【日本史】政治史人物整理 平安時代 桓武から後冷泉までの天皇

受験日本史の整理の仕方として、天皇や将軍、首相などの人物ごとに区切って覚えると政治史の流れがすっきりする。平安時代は教科書などだと天皇よりも藤原氏の政権担当者の記述が多くなるので、天皇がどのような位置づけなのか分かりにくいと思う。そのため天皇の特徴を簡潔にまとめることとした。まずは桓武~後朱雀までの天皇の整理。

【1】桓武とその皇子たち → 桓武・平城・嵯峨・淳和

【2】仁明系① 陽成廃位で正統から外れる血統→ 仁明・文徳・清和・陽成

【3】仁明系② 陽成廃位で正統となった血統 → 光孝・宇多・醍醐・朱雀

  • 光孝(在位884~887)
    • 仁明天皇第三皇子。基経が陽成天皇を廃位したため擁立された。あらゆる上奏・下達を基経に諮問させたので事実上の関白のはじめとなる。
  • 宇多(在位887~897)
    • 光孝天皇第七皇子。基経がごねて阿衡の紛議となり、宇多は藤原氏ウッゼェーとなる。そのため、基経が死んだあとは親政して寛平の治と呼ばれた。
  • 醍醐(在位897~930)
    • 宇多天皇第一皇子。宇多の訓戒により菅原道真を重用するが、藤原時平の讒言で昌泰の変により左遷されてしまった。醍醐は親政を続け延喜の治と呼ばれた。時平は左大臣、死後は忠平が継承。
  • 朱雀(在位930~946)   

【4】藤原北家の対立 師輔さんちの兄弟争い(兼通VS兼家) → 村上・冷泉・円融・花山

  • 村上(在位946~967)
    • 醍醐天皇第十四皇子。母は藤原基経女穏子。前代からの関白藤原忠平が死んだあと、天暦の治。左右大臣の同実頼・師輔兄弟の輔弼をうける。
  • 冷泉(在位967~969)
    • 村上天皇の第二皇子。母は藤原師輔女安子。師輔の孫だが、師輔は960年に痔のため死去していたので、実頼が関白となる。幼少のころより異常行動をとったため、後継でもめる。源高明の娘を妻とする為平親王が候補に挙がったとして、実頼は安和の変源高明を失脚させた。藤原北家の他氏排斥が完了した。
  • 円融(在位969~984)
    • 村上天皇の第五皇子。母は藤原師輔女安子。実頼、摂政に就任(以後、摂関常置)。
    • 摂政実頼の死去後、師輔の長男:伊尹が摂政を継ぐが病気のため辞表を提出すると、その後継を巡って師輔次男:兼通と三男:兼家は円融天皇の前で激しく言い争った。円融天皇は兼通を関白としたため、兼家と不和となった。
    • 兼通死去後、兼家復活。円融天皇は兼家の娘:詮子との皇子を皇太子とすることを条件に、兄:冷泉帝の皇子に譲位し、花山天皇が立った。
    • その後、花山天皇が出家し、円融帝の皇子が一条天皇として即位すると、政治に口出しした。
  • 花山(在位984~986)
    • 冷泉天皇の第一皇子。母は藤原伊尹の女:女御懐子(伊尹は師輔の長男)。花山天皇は、藤原氏内部の権力闘争に巻き込まれて、策謀により出家させられたことで有名。一条天皇を即位させようとする兼家・道兼親子に嵌められる。

【5】道長・頼通時代の天皇 →一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉

  • 三条(在位1011~1016)
  • 後一条(在位1016~1036)
    • 一条天皇第二皇子。母は藤原道長の娘:彰子。道長を摂政とし、頼通を摂政、後に関白とした。道長は娘:威子を後一条天皇中宮とした。道長は一条帝・三条帝・後一条帝と娘を后位に立てたので「一家立三后」と呼ばれる。だが後一条帝は皇子には恵まれず、29歳で死去した。