雑録

高橋昭夫「第Ⅳ章 戦後北海道の光と影(現代)」 関秀志他『新版 北海道の歴史 下』2006年、283-387頁

 

第一節 戦争・敗戦

一、北海道空襲 及び 二、敗戦

 1945年7月14日、15両日、北海道空襲が起こり、根室、釧路、室蘭、函館、網走など道内38市町村が被害を受ける。北海道空襲は日本敗戦の大きな要因となる。その理由は本州と北海道を結ぶ青函航路が壊滅し、北海道の石炭が京浜工業地帯に送れなくなったから。
 道民は北海道と本州が切り離されるのではないかと危惧するが、さらにソ連が参戦する。1945年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告、9日未明にソ満国境及び南樺太北緯50度線を南下、豊原は占領される。樺太国境守備隊第125連隊はほぼ全滅に近く、稚内は大泊からの避難民であふれた。
 1945年8月15日、玉音放送。日本の戦時機構は崩壊し、戦時中に保たれていた秩序が崩れ落ちる。軍から市民に戻る復員が進行する。

第二節 米ソの影・米軍占領と北方領土

一、飢えとヤミ市

 国家が生産者から強制的に買い上げる「供出」により、消費者が「配給」でそれを購入する統制経済は機能せず。買い出しで「衣」を「食」に変えられない場合、ヤミ市で配給価格より高い値段で購入することになった。
北海道の推定消費量はコメ換算で月21万1420石だが、1945年のコメ収穫予算。主要食糧作物作況調査では、コメ換算で81万3780石だった。北海道の主食遅配は47年7月に極点に達し、道内平均50日、最高90日遅れた。

二、米軍が上陸、間接統治

 1945年10月5日、連合国軍のうち米第8軍直属の第9軍団司令部と同軍団中最右翼の第77師団主力が小樽に上陸、札幌を目指す。拓銀ビルに第77師団司令部を設営した。
 1945年12月、米軍日本占領史上初めての重大事件が北海道で発生。第77師団糧秣倉庫に忍び込んだ日本人3人組がMPを刺殺、逃亡した。
 第77師団の後にやってきた第11空挺師団長のスウィング少将は、ヤンキー丸出しで、札幌・真駒内キャンプ・クロフォードを建設し、「進駐軍競馬」を行った。第11空挺師団の次にやってきたのは歩兵第七師団だった。

三、北海道社会党の実力

 戦前、無産運動家だった渡辺惣蔵は東京の下町から札幌(現在の丸井今井デパート西館出入口)に移住した。1945年12月、渡辺惣蔵は日本社会党支部北海道連合会(社党道連)を設立。田中長官選出の選挙の際には、市町村長、市町村議会議員、道長官、道議会議員衆議院議員と5回続けて選挙があったが、渡辺惣蔵は五段階・連呼方式を行った。
 社会道連は米軍のタコ部屋解放に立ち会った。46年8月真駒内のタコ部屋が摘発、9月には夕張で摘発されたが、夕張での摘発の際、社会道連の一人が同行した。

四、農地改革

 北海道の解放農地面積は全国の5分の1。52年10月までに6万5750人の地主から34万7582haの農地が買収された。さらに国有地などを加えた35万3587haが農民に売り渡され、12万850戸が自作農になった。特に、空知の蜂須賀農場の解放が有名であった。1920年の調査では50町歩以上の地主1065人のうち323人が、千町歩以上の地主22人のうち16人が北海道に集中しており、そのほとんどが不在地主で、北海道の小作地面積における不在地主所有地の割合は45.7%で全国最高であった。 

五、北方領土返還をめざし

 1945年8月、南サハリンからの引き揚げ船3隻がソ連の小型潜水艦から攻撃を受け、留萌沖で2隻沈没、1隻大破した。9月5日、ソ連は北方4島の占拠を完了。1万7千人の日本人は本土へ送還され、大部分の人が根室に居住している。12月には安藤石典がGHQに陳情し、これが返還運動の原点であるとされる。1964年に北方墓参が初めて実現した。
 外交レベルでは51年にサンフランシスコ条約で片面講和、56年の鳩山一郎首相は日ソ共同宣言で平和条約が結ばれたら歯舞と色丹を日本に引き渡すことを約束。しかし60年安保でソ連は領土条項を無効とし北方領土問題は存在しないとした。73年の田中角栄とブレジネフの会談では、未解決の問題の一つという位置づけになった。91年の海部俊樹ゴルバチョフの会談では、北方領土問題について話し合い、島名を具体的に挙げたが、それが限界だった。ソ連崩壊後の93年10月、細川護熙エリツィン大統領が会談。平和条約の早期締結を唱える東京宣言を発表。98年4月、橋本龍太郎エリツィン静岡県川奈で会談し、施政権返還を先送りする川奈提案を出したが、その半年後、小渕恵三はこの提案を事実上拒否された。森喜朗プーチンは2001年にイルクーツク声明を出し、安保条約は二島引き渡しの障害にならないとし、60年安保の時のソ連の対日覚書が撤回されることが示唆した。しかしこれは1965年の日ソ共同宣言に逆戻りしただけのように見える。

第三節 田中道政とその時代

一、初めての民選長官誕生

  • 1947年北海道庁官選
    • 初代岩村通俊以来、同庁長官は勅任官であり、他府県庁の知事より格上の長官をトップとする道庁は、多くのセクションと行政機能を集中させていた。道庁が複雑な機能を持っていたのは、内務省の第一線地方長官であったから。1947年12月31日、GHQ指令により内務省は解体される。地方行政組織は改革され、都道府県の長と議会議員は住民の選挙で選ばれることとなった。市町村に対する都道府県の監督権、都道府県に対する内務大臣の一般的監督権も廃止された。最後の官選長官は、徳島県知事から着任した第31代岡田包義であり、道庁長官の民選には不出馬を表明。それゆえ、道庁長官の民選は新人たちが争うこととなった。
  • 田中敏文の当選
    • 全道庁労組は委員長の田中敏文を推した。田中敏文青森県出身で九州大学林学科を卒業、道庁に就職し、道庁林務部森林計画課森林土木係長であった。田中は革新候補に祭り上げられ日本社会党に入党させられた。
    • 1947年4月5日の道長官選挙開票の結果、田中は新人6名のうちトップとなるが法定得票数が3万票足りず、2位 の有馬英二との決選投票となった。社会党道連は4位革新系中立の長谷長次に応援を頼み4月16日の決選投票で勝利した。公選道庁長官となった田中は5月3日の地方自治法の施行と共に初代北海道知事となった。同時に北海道庁は北海道、道会は道議会、内務部は総務部へと正式に改称された。
  • 米供出問題
    • 当時の占領軍の軍政の最大の関心事は、石炭増産と米の供出完遂であったため、田中は就任早々占領軍各都道府県軍政部(MG)の大佐に呼びつけられ、北海道の米供出のパーセントは最低であるため現地に供出の督励に行くように命じられた。田中の活躍により47年の供出率は100%を達成し、供米実績が全国一になった。
  • レッドパージ
    • 冷戦段階に入ると占領軍はレッドパージを行い、行政機関法を成立させると定数条例を設けて余剰職員の首切りと称して組合系職員の追放・解職を行った。田中は知事を辞めようとしたが、社会党道連に強く翻意を求められ、左派系職員の首切りを行った。

二、北海道開発の理念に差

  • 北海道開発審議会
    • 内務省解体により、各省バラバラで関係する道の部局を指導したため、北海道全体の問題はぼかされがちとなる。全体をまとめる機関としては首相の諮問機関「北海道開発審議会」が存在しているだけ。道知事はこのメンバーの一人であった。
  • 1949年 北海道開発法案をめぐる道と中央の抗争
    • 北海道開発が国の統一方針となるには「北海道開発法」が必要であった。道庁は「北海道開発法法案要綱」づくりに総力をあげて取り組み、1949年に「北海道開発審議会」の承認を得て提出、答申された。北海道開発法案第一条には、「国民経済の復興および人口問題の解決に寄与し、もって生活の安定および文化の向上に資することを目的とする」という文言があった。だが第一条後半の「もって生活の安定および文化の向上に資することを目的とする」という言葉は削除されてしまった。田中が言うには、道庁は住民の尺度、つまり生活文化の向上を開発理念としたが、中央にとって「開発」は戦前戦中と変わらない「拓殖」であるとし、中央の無理解を嘆いた。
  • 1950年 北海道開発法制定
    • 1950年に北海道開発法が制定されると、企画官庁として道開発庁を設置。開発庁が企画・立案し、「北海道」が実施する、という形で北海道開発がすすめられた。
  • 2001年 中央での組織再編
    • 2001年、開発庁は国土交通省「北海道局」として再編された。

三、北海道開発に消えた800億円

  • 中谷宇吉郎「北海道開発に消えた八百億円―我々の税金をドブに捨てた事業の全貌―」(『文芸春秋』、1957年4月号)
    • 北海度開発第一次五カ年計画(1952年度-56年度)が1957年3月に終わったが、実際に支出された800億円かけても実効がほとんどあがっていない点を列挙して批判。
  • 中谷論文を起爆剤とする新たな政治情勢への期待
    • 1956年7月に道が提出した第二次北海道開発計画案(1957-61年度)は道開発長官の諮問に応じ、道開発審議会が8月25日に答申済みであった。しかし57年4月になっても進展はなく、中央官僚の怠慢と軽視により葬りさられようとしていた。田中道知事はこれを閣議決定してもらうのを急務としていた。
  • 北海道開発計画の区分
    • 第一期北海道総合開発計画(第一次・第二次五カ年計画 1952-56、1958-62)
    • 第二期北海道総合開発計画(「産業構造の高度化」、1963-70)
    • 第三期北海道総合開発計画(「高生産・高福祉社会の建設」1971年度から10年間を予定していたがオイルショックにより7年間で打ち切り)
    • 第四期北海道総合開発計画(新北海道総合開発計画・「安定性のある総合環境の形成」、1978-87)

第四節 町村・堂垣内道政とその時代

一、町村知事誕生

  • 町村金五の業績
    • 1960年、道営競輪を廃止。高度経済成長にも関わらずランプ生活を強いられる無灯火地域の2万2000戸の為に、その解消に尽力。

二、青函トンネルと苫東開発

  • 町村金五道政(1959-71)における国家プロジェクト①青函トンネル
    • 1954年洞爺丸事故を契機に青函トンネル掘削の世論が強くなり、1963年国鉄首脳陣によりトンネル掘削が技術的に可能であり掘削実現を推進して欲しいと要請され池田勇人首相の賛同を得る。1971年にトンネル本工事の起工式が行われ88年に完成した。利害損失を論じるのは時期尚早。
  • 町村金五道政(1959-71)における国家プロジェクト②「苫小牧東部地区工業地帯開発」
    • 町村知事、苫東地域1万haの先行土地取得の号令をかける。69年から土地取得が具体化して行われるが、完成後に用地を活用する企業は少なかった。苫東は70年に閣議決定されるが、重化学工業のピーク時。そこからは下向きになりさらにオイルショックにぶつかった。苫東に重厚長大の工業地帯を建設する夢は大幅に後退、土地保持のための借入金の利子の支払い追われている。

三、堂垣内道政

堂垣内尚弘は3期12年(1971~1983)

  • 1971年北海道知事選挙
    • 自民党堂垣内尚弘共産党の支援を受ける社会党の塚田庄平が争う。選挙は大接戦で0.5%、1万3000票の差で薄氷の勝利。農村票が主導権を握っていた時代から札幌など都市票がモノをいう時代に変わる。
  • 堂垣内の政治の特徴
    • エネルギー革命のあおりを食って苦闘する北海道のために日夜奮闘。79年「北海道環境アセスメント条例」施行。二期の知事選の時には、時自民党を離脱し無所属となり「道民党」を名乗る。「自治体外交の推進」を行い、サハリン州の大火傷少年コースチャを治療、札幌オリンピックやロシア極東との親善スポーツ大会定期開催合意によりサハリンとの交流が正式かつ定期的なものとする。
  • 北海道における自衛隊
    • 警察予備隊の設置…全国を四管区に区分(第一東京、第二札幌、第三大阪、第四福岡)
    • 自衛隊の設置…在日米地上軍北海道撤退声明→帯広に「第五管区」新設
    • 管区から師団へ…第二師団(旭川)・第五師団(帯広)・第七師団(千歳)・第十一師団(札幌真駒内)=北部方面四個師団体制
    • 航空自衛隊…旧海軍航空基地の千歳を拠点とする。

四、革新市長群と大衆運動

  • 高度経済成長のマイナス部分と革新自治体の発生
    • 高度経済成長→公害と環境破壊・炭鉱閉山→左派運動の激化→革新市長の誕生
      • 赤平、夕張、帯広、旭川、釧路、北見、室蘭など。1973年には道内33市のうち、社会党員市長7、それを含む14市が革新系首長。
  • 70年安保
    • 70年安保は60年安保の時のような国民各層が幅広く参加した高揚は見られず。民衆エネルギーの噴出とは別で市民運動の質が明らかに転換した。人々の関心は「政治」から「経済」へ、「イデオロギー」よりは「生活」重視を志向するようになる。
  • 伊達火力問題と環境権
    • 1969年に北電が伊達市に石油専焼型火力発電所を立地すると、激しい反対運動が発生し、72年7月に札幌地裁に「伊達火力建設差し止め(第一次)訴訟」が起こる。結局は80年札幌地裁は訴訟を退け、請求を棄却、却下するが、「環境権」という考え方が生まれた。

五、基幹産業石炭の斜陽

  • エネルギー革命と炭坑の閉山
    • エネルギー革命により北海道では最盛期には143あった炭鉱が閉山、労働者の大部分は札幌に流れたとされている。1959年の三井三池大争議は地域社会を巻き込んで泥沼化、北海道では60年初夏に三井系の赤平赤間、万字、美流渡の三鉱を下請けにする方針が打ち出されて首切りが始まり、組合の敗退で収束した。北炭王国と呼ばれた北海道炭坑汽船も夕張新鉱の開発に失敗して95年に倒産。羽幌炭の採炭地である道北の築別炭坑も1970年に閉山し、国鉄築別駅・築別炭間の羽幌炭坑鉄道も同年12月に廃止された。

六、札幌、百万都市に

  • 歴史的変遷
    • 札幌は19世紀後半、北海道開拓のための行政的拠点からスタート。1881年時点では7542人だったが1970年に人口百万となる。札幌が浮上したのは第二次世界大戦期で、統制経済により函館と小樽が沈んだから。札幌は45年の人口が22万人となる。統制経済で札幌に金融機関、中央の会社、経済団体の「北海道の拠点」が置かれると”支店経済”化の傾向は敗戦直後も変わらず、「出先機関の集中」が札幌と中央を直接結びつける。メディアの多元化が進み、テレビ局、ラジオFM曲が整備され、新聞の中央紙の札幌発行も60年代から本格化した。札幌の人口増加は自然増ではなく社会増であり、隣接町村と合併し、札幌オリンピックを迎え、近代都市となった。
  • 札幌市政
    • 1970年までの24年間、札幌市は社会的基盤の確立に向かい努力を重ねる。高田冨与、原田与作両市長の時代に上下水道の整備に重点が置かれる。札幌市が大都市化に成功したのも両市長時代にインフラ整備をしたから。オリンピック前の百万都市実現はインフラ整備の面でも意義がある。これを土台に板垣武四・桂信雄が札幌市政を行う。

七、国鉄ローカル線切り捨て

  • 鉄道
    • 1960年から70年代にかけて国鉄は設備投資に立ち遅れ、高度成長下の輸送需要に応えることが出来ず、国鉄自体の赤字は1964年ころから大幅となる。80年12月「国鉄再建法」公布、86年11月国鉄改革法など改革八法案が参院で可決され、国鉄の分割・民営化が決定した。この状況に対し、80年代から90年代初頭にかけて北海道の鉄道で輸送体系の近代化による経営改善が試みられる。①80年千歳線室蘭本線が電化、旭川・札幌・室蘭間を走る電車特急「L特急」が登場。②81年札幌(石狩)と十勝を結ぶ石勝線が開業。経済的メリットが大で道央圏と札幌・道央圏が直結した。③新千歳空港駅の開業。札幌と新千歳空港が「快速エアポート」で結ばれ、航空機利用客の利便性が飛躍的に上昇した。1987年、JR北海道が誕生すると駅のコンセプトを大きく変化させ、札幌駅では「パセオ」、「アピタ」を誕生させ、大丸デパートや「JRタワー」により鉄道の機能を最大限に生かそうとしている。この大型複合施設JRタワーは札幌の流通・商業地図を塗り替えた。
  • 道路
    • 国道 札幌への一極集中を加速させる。
      • “弾丸道路”と呼ばれた国道36号の札幌-千歳間(53年完工)、“札幌国道”として親しまれた札幌-小樽間の道路改良と舗装(55年)、“大雪国道”国道39号層雲峡-留辺蘂(るべしべ)間の完工(57年)、国道230号定山渓-中山峠間(69年完工)。
    • 高速道路 札幌を中心としてタテとヨコにつらぬき、北海道交通の骨格を形成する。

第五節 横路・堀道政とその時代

一、24年ぶりの革新道政

  • 1983年北海道知事選挙
    • 3期12年間道知事を務めた堂垣内が引退、自民党推薦を受ける三上顕一郎、共産党推薦の広谷陸男、社会党推薦の横路孝弘が争い、横路が勝利する。24年ぶりの革新道政だが、道民党路線をとる。道議会における与野党の緊張関係は相当に緩和され、社会的弱者の保護では成果を上げるが、様々な矛盾が噴出する。
  • 道民党政治の矛盾
    • エリート偏重→地方分権を唱えながら道庁に中央官僚を重用し、新北海道長期発展計画を東大卒グループに作らせる。北海道の官僚機構に手をつけず、利権構造にメスをいれない。
    • 組織疲労→政策は政党間の対抗の中で形成されていくのが本来の姿だが、道民党は対立を回避、そらすので、みずからの組織疲労の病理の自覚症状・自浄作用がほぼない。後継の堀道政の時には「道庁不正経理問題」など道民党政治の組織疲労が明るみに出される。

二、アイヌ民族復権への道

三、泊原発小樽運河埋め立て反対運動

  • 泊原発
    • 後志管内共和町・泊村両地区を立地点とする「泊原発」。反対運動が行われたが、82年3月に電源開発調整審議会の承認を得、84年8月に本体の工事認可が下り、88年11月に1号機が臨界に達し、89年6月に営業運転を開始した。これに対し、社会民主党道連合は2000年8月27日の定期大会で堀知事への推薦・支持を破棄し、総与党体制にひび割れを起こした。
  • 小樽運河埋め立て
    • 道道小樽臨港線整備のため小樽運河を埋め立てる動きが昭和40年代後半に行政サイドで具体化。79年末には市議会が運河の埋め立てを強行採決、83年11月埋め立てのための杭打ち工事を開始、84年9月末本格着工、86年埋め立て工事終了。残された一部の地域が公園化し観光資源となったことについて、著者は反対派の住民運動を好意的に評価している。同様に北海道の革新自治体は10数年で終止符を打たれたが、それを評価している。

四、堀知事と士幌高原道路

  • 「道庁内不正経理事件」
    • カラ出張、カラ会議、カラ臨時職員雇用、官官接待など、不適切な事務処理をも含むと疑惑の金額が80億円に近くなる。延べ8000人を超す職員の人事処分、不正金額20億円の返済などで知事第1期の相当の時間を消費。
      • 総額23億9000万円の不正支出の返済が完了したのは高橋道政時代の2005年5月20日。道の管理職員6076人が9年2ヵ月にわたり給与天引きなどの方法で完済。
  • 「時のアセスメント」
    • 施策が必要とされた社会状況や住民の要望などが大きく変化し、施策に対する当初の役割や効果について、あらためて点検・評価を加える必要があるものについては、現状を踏まえ多角的観点から再検討を行い、「時代の変化に対応した道政」の実践に役立てる、というもの。
    • 再評価の対象として9つの公共事業が選ばれたが、「士幌高原道路」は複雑な利権構造を持っており揉める。最終的に堀知事が建設計画の中止を明確に打ち出す。1999年北海道知事選挙で知事の継続を目指すが堀だったが、道内212市町村中、十勝管内士幌町だけが伊東秀子の得票を下回る。

五、拓銀破綻

  • 拓銀概史
    • 1900年「北海道拓殖銀行法」に基づき、北海道開発を目的とする特殊銀行として設立。拓殖債権を発行し、長期貸付を主要業務として、併せて普通銀行業務を行うという形式で発展。1950年「北海道拓殖銀行法」廃止で普通銀行に転換、55年都市銀行の仲間入りを果たす(ただし最下位)。普通銀行転換後は、石炭、製紙、製糖などの基幹産業に資金供給を強め、二次・三次産業が未成熟で運用先の少ない北海道内から資金需要の旺盛な本州方面へと、投資を拡大。80年代方式「護送船団方式」(※レジュメ作成者註―銀行の倒産を防ぐために銀行間を競争させないようにする保護的な行政のこと)から「自由化」により競争の時代に入る。
  • 拓銀、破綻への道のり
    • 85年前後、銀行の資金が土地や株に流れ込みバブル経済が発生、都銀最下位の拓銀は上位行との格差拡大に焦りを強め融資拡大を行う。「たくぎん21世紀プロジェクト」の第4項に「インキュベーター(新興企業育成)戦略」が追加される。「これから伸びる」新興企業をタマゴのうちから発掘して巨大な企業に育てようとする戦略案だが、これが拓銀破綻の原因となる。
    • 拓銀洞爺湖に700億円つぎ込み93年に「エイペックス・リゾート洞爺」を開業するが、営業収支は初年度から赤字続きで破産への道を突っ走る。これとは別に88年札幌市北区茨戸川のほとりに登場した”本格的リゾート”「札幌テルメ」は拓銀の巨額融資を受けるが経営は行き詰まる。エイペックスとテルメの巨大な焦げ付きを回避するには、追加融資しか道がなく融資は「不良債権化」し、97年の拓銀破綻の原因となった。
    • 97年11月17日、拓銀経営破綻。公表不良債権は9350億円。大蔵省との事前協議で道内の業務は北洋銀行に譲渡、本州の拓銀店舗は98年に中央信託銀行が一括継承。拓銀の経営破綻から1年間に道内企業112社が倒産、負債総額は1兆8000億円以上に達する。拓銀の破綻処理、北洋銀行中央信託銀行への営業譲渡に伴う資金援助として総額3兆4113億円の公的資金が使われる。

六、ラムサール条約千歳川放水路中止

七、エア・ドゥの挑戦

  • 羽田-新千歳間の航空運賃に対する挑戦
    • 羽田-新千歳間の航空運賃が高いので、96年11月北海道国際航空(エア・ドゥ)が利用者の不満をバネに「適性運賃」を理念として設立される。大手三社はこれに対抗せざるを得ず、格安運賃や特割戦術をとった。大手航空社の運賃値下げを実現させたことにエア・ドゥの意義があるが、この結果競争に敗れ、債務超過となってしまう。2002年6月には自主再建を断念、民事再生法適用を申請し、全日本空輸(ANA)との提携に踏み切った。03年2月に共同運航が開始されるが、04年、05年には2年連続の増収増益となり05年3月末には再生債務を返済し民事再生手続きを終了、再建を達成した。

第六節 戦後の生活文化

一、経済の高度成長と産業・生活の変化

  • 産業構造の変化
    • 農業→61年「農業基本法」制定により農業構造改善事業が急速に進み、多額な設備投資が農家経済を圧迫、農村の過疎化が進む。70年に始まる米の生産調整が農家に大きな打撃を与える。
    • 林業→機械化が進む一方で白蠟病(※引用者註:手指の血液循環が障害され白い蠟のような状態になる。しびれ・冷え・痛み・脱力感などを発症する)などの労災が発生。
    • 漁業→55年ころを最後にニシンが姿を消し漁村の過疎化。沖合漁業や沿岸での増養殖漁業を振興、漁船の動力化、漁港の整備等が進み、漁村の労働形態も大きく変化。
    • 石炭→炭坑の閉山が相次ぎ産炭地の過疎化が社会問題となる。
  • 社会構造の変化
    • 1952年北海道総合開発計画→道路整備の重視→鉄道利用者減少、赤字ローカル線廃止、バス運行への転換。
    • 航空便の大衆化→51年日空の千歳-羽田便運航開始、60年代利用客急増、65年利用者数が国鉄を上回る。
    • 都市への人口集中→札幌・地方都市へ人口集中、過密化。70年には道民の64%が都市住み、都市問題の発生。

二、生活文化の変貌

  • 家庭生活用品の電化…三種の神器による主婦労働の軽減と余暇の発生、蛍光灯の普及
  • 新素材…化学繊維、合成皮革、ビニール、プラスチック、ステンレス製素材など
  • 住宅改良…三角屋根のブロック住宅→長尺カラートタン葺屋根の木造モルタル住宅→無落雪屋根
  • 食生活…パン、ハム、ソーセージ、牛乳、バター、チーズ、肉類、インスタント食品、電気釜、プロパンガスコンロ
  • 生活用品の購入方法…スーパー、コンビニ、生協、デパート
  • 屋外の活動…1972年の第11回冬季オリンピック札幌大会により冬のスポーツやイベントを楽しむようになる。
  • テレビ…文化の画一化と同時に地方の伝統文化の見直しが進み、郷土資料館・博物館が設立された。

三、自然災害のキズ跡

  • 有珠山噴火
  • 洞爺丸沈没
    • 1954年9月26日、台風15号のため沈没、1420人が犠牲となった。台風15号は火事も発生させ後志管内岩内町の8割が灰となった。
  • 北海道南西沖地震
    • 1993年7月12日午後10時17分に発生。奥尻島とその対岸の桧山管内大成町で集落が根こそぎ流失。津波の被害を人々の脳裡に残した。
  • 国道229号線豊浜トンネル岩盤崩落事故
    • 1996年、後志管内古平町-余市町間でバス、乗用車の20人が犠牲となる。

第七節 21世紀を迎えて

一、札幌一極集中と過疎化の進行

  • 札幌市一極集中
    • 2005年10月時点で人口188万875人。エネルギー革命により炭鉱都市が過疎化し、札幌へ流入した。
  • 情報化社会と札幌
    • 北海道では80年代すでに情報化産業、とりわけコンピュータソフト技術の集積が行われており札幌のITインフラストラクチャーはかなり進んでいた。具体的には、FMラジオ、JR札幌駅北口におけるソフト関連ベンチャー企業群の自然集積、大豆やみそをインターネット販売する帯広の畑作農家、「雪」冷房システムなど。

二、北海道は若者文化の拠点へ

第八節 高橋道政とその時代

一、平成の町村”大合併”

  • 平成の大合併
    • きっかけは1999年の改正時限立法。これにより2005年3月31日までに都道府県に申請が行われ、06年までになされた合併については、「所要の経過措置を講じる」ための法的根拠ができた。
    • 平成の大合併 北海道第一号 「函館市」=函館市、渡島管内戸井、恵山南茅部の各町と椴法華村
    • 2005年3月末、合併特例法が期限を終える。2005年4月から5年間の時限法「合併新法」が施行される。
    • 道内の市町村数は2006年3月末までに35市、130町、15村の180市町村体制となる。

二、試練の道州制、北海道特区

  • 道州制
  • 北海道特例
    • 道内の公共事業について、他の府県に比べて国の補助率を高く設定できる「特例措置」が「北海道特例」。1950年の北海道開発庁設立の時に認められ、それから約50年間、道路法や河川法、都市計画法に明記されている。直轄の国道整備、河川改修、漁港や漁場の整備などの場合、府県への国費負担率が三分の二に対し、北海道は十分の八と設定されている。しかしながら、道州制推進を目指しながら、国の手厚い保護を求めるのは自己矛盾だとされる。

三、明るい展望の近未来

  • 知床の世界自然遺産登録
    • 2005年7月に知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。「世界最南端の流氷接岸地で、海と陸が相互につながり、多様な自然が残っている」として①流氷がはぐくむ豊かな海洋生態系と原始性の高い陸域生態系の絶妙な相互関係、②シマフクロウオジロワシ、ヒグマなど希少生物の生息地という特徴が国際的に評価される。
  • 函館市の「中核市」化
    • 2005年6月3日、函館市中核市とすることが閣議決定され、10月1日施行され道内では旭川に次いで2市目となる(全国では施行前36市)。
    • 評価…「札幌一極集中の弊害が指摘されて久しい北海道全体のバランス面からも道南の中核市誕生は歓迎すべきこと」(『北海道新聞』社説 2005年6月5日)
    • 道南における市町村合併…渡島・桧山両管内では、新・函館市、新・森町に次いで05年9月には「せたな町」(大成町、瀬棚町、北桧山町)、10月に「新・八雲町」(八雲町、熊石町)、そして6年2月に「北斗市」(上磯町、大野町)が誕生。道南再生を目指す。