雑録

【史料】観光客・旅行者から見る満洲国哈爾濱市

旅行記・紀行文から満洲国の都市社会を分析するシリーズの哈爾濱編
この間、打ち込んだ史料を整理・体系化したもの。

哈爾濱市概観

植民地的都市の性質

「哈爾濱市街の特色は、ロシヤ風の建築と街路樹(白柳、泥柳などが多い)の多いことである。元来この辺一帯は満目草原であつて樹木の無いところである。然るに一度足をハルビン市に入れると街路樹の多いのが眼につく。これはロシヤが都市建設の当時これを移植したのである。またハルピンには寺院が多い。彼等はここに殖民すると同時にまづ最初の事業として寺院を建立したのである。彼等は信仰を中心にして生活してゐるのである。殊にユダヤ系の人はさうである。又ここにはヨーロツパ人が多い白系露人のみでも三万人を数へ、その他の欧米人が五千人で、ロシヤ街へ行くと、これが満洲の地かと思ふ。私のやうにヨーロツパを見たことのないものには、キタスカヤなどを歩くと何となくヨーロツパの匂がするやふな気がする。これ又ハルピンの一特色である。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、24-25頁

哈爾濱の地形と建物

「哈爾濱の市街は、松花江沿岸の低地の部分と、その後背地の約20米高い部分と二段になつて居り、低い部分は古い街で、主として満人や露人が住み、工場や倉庫などもそこに在る。高い方は新規計画の処で、都市計画がよく出来てゐるから、官衙、学校、住宅等が盛んに出来つつある。鉄道の駅は此の高低両地帯の中間にある。この北満の都市へ来て見て驚いたのは、街の建物のどつしりして良いことである。昔はほんの田舎の一寒村に過ぎなかつたものを、40年ばかり前にロシア帝国が、其東進政策として満洲を占領したとき、満洲での発展基地として、此処に根拠を置いたのであるが、建物は皆しつかりした永久建物であり、日本人が殖民地建てるやうな、貧弱な吹けば飛ぶやうなバラツクは一つもない。今のヤマトホテルの堂々たる建物は、露軍の商工集会所であつたといふことを見ても、彼等の殖民地に建てる家は、彼らが永久そこに住む積りで建てるのであることが肯かれる。故に住宅のみならず、殖民地には先づカトリツク教(ママ)の教会堂を建て、共同墓地も設けるのである。」
村野貞朗編『大陸みやけ話』自費出版、1940、30-31頁

松花江

松花江 舟渡し

「〔……〕自動車で市街の北端なる松花江岸に出た。河岸に立つて其の洋々たる流れに暫し見入つた。利根川信濃川石狩川しか見てゐない私には実に気持ちの好い眺めであつた。T氏が向かふ河岸へ行かうといふ。船に乗つた。船は二三十屯位で吃水浅く艫で漕ぐものであつた。露人と満洲人が多く日本人は居るか居ないか私には分からなかつた。西風が可なり強く、波が高いので船の進行は困難であつた。対岸に着いたロシヤ人が濁水の中で泳いでゐるものが見える。男も女もゐる。大人も子供もゐる。此処は別荘地で毎年夏が来ると賑ふといふ。あちらこちら散策する。どちらへ行つても小さい川があり又沼地のやうなところがある。船を漕ぐもの釣を垂れるものあちこちに見える。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、26-27頁
 

松花江の遡上

「〔……〕松花江岸に車を停める。此所で汽船に乗り換えて江を遡上するのだ。成程広いもので満洲にこんな大きな河があらうとは思はなかった。到る所岸壁を利用して荷揚げの港が出来てゐて、交通の船も多く、中々の賑はひを見せてゐる。所々に散在する中洲の様な場所に洋風バンガロー式建物があつて風趣を添へてゐる。誰かが此の対岸はロシヤ領かと聞いたとか、成程そんな質問の出そうな光景である。」
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941、43頁

夜の松花江

「〔……〕夏の夜のズンガリーは、捨て難き北満情緒を語る。曲線美豊かな、けしの花かと思はる美しいロシヤ美人が透き徹るやうな薄物を纏とふて堤防上をさまようてゐる。もうボートに乗つてゐる、1人は2人となり3人となつて漕ぎ出してゆく。斯うしたシーンは夜の更けると共に益々盛んになる事であらう。若し月下水明の夜、家なき国なき白系露人の美少女の哀愁切々たるバラライカの音を聞き得たならばと、低回顧望去る能はざるものがあつた。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、133頁

松花江での淫行

「〔……〕月の青く照る夜などは、ヨツトにバラライカをはこんでこれをかきならしながら、それぞれ道で逢つたり、キヤバレーで踊つたりした。初会の男たちをのせて松花江の中州へ舟遊にでかける。ここは公然の密会所で、あつちにも、こつちにも甘い恋のたはむれに、赤裸々な人間本能を実行してゐるのがあるけれど少しもこれをとがめようとするものはない。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、118頁

埠頭区

キタイスカヤ街・モストワヤ街

「新市街は駅前の高台に位し官衙区、住宅区をなし埠頭区は最も繁華を極めて松花江に面し商業区をなしてゐる。殊にキタイスカヤ街の偉観は大連や奉天にも見られない大厦商店軒を連らね、アスフアルトの輝き、馬車、自動車の行き来、白皙の金髪美人の足取りも、軽く響くベーヴメントに、旅人の心はかすかなる興奮に陶酔するであらう。だから私は同じ国際的都市であつても上海よりも好きだ。同じ魔の都であつても、上海は魔の淵に突き落されるやうな感があるのに、ハルピンは好んで自分からヒヨロヒヨロと落ち込んでいくそこにハルビンの魅力がある。モストワヤ街には日本居留民が多く名古屋ホテルを始め朝日館大和館等の日本人旅館は多くここに集まつてゐる。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、132頁

人種混淆

「街を歩くものは矢張り日鮮露満欧の各人種、それは各々違つた服装、違つた顔をして平気である。鮮人は相変わらず白衣をつけ、日本の娘はやはり大きな綿柄で袖の長いキモノを着て闊歩している。ロシアの女乞食は、日本のお高祖みたいなもので頭を包み、あはれつぽい露語で手を出しながら人の後ろをつけてゐる。」
石倉惣吉 『新天地を行く:満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、64頁

ノモンハン事件に遭遇

「〔……〕十時半発のチチハル行に乗るべくハルピン駅に向つた。〔……〕構内へへ入ると、掲示が出てゐる。何かと思つて見ると「三等客はご遠慮下さい」とある。私も此の様な掲示を見て、ちよつとびつくりしたが、早速旅客係のところへ行つて尋ねた。一昨日から汽車が非常に混雑するといふ。しかし二等切符ならば乗つてもよいと云ふ。国境方面に何事か起こつたことを感じた。それがノモンハン事件であつたことは後日わかつたのである。構内は混雑し、空には飛行機が絶えず西北方面に飛ぶ。私はチチハルまでの二等切符を買って改札口を通って左に曲がる。伊藤公の斃れた標識のかこひ(高さ直径共に一米位の鉄柵)を見送つて昻々渓行の発車するホームに行つた。車はホームに着いてゐる。思ったほど車内は込んでゐない。軍人が多い。もう一列車待てばチチハル直通があるのだが、私は昻々渓もちよつと見たいので此の列車に乗つた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、46-47頁

ロシヤ寺院

「ハルピンの市街美に大きな役割をなすものにロシヤ寺院がある。町の要所要所に特異な建築美を持つてゐるが其数20ヶ所もあると云ふ。代表的なものに中央寺院、ウクラインスキー寺院などがあり、荘厳な此の建物が彼等の信仰の表彰であり又著しく異国情緒を深めてゐる。バス案内は日本娘の外に一名のロシヤ娘が同乗してゐて、かなり流暢な日本語で特別な個所の案内をやる。ロシヤ人墓地の説明には此の小娘が当つてゐたが綿々たる哀訴の調子を尽して彼等の信仰告白を説いてゐて、白系露人の憐れな亡命姿を訴ふる様で旅人の哀愁を唆るものがある。」
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941、40頁

哈爾濱の博物館

蒙古の紅狼・蒙古包・武器

「博物館へ入つた。この博物館はもとは個人(ロシヤ人)のものであつたといふ。内部は商工部、医学部、生物学部、人類学部の四部に分れてゐる。満蒙に関する貴重な資料が陳列してある。それ故に遊覧バスも此処は充分に時間を予定してある。人肉をも食ひ、疾走する自動車にも飛びつくといふ蒙古の紅狼があつた。人肉を食ふことは支那や蒙古の犬は普通であるが、走つてゐる自動車に飛びつくに至つては些か驚く。その獰猛な相貌と毛色の美しいのに暫し見入つた。又蒙古包(内蒙のもの)があつた。それは実物大のものであつて、パノラマ式に其の包は蒙古の茫漠に連なつてゐる。写真以外に見たことのない私には、低廻去る能はざるものがあつた。このパオは小家族のもので内に三人と入口に一人立つて居る。奥まつたところにラマの祭壇があり、中央には火が燃えて居りその上には自在鉤やうのものに土瓶の如きものが掛つてゐる。一尺余りもあらうと思ふ火箸でタドンのやうな物を挟んでくべてゐる。そのタドンのやうな物は言ふまでもなく乾燥した牛糞である。彼等は牧草が無くなればやたすく之を他に移転するのである。大家族になると三十人位のものも有るといふことである。その時はバオが大きくなるのではなくて、前記のやうなバオが幾つも出来てそれが一団となるのである。いろいろな武器が陳列してあつた。そのうちに鎧が数領あつた。我が国の鎧と相似の点が多いので、何等か文化史的に関係があるやうに想はれた。この博物館を見てゐると、急にハイラルへ行つて見たいやうな気がした。さうして、満人、蒙古人雑居の旧市街を思うさま見物して見たいと思つた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、30-31頁

モスコー館

「中央寺院に向ひ合つた商品館内に博物館がある。露西亜人には「モスコー館」と呼び慣らされて居ると言ふことだ。初め露西亜は新市街の建設に当つて、その中央部に一大殿堂を建設し、これにモスコー一流商店の支店を出させ、勧商場として商業的発展の基礎たらしめんと計画したのであつたが、その漸く緒に就かんとする秋に至つて革命となり、遂に之を完成しなかつたのである。現在この博物館は、満洲文化研究会の所管で、商工部、人類学部、生物学部、医学部等の部門に分れ、東清鉄道建設当時から蒐集された貴重な満蒙関係の参考資料が網羅されてゐた。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、192頁

大陸科学院哈爾濱分院

「博物館は中央寺院のある広場(喇嘛台)に面して馬蹄形に建てられた白亜の建物である。中央の階段の上に黒い漆塗りの板に大きな金文字で「博物館」と書かれた扁額があがつてゐる。近寄ると張景恵筆と署名がはいつてゐる。〔……〕博物館の正しい呼名は大陸科学院哈爾濱分院である。これは元来1922年、中東鉄路建設25周年祝賀展覧会の出品物を基礎として東方文物研究会が組織され、その所属博物館として出発し、1928年に東省特別区文物研究会と改称、その後次第に経営に困難を生じ、満洲国成立後、北満特別区立文物研究所と改称して一脈の生気を保ち、ついで濱江省文物研究所に属し、康徳4年現在の名称となつたといふ慌しい歴史を持つてゐる。入口をはいると満人の番人が入場料を徴収する。壁面にはここから出版された研究報告書がガラスの額に入れて掲げてある。またそこは新聞などを簡単によめるやうな部屋になつてゐて、ロシア人の老人がゆつくりと哈爾濱で出てゐる露語新聞をよんでゐる。陳列室は階下4室、階上3室で、第一室は農業経済部、亜麻、蜂蜜、葡萄酒などの標本がでてゐる。第二室は林業で、北満自生の材用樹の標本がでてゐる。遊覧バスでやつてきた遊覧客の一行が風のやうにはいつてきて、案内嬢のせきたてるやうな説明を耳にしながら通りすぎる。1932年に松花江が氾濫した当時の写真が回転枠にいれて陳列してある。煙草の陳列棚にGold Bear といふのがでてゐる。外交漫画ではロシアは熊、イギリスは鯨といふことになつてゐるのを想起すると興味がある。山葡萄から葡萄酒がとれると書いてある。第三室は工藝陳列室で、ランプの陳列棚が興味をそそる。粗灯心と洋燈心はランプの燈心のこと。ガラスのホヤに草花の模様を描いたものがある。支那でできるガラス器を蒐めた陳列棚に、燈罩(ホヤ)が七種並んでゐる。ガラス壜が安物のため、いづれも緑色を帯びてゐる。ガラスとしては下品であるが、ローカル・カラアとしては美しい。ルーブル紙幣は長さ1尺位、幅3寸位もあつて目立つ。瓦と煉瓦はいづれも塼の部類にはいる。四角い瓦のやうな洋塼にはdark greenのもの、灰色のもの、少し赤紫がかつたものの3種がでてゐる。日本流の瓦は「灰瓦」と呼ぶらしい。第四室は大豆関係資料。1本の大豆の全体を、人間でいへば磔のやうな恰好にして示した標本が、ガラス張りの額にはいつてゐる。そして額縁に目盛りがしてあるから、地上に現はれた葉や幹の部分と、地下の根の部分との割合がよくわかる。それによると、根の一番さきから地面までが百センチメートルだから3尺3寸、地上の部分が80センチメートルで2尺6寸4分だから、合せて約6尺、横は150センチメートルで4尺9寸5分、人間が磔になつたよりは少し大きい。大豆でも、大豆と同じ荳科に属するクローバでも、その成育に必要な窒素部分を、主として根粒菌との共棲作用によつて得るもので、土壌中から直接吸収することがすくない。カモガヤ属(orchard grass)の根が浅く、紅クローバの根が深いのは農業教科書の入門知識で、紅クローバの根は螺旋形に地中にもぐりこんでゆくので、Tap-rootと呼ばれてゐる。紅クローバは地上に現はれてゐる部分に比較すると、根の部分が3倍乃至4倍だから、大豆よりももつと比例が大きいわけである。階上は土俗、考古、自然科学で、喇嘛廟文物のなかには小さい歓喜仏6体ある。デユツフイの描く人魚のやうな金属の彫刻もある。蒙古包の実物の横に、土製の等身大の蒙古人が立つてゐる。グロテスクである。陶器の等身像も同様。支那人の使用する便器がある。「手模禁止」と書かれてゐる。最後の部屋は自然科学部で、鳥類の標本が多い。1927年に呉督辮が贈つた雌雄の虎の剥製がある。」
春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940、269-272頁

哈爾濱における現地住民(満人)

道裡公園

「中央大街からちよつと左へ入ると道裡公園といふのがある。今は市の経営になつてゐるが昔は支那人の入園を禁じた時代もあつたといふ。露人等は支那人と肩を互して園内の散歩を潔しとしなかつたのである。彼等は如何に有色人種を軽蔑したかが分かる。〔……〕満人の紳士淑女が、散歩してゐた。婦人のベンチに腰掛けてゐる者には、往々にして行儀の悪いものがある。これは服装の関係から来るのであらう。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、28-29頁

満人の男女の散歩

「〔……〕市立苗園へ行つた。広さは49万平方米あるといふなかなか立派なものである。名は苗園であるが恰も公園の感じで、名も知らない綺麗な花も咲いてゐる。園丁が4,5人樹木の手入をしてゐた。その間を若い満人の男女が散歩してゐた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、43頁

満人との共同風呂

「夕食後風呂に入つた。この浴場は日本人の経営であるといふ 内部は東京のものと同じである。中央に浴槽があつて四方が流しになつてゐる。しかし入浴してゐる人達はいささか毛色を異にしてゐる。満人は勿論のこと露人もゐる又我々日本人も入つてゐるのだ。汗を流してえい気持ちになつた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、29頁

満人・露人も乗るバス

「バスに乗つて哈爾濱学院に向ふ。バス内は満人と露人とがほぼ同数で、日本人は私達だけであつたやうだ。内地の人でも満洲に永く居る人は満服を着てゐる人があるから私にはちよつとそれが見分け難い。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、30-31頁

満人住居

「私は満人の普通の住居を見たいと言つた。〔……〕何とかして此の際見学したいと思つた。T氏は暫く考へてゐたが〔……〕案内してくれた。一体、支那の人は朝寝床を離れて靴をはくと、晩寝るまでは靴を脱がない。どの房でも靴のまま行かれるのである。その点は我々日本人よりも西洋人に似てゐる。腰かけテーブル其の他いろいろの調度も皆土間にあるのである。ただ寝るところだけは西洋人のペットと異り、寧ろ日本の家屋のやうに床張りになつてゐる。勿論ゆかと言つて冬期オンドルを焼く関係上粘土のやうなもので出来てゐるのである。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、41-42頁

商売熱心な支那商人

「夜。満洲人経営の商店に飛び込み土産物を買ふ、筆談である。実に気持ち良い程親切である。十銭の商売にも熱心そのものでやる。日本の商人もこの熱心さがなくては駄目だとつくづく感じた。」
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933、26-27頁

日本人は満洲で商売に勝てない

「〔……〕商人としての日本人は満人の敵ではない〔……〕内地人の大商人で相当にやつてゐる者は、多くは官署に直接関係のあるものか或いは官署の後援あるものださうだ。さう言つたことは以前から私も話には聞いて居たが、今それを眼前に見せられたやうな気がした。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、42頁

満人の億万長者

[豊田]「ハルピンに十億を筆頭に億万長者が十人もゐるといふことは僕を驚かした。みな糧棧あがりの満人である。糧棧といふのは日本でいへば田舎によくある問屋で、百姓に金を貸し、物品を売り、その収穫を買ひ占める大商人である。日本人では林業で五百万を得た某がありだけである。彼らの手には遊資だけで二億円といふ話にもハルピンの真相をきくおもひがあつた。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、131-132頁

ハルビンの泥棒市場

「或日G君に誘そわれて行くともなく歩みを続けて居たら、とある市場の門に着いた。「先生そこは泥棒市場です」「盗んできた物をここで売る所です」「流石は満洲だなあ」と思ひながら中に入る。中折帽に背広の紳士が、つかつかと僕等の方にやつて来て、僕の前でぱつたり止る、ポケツトから何やら出したと思ふと蟇口の中からアレキサンダー(一名ウラルダイヤ)を二つ三つ取り出して僕の顔を見て何やらしやべり出した。勿論ロシア人である。僕には解らない、G君は露語が出来るので「先生安く負けるから買はんか」といふのです。僕「幾らか」といふたら、彼「二つで五円です」と答へた。僕は買ふ気もなかつたので、そぞろ歩きしたら附いて来て「一つ一円で負けるから皆買つて呉れ」といふのだ、そこで僕はG君に聞いて見たら「如何盗んで来たのでもあの品なら一円は安い」「そんなら買つた方がよいといふのか」「いや危ぶなくて買へないうつかりすると贋物を掴ませられる」といふので、とうとう買はずに来た。其市場にはあらゆる物を売つてゐる。殊に皮革品が一番眼についた。流石はシベリヤに近い北満の都だと思ふた。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、139-140頁

哈爾濱における商店

キタイスカヤの大商店

「わけてキタイスカヤ街(中央大街)はハルピンの銀座にあたる目抜きの街で、秋林商会支店、松浦商会を始め広壮なる百貨店櫛比し、特に街上を行き交ひ歩道のベンチに憩ひ語る無数の露西亜人の種々相が物珍しくも亦目まぐるしい。北満の空は朗らかに冴えてゐた。舗道を靴音軽く歩くロシア娘の美形には、何人も陶然と愛恋を感ぜずには居られないだらふ。近来頓に発達した新城大街は、キタイスカヤ街と並行し、満洲国人の大商店多く、将来キタイスカヤ街を凌駕せんとしてゐる」
杉山佐七『観て来た満鮮』日本商業教育会、1935、171-172頁

登喜和百貨店

「登喜和百貨店に入つた。日本人唯一の大店である。顧客も相当入つてゐた。ショップガールにはロシヤ婦人も居て愛嬌を振撒いてゐる。絵はがきとロシヤ煙草を買つてここを出て再び骨董店を見る。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、42-43頁

チューリン商会

「新市街のチューリン商会と、キタイスカヤ街の松浦商会は、ハルビン一流の百貨店だ。一は露人経営で、一は日本人経営で売り子は若きロシヤ娘である。チューリン商会の品物は豊富で安くサーヴィスもよい。だが松浦商会も、よくも露西亜人ばかりの多いキタイスカヤ街であれ丈に発展してる事は聊か意を強うする事が出来たが、二流所の商店になると、品も不足、値も高く質も悪い。殊に私の奇異に感じた事は、同一の日本品が、露人の店では安く邦人の店では高い事だ。此現象は、大連でも、北京でも、上海でも見られる事実である。かうなつて来ると、たとへ邦人の店でも高い物は買う気にならに。自然露人や、支那人の店に入る。而もサーヴィスがよい値切つても怒らぬ処か笑つてゐる。殊に支那人の店と来ては茶を呉れる、煙草吸はせる。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、140-141頁

松浦商会・秋林商会支店

「尚埠頭区はハルピンの商業的活動を覗ふ(ママ)ほかロシヤ気分を味ふにも恰好の街である。市街の展望をなすために松浦商会屋上の塔に立つた。眺むれば帝政ロシアの表象として今尚相当の信者を有する希臘正教中央寺院・猶太教寺院・回々教寺院の大空にそそりたつ尖塔、其他建設中のソフイスカヤ寺院のドーム・松花江の水光・樹に埋もれた町の眺めがこよなく美しい。僕は秋林商会支店に入り、ロシア毛布を買はうとしたが値段が余り高過ぎるので、支那毛布を買つた。その時の満洲人の店員は、嘗て東京に永らく居たといふので日本語は至つて上手で愛嬌よく僕をもてなした。次に井の子宝石店へ行き、安い宝石類を2,30箇を土産に買ひ集めた。次に露西亜人の経営の商会に行つて毛皮を買はうとした。この商会の店員も、東京に居たといふのでブロークンではあるが日本語を話すことが出来た。」
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935、172-173頁

松浦商店の売り子は美しいロシア娘

「毛皮や宝石類は廉価との話である。露人経営の秋林、日本人経営の松浦等が有名である。松浦の売子は殆ど全部露西亜の麗しき若き女性である。」
宝蔵寺久雄『海鼠は祈る:満洲旅行記』、新知社、1933、204頁

キタイスカヤ街で買い物&露西亜料理

「十一時頃会議所を辞去した一同は、此れからお昼迄自由行動をとつてお土産でも買ひに行く事にし、十二時にモデルンホテルの前の露西亜料理店へ集る事にした。実は今日の昼飯は、露西亜料理をおごれ、と云ふ団員諸君からの注文で、ビユロー氏に依頼してその準備がしてあつたのである。私は別に土産物の心配などして居なかつたのであるが、此処は毛皮類が安いと聞いて居たので、手頃なものがあつたら娘に買つてやるかなと云ふ気になつたので、ビユロー氏に確実な店へ案内を頼んだ。私の外にも毛皮の掘出物を手に入れたい野心家が数名行を共にし、〔……〕間もなく我々は、かなり大きい露西亜人の毛皮商へ案内され、色々な毛皮の陳列を一通り眺めて、帰りの税関を気にしながら、二、三銀狐の襟巻を買ひ求める事にした。随分思切つて値切もしたが、確かに安い。内地の三分の一、或いは四分の一かも知れないと思つた。他の連中も夫々気に入つた品を買い求めて一緒にホテルへ届けさせ、目指す露西亜料理店へ入つたのが丁度十二時過ぎ、団員の諸君も一名の行方不明者を除く外、時間通りに集まつたし、料理の支度も整つて居たので、早速始める事にした。真赤なルージユをつけた露西亜娘が二人、純白のユニホーム姿も美しく、無言のサービスをして呉れた。〔……〕店を出て前に停つて居るバスへ一同が乗る迄の一寸の間に、店口でさつき我々にサービスをした二人の露西亜娘を左右に、仲善く写真を撮つてゐる素早い者も居た。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、188-190頁

傅家甸

哈爾濱に形成された満人街

「傅家甸、純然たる満洲人の町で人口は18万、ハルピン市の三分の一強を占めてゐる。その繁華なること全満第一と称せられ、あらゆる享楽機関、暗黒街もまた此処にある。その繁華なること全満第一と称せられ、あらゆる享楽機関、暗黒街もまた此処にある。その文化は厳密に云へば純粋の満洲文化でなく、直接に上海の影響を受けて居り、随って欧風化したところがあるといはれてゐる。傅家甸の代表的繁華街は西陽街である。電車が通るでなく、又バス、ハイヤーが目まぐるしく通るわけでなく、ただ人の波である〔……〕建ち並ぶ商家、店舗に並べてある品物或いは各戸に掲げてある看板の色彩、眼に入るもの一として私を喜ばせないものはない。夕食を喫す。一人前二円、御馳走の豊富なこと、とても我々には食べ切れない。室内の装飾又善美、食後町を散歩した。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、38頁

純満人街

露西亜時代の専政は、満人を鉄道附属地内に住居せしめなかった為め、満人は「傅家甸」と称する一角に群居した。従つて傅家甸は純満人街として発達し、其他の市街地は満人以外の各国人により今日の発展を来した。今日哈爾濱に於ける経済は、満人の傅家甸と日露人の商埠地とによりて代表され、双方それぞれの特徴をもつて殷盛を極めてゐる」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、104頁

傅家甸の支那市街 支那芝居(大劇院)、阿片荘

「〔……〕四名のパーチーを作りて外出仕り候、シボレーの新乗をドライヴして先づ傅家甸の支那市街を見学仕り候、此処は有名なる支那街店のある所にして、大廈高楼を並べ人馬の往来絡繹として引きもきらず、奇声を以て客を引く等、騒々しく見受け申し候。
 支那街のさんざぞよめきむし暑さ
 次いで車を飛ばせて支那の芝居、即ち大劇院を見学仕り候、支那芝居の表看板は日本劇場と差して異ならざれ共、内部は多数のテーブルを作り、飲食を盛んになし居ることにて、劇は極めて小物計り〔……〕而し観客は面白さうに私語しつつ熱心に観劇いたし居り候、満洲国軍人の多く入り居り候には一驚を喫し申候。
 軍人の見物多し支那芝居
 再び車上の上となり、支那街の阿片荘に一寸立ち寄り申し候、往時はこの所にて婦女を入れて盛に風規を害し居りたるも今は之れを禁ぜんと熱心に努力いたし居る由なるも、多年の因襲は一朝にして改良せらるべしとも相見えず候。
 悩ましき夏の夕や阿片荘」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、78-79頁

支那人自ら建設した代表的欧風都市

「〔……〕「傅家甸」の方へ急いだ。茲は旧東支附属地外に隣接する浜江県庁の所在地で、ハルピンの発達に随伴して僅々30年間に、今日の隆盛を致した満洲国人街で、往年附属地内居住を許されなかつた支那人が悉くここに居住したので、純然たる支那街として発達を遂げたる街である。もとよりこの地は初め傅なるものの一旅舎が附近漁戸の聚楽場となりしに端を発し、茲に地名の濫觴をなしたと伝えられてゐる。頭道街から二十道街まで伸びた実に大きな街で、足一度此処に至れば乾坤一変、殊に縦の主道正陽街を中心とした車馬の覆奏には何人も吃驚する処、中央停車場よりの電車も通じ、支那人自ら建設した代表的欧風都市として中国上海に次ぐの都市、又将来北満宝庫の集散を支配する中心地として一顧に値する処である。朱色に塗り立てられた支那特有の看板、濃艶な彩旗、暖簾に記された大文字、極度の支那気分が横溢してゐる。袖長な支那人の群衆が右往左往し、穢ない人力車、馬車がホウホウと大きな奇声をあげつつ目まぐるしく走つてゐる。実に支那人は金銭欲の為には、何物を犠牲に供して憚らない。故に利益になることなれば、何時何処でも這入りこむ遅疑せざる人種である。この傅家甸も或る意味に於ては露国は支那人の為めに侵入されてしまつて、今日繁盛を来たしたものと見てよい。」
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935、172-173頁

繁昌ぶりと市街美は又格別

「〔……〕フーヂヤテンは〔……〕支那人の商業区で、ここの繁昌ぶりと市街美は又格別、満洲では奉天を除いては他で見られない〔……〕革命後、ロシヤの勢力が衰へるに乗じて利権を回復、同時に続々乗込んで来て、築きあげたのは今のフーヂヤテンである。で、ハルピンは日満露が三巴をなつて経済戦をやつてゐる北満の大市場だ。」
石倉惣吉 『新天地を行く:満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、64頁

埠頭区を凌ぐ殷賑

「当時新市街や埠頭区には支那人、満人等の居住を許されなかつたので満人は市街の外に集つて住む様になつた。これが今では傅家甸と云ふ満洲人街となり、埠頭区を凌ぐ殷賑を見せてゐる。」
阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』日満自動車界社、1943、116頁

近代的な海港的国際性区域

「傅家甸はロシアが哈爾濱の鉄道附属地内に支那人を入れなかつた関係から、キタイスカヤ街などのあるフリスタン(埠頭区)の東に接して純然たる満人街として発展したもので、過去30年間に30万の住民を集め、哈爾濱の全人口の三分の二を占めてゐる。傅家甸の雰囲気には、奉天の城内や北京とはどこかにちがつたところがある。城壁がなく、封建的な宮殿や寺や歴史建築物などのないのもその一つの特色だが、それよりも、もつと近代的な雰囲気で独自のものを持つてゐて、海港的な国際性が感じられる。案内記を見ると上海の文化を其儘とりいれたと記されてゐるが、その批評は感覚的にもかなり正確である。私の見た範囲では天津がやはりさういふタイプの海港的国際性を持つてゐた。」
春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940、241頁

キタイスカヤ街・喫茶店・レストラン

女性から見たアメリカンバーのロシア少女

「夜、アメリカンバーにゆき、露西亜料理を食す。奉天のに較べて美味なりしが、価も驚くほど高かりき。二十歳ばかりの露西亜少女あり。巧なる日本語にて、客と給仕との間の通訳をなす。客すくなかりしかば、我等の卓に来ていろいろ物語りす。」
岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会、1938、56頁

ロシア人経営レストラン

「夕食にはロシヤ人経営のレストランに入る。ロシヤ娘の給仕が足のさばきも軽やかに片言まじりの日本語でサービスに出る所まことに愛らしい。」
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941、39-40頁

キタイスカヤ街の散歩とロシア女

ビユロー氏の案内で、キタイスカヤ街附近の賑やかな通りをぶらぶらと散歩がてら歩いてみた。ハルピンは流石此れ迄の都市と違つて、かうして街を歩いて見ると、その家の様子と言い、店舗の構と言い、すつかり異国じみて見え、殊に此の土地は露西亜人が多い関係上、始めの内は非常に目立つて、街を行く人々が皆露西亜人ばかりの様に思はれ、何んとなく満洲の一角に居ると云ふ気持ちからはおおよそ縁遠いものを感じた。露西亜人は散歩好きだと言ふ事だが、見うけるところ全く行人の大部分は露西亜人の様だ。ハルピンへ来ると最初露西亜人の多いのが目立つが、中でも注目を引くのは若い露西亜娘である。冬籠りを過ぎて春らしい一時を楽しみ、五月の声を聞く頃には既に夏の匂がする此処らでは、かなり強い光線を見に受けて純白の服もすがすがしげに、金髪を風に波立たせ乍ら颯爽と舗道を闊歩する露西亜娘の美しい容姿には、溌剌たる魅力がある。今日は日曜日だからであらうと思ふが、別に用向きのありさうに見えない若い娘達や、ノーハツトの若者等の姿が多く、或は又子供連れの夫婦らしい幾組かを見うけた。
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、188-190頁

茶店と白系露人

「哈爾濱には沢山の白系露人がゐる。自動車の運転士、ホテルのボーイや掃除夫、食堂や喫茶店の女給など沢山働いてゐる。〔……〕私はキタイスカヤといふ、東京なら銀座とふ目抜の通りの、某喫茶店で、ロシア式のおいしいサンドウヰツチとコーヒーを御馳走になつた。お客は日本人と白系露人ばかりで、給仕女は美しい白系露人の娘であつた。一般に白系露人は満洲事変以来、日本人のお陰で初めて保護を受け、ほんとに安心して住ふことが出来るやうになつたのであるから、日本人を心から尊敬し、日本語を盛んに勉強するさうである。その結果言語の通ずるところから次第に意志も通じて、日本人と結婚する娘も沢山出来、喫茶店で働く美しい金髪娘と、ローマンスを演ずる日本青年もちよいちよいあるさうである。喫茶店を出やうとすると、戸の外に赤髭さんが立つてゐて、戸を開けてくれる。そして手を出して錢を乞ふ。十銭掌に載せてやると丁寧に礼をする。これも白系露人である。」
村野貞朗編『大陸みやけ話』自費出版、1940、32頁

茶店・観光バス等におけるロシア人消費

「4時頃お茶の時間にキタイスカヤにあるビクトリヤとかマルス店にゆけば外人でいっぱいで特に婦人客のスタイルはなかなかしやれたのがみられる〔……〕当市も観光バスが駅前から出発してゐるがこのバスには日本人の案内娘とロシヤ人の案内娘とが乗つてゐて特にロシヤ人街になるとロシヤ娘の説明が始まる。」
寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、1944、20-21頁

露人経営レストラン「マルス

「露人を中心として発展したキタイスカヤの商店街は〔……〕デパートあり、ホテルあり、カフエーあり、哈爾濱銀座の称が雄弁に此処の風景を語つてゐる。我々は何しろ寒い、熱い飲み物を求めて露人経営のレストラン「マルス」なる象の扉を排した。銀座で云へば資生堂の辺りの格か、馴れぬ者には気の張らぬ手頃な休憩所である。先づ熱いコーヒーを喫して漸く人心づくのであつた。店内の設備も資生堂程度だが、何より眼につくのは給仕の露西亜娘である。あの特徴のある淋しい眼、冷たく尖つた鼻、然し非常に清楚な感じの娘達が、腕も露はな純白な装いで客間を斡旋するのである。何処かの領事館員らしい一団が談笑してゐる傍らには、UP辺りの特派記者らしい鼻眼鏡が紅茶一杯でネバツてゐる。向ふのボツクスには有閑マダムらしき露国婦人の一団がゐるかと思へば、その後ろに丸髷の日本婦人が朗らかに語つてゐる。まさに国際人種展である。」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、106-107頁

哈爾賓でダンス

[豊田]「〔……〕昼も夜もキタイスカヤにいりびたりだつた。昼はマルスといふコーヒー店で料理や菓子を食つてばかりゐたし、三人ともかつてのダンス狂なので夜はフロリダやアトランチツクで踊つてばかりゐた。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、130頁

哈爾濱の歓楽郷

歓楽郷風景

観光資源として一般化されているロシア人歓楽郷

「「哈爾濱ノ観光」といふ観光協会発行のパンフレットには、盛り場、花柳界の項目があつて、キヤバレや露人妓館のことが記してあるし、「踊り・踊子二人の場合は16円、一人を増す毎に6円増、踊りの時間は約20分で、見物人は何人でも差支へなし」と値段が明記してある。〔……〕哈爾濱まで行つて、かうした場所にゆかないで帰る人間はまづないといふのが、苦笑すべき事実であり〔……〕いはば外国人が日本のフヂヤマとゲイシヤ・ガールを見ないでは帰れないやうな風に、一般化、観光物化されてゐるといつたらいいと思ふ。〔……〕それが頽廃的であるとか、非時局的であるとかいふ意味を別として、哈爾濱といふ都会の生きた生理として、独特のあくどい呼吸をしてゐる。そしてそれがまた満洲国の過去から現在にいたる地域的、殖民地的、文化的、人種的な系譜を物語つて居り、ある観方からすれば旅行者の見落としてはならない現地機構の一つとなつてゐる。」
春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940、213-214頁

キャバレーに行きたがる小学校校長の哈爾濱視察

[新田]「いつか私は呆れましたよ。小学校長の視察団が来た時ですが、私は伊藤公の銅像の前に案内したんです。するとどうですか、その中の一人が私にトロイカはどこですかなんて訊くじゃあありませんか。私はただ呆れて返事もしませんでしたな。伊藤公の銅像の前ですよ。而も小学校長だなんていふ人が―」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、117-118頁

キャバレー描写

「キヤバレーに入った。キヤバレーといふのはロシヤ独特のものださうだ。ダンスホールに似てダンスホールでない。料亭のやうであつて料亭でもない。つまりダンスホールと料亭とを一緒にしたやうなものである。一方にステージがあつて三方はテーブルと椅子とがある。ステージの催し物を見ながらロシヤ料理を食べるといふ式である。又ダンサーがゐて、ステージから送られる音楽につれて踊るのである。其の終始は電燈の明度によつて別れる。踊つては食べ、飲んでは踊るのである。ハルピンにはキヤバレーが7,8軒あるさうだがステージを有つてゐるのは僅かに2軒で、私の入つた家は一流どころださうだ。ダンサーは10人ほどゐた。満人らしい女が二人であとは皆ロシヤ娘である。ここに来てゐる客は大抵ロシヤ人のやうだが、私の右方の隅に居た頭髪の黒い一団は満人ででもあつたか。皆踊つては飲み、飲んでは踊つてゐた。彼ロシヤ娘は愛嬌よく私達にも「おどりませんか」と言つた。勿論、私にはそんな器用なことは出来ない。斯ふいふところであるから飲食するからと言つて普通の料亭より高価なことは勿論である。たしかビール1本1円25銭だと思つた。他はこれに準ずるといふわけである。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、44-45頁

ロシア人女性の悲哀

ロシア革命と白系露人

「〔……〕或るレストランの地下室に入つた。二、三の先客があつてウオツカかウヰスキーか知らないが、盛んにメートルを挙げてゐる。僕等はコーヒーを注文した。4,5人のダンサーが居た。間もなく、白系露人のジヤズの音が部屋の片隅から響びくとやがて2人の肉付きのよいダンサーが、前に出て踊る。私は斯うした場面を生れて始めて見た〔……〕彼等は何れも白系露人で聞くもあはれな天涯の孤児で、ハルビンは実に彼女等の生命の最後の線となる事がわかつた。彼女等の父には公爵も居た、伯爵も居た、何々元帥とか何々将軍とか何々大使とか帝政時代の高貴な人々が沢山居つた。従つて彼女等はそれ等の娘か妹かである。それがボリシエヴイキの革命の為め白系なるが故に家を奪はれ財を捨て国を追はれてシベリヤへ放浪の旅をつづけ流れ流れて北満の都ハルビンに落ちついたのだ。命丈は助かつたけれ共生きていくべく余りに弱かつた。一歩外へ出れば過激派の迫害があり、支那官憲の圧迫が来る。そこに彼女等は生きんが為めの享楽生活に身を落して自ら慰めるより外に道がなかつた。それがハルビンをして東洋の巴里とし、エロとグロの国際都市たらしめたのである。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、136頁

キヤバレーにおけるロシア人女性

〔……〕露人街に出でて有名な歓楽郷、露人のキャバレーを覗く。頗る広壮な建物でルームも広く天井も高く、非常に感じがいい。十数名から成る大バンドが引切りなしに賑かなジャズを奏してゐる、正面のホームにはロシヤ娘の美しいダンス、独唱が次々に演出される。客席には幾十の卓子が並んで早や客は一つぱい、側に控へたロシヤの小娘を手招くと、すぐ卓子に付いてサービスをやる。若人たちはビールの満を引いてロシヤ娘と深夜迄踊り続ける。〔……〕一寸他所で見られぬ華やかな風景を演出してゐる。若い人達には誘惑の多いハルピンではある。」
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941、40頁

ハルビンに行つたらキヤバレーを見る事だ」

「私は上海や天津、香港等で多くの外国婦人を見たけれ共、ハルビンの白系露人程の美しさに優るものは一人もなかつた。スヰートな曲線美、透き徹るやうな皮膚、白皙豊満な美貌、さては国なき家亡き亡国の民、薄命の佳人が如何に多い事か。夜毎夜毎にホテルやレストラン又はバーに現はれ、ベーヴメントの上や、薄暗い街燈の下に現はれて媚を売る又売らねばならぬさすらひの民を憐れまずには居られない。私は最後に彼女等のどん底生活を一瞥したい。「ハルビンに行つたらキヤバレーを見る事だ」と或本に書いてあつた。そして、満洲から帰つたら友人から「君ハルビンの裸踊りはどうであつた」といはれる程、それはハルビンの名物となつてゐる。だから私もハルビンに於けるプロの中に入れて置いた。埠頭区電車通り北満ホテルのキヤバレーは最も大きい蝶々の羽のやうな服を着たロシヤ女が30人も居る。お酒の相手もすれば、ダンスの相手もやる、ステージもあつてジヤズの音も響く。ソプラノの独唱も始まる。斯ういへば読者は想像つく事であらう。踊る、飲む、唄ふ、煙草の煙が上る、だが、それ等は皆んなはなればなれで、ジヤズはジヤズ丈でひびく、踊りは踊りだけ、酒は酒、煙草は烟丈といふ、調和のとれない何といふガサガサであらう。裸踊りをするバーは埠頭区のここかしこに散在してゐる。芝居や活動のはねた11時過ぎになると、彼女等の魔手はバーの地下室に延びる。其部屋といへば薄暗い中に醜悪極まる絵画を以て充たされてゐる。そこで共に飲み食ひ、唄ひ且つ踊り楽しむ、それは皆んなパンと着物の為めであると思ふと憐れなものだ。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、136-137頁

満洲人もロシア女を消費する

「視察遊覧のため来た人々は、此の辺のエロ気分を味はねば大変な損をした様に思ふ。かたがた何処のどいつも毎晩の景気は大したもので、女給女中風情のものも一晩六・七円の収入は少ない方であるといふ事だ。日本は昔から女ならでは夜のあけぬ国とはいふが、どうやらハルピンの方が本場らしい。花柳界にはロシヤの女も居れば混血児もあり、朝鮮の娘も日本人もゐる。ロシヤの女はビール樽のやうなのが普通だが、ナンバーワンはさすがに楚々たるスタイルでトルストイのカチユーシヤは至る所にゐる、殊に満洲人は細腰を好むさうで、満洲人に向くやうなロシア女を揃えてゐる、ダンサーに至つては商売柄すべてハオカン(きれい)である。之等のダンサーは金さへ与えればなんでもやる。丸裸のダンス、即ちハルピン名物のハダカ踊はあまりにも有名である。朝鮮の娘は日本語で日本髪で日本のキモノで、内地人の御機嫌を伺う、ロシヤの娘は断髪、洋装、言葉はロシヤ、満洲、日本の三国語を使ひ分ける所を見ると、三国の人の玩具物になつてゐるらしい。」
石倉惣吉 『新天地を行く:満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、66-67頁

白系露人への憐憫の情

「〔……〕夜分だけホテルのボーダーに案内されて夜のハルピンを見る。国際都市だけにハルピンの夜は銀座や道頓堀に見る事の出来ない廃頽的な処が多分にある。何処へ行つてもロシヤ娘が真紅に口紅をつけ、濃い白粉の厚化粧をして、型のよいオーバーで歩いてゐる。日本人の僕達には大抵一寸愛嬌を振りまいて行く、ハルピンのロシヤ人は其の8割は白系ロシヤ人で何処の国からも享けない、淋しい人達だと聴かされた。国の美しい人、僕には何となく親しめて来た。抱きしめてやり度い様な感じが胸を衝く。」
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933、18-19頁

哈爾濱におけるキャバレーの具体的な店舗

哈爾濱の妓楼の格付けと紹介

「僕のまつさきにいつたのは一流のフアンタージであるが、ステージでおどる芸人も、こんな美しい天女のやうな姿をしながら淫売をするのかと思ふとこちらをおじけつけさせるやうな球が多い。二流のソンツエは中央寺院の近所にあり、日本人の経営で、大丸髷にゆつた女将がキヤバレーの入口にたつて踊子のやうすをみはりしてゐる。支那人の芸者が毎夜のやうに現れて、楊貴妃のやうな衣をひきずつて踊りまはる。四流、五流のタベルナ、ホリウツドにいたつては、まるでこの世の光景とは思はれない陰惨な朝の光線が街上から地下室へ洩れてくる中で―まつたくキャバレーの中の光は暗く―その中でズロスと乳かくしだけで踊り子たちは踊つてゐるのだ。あるひはおどつてゐるのではなく、ゆるせない心と絶望の虚無にもがいてゐるのかもしれない。フアンダージや、タベルナのキヤバレーの交錯するサオウズカヤ街の電車交叉点あたりには、ロシヤ革命当時に買つたままらしいフオード自動車のガタガタ群が、乞食の雲集と共にキヤバレーから出てくる客を待ち伏せてゐる。キヤバレーの女は三円か四円で嬉々として客の枕席にはべる。あやしげな日本語で「ワタシ、日本人だいすき……ネエ、あなた、よくあそびませう。」とくるからまるで尋常一年生たはむれてゐるやうなものだ。ハルピン名物の一つである裸おどり「リツア」は、一糸もまとはぬ女があらゆる技巧をつくしてのエロ・ダンスをしてみせるのだ。素裸の女、二人がからむやうに、もつれるやうに組み合つては、はなれ、はなれてはまたからみつくのをみてゐると妙に血液の循環が、はげしくなる。しかし「リツア」はハルピンのほんの門にしかすぎない。リツアを語り、これを吹聴する人は一日か二日のの滞在客であるそうな。グレタ・ガルビやマリイレヌ・デイトリツのやうな素人娘の生活に困つてゐるのをピツク・アツプして、次から次へと世界最高の美の陶酔を、ホンの僅かの金で享楽できるのだからハルピンはとてもはなせる。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、106-107頁

日本人女性旅行者もキャバレーファンタジヤへ行く① 岩崎晴子

「ホテル附属の小劇場にて、メトロポリタンと題する映画を見、田村氏の案内にて、キヤバレー・フワンタヂヤにゆく。造花もて飾りし室に、いくつもの卓設けあり。七八人の踊子、人待顔に椅子に寄れり。楽土は絶えず音楽をかなで、興に乗じ卓の間を手を組みて踊る人々もあり。更くるにつれ、独唱、ダンスなどの余興、舞台の上にて始めらる、ジプシーダンスよかりき
 ジプシーの踊子いろは黒けれどそのつぶら瞳に情熱はもゆ
 ルージュ濃き唇もるるほほゑみのあてにやさしき露西亜のをとめ
 楽の音のゆるら流れて華やかにはた悩ましきキヤバレーの夜 」
岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会、1938、58-59頁
 

日本人女性旅行者もキャバレーファンタジヤへ行く② 鷲尾よし子

「ハルピン秋田支社は設立、皆様で祝盃を挙げて下さつた。十時散会したが—面白いのはそれからだつた。散会後、御機嫌さんになつた田森慧さんが、「奥さん行きませう」と私と板倉さんを誘つて、とにかく自動車に乗せた。ロシヤ人の運転手さんにロシア語で何か言つてゐたが、かなり走つてとある高台の大きなロシヤ風の建物の前で止つた。自動車が沢山並んでゐる。大兵肥満の中年ロシヤ人が案内する。コートや持物を受付に預ける。通されたのは夢の国、これなんハルピン名物のキヤバレーである。ヘツアルスカヤのフアンタシヤである。舞台には、ロシヤ少女が踊つてゐた。左手にはバンドがお祭りのおはやしのやうにはづんでゐた。お客達は各々卓を囲んで五色の酒をのみ乍ら見物するのである。舞台がダアクチエンジになるとお客達がすべるやうに出て行つて踊る。お酌をさせてゐたサービスガールと踊るのもあり、伴れのレデーと踊るのもある。日本婦人はあまり出ない。ロシヤ少女、満人少女、朝鮮少女が色とりどりにウインクを送る。男たるもの、豈にそれ—ならざるを得んやである。サービスガールが一列に休んでゐるのを指ざして、「奥さんどれを呼びませうか」と田森さんがいふ。「おとなしさうなのがいい」と板倉さんが云つた。おとなしさうなのとオキヤンらしいのを呼んで、田森さんがロシヤ語で何かいふと、「アイキヤンスピークイングリツシユ」とか何とか云つた。「奥さん話して御覧なさい」と私に押しつけたが、私は笑つてビールをついでやつた。あどけない可愛い金髪少女が美事な飲みつぷりである。「私はこの奥さん好き」といふ。「私も貴女が好き」と言つたら「オー嬉しい」と、とてもきれいな声で笑つた。田森さんが「これはマイ・マザア」といふと、「チガフチガフ」と日本語で云つて、「この奥さん若くて美しい。貴君のお母様でない」と表情をこしらへて私に「シヤルビー」と笑つた。私がうなづくと手をたたいて嬉しがる。「日本好き?東京ギンザへ行かない?」といふと「日本大好き、奥様となら行きませう」といふ。そして「ウレチユイウレチユイ」と、大げさに日本語で叫んでコツプを空ける。ビールが次から次へ空になる。二人ともよく飲む。国粋主義者の板倉さんが、「この髪なんだ」とちぢれた金髪にさはつたら、彼女は両手で頭をふさぎ、「この人嫌ひ、奥さんこの人ゼントルマンでない」と英語でささやく。舞台ではハンガリーダンスの、ピラミツト・グランテレビーユーだのが進行し、暗くなつてはお客がをどるので、お客さんはいい加減眼がとろんとなり、足もつかれて来るらしい。」
鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941、152-154頁

ファンタジヤにおける肉付きのよいロシア娘による裸踊り

「午後11時、士官街のキヤバレー、フワンタジヤへ物産の吉田氏と自動車を乗り着ける。此処はハルピン第一等のキヤバレーで、もうロシヤの踊子達は向つて右の片隅に陣取つてゐる。美しく化粧した顔、整つた服装、ハルピンのみが持つ夜の歓楽郷である。日本人も綿紗の羽織を着た女や、羽織をせず丸帯をきちんと締め、髪も奥様風に奇麗にウエーヴした女を連れて這入つて来る。テーブルと椅子はホールをぐるりと取りまいて配置よく並べてある、肥つたロシヤの楽手達が、いやに音の高いヴアイオリンを弾き出すとそれにつれてジヤズが一斉に始まる。ホール一帯に投げてゐる艶めかしい照明の光が明滅してダンスの始まるのは内地と変りはないが、日本人とロシヤ娘、ロシヤ人と日本人の奥様風の女とがステツプを踏む処に異国情緒が湧き起る。二度続けてジヤズが済むと次にステージでレビユーがあるのだ。内地で見る宝塚や松竹のレビユーの様な規模の壮大は勿論ないが、日本人の様な体格でなく、ほんとにガツチリした肉付きのいいロシヤ娘が全裸に等しい姿態をくねらせて舞ふのだから全く見事なものと云はざるを得ない。斯うして夜2時頃までは日本人も引続き踊つてゐるが順次自動車で帰つてゆき、入り替りロシヤ人がゾロゾロ這入つて来る。彼等は朝の5時頃までも踊りぬく、そして如何なるハルピンのロシヤ商人の店舗でも正午より午後2時までは必ず年中昼寝の習慣になつて居り其の間の取引は絶対お休みであるのも其の為めなのだとは何と驚くではないか。」
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933、28-29頁

ホテル・モデルン

「キタヤスカヤの中央に聳ゆるホテル、モデルンの回転ドーアをギーンと押して入つてみたまい。すつきりとした夜会服に身をつつんだ巴里のカルチエ・ラタン製のシヨールをほつそりとした肩に垂れて、グレタ・ガルボのやうな瞳をした女に、何人となくあふことが出来る。〔……〕交渉はただちに成立するのだ。そして地下室のキヤバレーに姿をあらはす二人だ。強烈なウオツカをあほり、髪をふりみだして陽気にさはぐ彼女は、おしまいに泣きじやくりながら—私を貴方の自由にしておくれ。そのかはり私に60弗を出して下さい……。とこびるやうにたのみこむのである。どんなきれいな女でも20弗(日本金の8円)を最高としてこの市場は取引される。またハルビンならではみられぬ「恋仲媒介舞踏場」がある。接吻をしながら踊るといふのだ。壁に裸体画をかきこんで、そばには不調にも寝台代わりのソフアが横たはり、電気を青い床にまで垂れる布で包んで、人魂を想像させるやうな薄気味の悪いスペシヤル・ルーム―そこで恋人がほしかつたら……といふことになるワケ。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、108-109頁

裸踊り

ハルビンの裸踊り

「国際都市哈爾濱の名は、一面放縦淫靡な別世界として余りにも有名である。それは北国の長い冬籠りから強いられる倦怠と、憂鬱とから遁れようとする耐へ難なの(ママ)享楽と、堰き止め難き本能の欲求とから来る一つの地方色であるかもしれない〔……〕今でもキヤバレーと裸踊りは見られるのである。先程から物足らぬ顔のM君は、腹を充すとソロソロ持ち前の猟奇癖を出して来る〔……〕居ぎたなくソフアに倚つてゐた4,5人の金髪女が、慌てて次の間に隠れると、入れ替わつて薄汚ない老婆が現れた。お伽噺にある魔法使いの婆のように垂れ下がつた鼻、狡猾そうな眼、多分遣手婆の役目か、我々へあいそ笑ひをしながら誰におどらせやうかと聞くのである。料金を15円呉れと云ふ、最早成行任せである。と、今度は別に75銭出せと云ふ、これは遊興税だと云ふ。これで「秘密」なんだと云ふから滑稽である。やがて一隅にある蓄音機の音に連れて、現はれた全裸の女二人が、靴下も履かぬ全くの裸足で足を上げ、手を振つて踊るのである。ロシア娘と云ふが、哈爾濱にはスラブは少ないさうだ、帝政時代の貴族の娘がゐると云ふが、此女達は、齢は22,3位、土耳古系か高架索の系統でもあらうか、1人は黒髪、1人は鳶色の、素晴らしく豊富な毛である。酒と夜更かしに見るから荒み切つた皮膚、だらけた筋肉、動く度びにブヨブヨと揺れる乳房、それを一隅のソフアに倚つて我々は見るのである。余りにも野獣的であり、寧ろ人生に対する冒涜さへ感ずるではないか〔……〕」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、108-110頁

ビユーローも案内する裸踊り

「哈爾濱がエロの都であることは余りにも有名である。哈爾濱の視察といへば何をおいても、先づ裸ダンスと○○の実演と相場が極まつてゐる〔……〕ビユーローのガイドも必ず之へは案内する、現に僕等もその案内によつて之を観たものである〔……〕「百人よれば日本人は風呂屋を造る、支那人は娼楼をつくる、露西亜人は教会堂を造る」とは一般に唱へられてゐることだが、之に拠ると日本人は先づ清潔を希ひ、支那人はエロを欲求し、露人は先づ宗教を思ふとの意味で、それぞれ国民性の一端を言ひ現はしたる店はあるが、助平豈に独り支那人のみならんやで、日本人も此の点、さほど人後に落ちないであらふ、ハルビンが国際都市として40万人を僅日内に聚め、今日の殷賑を示せしはエロの都たる宣伝も與つて力ありしと思ふ」
東海商工会議所聯合会満鮮視察団編『鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936、69-70頁

哈爾濱に到着して即裸踊りを見る為に張り切る視察団

「〔……〕「あじあ」は全コースを爆走し終わって、勢よくハルピン駅へゴールインした。大分旅の疲れを覚えて来た一行も、俄然眠気を吹き飛ばして、張り切つた姿でホームへ下り立つた。いきなり俄然張り切つては、一寸変に考へられるかも知れないが、それには又訳のある事が後で判る。〔……〕目的は言はずと知れたハルピン夜話の昔をしのぶ、異国情緒の猟奇を求めて、話に聞く露西亜娘の裸体踊の見学だ。それでこそ、ハルピン到着と同時に、団員諸君が俄然緊張感を示したのである。我々の自動車は、何処をどうして走つたのか、行燈の光がボンヤリ舗道を照らして居る広い石畳道路を曲り廻つて、とある一軒の住宅風な二階建ての門前で止つた。門前は小さな伝統が至極簡単な門の上に一つボンヤリ光つて居るだけ、窓から洩れる明りも極かすかで、一寸寝静まつた家の様だ。自動車の停つた音で、家の中からドアーを開けて丸々とよく肥へたビール樽の如き一人の露西亜婦人が姿を現し、愛嬌よく一同を招じ入れる。内部は煌々たる電燈の光に……………うつかり書き過ぎると責任問題となるから此処らで割愛させて頂く事にする。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、184-186頁