【レポート】満洲国の観光について 第四章「観光から見る哈爾濱」

はじめに

 第四章では観光者の視点で描かれた哈爾濱を見ていく。哈爾濱はロシア色の強い地域で、三国干渉の見返りとして東清鉄道の敷設権を獲得したことを契機に建設が始まった年である。ロシアの中国進出の拠点となり、一九三五年に北鉄が譲渡されるまで、ロシアの支配が続いていた。日本は満鉄が満洲国から満洲国有鉄道の経営を委託された関係から、一九三五年になって初めて、哈爾濱への進出が本格化したのであった。哈爾濱において観光事業者側が見せようとした観光資源は何だったのか、また観光者は哈爾濱でどのような旅行行動をとったのかを見ていくこととする。

第一節 哈爾濱の観光資源 ロシア色

 観光事業者が哈爾濱において売りにしていた観光資源は、ロシア色であると言える。まず自然景観として松花江が挙げられるが、この松花江はロシア人の遊覧の地となっており、夏には沿岸の散歩や水泳、釣り、船遊びなどが盛んであった。

  キタイスカヤの人波を縫うて色とりどりの行人の顔を見比べながら松花江に出づれば涼風が快く頭髪を撫で、江岸に立つて四顧すれば下流近く江面を壓する松花江の大鉄橋を望む。江上に浮ぶ無数のボートや林立する帆船や、江防艦隊等が遺憾なく大江の風貌を発揮し、対岸から太陽島にかけて人魚の群れ遊ぶ様、正にエキゾチックな裸体健康美の競進会だ。自らボートを操つて中流に放歌するもよし、水浴に平日の行楽を費やすのもよければ、魚釣に俗塵を避けて冷たいクワスに渇を医するのも亦よい。哈爾濱をそこはかとなく柔かい情緒に包むものは夏の緑樹とこの大松花江の流である。【注1】

 ここでは特に「エキゾチックな裸体健康美」に着目できよう。満洲観光連盟は哈爾濱において積極的にロシア人女性を観光資源として消費対象にしてきたのである。その理由として挙げられるのが白人コンプレックスの裏返しである。日本人は徒に白色人種を無意識のうちに上位の存在としてしまうが、それを克服する手段としてロシア人女性の性消費を唱えているのだ。哈爾濱観光協会の主事はロシア人女性を観光資源とすることについて以下のように述べている。

  単に異国情緒を満喫させるだけが観光哈爾濱の使命じゃない。哈爾濱こそは、吾々日本人の外人征服の道場なんだから。この意味分かるかネ。〔……〕日本人は碧い眼の人種となるとどんなアンポンタンだらうと、吾々より遥に文明人であるかの様に考へ、徒に崇拝する。〔……〕彼等より吾々日本人の方が数等勝れた人種であり、文化人であることを自覚しないからだ。そこでだ。彼等が何も神様の如く偉くなく、下等動物みたいな奴等だと云ふことを身を以て体験することが必要なんだ。それには外人の女を征服すれば君イ、外人なんてもう屁のカツパだよ。大いに自信の出来てくること覿面だ。〔……〕哈爾濱は実に外人征服精神を鍛練する唯一の道場だ〔……〕【注2】

 このようにして観光協会の主事自らがロシア人女性の性消費を促していたし、『哈爾濱ノ観光【注3】 』というパンフレットには、ロシア人キャバレーの詳細や料金、店の一覧まで紹介されている。
 ロシア人女性は歓楽郷以外の場面でも、日本人の視線にさらされた。キタイスカヤ街に進出した日本人経営の百貨店として松浦商会があるが、「松浦の売子は殆ど全部露西亜の麗しき若き女性【注4】 」とあるようにここでの売り子はロシア娘なのである。日本人はロシア娘を見たさにキタイスカヤ街を訪れていた。
 この他、ロシア色として哈爾濱の景観で重要な位置づけにあったのが、ロシア寺院である。植民地支配に宗教は欠かせないため、哈爾濱には多数の正教会の寺院が建設された。とりわけ重要なのが、ニコライエフスキー寺院であり、「哈爾濱の市街美に大きな役割を果たして」おり、「今尚帝政露西亜の夢を漂はせその名残を留めている。」と満支旅行年鑑に記されている【注5】 。哈爾濱に帝政ロシア時代の遺物が残されていることは、ロシア史を語る上でも欠かせない。一九一七年のロシア革命ロマノフ王朝は滅亡し、ロシアは共産化した。その時、旧支配層や反共勢力だった人々は哈爾濱に落ち延びたのである。彼等は白系ロシア人と呼ばれ、哈爾濱での貧しい暮らしに身をやつしたのである。
 これら白系ロシア人は哈爾濱において主に二地域に居住地を形成した。まず一つ目が馬家溝である。哈爾濱の新市街の隣接し、馬家溝河を挟んで南側に位置する。ここは「皇帝の村」と呼ばれる亡命ロシア人の集団部落が形成されており、ロシア人だけでなく日本人や現地住民も住んだ雑居の地であった【注6】 。もう一つの居住地が新安埠、ナハロフカとも呼ばれる地区である、ここには貧民窟であり、零落した白系ロシア人が急速に集まっていたことで知られるようになる【注7】 。
 共産主義下のソ連では宗教が禁じられたため、正教会の信仰や伝統は哈爾濱で継承されることとなり、その伝統的な行事もまた観光資源となっていたのである。注目すべき宗教行事としては基督洗礼祭があり、哈爾濱にだけ残った特異な宗教行事として耳目を集めていた【注8】 。
 以上のように、哈爾濱はロシア色が観光資源として押し出され、哈爾濱=ロシア人の都市というイメージを喚起させ、それを屈服させる日本人という構図を演出しようとしていたのである。

第二節 哈爾濱における観光者の旅行行動

 哈爾濱はロシア色が強調される都市であるが、果してそれだけであろうか。日本人観光者は中国人居住地域であった傅家甸へも訪問していた。哈爾濱はロシアによって建設された都市であるが、主要なロシア人居住地には現地住民の立ち入りが禁止されていた。それ故、はじき出された現地住民たちは残された土地に自分達の居住区を作り上げていくことになった。そこが傅家甸であり、哈爾濱駅の北東、松花江の南岸に位置していた。

 茲は旧東支附属地外に隣接する浜江県庁の所在地で、ハルピンの発達に随伴して僅々三〇年間に、今日の隆盛を致した満洲国人街で、往年附属地内居住を許されなかつた支那人が悉くここに居住したので、純然たる支那街として発達を遂げたる街である。もとよりこの地は初め傅なるものの一旅舎が附近漁戸の聚楽場となりしに端を発し、茲に地名の濫觴をなしたと伝えられてゐる。頭道街から二十道街まで伸びた実に大きな街で、足一度此処に至れば乾坤一変、殊に縦の主道正陽街を中心とした車馬の覆奏には何人も吃驚する処、中央停車場よりの電車も通じ、支那人自ら建設した代表的欧風都市として中国上海に次ぐの都市、又将来北満宝庫の集散を支配する中心地として一顧に値する処である。朱色に塗り立てられた支那特有の看板、濃艶な彩旗、暖簾に記された大文字、極度の支那気分が横溢してゐる。袖長な支那人の群衆が右往左往し、穢ない人力車、馬車がホウホウと大きな奇声をあげつつ目まぐるしく走つてゐる。実に支那人は金銭欲の為には、何物を犠牲に供して憚らない。故に利益になることなれば、何時何処でも這入りこむ遅疑せざる人種である。この傅家甸も或る意味に於ては露国は支那人の為に侵入されてしまつて、今日繁盛を来たしたものと見てよい。【注9】

 ここで着目したいのは「支那人自ら建設した代表的欧風都市」というフレーズである。これまで新京の商埠地、奉天の城内において現地住民が近代的都市を形成してきたことを確認してきたが、哈爾濱においてもこの特徴を言うことができるのである。いや哈爾濱は、その他に都市に比して満洲国では一番大きい欧風都市なのである。
 この傅家甸は観光バスのモデルコースには組み込まれておらず、松花江の遊覧船に乗るために傅家甸埠頭で下車する程度である【注10】 。だが、モデルコースに無くとも日本人観光者はその現地住民の近代文化の最も発達した都市を見るために傅家甸に赴いたのである。日本人観光者は傅家甸の殷賑を体験したが、新京と同様に劇が観光資源となった。哈爾濱には主要な劇場として大劇院があり、そこでの娯楽に興じる様子が描写されている。盛んに飲食をしながら熱心に芝居を見る様子が分かり、満洲国軍人が多く入っている状況に驚愕している【注11】 。また日本人観光者の中には現地住民の住居にも関心を示す者があり、見学に訪れている。靴を脱がないため土間になっている部屋や、寝室だけ床張りになっているここと、冬季のためのオンドル設備などについて興味深く記されている【注12】 。
 ここまで哈爾濱における現地住民の居住地域を見てきたが、もう一つ夜の哈爾濱についても記しておく。観光連盟や観光協会はロシア人の性的消費を促していたが、観光者はこの宣伝に則り夜の哈爾濱に繰り出して行った。夜の哈爾濱の宣伝効果は高く、哈爾濱に行ったらキャバレーに行くことが一般化していたのである。面白い事例を紹介すると、小学校の校長の視察団にも関わらず、夜の哈爾濱の事にばかり気を取られ、真面目な在満日本人が憤慨するというものである。「いつか私は呆れましたよ。小学校長の視察団が来た時ですが、私は伊藤公の銅像の前に案内したんです。するとどうですか、その中の一人が私にトロイカはどこですかなんて訊くじゃあありませんか。私はただ呆れて返事もしませんでしたな。伊藤公の銅像の前ですよ。而も小学校長だなんていふ人が―」とあり、慰問や視察を目的に満洲を旅行した人々が、哈爾濱ではロシア人女性の性消費を期待していたのである。そして、このロシア人女性を観光の消費の対象とする施設に行くことは男性のみの特徴ではなく、日本人女性もまた利用していたのである【注13】 。
 ロシア人女性がこのような状況に身をやつする背景には、やはりロシア革命の影響が大きい。共産化により私財を喪失し亡命してきた白系ロシア人たちは自らの肉体を鬻ぐより他はなかったのである。その点、ロシア人女性は観光資源として消費の対象となれたため、夜の哈爾濱で働く他は百貨店の従業員やカフェのウェイトレスなどで需要があった【注14】 。また観光業と関りが深いのがバスガイドである。日本語を仕込んだ見目麗しいロシア人の少女をバスガイドとして採用し、日本人のバスガイドと共に乗車させ、ロシア寺院などロシア色の強い観光資源を案内する際には、ロシア人女性に解説をさせたのである【注15】 。
 

第三節 哈爾濱における現地住民の都市生活

 哈爾濱で生活を送る現地住民は日本人観光者にはどのように映ったのだろうか。まず挙げられるのが、ロシア支配の後退である。当初、ロシア人居住地域に現地住民が入れなかったことは既に述べた。しかし、満洲国建国と北鉄譲渡により、現地住民もかつては入れなかったロシア人居住地域に進出し始める。「〔……〕道裡公園といふのがある。今は市の経営になつてゐるが昔は支那人の入園を禁じた時代もあつたといふ。露人等は支那人と肩を互して園内の散歩を潔しとしなかつたのである。彼等は如何に有色人種を軽蔑したかが分かる。【注16】 」とあるようにかつては入れなかった道裡公園にも堂々と入れるようになっている。
 そして、現地住民もロシア人女性を性的な消費の対象としている。ロシア支配の時には、あり得なかった現象である。

 花柳界にはロシヤの女も居れば混血児もあり、朝鮮の娘も日本人もゐる。ロシヤの女はビール樽のやうなのが普通だが、ナンバーワンはさすがに楚々たるスタイルでトルストイのカチユーシヤは至る所にゐる、殊に満洲人は細腰を好むさうで、満洲人に向くやうなロシア女を揃えてゐる、ダンサーに至つては商売柄すべてハオカン(きれい)である。之等のダンサーは金さへ与えればなんでもやる。丸裸のダンス、即ちハルピン名物のハダカ踊はあまりにも有名である。【注17】

 満洲国建国後の人種間混淆は浴場でも見られた。なんと日本人が経営している東京形式の風呂に日本人、ロシア人、現地住民が一緒に入浴しているのである。

夕食後風呂に入つた。この浴場は日本人の経営であるといふ 内部は東京のものと同じである。中央に浴槽があつて四方が流しになつてゐる。しかし入浴してゐる人達はいささか毛色を異にしてゐる。満人は勿論のこと露人もゐる又我々日本人も入つてゐるのだ。汗を流してえい気持ちになつた。【注18】

 また、商売についても現地住民には独自の工夫と熱意があり、日本人は競争に勝てないと思い知ることもある。「夜。満洲人経営の商店に飛び込み土産物を買ふ、筆談である。実に気持ち良い程親切である。十銭の商売にも熱心そのものでやる。日本の商人もこの熱心さがなくては駄目だとつくづく感じた。【注19】 」と商売の姿勢に感心している。このような商売の理由もあるだろうが、哈爾濱には億万長者が一〇人もおり、いずれも現地住民であることが驚愕を持って迎えられている【注20】 。
 以上のように、哈爾濱では満洲国建国、北鉄譲渡を経て、日本人、ロシア人、現地住民が交わるようになった。かつてのように現地住民が侵入を禁じられることはなくなった他、ロシア人女性を性的対象と消費するとともに、日本人、ロシア人とともに風呂に入っているのである。そして商売では圧倒的に日本人の上を行き、哈爾濱では億万長者として富裕層を形成していることが分かるのである。

第四節 本章のまとめ

 第四章では哈爾濱について扱った。観光事業者は哈爾濱の観光資源としてロシア色を打ち出していた。哈爾濱はロシア人によって都市形成が進み、ロシア色溢れる景観が見られたからである。そしてロシア色という観光資源はロシア人の存在そのものにも向かった。ロシア革命により零落した白系ロシア人たちがサービスを提供し、それを日本人や現地住民が享受したのである。観光事業者は積極的にロシア人の歓楽施設を紹介し、日本人観光者はそれに則り、ロシア人女性を消費したのである。また観光業にも組み込まれ、日本人経営の百貨店に売り子として雇われたり、観光バスのバスガイドになったりして観光者の視線にさらされることとなったのである。
 もう一つの特徴として現地住民が形成した居住区傅家甸を忘れてはならない。ロシア支配時代、現地住民がロシア人居住地域から排除された結果形成した都市が傅家甸である。大陸では上海に次ぐ近代的欧風都市を現出しており、非常に繁栄している。観光事業者のモデルコースにこの傅家甸は設置されていないが、日本人観光者はここを訪れその盛況を語っている。
 そしてロシア人から差別を受けて来た現地住民の満洲国成立後の変化も見過ごせない。現地住民はこれまで制限を受けていた公園にも堂々と散歩するようになり、ロシア人とも風呂をともにするようにもなる。さらに、ロシア人女性を性的に消費する施設を現地住民もまた利用しているのだ。
 哈爾濱では現地住民がロシア支配に対抗して独自の近代的な都市を形成してきたとともに、満洲国成立後のロシア支配後退後には、従来の支配を脱し、逆にロシア人を消費するようにまでなっていることが分かるのである。

【注1】 東亞旅行社編『満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、一九四二、一五二頁
【注2】「突撃隊」、『満洲観光連盟報』第四巻五号、満洲観光連盟、一九四〇、三二頁
【注3】哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、一九三九、一七-一八頁
【注4】宝蔵寺久雄『海鼠は祈る:満洲旅行記』、新知社、一九三三、二〇四頁
【注5】東亞旅行社編『満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、一九四二、八八頁
【注6】『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、一九三九、一一五頁
【注7】前掲書、一一六頁
【注8】前掲書、一一八頁
【注9】杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、一九三五、一七二-一七三頁
【注10】哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、一九三九、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122457、三-四コマ
【注11】橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、一九三三、七八-七九頁
【注12】磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、一九四一、四一-四二頁
【注13】哈爾濱を訪れた女性がキャバレーファンタジヤに行く様子は岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会、一九三八、五八-五九頁、鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 一九四一、一五二-一五四頁に詳細の述べられている。
【注14】村野貞朗編『大陸みやけ話』自費出版、一九四〇、三二頁
【注15】寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、一九四四、二〇-二一頁
【注16】磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、一九四一、二八-二九頁
【注17】石倉惣吉 『新天地を行く:満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、一九三三、六六-六七頁
【注18】磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、一九四一、二九頁
【注19】橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、一九三三、二六-二七頁
【注20】井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、一九四二、一三一-一三二頁