQに陳情し、これが返還運動の原点であるとされる。1964年に北方墓参が初めて実現した。
外交レベルでは51年にサンフランシスコ条約で片面講和、56年の鳩山一郎首相は日ソ共同宣言で平和条約が結ばれたら歯舞と色丹を日本に引き渡すことを約束。しかし60年安保でソ連は領土条項を無効とし北方領土問題は存在しないとした。73年の田中角栄とブレジネフの会談では、未解決の問題の一つという位置づけになった。91年の海部俊樹とゴルバチョフの会談では、北方領土問題について話し合い、島名を具体的に挙げたが、それが限界だった。ソ連崩壊後の93年10月、細川護熙とエリツィン大統領が会談。平和条約の早期締結を唱える東京宣言を発表。98年4月、橋本龍太郎はエリツィンと静岡県川奈で会談し、施政権返還を先送りする川奈提案を出したが、その半年後、小渕恵三はこの提案を事実上拒否された。森喜朗とプーチンは2001年にイルクーツク声明を出し、安保条約は二島引き渡しの障害にならないとし、60年安保の時のソ連の対日覚書が撤回されることが示唆した。しかしこれは1965年の日ソ共同宣言に逆戻りしただけのように見える。
第三節 田中道政とその時代
一、初めての民選長官誕生
- 田中敏文の当選
- 米供出問題
- 当時の占領軍の軍政の最大の関心事は、石炭増産と米の供出完遂であったため、田中は就任早々占領軍各都道府県軍政部(MG)の大佐に呼びつけられ、北海道の米供出のパーセントは最低であるため現地に供出の督励に行くように命じられた。田中の活躍により47年の供出率は100%を達成し、供米実績が全国一になった。
二、北海道開発の理念に差
- 北海道開発審議会
- 内務省解体により、各省バラバラで関係する道の部局を指導したため、北海道全体の問題はぼかされがちとなる。全体をまとめる機関としては首相の諮問機関「北海道開発審議会」が存在しているだけ。道知事はこのメンバーの一人であった。
- 1949年 北海道開発法案をめぐる道と中央の抗争
- 北海道開発が国の統一方針となるには「北海道開発法」が必要であった。道庁は「北海道開発法法案要綱」づくりに総力をあげて取り組み、1949年に「北海道開発審議会」の承認を得て提出、答申された。北海道開発法案第一条には、「国民経済の復興および人口問題の解決に寄与し、もって生活の安定および文化の向上に資することを目的とする」という文言があった。だが第一条後半の「もって生活の安定および文化の向上に資することを目的とする」という言葉は削除されてしまった。田中が言うには、道庁は住民の尺度、つまり生活文化の向上を開発理念としたが、中央にとって「開発」は戦前戦中と変わらない「拓殖」であるとし、中央の無理解を嘆いた。
- 1951年 北海道開発局設置
- 2001年 中央での組織再編
- 2001年、開発庁は国土交通省「北海道局」として再編された。
三、北海道開発に消えた800億円
- 中谷宇吉郎「北海道開発に消えた八百億円―我々の税金をドブに捨てた事業の全貌―」(『文芸春秋』、1957年4月号)
- 北海度開発第一次五カ年計画(1952年度-56年度)が1957年3月に終わったが、実際に支出された800億円かけても実効がほとんどあがっていない点を列挙して批判。
- 中谷論文を起爆剤とする新たな政治情勢への期待
- 1956年7月に道が提出した第二次北海道開発計画案(1957-61年度)は道開発長官の諮問に応じ、道開発審議会が8月25日に答申済みであった。しかし57年4月になっても進展はなく、中央官僚の怠慢と軽視により葬りさられようとしていた。田中道知事はこれを閣議決定してもらうのを急務としていた。
- 北海道開発計画の区分
- 第一期北海道総合開発計画(第一次・第二次五カ年計画 1952-56、1958-62)
- 第二期北海道総合開発計画(「産業構造の高度化」、1963-70)
- 第三期北海道総合開発計画(「高生産・高福祉社会の建設」1971年度から10年間を予定していたがオイルショックにより7年間で打ち切り)
- 第四期北海道総合開発計画(新北海道総合開発計画・「安定性のある総合環境の形成」、1978-87)
第四節 町村・堂垣内道政とその時代
五、基幹産業石炭の斜陽
六、札幌、百万都市に
- 歴史的変遷
- 札幌は19世紀後半、北海道開拓のための行政的拠点からスタート。1881年時点では7542人だったが1970年に人口百万となる。札幌が浮上したのは第二次世界大戦期で、統制経済により函館と小樽が沈んだから。札幌は45年の人口が22万人となる。統制経済で札幌に金融機関、中央の会社、経済団体の「北海道の拠点」が置かれると”支店経済”化の傾向は敗戦直後も変わらず、「出先機関の集中」が札幌と中央を直接結びつける。メディアの多元化が進み、テレビ局、ラジオFM曲が整備され、新聞の中央紙の札幌発行も60年代から本格化した。札幌の人口増加は自然増ではなく社会増であり、隣接町村と合併し、札幌オリンピックを迎え、近代都市となった。
- 札幌市政
- 1970年までの24年間、札幌市は社会的基盤の確立に向かい努力を重ねる。高田冨与、原田与作両市長の時代に上下水道の整備に重点が置かれる。札幌市が大都市化に成功したのも両市長時代にインフラ整備をしたから。オリンピック前の百万都市実現はインフラ整備の面でも意義がある。これを土台に板垣武四・桂信雄が札幌市政を行う。
七、国鉄ローカル線切り捨て
- 鉄道
- 1960年から70年代にかけて国鉄は設備投資に立ち遅れ、高度成長下の輸送需要に応えることが出来ず、国鉄自体の赤字は1964年ころから大幅となる。80年12月「国鉄再建法」公布、86年11月国鉄改革法など改革八法案が参院で可決され、国鉄の分割・民営化が決定した。この状況に対し、80年代から90年代初頭にかけて北海道の鉄道で輸送体系の近代化による経営改善が試みられる。①80年千歳線と室蘭本線が電化、旭川・札幌・室蘭間を走る電車特急「L特急」が登場。②81年札幌(石狩)と十勝を結ぶ石勝線が開業。経済的メリットが大で道央圏と札幌・道央圏が直結した。③新千歳空港駅の開業。札幌と新千歳空港が「快速エアポート」で結ばれ、航空機利用客の利便性が飛躍的に上昇した。1987年、JR北海道が誕生すると駅のコンセプトを大きく変化させ、札幌駅では「パセオ」、「アピタ」を誕生させ、大丸デパートや「JRタワー」により鉄道の機能を最大限に生かそうとしている。この大型複合施設JRタワーは札幌の流通・商業地図を塗り替えた。
- 道路
第五節 横路・堀道政とその時代
一、24年ぶりの革新道政
- 1983年北海道知事選挙
- 道民党政治の矛盾
五、拓銀破綻
- 拓銀概史
- 拓銀、破綻への道のり
- 85年前後、銀行の資金が土地や株に流れ込みバブル経済が発生、都銀最下位の拓銀は上位行との格差拡大に焦りを強め融資拡大を行う。「たくぎん21世紀プロジェクト」の第4項に「インキュベーター(新興企業育成)戦略」が追加される。「これから伸びる」新興企業をタマゴのうちから発掘して巨大な企業に育てようとする戦略案だが、これが拓銀破綻の原因となる。
- 拓銀は洞爺湖に700億円つぎ込み93年に「エイペックス・リゾート洞爺」を開業するが、営業収支は初年度から赤字続きで破産への道を突っ走る。これとは別に88年札幌市北区茨戸川のほとりに登場した”本格的リゾート”「札幌テルメ」は拓銀の巨額融資を受けるが経営は行き詰まる。エイペックスとテルメの巨大な焦げ付きを回避するには、追加融資しか道がなく融資は「不良債権化」し、97年の拓銀破綻の原因となった。
- 97年11月17日、拓銀経営破綻。公表不良債権は9350億円。大蔵省との事前協議で道内の業務は北洋銀行に譲渡、本州の拓銀店舗は98年に中央信託銀行が一括継承。拓銀の経営破綻から1年間に道内企業112社が倒産、負債総額は1兆8000億円以上に達する。拓銀の破綻処理、北洋銀行と中央信託銀行への営業譲渡に伴う資金援助として総額3兆4113億円の公的資金が使われる。
七、エア・ドゥの挑戦
第六節 戦後の生活文化
一、経済の高度成長と産業・生活の変化
- 産業構造の変化
二、生活文化の変貌
三、自然災害のキズ跡
第七節 21世紀を迎えて
一、札幌一極集中と過疎化の進行
- 札幌市一極集中
- 情報化社会と札幌
- 北海道では80年代すでに情報化産業、とりわけコンピュータソフト技術の集積が行われており札幌のITインフラストラクチャーはかなり進んでいた。具体的には、FMラジオ、JR札幌駅北口におけるソフト関連ベンチャー企業群の自然集積、大豆やみそをインターネット販売する帯広の畑作農家、「雪」冷房システムなど。