雑録

【草稿】満洲国の観光 第4章「観光から見る満洲国哈爾濱市」

                     

1.序論

1-1.問題意識

 満洲国は国務院弘報処に観光委員会を設置し、満鉄やJTBなど従来の組織から人材を求めて満洲観光連盟を結成し、観光政策を行った。満鉄やJTB、各都市の観光協会により観光案内やパンフレットが作られ、満洲国のイメージが形成されていった。旅行者や観光客はそれらの情報から満洲国イメージを消費する一方で、自らが満洲国を訪れて眺めた都市の景観を旅行記や紀行文に記していった。よって旅行記・紀行文を分析することで、観光機関側が提示しようとした満洲国像と実際に満洲国を訪問した人々の視点で映し出された満洲国の様相を明らかにできるであろう。今回は満洲国哈爾濱を取り上げる。

1-2.先行研究

満洲旅行の機能を4つに類型化し、満洲観光の政治性を強調

・ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版、2010年)
満洲旅行の機能を4つに分類。一つ目の「戦跡」の機能は「満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方」を具現化したものだとする。二つ目の「近代化」の機能は、「後進地域に近代化をもたらした日本の役割」を強調。三つ目の「現地住民の後進性」の機能は、日本が満洲に恩恵をもたらした存在であったことを示す。四番目の機能は「アジアの先導者」であり、「日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めてい」たとする。

②観光バスによる「楽土」的都市空間と帝国のファンタジーの創出を挙げ、観光の権力性を指摘

・高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、pp.215-253)
満洲諸都市の日本語の観光バスを題材に、内地客/在満邦人/ネイティヴ三者が交錯する「接触領域」に注目。政治的・社会的ヘゲモニーとの重層的なかかわりあいのなかで、「楽土」的都市空間と帝国のファンタジーを考察。観光バスによって提示される満洲像として、戦跡、近代性、盛り場、歓楽郷を挙げ、観光そのものが権力関係の強化と権力構造の再生産を行う装置であると結論付ける。

③観光地としての満洲表現を考察しツーリストの「まなざし」から観光の政治性を指摘

・高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』(東京大学、2005、博士論文)
新しい分析枠組み「代理ホスト」概念を導入し、観光の機能から「観光地としての満洲はどう表現されてきたか」を考察。「満洲観光を取り巻く政策、制度の変動を歴史的に跡付け」、未公開の早大生の日記から「満洲ツーリストたちのまなざしを再現」する方法で、「観光を取り巻く政治」と「観光の生み出す政治」を明らかにしている。

満洲国が帝国の文化的優位性を示す記号となり、ユートピア都市のイメージが普及したと指摘

・ルイーズ・ヤング/加藤陽子ほか訳『総動員帝国-満洲と戦時帝国主義の文化-』(岩波書店、2001年)
「日本人による観光旅行は、長期にわたって日本帝国主義の文化的側面を担った」ことを主張。文化人の活動がきわめて高い社会的評価を満洲国に与え、帝国の文化的優位性を示す記号となったと分析。満洲国は日本の国内消費向けにパッケージ化され、ユートピア都市満洲というイメージが普及したと結論づけている。

1-3.先行研究の課題とリサーチクエスチョンの設定

1-3-1.問題点

 上記①~④は満洲国の観光に関する主要な研究であるが、いずれも観光の政治性や権力性を明らかにするという目的及び結論が先に来ており、あくまでも満洲国の観光は題材に過ぎない。

1-3-2.リサーチクエスチョンの設定 先行研究との違い・独自性・新規性

 先行研究は政治性・権力性が重視され、満洲国の諸都市の様子が一面化され過ぎている。そのため、観光客/旅行者が記した都市の景観や様相、現地住民の様相に着目する必要がある。観光客・旅行者という外部の視点だからこそ描けるものに注目する。上記③の先行研究では「ツーリストたちのまなざし」を挙げているが、満洲国に関する旅行記は未公開の早大生の日記だけである。外部の視点を考慮するならば種々の職業や階層の複数のサンプルが必要であろう。ここでは即座に政治性・権力性という結論に結びつけるのではなく、旅行記・紀行文から当時の都市空間の特性や日本人と現地住民の関係を分析する。

1-3-3.歴史的意義

 従来、満洲国の都市空間では、日本人と現地住民が分断化され、それぞれがコロニーを作り、その内部だけで生活を完結していると思われていた。しかしながら、現地住民は満鉄を利用するし、旧附属地の百貨店や商店などにも訪れていた。また、現地住民が市街を近代化しており後進性ばかりではない。そして在満日本人や日本人観光客も現地住民の居住区域を訪れたり、現地住民経営の百貨店を利用したりしていたのである。現地住民との関りを捉え直したことにこの研究の意義がある。

2.論証

2-1.哈爾濱市地域区分

 まず哈爾濱の地勢について述べる。哈爾濱は7つの区域で成り立っており、それ即ち、新市街(南崗/新家崗)、埠頭区、馬家溝、香坊(旧哈爾濱)、新安埠、八区、傅家甸である。

2-1-1. 新市街(南崗/新家崗)

哈爾濱市の中央部を北東から南西にかけて貫く丘陵地帯に広がるのが新市街である。哈爾濱駅の南東側のエリアである。哈爾濱駅を出て正面に大道路があり、それが中央寺院に至るが、その間に各国の領事館やヤマトホテル、博物館などが集中している【史料1】。

2-1-2.埠頭区

埠頭区は、哈爾濱駅から松花江鉄橋へ北西部に延びる路線の西側に位置する。哈爾濱は夜の街として有名であるが、その舞台となるのがこの埠頭区である【史料2-1】。裸踊りや私娼窟などを内包する享楽機関で知られている。哈爾濱を代表する地名としてキタイスカヤ街があるが、その通りがあるのが、この埠頭区である【史料2-2】。また、埠頭区は歓楽街としてだけではなく、商業区としての機能を有しており、キタイスカヤに並行する新城大街には百貨店や大商店なども集中している。

2-1-3.馬家溝

 哈爾濱で特筆すべきなのが白系ロシア人である。1917年のロシア革命で共産化した際、帝政ロシアの特権階級が亡命し、哈爾濱に逃れて来た。それらの白系ロシア人が居住する区域がこの馬家溝であり、大馬家溝河を挟んで新市街に接している。日満露人が雑居している住宅地域というのも重要な特徴であり、哈爾濱市において人種間混淆が見られる【史料3】。

2-1-4.旧哈爾濱(香坊)

 日清戦争後、三国干渉の見返りとして、東清鉄道の敷設権がロシアに与えられたが、その際附属地となったのが、この旧哈爾濱である。満洲国成立以後では工業地帯となった【史料4】。

2-1-5.新安埠(ナハロフカ)

 哈爾濱の低地、埠頭区の西部に隣接する地域であり、貧民窟となっている。この地域のロシア革命の影響を受けており、零落した白系露人が居住している【史料5】。零落した白系露人は男性がタクシーの運転手となったり、女性が身体を売ったりなど、観光業にも深く関わることになる。

2-1-6.八区

 哈爾濱駅から松花江鉄橋へ北西に鉄道が伸びているが、この線路の東側に位置するのが八区である。鉄道沿線のため工業地区を形成しており、鉄道の引き込み線が伸びている【史料6】。

2-1-7.傅家甸

 先行研究のケネス(2010)では、観光の機能として、満洲の後進性が強調され、日本が遅れた現地住民を指導する効果をもたらすことを主張しているが、現地住民たちが近代化していなかったわけではない。哈爾濱の傅家甸では現地住民により上海の文化を取り入れた都市が形成されており【史料7-2】、北満農産物市場を支配する近代文化が見られる【史料7-3】。

2-1-8.小括

 哈爾濱は日本が1935年に北鉄を接収するまでロシア人を中心として形成された都市であった。そのため、埠頭区や新市街を中心にロシア人の居住地域が見られる。しかしロシア革命の影響により祖国を追放された白系ロシア人流入したことから、日満露が雑居する馬家溝といった地域や没落した白系露人が集まる新安埠という地域が形成されることとなる。またロシア支配時代、現地住民はロシア居住地域に入れなかった為、工業地帯である八区に隣接する形式で傅家甸が形成された。この傅家甸は上海を模した現地住民による欧風の近代的な地域であり、殷賑を極めていた。現地住民が自ら近代的な都市形成を行ったことで重要であると言える。
 以上により哈爾濱はロシアの極東進出と革命が大きな影響を与えた都市と言え、また現地住民の近代性や自立性が分かる都市とも考えられる。

2-2.哈爾濱市観光資源

 ここでは、観光機関側が刊行した旅行案内やパンフレットから、何が観光資源として訪問対象として紹介されているものを分析し、どのような哈爾濱イメージを提示しようとしていたかを分析する。

2-2-1.自然景観

 哈爾濱の景観の特徴として欠かせないのが松花江である。この松花江は哈爾濱市民が遊ぶ恰好の場所となっていたと同時に観光客も景観や河川の娯楽を楽しんでいた。ボート、水浴、魚釣りなどが勧められているほか、市浴するロシア人の裸体健康美が観光資源となっている【史料8-1】。また公園も整備され市立苗園【史料8-2】や道裡公園【史料8-3】などがある。とりわけ道裡公園は、ロシア支配時代には現地住民の出入りが禁じられていたが、満洲国建国後は解放されている。

2-2-2.ロシア寺院

 哈爾濱においてはロシア色が観光資源の一つとなっているが、その代表となるのが、中央寺院である。哈爾濱におけるラウンドスケープの一つとなっている【史料10】。特にロシア革命により共産化したソ連では宗教が禁止されたため、ロシアにおけるキリスト教文化を残す重要な施設となっている。

2-2-3.大陸科学院哈爾濱分院

 社会教育施設である博物館も観光資源となり、観光客の訪問場所として組み込まれていた。観光ルートとしては、ロシア寺院である中央寺院の傍にある【史料11-1】ことから立地としても回りやすく、「本博物館の時を惜しんではならない」【史料11-2】、「哈爾濱を訪ふたものは必ず観覧の要ある」【史料11-3】と重要視されていた。

2-2-4.キタイスカヤ街

 商埠地にあるキタイスカヤ街は、歓楽郷でありそれらの店があることでも有名であるが、通りそのものの景観が観光資源となっている。街路樹や建築物や混淆する諸民族【史料12-1】が取り上げられている。またこのキタイスカヤが哈爾濱を代表する地域ともされており、ロシア式の建築物や石畳の舗道等が東洋では見られない特異的な存在となっている【史料12-2】。またロシア文化の消費はロシア人そのものの消費にも向かい、夏のキタイスカヤ街は散歩するロシア婦人が紹介されている【史料12-3】。

2-2-4.歓楽郷

 哈爾濱観光で必ず触れられるのが夜の哈爾濱、すなわち歓楽郷である。案内パンフレットでもその内容や料金体系が紹介され、旅行者が利用しやすいようになっている【史料13-1】。そしてここでもロシア人消費が観光資源となっており、日本人の人々にとってヨーロッパ系の人種と遊興に耽ることが、当時の観光パターンとして提示されていたと考えられる【史料13-2】。

2-2-5.小括

 哈爾濱の観光資源として特に取り上げられているのがロシア文化消費であることが分かる。松花江、博物館、キタイスカヤ街、歓楽郷などで、ロシア人が作り上げた景観や風習、またロシア人そのものが観光客を引きつけている。ヨーロッパの魅力を体験できることが、哈爾濱の魅力の一つであったと考えられる。また博物館は社会教育施設であるが、観光客がその地域の歴史や地誌を理解するために訪問を推奨される箇所であり、哈爾濱では特に北満を中心とする展示が行われていた。

2-3.観光客から見た哈爾濱市

 ここでは、旅行記・紀行文から、観光客・旅行者が実際に哈爾濱をどのように見たのか、どのような体験をしたのかを中心に分析していく。

2-3-1.哈爾濱における商店

 商店が集積されているのは埠頭区である。埠頭区のキタヤスカヤ街では特にチューリン商会支店と松浦商会に訪れる場合が多い。チューリン商会はロシア人経営の店。松浦商会は日本人経営の店である。キタイスカヤ街と並行する新城大街には現地住民の商店が集まっている【史料14-1】。
 チューリン商会は新市街に本店があり、キタイスカヤ街は支店であるが、品物の豊富さとサービスの良さが述べられている。そしてチューリン商会では露人経営の店で満人が店員として働いており日本語を理解し接客を行っている【史料14-2】【史料14-3】。
 松浦商店は日本人経営ながらロシア人が多いキタイスカヤ街に進出している。観光客の行動として、階層が高い建物に登り周囲を一望することが挙げられるが、松浦商店の屋上の眺望も哈爾濱を見渡すことが出来る【史料14-3】。そして松浦商店では麗しくて若いロシア人女性を使っているのも特徴である。キタイスカヤ街というロシア人の需要が多いことに応えていること及び、哈爾濱で日本の観光客がロシア人女性を求めているという需要を理解しているのである【史料14-4】。
 商店関係で触れる必要があるのが、日本人商店の競争力の問題である。同一の日本商品なのにも関わらず、日本商店の場合は露人経営や現地住民経営の店よりも高いというのである。また現地住民の商店では茶や煙草などのサービスも行っている。そのため日本人経営の商店にも関わらず日本人の足は遠のき、露人や現地住民の店に行くことが述べられている【史料14-2】。現地住民の商人の熱心さに比較し日本人の商人にも熱心さが必要であることを説くものもある【史料14-5】。

2-3-2.哈爾濱における現地住民

 哈爾濱を訪れた観光客は、現地住民をどのように眺めたであろうか。まずロシア支配の後退を述べるものがある。ロシア支配時代では黄色人種に対する差別が激しく、現地住民はロシアから道裡公園に入ることを禁じられていた。しかし、現地住民がかつて禁じられていた公園を散歩できるようになったことが取り上げられている【史料15-1】。また日本人が経営する浴場にロシア人や現地住民も一緒に利用している【史料15-2】。日本の東京と同じ形式の風呂に共同で入っている。そして日本人の観光客が、現地住民の住居を訪れることもあった【史料15-3】。現地住民は一方的に支配されるのではなく、商業的にも強かであり、日本人よりも資本蓄積が多く、哈爾濱では億万長者を10人も出してゐる【史料15-4】。

2-3-3.傅家甸

 哈爾濱において埠頭区と並んで栄えていた現地住民により建設された地域、傅家甸。哈爾濱経済はこの傅家甸と商埠地(埠頭区)によって代表されるほどであった【史料16-2】。そのため、日本人観光客も傅家甸を訪れていた。傅家甸は「繁華なること全満第一」【史料16-1】とされ上海の影響を受けている。また現地住民が「自ら建設した代表的欧風都市」【史料16-4】として、その功績が伝えられている。帝政ロシア支配下において東清鉄道附属地に現地住民が入れなかったため、自ら作り上げたのである。このようにして哈爾濱には現地住民による近代的な都市が形成されており、その賑わいぶりが伝えられているのである。傅家甸においては日本人観光客が現地住民の芝居を見る事も行われており、大劇院で現地住民に混ざって芝居を眺めてゐる。

2-3-4.哈爾濱におけるロシア人消費

 哈爾濱の観光資源としてロシア人そのものが対象となっていたことは上記で述べたが、観光客はロシア人に対してどのような視線を向けていたのであろか。観光客はロシア人の中でも、特に若いロシア娘を目的としていた。
 ロシア娘の消費としてまず挙げられるのが、観光バスガイドである【史料17-1】【史料17-2】。観光バスには女性のバスガイドが乗車していたが、日本語を教えたロシア娘も同乗させ、ロシア関係の施設になるとロシア娘にガイドをさせるという寸法である。第二に挙げられるのがウェイトレス【史料17-3】【史料17-4】であり、見目麗しい少女が黄色人種に給仕をするという行為が挙げられる。またバスガイドやウェイトレスといった特定の職種でなくとも、街を歩いているだけで、ロシア娘が観光資源の対象として見られているのである【史料17-5】。

2-3-5.夜の哈爾濱

 哈爾濱は夜の歓楽郷こそが、観光資源とされるところがあった。夜の享楽が一般化、観光化されているのである【18-1】。それゆえ、満洲に仕事や慰問、視察に来ている旅行者たちも、夜の享楽に耽るのである。小学校の校長ですら、伊藤公の遭難を偲ぶ場面で夜の享楽のことを考えていることが挙げられている【18-3】。また視察団が鉄道の長旅で疲れていたにも関わらず、哈爾濱の享楽目当てに張り切り、夜に哈爾濱駅に着くと早々にロシア娘の裸踊りを見に行くさまが描かれている【18-5】。哈爾濱に行ったらキャバレーを見る事、満洲から帰ると哈爾濱の裸踊りについて聞かれる【18-4】こと、これらは満洲観光として定型化していたのである。
 キャバレー一つをとっても一概には言えず、格付けがなされており、それに応じたサービスが提供されていた【18-2】。また裸踊りなどは日本人男性のみが目的としていたのではない。現地住民の男性もキャバレーを利用しており、彼等のニーズに合わせたロシア人女性が用意されていたのである【18-7】。そして男性だけでなく、哈爾濱を訪れた女性もまた、ファンタジヤなどの一流キヤバレーを楽しんでいる様子が記されている【18-8】【18-9】。ロシア娘の裸踊りは哈爾濱観光に欠かせないものであり、観光客の関心を生んでいた【18-10】。これらの享楽は単なる快楽としてのみとらえられていたのではなく「それがまた満洲国の過去から現在にいたる地域的、殖民地的、文化的、人種的な系譜を物語つて居り、ある観方からすれば旅行者の見落としてはならない現地機構の一つ」【18-1】として社会的な分析もなされていた。

2-3-6.小括

 ここでは旅行記・紀行文から哈爾濱における観光客の行動を追ったが、そこから特に言うことができるのは、現地住民の隆盛と、白系ロシア人の悲哀である。現地住民たちは帝政ロシア時代に公附属地や公園の立ち入りを禁止され黄色人種としての差別を受けたが、傅家甸に根拠地を作り、上海の欧風文化を移入して近代的居住地を作り上げ、日露の埠頭区(商埠地)と並び立つ程に成長したことが分かる。ここには日本人と比較した後進性や、日本人を指導者として仰がねばならない劣等性など微塵も感じさせない。
一方で、浮き彫りになるのがロシア人である。バスガイドやウェイトレスといった職業の場としてだけでなく、普通に街路を散歩しているだけでも日本人から観光資源として消費されている。そしてロシア革命で祖国を追われた満洲で生きることしかできず、貧民街に流れ込んで来た白系ロシア人の娘は身を鬻ぐことになる。哈爾濱の観光がそれ即ち夜の享楽と同一視されることが一般化されており、その背景には祖国を失い異郷で生きる白系ロシア人の姿があったのである。

3.結論

 リサーチクエスチョンを確認すると、本稿では観光を即座に政治性・権力性という結論に結びつけるのではなく、旅行記・紀行文から当時の都市空間の特性や日本人と哈爾濱市民の関係を分析することを課題としていた。
 哈爾濱における都市空間の特徴として挙げられるのが、ロシア人街と傅家甸である。哈爾濱は東清鉄道の附属地から建設が始まったロシア人の都市であり、その都市景観はロシア的な街並みである。一方、ロシアの附属地に立ち入ることを禁止された現地住民たちは、上海をモデルに欧風的な近代都市である傅家甸を作り上げるのである。こうしてロシア人街と傅家甸は哈爾濱の表裏となって都市を形成したのであった。
 日本人と哈爾濱市民との関係については、現地住民の強かさとロシア人の悲哀が対極的に映る。とりわけ、日本人観光客はロシア人少女を消費の対象としていた。さらに祖国を失った白系ロシア人という状況を背景にして、夜の哈爾濱の享楽が定型的な観光として成り立っていたのである。
 以上により、日本人観光客の視点からロシア人と現地住民の様相が明らかになった。

史料編

旧字は適宜改めた。下線は引用者による

【史料1】新市街(南崗/新家崗)

「〔……〕新市街は南崗又は新家崗と言ひ市街の中央を東北から西南に長く続いた丘陵地帯で主として各国の官公衙、諸官舎が集り、各建物は露西亜建築の特長(ママ)を備へ街路整然として清潔、一面緑樹に蔽はれて居る。駅を出て正面新市街中央寺院に至る大道路を東站大街と云ひヤマトホテル、各領事館があり、中央寺院は新市街の中央にあり博物館も近くにある。中央寺院に向つて左側は新売買街として有名な商業区で純露西亜式の商店が並び郵便局、哈市特別区長官公署等があり新市街は散歩に良く、深い印象を旅人に感じさせる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、114-115頁)

【史料2】埠頭区

2-1.夜の街

「〔……〕裸踊りや私娼窟や怪しげなバアや、等等等の暗黒面を抱含してゐるだけに、ハルピン夜話やハルピンの猟奇秘話は、多くはこの埠頭区から生まれ出るのだ。それ程此処は夜を生命としてゐる〔……〕」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、17-18頁)

2-2.商業区 歓楽街及び百貨店・大商店

「埠頭区は道裡と云ひ松花江に接して新市街と埠頭区を結ぶ跨千橋(虹霽橋)上から一望の下に俯瞰される商業区で凡ゆる享楽機関、暗黒街を設けた下町とも称すべき処である。中央を真直に松花江に通ずる中央大街(キタイスカヤ)は哈爾濱の銀座とも云はれる処で、中央大街に並行して新城大街があり満人経営の百貨店や大商店が多い。夏の夕暮のキタイスカヤの散歩は哈爾濱の魅力と言はれてゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115頁)

【史料3】馬家溝

「馬家溝は一部の露人間で「皇帝の村」と云はれ主として革命後の亡命露人の集団的部落で新市街に接続し日満露人の雑居する郊外住宅地で飛行場と兵営がある。この周囲は全く都会と思はれぬ牧歌的な情緒をもつてゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115頁)

【史料4】旧哈爾濱(香坊)

「旧哈爾濱は露国の植民当初に建設された街で満人間には香坊」と言はれ新市街から4粁、今は主として工場地帯となつて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)

【史料5】新安埠(ナハロフカ)

「ナハロフカは埠頭区の西に隣接し低地を成し満人は偏瞼子と呼んで居る。哈爾濱の貧民窟で近年白系露人が多く居を構へて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)

【史料6】八区

「八区は埠頭区と傅家甸の間に介在し油房、工場倉庫等多く工業地区であると同時に鉄道貨物の取扱所で八区一帯に引込線が網状をなして居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、116頁)

【史料7】傅家甸

7-1.上海文化の導入

「南満を飛び越えて、上海の文化を其儘取入れた街として余りにも有名な所で、住人は30万と言はれ、哈爾濱人口の三分の二を占めて居る。」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)

7-2.文化の発達・欧風化・正陽街は埠頭区の繁華街にも匹敵

「傅家甸は純然たる満洲人の町にして人口約18万全市人口の三分之一強を占めてゐる。その文化の発達せることと、繁華なることは全満その類を見ない。蓋しこの文化は満洲流のものとやや異なり。上海文化の影響を直接受けてゐるので著しく欧風化してゐる。正陽街は本区の代表的な街でその繁栄は埠頭区の繁華街を摩せんとするの趣きがある。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、11頁)

7-3.経済的中心地 支那文化の最も発揮

「傅家甸は埠頭区に接続して俗に「道外」と言はれ「濱江」と言はれるのは此処である。頭道街から二十道街まで街路整然と伸びた大市場で正陽街の雑沓は驚嘆に値する。実に支配人が建設した代表的市街として上海に次ぐ大市場を成し、現在北満農産市場を支配する経済的中心地である。満洲に於て近代支那文化の最も発運したのは実にこの傅家甸である。傅家甸の北側は松花江の江岸となり、鉄道総局を初め、公営、私営の埠頭は殆どここに並んでゐる」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、115-116頁)

【史料8】自然景観(河川・公園など)

8-1.松花江

「キタイスカヤの人波を縫うて色とりどりの行人の顔を見比べながら松花江に出づれば涼風が快く頭髪を撫で、江岸に立つて四顧すれば下流近く江面を壓する松花江の大鉄橋を望む。江上に浮ぶ無数のボートや林立する帆船や、江防艦隊等が遺憾なく大江の風貌を発揮し、対岸から太陽島にかけて人魚の群れ遊ぶ様、正にエキゾチックな裸体健康美の競進会だ。自らボートを操つて中流に放歌するもよし、水浴に平日の行楽を費やすのもよければ、魚釣に俗塵を避けて冷たいクワスに渇を医するのも亦よい。哈爾濱をそこはかとなく柔かい情緒に包むものは夏の緑樹とこの大松花江の流である。」(東亞旅行社編『昭和18年版 満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、1942、152頁)

8-2.市立苗圃

「馬家溝川に沿ひ、王兆屯に跨り49万平方米に及ぶ広大なる地域を占める大苗圃でピクニツクの好適地である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、7頁)

8-3.道裡公園

「埠頭区内最大の公園でロシヤ華やかなりし頃は支那人の入園を禁じたこともある。今日では市が経営し各種の施設を施し遊園地として尤たるものである。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、10頁)

【史料10】中央寺院

「ロシヤ人と寺院は宛も日本人と神社と等しく、彼らの殖民の最初の事業は寺院の建立である。市内随所に見るロシヤ寺院は嘗て彼らの栄華を偲ばせると共に彼等の宗教心の熱烈なるを物語つてゐる。本名はニコラエフスキー・サボールと云ひ、単にサボール(大寺院)とも呼ぶ。満人は喇嘛台と称す。古代ギリシヤの建築様式を採り哈爾濱に於ける代表的寺院である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、5頁)

【史料11】博物館

11-1.東清鉄道以来の資料

「新市街中央寺院の脇にあり商工部、人類学部、生物学部、医学部等に別れ東清鉄道建設当時から満蒙関係参考資料が網羅されて居る」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、117頁)

11-2.満蒙の科学的認識のためには博物館を訪れる必要がある

「満蒙を科学的に認識せんためには本博物館の時を惜しんではならない。本館は商工部、医学部、生物学部並に人類学部の4部門に別れ、満蒙に関する貴重なる資料は悉く陳列してある。参観料一般人20銭、学生10銭」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、5頁)

11-3.哈爾濱へ観光に来たら、必ず博物館へ

満洲文化研究会の所管で新市街中央寺院広場に面したロシヤ古代建物の香り高いモスクワ商品館の内にある。ハルビンを訪ふたものは必ず観覧の要のある満蒙を知るための参考資料が沢山収集されてある。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、36-37頁)

【史料12】キタイスカヤ

12-1.人種混淆

「鋪道に咲く陽樹、両側に並ぶ異国風の高楼、それに流れる日、鮮、露人の漫歩、エキゾチツクなキタイスカヤ風景」(哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、5コマ)

12-2. 哈爾濱がキタイスカヤか、キタイスカヤが哈爾濱か

「哈爾濱がキタイスカヤか、キタイスカヤが哈爾濱か……それ程キタイスカヤの名は有名である。日本人は哈爾濱銀座とも云ふ。ロシヤ人の商業街の中心地にして両側にはロシヤ独特の重厚なる建物が並列し、石畳の鋪道には散策の外国人が軽快なるステツプを運び、凡そ東洋色から掛け離れた雰囲気は旅行者にとり最も印象的である。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、10頁)

12-3.キタイスカヤ街とロシア人消費

「ロシヤ美人はキヤバレーにも居る。然し真にレフアレインされたタイプのものを目撃しようとならばキタイスカヤの午後から宵へかけて、若しくはブチスタン(埠頭区)の市立公園の夕涼みにでも出掛けるがよい。若しもそれが夏だつたら、キリリとしまつてすんなりと伸びた脚・脚・脚のオンパレードを目撃することが出来るし、その中には必ずハルピンならでは見ることの出来ないやうな美しい異国婦人も発見出来やうといふもの。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、6-7頁)

【史料13】歓楽郷

13-1. 国際都市の絢爛豪華の夜を更すのはまた甚だ味なもの

「キヤバレーとはロシヤの踊り場ですが、ダンスホールとは異り、ロシヤ料理あり、ステージあり、バンドあり、ロシヤ美人の酌む甘酒に酔ひ、美人と踊り、合ひ間のステージの催し物を眺め、国際都市の絢爛豪華の夜を更すのはまた甚だ味なものであります。経費は色々ですが先づ二人位で7、8円辺りから4、50円、100円と段階があります。これは飲物と、食物によつて差が出来ます。 フアンターヂヤ 埠頭区軍官衙、カズヘツク 同中央大街、オケヤン 同中央大街、ドラゴン 同中央大街、ボンモント 同田地街、モスコー 同中央大街、ロンドン 同中央大街、エデム 南崗義州街、右の内ステーヂのあるのはボンモントとフアンターヂヤだけです。其他日本カフエーにもキヤバレーと称するのが数軒あります。」(哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、1939、17-18頁)

13-2.ロシア人キャバレー

「キヤバレーにはカフエー式なものと、もつと本格的なものとがある。が、カフエー的なものでも一方に舞台をしつらへ楽手が数人でジヤズを奏でてくれるから、レコード音楽に終始してゐるカフエーに比べると室にみなぎつてるリズムの感覚だけでも全然ちがつたものを汲み取ることが出来る。それにパートナーはみんなロシヤ人だ。踊りをこなしは下手くても、柔らかな金髪の感覚や白い肌から発散する体臭はまさしくエキゾチシズムだ。若しも火酒にでも少しく酔つてゐる時だつたら尚更気分が出るだらう。此処も亦ハルビン旅行者の一度はのぞいて見なけれなならぬ歓楽境かもしれない。キヤバレーで有名なのは埠頭区官衙のフアンタヂヤ、北満ホテル下のカヂノなど、何れもステーヂに立つて歌つたり踊つたりする女と、遊客のサービスをし乍ら客とステツプを踏むダンサアとがある。ここではダンサアと切符が不要ないから(ママ)、遊興費としては飲んだ酒と食べた料理代だけです。が、勿論酒も料理も普通の料理屋よりも高いのは必定。どうせキヤバレーを見物しようといふやうな連中は踊りばかりで欲望の満たないものが多いのだから、招んだダンサアに馬鹿な金を費はせられる場合が多い。ビール2,3本で夜を徹して踊つたなどといふ英雄はなかなかゐない。この外一流料理店ギリドヤン、アメリカン・バアなどでもダンサアがゐて夜の客にサービスしたり一緒に踊つたりしてゐる。三流どころの地下室のキヤバレーにもオーケストラがある。此処の女達はダンサアともウエートレスともつかぬ私娼的なものが多い。」(斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936、43-44頁)

【史料14】哈爾濱の商店

14-1.埠頭区に集中する商店

「わけてキタイスカヤ街(中央大街)はハルピンの銀座にあたる目抜きの街で、秋林商会支店、松浦商会を始め広壮なる百貨店櫛比し、特に街上を行き交ひ歩道のベンチに憩ひ語る無数の露西亜人の種々相が物珍しくも亦目まぐるしい。北満の空は朗らかに冴えてゐた。舗道を靴音軽く歩くロシア娘の美形には、何人も陶然と愛恋を感ぜずには居られないだらふ。近来頓に発達した新城大街は、キタイスカヤ街と並行し、満洲国人の大商店多く、将来キタイスカヤ街を凌駕せんとしてゐる」

14-2.露人および現地住民経営の店のサービスの良さ

「新市街のチューリン商会と、キタイスカヤ街の松浦商会は、ハルビン一流の百貨店だ。一は露人経営で、一は日本人経営で売り子は若きロシヤ娘である。チューリン商会の品物は豊富で安くサーヴィスもよい。だが松浦商会も、よくも露西亜人ばかりの多いキタイスカヤ街であれ丈に発展してる事は聊か意を強うする事が出来たが、二流所の商店になると、品も不足、値も高く質も悪い。殊に私の奇異に感じた事は、同一の日本品が、露人の店では安く邦人の店では高い事だ。此現象は、大連でも、北京でも、上海でも見られる事実である。かうなつて来ると、たとへ邦人の店でも高い物は買う気にならぬ。自然露人や、支那人の店に入る。而もサーヴィスがよい値切つても怒らぬ処か笑つてゐる。殊に支那人の店と来ては茶を呉れる、煙草吸はせる。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、140-141頁

14-3.松浦商店からの眺望・チューリン商会支店の満人店員

「尚埠頭区はハルピンの商業的活動を覗ふ(ママ)ほかロシヤ気分を味ふにも恰好の街である。市街の展望をなすために松浦商会屋上の塔に立つた。眺むれば帝政ロシアの表象として今尚相当の信者を有する希臘正教中央寺院・猶太教寺院・回々教寺院の大空にそそりたつ尖塔、其他建設中のソフイスカヤ寺院のドーム・松花江の水光・樹に埋もれた町の眺めがこよなく美しい。僕は秋林商会支店に入り、ロシア毛布を買はうとしたが値段が余り高過ぎるので、支那毛布を買つた。その時の満洲人の店員は、嘗て東京に永らく居たといふので日本語は至つて上手で愛嬌よく僕をもてなした。」
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935、172-173頁

14-4.松浦商店の売り子はロシア人

「毛皮や宝石類は廉価との話である。露人経営の秋林、日本人経営の松浦等が有名である。松浦の売子は殆ど全部露西亜の麗しき若き女性である。」
宝蔵寺久雄『海鼠は祈る:満洲旅行記』、新知社、1933、204頁

14-5.商売熱心な支那商人

「夜。満洲人経営の商店に飛び込み土産物を買ふ、筆談である。実に気持ち良い程親切である。十銭の商売にも熱心そのものでやる。日本の商人もこの熱心さがなくては駄目だとつくづく感じた。」
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933、26-27頁

【史料15】 哈爾濱における現地住民

15-1.道裡公園

「中央大街からちよつと左へ入ると道裡公園といふのがある。今は市の経営になつてゐるが昔は支那人の入園を禁じた時代もあつたといふ。露人等は支那人と肩を互して園内の散歩を潔しとしなかつたのである。彼等は如何に有色人種を軽蔑したかが分かる。〔……〕満人の紳士淑女が、散歩してゐた。婦人のベンチに腰掛けてゐる者には、往々にして行儀の悪いものがある。これは服装の関係から来るのであらう。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、28-29頁

15-2.満人との共同風呂

「夕食後風呂に入つた。この浴場は日本人の経営であるといふ 内部は東京のものと同じである。中央に浴槽があつて四方が流しになつてゐる。しかし入浴してゐる人達はいささか毛色を異にしてゐる。満人は勿論のこと露人もゐる又我々日本人も入つてゐるのだ。汗を流してえい気持ちになつた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、29頁

15-3.満人住居

「私は満人の普通の住居を見たいと言つた。〔……〕何とかして此の際見学したいと思つた。T氏は〔……〕案内してくれた。一体、支那の人は朝寝床を離れて靴をはくと、晩寝るまでは靴を脱がない。どの房でも靴のまま行かれるのである。その点は我々日本人よりも西洋人に似てゐる。腰かけテーブル其の他いろいろの調度も皆土間にあるのである。ただ寝るところだけは西洋人のベットと異り、寧ろ日本の家屋のやうに床張りになつてゐる。勿論床と言つて冬期オンドルを焼く関係上粘土のやうなもので出来てゐるのである。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、41-42頁

15-4.現地住民の億万長者

[豊田]「ハルピンに十億を筆頭に億万長者が十人もゐるといふことは僕を驚かした。みな糧棧あがりの満人である。糧棧といふのは日本でいへば田舎によくある問屋で、百姓に金を貸し、物品を売り、その収穫を買ひ占める大商人である。日本人では林業で五百万を得た某がありだけである。彼らの手には遊資だけで二億円といふ話にもハルピンの真相をきくおもひがあつた。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、131-132頁

【史料16】 観光客の視点からみた傅家甸

16-1.繁華なること全満第一

「傅家甸、純然たる満洲人の町で人口は18万、ハルピン市の三分の一強を占めてゐる。その繁華なること全満第一と称せられ、あらゆる享楽機関、暗黒街もまた此処にある。その文化は厳密に云へば純粋の満洲文化でなく、直接に上海の影響を受けて居り、随って欧風化したところがあるといはれてゐる。傅家甸の代表的繁華街は西陽街である。電車が通るでなく、又バス、ハイヤーが目まぐるしく通るわけでなく、ただ人の波である〔……〕建ち並ぶ商家、店舗に並べてある品物或いは各戸に掲げてある看板の色彩、眼に入るもの一として私を喜ばせないものはない。夕食を喫す。一人前二円、御馳走の豊富なこと、とても我々には食べ切れない。室内の装飾又善美、食後町を散歩した。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、38頁

16-2.哈爾濱経済は現地住民の傅家甸と日露人の商埠地

露西亜時代の専政は、満人を鉄道附属地内に住居せしめなかった為め、満人は「傅家甸」と称する一角に群居した。従つて傅家甸は純満人街として発達し、其他の市街地は満人以外の各国人により今日の発展を来した。今日哈爾濱に於ける経済は、満人の傅家甸と日露人の商埠地とによりて代表され、双方それぞれの特徴をもつて殷盛を極めてゐる」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、104頁

16-3.支那芝居

「〔……〕四名のパーチーを作りて外出仕り候、シボレーの新乗をドライヴして先づ傅家甸の支那市街を見学仕り候、此処は有名なる支那街店のある所にして、大廈高楼を並べ人馬の往来絡繹として引きもきらず、奇声を以て客を引く等、騒々しく見受け申し候。
 支那街のさんざぞよめきむし暑さ
 次いで車を飛ばせて支那の芝居、即ち大劇院を見学仕り候、支那芝居の表看板は日本劇場と差して異ならざれ共、内部は多数のテーブルを作り、飲食を盛んになし居ることにて、劇は極めて小物計り〔……〕而し観客は面白さうに私語しつつ熱心に観劇いたし居り候、満洲国軍人の多く入り居り候には一驚を喫し申候。
 軍人の見物多し支那芝居」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、78-79頁

16-4. 支那人自ら建設した代表的欧風都市

「〔……〕「傅家甸」の方へ急いだ。茲は旧東支附属地外に隣接する浜江県庁の所在地で、ハルピンの発達に随伴して僅々30年間に、今日の隆盛を致した満洲国人街で、往年附属地内居住を許されなかつた支那人が悉くここに居住したので、純然たる支那街として発達を遂げたる街である。もとよりこの地は初め傅なるものの一旅舎が附近漁戸の聚楽場となりしに端を発し、茲に地名の濫觴をなしたと伝えられてゐる。頭道街から二十道街まで伸びた実に大きな街で、足一度此処に至れば乾坤一変、殊に縦の主道正陽街を中心とした車馬の覆奏には何人も吃驚する処、中央停車場よりの電車も通じ、支那人自ら建設した代表的欧風都市として中国上海に次ぐの都市、又将来北満宝庫の集散を支配する中心地として一顧に値する処である。朱色に塗り立てられた支那特有の看板、濃艶な彩旗、暖簾に記された大文字、極度の支那気分が横溢してゐる。袖長な支那人の群衆が右往左往し、穢ない人力車、馬車がホウホウと大きな奇声をあげつつ目まぐるしく走つてゐる。実に支那人は金銭欲の為には、何物を犠牲に供して憚らない。故に利益になることなれば、何時何処でも這入りこむ遅疑せざる人種である。この傅家甸も或る意味に於ては露国は支那人の為めに侵入されてしまつて、今日繁盛を来たしたものと見てよい。」
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935、172-173頁

【史料17】

17-1.ロシア娘のバスガイド①ロシア人墓地のガイド

「バス案内は日本娘の外に一名のロシヤ娘が同乗してゐて、かなり流暢な日本語で特別な個所の案内をやる。ロシヤ人墓地の説明には此の小娘が当つてゐたが綿々たる哀訴の調子を尽して彼等の信仰告白を説いてゐて、白系露人の憐れな亡命姿を訴ふる様で旅人の哀愁を唆るものがある。」
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941、40頁

17-2.ロシア娘のバスガイド②

「4時頃お茶の時間にキタイスカヤにあるビクトリヤとかマルス店にゆけば外人でいっぱいで特に婦人客のスタイルはなかなかしやれたのがみられる〔……〕当市も観光バスが駅前から出発してゐるがこのバスには日本人の案内娘とロシヤ人の案内娘とが乗つてゐて特にロシヤ人街になるとロシヤ娘の説明が始まる。」
寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、1944、20-21頁

17-3.ロシア娘ウェイトレス①

「料理の支度も整つて居たので、早速始める事にした。真赤なルージユをつけた露西亜娘が二人、純白のユニホーム姿も美しく、無言のサービスをして呉れた。〔……〕店を出て前に停つて居るバスへ一同が乗る迄の一寸の間に、店口でさつき我々にサービスをした二人の露西亜娘を左右に、仲善く写真を撮つてゐる素早い者も居た。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、188-190頁

17-4.ロシア人ウェイトレス②

「熱い飲み物を求めて露人経営のレストラン「マルス」なる象の扉を排した。銀座で云へば資生堂の辺りの格か、馴れぬ者には気の張らぬ手頃な休憩所である。先づ熱いコーヒーを喫して漸く人心づくのであつた。店内の設備も資生堂程度だが、何より眼につくのは給仕の露西亜娘である。あの特徴のある淋しい眼、冷たく尖つた鼻、然し非常に清楚な感じの娘達が、腕も露はな純白な装いで客間を斡旋するのである。」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、106-107頁

17-5. 溌剌たる魅力

「ハルピンへ来ると最初露西亜人の多いのが目立つが、中でも注目を引くのは若い露西亜娘である。冬籠りを過ぎて春らしい一時を楽しみ、五月の声を聞く頃には既に夏の匂がする此処らでは、かなり強い光線を見に受けて純白の服もすがすがしげに、金髪を風に波立たせ乍ら颯爽と舗道を闊歩する露西亜娘の美しい容姿には、溌剌たる魅力がある。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、188-190頁

【史料18】

18-1.観光資源として一般化されているロシア人歓楽郷

「「哈爾濱ノ観光」といふ観光協会発行のパンフレットには、盛り場、花柳界の項目があつて、キヤバレや露人妓館のことが記してあるし、「踊り・踊子二人の場合は16円、一人を増す毎に6円増、踊りの時間は約20分で、見物人は何人でも差支へなし」と値段が明記してある。〔……〕哈爾濱まで行つて、かうした場所にゆかないで帰る人間はまづないといふのが、苦笑すべき事実であり〔……〕いはば外国人が日本のフヂヤマとゲイシヤ・ガールを見ないでは帰れないやうな風に、一般化、観光物化されてゐるといつたらいいと思ふ。〔……〕それが頽廃的であるとか、非時局的であるとかいふ意味を別として、哈爾濱といふ都会の生きた生理として、独特のあくどい呼吸をしてゐる。そしてそれがまた満洲国の過去から現在にいたる地域的、殖民地的、文化的、人種的な系譜を物語つて居り、ある観方からすれば旅行者の見落としてはならない現地機構の一つとなつてゐる。」
春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940、213-214頁

18-2.哈爾濱の妓楼の格付けと紹介

「僕のまつさきにいつたのは一流のフアンタージであるが、ステージでおどる芸人も、こんな美しい天女のやうな姿をしながら淫売をするのかと思ふとこちらをおじけつけさせるやうな球が多い。二流のソンツエは中央寺院の近所にあり、日本人の経営で、大丸髷にゆつた女将がキヤバレーの入口にたつて踊子のやうすをみはりしてゐる。支那人の芸者が毎夜のやうに現れて、楊貴妃のやうな衣をひきずつて踊りまはる。四流、五流のタベルナ、ホリウツドにいたつては、まるでこの世の光景とは思はれない陰惨な朝の光線が街上から地下室へ洩れてくる中で―まつたくキャバレーの中の光は暗く―その中でズロスと乳かくしだけで踊り子たちは踊つてゐるのだ。〔……〕ハルピン名物の一つである裸おどり「リツア」は、一糸もまとはぬ女があらゆる技巧をつくしてのエロ・ダンスをしてみせるのだ。素裸の女、二人がからむやうに、もつれるやうに組み合つては、はなれ、はなれてはまたからみつくのをみてゐると妙に血液の循環が、はげしくなる。しかし「リツア」はハルピンのほんの門にしかすぎない。リツアを語り、これを吹聴する人は一日か二日のの滞在客であるそうな。グレタ・ガルビやマリイレヌ・デイトリツのやうな素人娘の生活に困つてゐるのをピツク・アツプして、次から次へと世界最高の美の陶酔を、ホンの僅かの金で享楽できるのだからハルピンはとてもはなせる。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、106-107頁

18-3.キャバレーに行きたがる小学校校長の哈爾濱視察

[新田]「いつか私は呆れましたよ。小学校長の視察団が来た時ですが、私は伊藤公の銅像の前に案内したんです。するとどうですか、その中の一人が私にトロイカはどこですかなんて訊くじゃあありませんか。私はただ呆れて返事もしませんでしたな。伊藤公の銅像の前ですよ。而も小学校長だなんていふ人が―」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、117-118頁

18-4.ハルビンに行つたらキヤバレーを見る事だ

「私は上海や天津、香港等で多くの外国婦人を見たけれ共、ハルビンの白系露人程の美しさに優るものは一人もなかつた。スヰートな曲線美、透き徹るやうな皮膚、白皙豊満な美貌、さては国なき家亡き亡国の民、薄命の佳人が如何に多い事か。夜毎夜毎にホテルやレストラン又はバーに現はれ、ベーヴメントの上や、薄暗い街燈の下に現はれて媚を売る又売らねばならぬさすらひの民を憐れまずには居られない。私は最後に彼女等のどん底生活を一瞥したい。「ハルビンに行つたらキヤバレーを見る事だ」と或本に書いてあつた。そして、満洲から帰つたら友人から「君ハルビンの裸踊りはどうであつた」といはれる程、それはハルビンの名物となつてゐる。だから私もハルビンに於けるプロの中に入れて置いた。埠頭区電車通り北満ホテルのキヤバレーは最も大きい蝶々の羽のやうな服を着たロシヤ女が30人も居る。お酒の相手もすれば、ダンスの相手もやる、ステージもあつてジヤズの音も響く。ソプラノの独唱も始まる。斯ういへば読者は想像つく事であらう。踊る、飲む、唄ふ、煙草の煙が上る、だが、それ等は皆んなはなればなれで、ジヤズはジヤズ丈でひびく、踊りは踊りだけ、酒は酒、煙草は烟丈といふ、調和のとれない何といふガサガサであらう。裸踊りをするバーは埠頭区のここかしこに散在してゐる。芝居や活動のはねた11時過ぎになると、彼女等の魔手はバーの地下室に延びる。其部屋といへば薄暗い中に醜悪極まる絵画を以て充たされてゐる。そこで共に飲み食ひ、唄ひ且つ踊り楽しむ、それは皆んなパンと着物の為めであると思ふと憐れなものだ。」
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、136-137頁

18-5.哈爾濱に到着して即裸踊りを見る為に張り切る視察団

「〔……〕「あじあ」は全コースを爆走し終わって、勢よくハルピン駅へゴールインした。大分旅の疲れを覚えて来た一行も、俄然眠気を吹き飛ばして、張り切つた姿でホームへ下り立つた。いきなり俄然張り切つては、一寸変に考へられるかも知れないが、それには又訳のある事が後で判る。〔……〕目的は言はずと知れたハルピン夜話の昔をしのぶ、異国情緒の猟奇を求めて、話に聞く露西亜娘の裸体踊の見学だ。それでこそ、ハルピン到着と同時に、団員諸君が俄然緊張感を示したのである。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、184-186頁

18-6.ビユーローも案内する裸踊り

「哈爾濱がエロの都であることは余りにも有名である。哈爾濱の視察といへば何をおいても、先づ裸ダンスと○○の実演と相場が極まつてゐる〔……〕ビユーローのガイドも必ず之へは案内する、現に僕等もその案内によつて之を観たものである〔……〕「百人よれば日本人は風呂屋を造る、支那人は娼楼をつくる、露西亜人は教会堂を造る」とは一般に唱へられてゐることだが、之に拠ると日本人は先づ清潔を希ひ、支那人はエロを欲求し、露人は先づ宗教を思ふとの意味で、それぞれ国民性の一端を言ひ現はしたる店はあるが、助平豈に独り支那人のみならんやで、日本人も此の点、さほど人後に落ちないであらふ、ハルビンが国際都市として40万人を僅日内に聚め、今日の殷賑を示せしはエロの都たる宣伝も與つて力ありしと思ふ」
東海商工会議所聯合会満鮮視察団編『鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936、69-70頁

18-7.満洲人もロシア女を消費する

「視察遊覧のため来た人々は、此の辺のエロ気分を味はねば大変な損をした様に思ふ。かたがた何処のどいつも毎晩の景気は大したもので、女給女中風情のものも一晩六・七円の収入は少ない方であるといふ事だ。日本は昔から女ならでは夜のあけぬ国とはいふが、どうやらハルピンの方が本場らしい。花柳界にはロシヤの女も居れば混血児もあり、朝鮮の娘も日本人もゐる。ロシヤの女はビール樽のやうなのが普通だが、ナンバーワンはさすがに楚々たるスタイルでトルストイのカチユーシヤは至る所にゐる、殊に満洲人は細腰を好むさうで、満洲人に向くやうなロシア女を揃えてゐる、ダンサーに至つては商売柄すべてハオカン(きれい)である。之等のダンサーは金さへ与えればなんでもやる。丸裸のダンス、即ちハルピン名物のハダカ踊はあまりにも有名である。朝鮮の娘は日本語で日本髪で日本のキモノで、内地人の御機嫌を伺う、ロシヤの娘は断髪、洋装、言葉はロシヤ、満洲、日本の三国語を使ひ分ける所を見ると、三国の人の玩具物になつてゐるらしい。」
石倉惣吉 『新天地を行く:満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、66-67頁

18-8.日本人女性旅行者もキャバレーファンタジヤへ行く① 岩崎晴子

「ホテル附属の小劇場にて、メトロポリタンと題する映画を見、田村氏の案内にて、キヤバレー・フワンタヂヤにゆく。造花もて飾りし室に、いくつもの卓設けあり。七八人の踊子、人待顔に椅子に寄れり。楽土は絶えず音楽をかなで、興に乗じ卓の間を手を組みて踊る人々もあり。更くるにつれ、独唱、ダンスなどの余興、舞台の上にて始めらる、ジプシーダンスよかりき
 ジプシーの踊子いろは黒けれどそのつぶら瞳に情熱はもゆ
 ルージュ濃き唇もるるほほゑみのあてにやさしき露西亜のをとめ
 楽の音のゆるら流れて華やかにはた悩ましきキヤバレーの夜 」
岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会、1938、58-59頁

18-9.日本人女性旅行者もキャバレーファンタジヤへ行く② 鷲尾よし子

「ハルピン秋田支社は設立、皆様で祝盃を挙げて下さつた。十時散会したが—面白いのはそれからだつた。散会後、御機嫌さんになつた田森慧さんが、「奥さん行きませう」と私と板倉さんを誘つて、とにかく自動車に乗せた。ロシヤ人の運転手さんにロシア語で何か言つてゐたが、かなり走つてとある高台の大きなロシヤ風の建物の前で止つた。自動車が沢山並んでゐる。大兵肥満の中年ロシヤ人が案内する。コートや持物を受付に預ける。通されたのは夢の国、これなんハルピン名物のキヤバレーである。ヘツアルスカヤのフアンタシヤである。舞台には、ロシヤ少女が踊つてゐた。左手にはバンドがお祭りのおはやしのやうにはづんでゐた。お客達は各々卓を囲んで五色の酒をのみ乍ら見物するのである。舞台がダアクチエンジになるとお客達がすべるやうに出て行つて踊る。お酌をさせてゐたサービスガールと踊るのもあり、伴れのレデーと踊るのもある。日本婦人はあまり出ない。ロシヤ少女、満人少女、朝鮮少女が色とりどりにウインクを送る。男たるもの、豈にそれ—ならざるを得んやである。サービスガールが一列に休んでゐるのを指ざして、「奥さんどれを呼びませうか」と田森さんがいふ。「おとなしさうなのがいい」と板倉さんが云つた。おとなしさうなのとオキヤンらしいのを呼んで、田森さんがロシヤ語で何かいふと、「アイキヤンスピークイングリツシユ」とか何とか云つた。「奥さん話して御覧なさい」と私に押しつけたが、私は笑つてビールをついでやつた。あどけない可愛い金髪少女が美事な飲みつぷりである。「私はこの奥さん好き」といふ。「私も貴女が好き」と言つたら「オー嬉しい」と、とてもきれいな声で笑つた。田森さんが「これはマイ・マザア」といふと、「チガフチガフ」と日本語で云つて、「この奥さん若くて美しい。貴君のお母様でない」と表情をこしらへて私に「シヤルビー」と笑つた。私がうなづくと手をたたいて嬉しがる。「日本好き?東京ギンザへ行かない?」といふと「日本大好き、奥様となら行きませう」といふ。そして「ウレチユイウレチユイ」と、大げさに日本語で叫んでコツプを空ける。ビールが次から次へ空になる。二人ともよく飲む。国粋主義者の板倉さんが、「この髪なんだ」とちぢれた金髪にさはつたら、彼女は両手で頭をふさぎ、「この人嫌ひ、奥さんこの人ゼントルマンでない」と英語でささやく。舞台ではハンガリーダンスの、ピラミツト・グランテレビーユーだのが進行し、暗くなつてはお客がをどるので、お客さんはいい加減眼がとろんとなり、足もつかれて来るらしい。」
鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941、152-154頁

18-10.ファンタジヤにおける肉付きのよいロシア娘による裸踊り

「午後11時、士官街のキヤバレー、フワンタジヤへ物産の吉田氏と自動車を乗り着ける。此処はハルピン第一等のキヤバレーで、もうロシヤの踊子達は向つて右の片隅に陣取つてゐる。美しく化粧した顔、整つた服装、ハルピンのみが持つ夜の歓楽郷である。日本人も綿紗の羽織を着た女や、羽織をせず丸帯をきちんと締め、髪も奥様風に奇麗にウエーヴした女を連れて這入つて来る。テーブルと椅子はホールをぐるりと取りまいて配置よく並べてある、肥つたロシヤの楽手達が、いやに音の高いヴアイオリンを弾き出すとそれにつれてジヤズが一斉に始まる。ホール一帯に投げてゐる艶めかしい照明の光が明滅してダンスの始まるのは内地と変りはないが、日本人とロシヤ娘、ロシヤ人と日本人の奥様風の女とがステツプを踏む処に異国情緒が湧き起る。二度続けてジヤズが済むと次にステージでレビユーがあるのだ。内地で見る宝塚や松竹のレビユーの様な規模の壮大は勿論ないが、日本人の様な体格でなく、ほんとにガツチリした肉付きのいいロシヤ娘が全裸に等しい姿態をくねらせて舞ふのだから全く見事なものと云はざるを得ない。斯うして夜2時頃までは日本人も引続き踊つてゐるが順次自動車で帰つてゆき、入り替りロシヤ人がゾロゾロ這入つて来る。彼等は朝の5時頃までも踊りぬく、そして如何なるハルピンのロシヤ商人の店舗でも正午より午後2時までは必ず年中昼寝の習慣になつて居り其の間の取引は絶対お休みであるのも其の為めなのだとは何と驚くではないか。」
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933、28-29頁