ペリー来航後も幕府が政局を主導するが、テロによって人材が払底し混乱期に陥る。慶喜は幕府を立て直すが、薩長がクーデターを起こす。
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(1)幕府主導期
- 1845~55 阿部正弘政権
- 1855~1858 堀田正睦政権
- 将軍継嗣問題(南紀派VS一橋派)、通商条約締結問題
- 1858~1860 井伊直弼政権
- 1860~1862 安藤信正政権
(2)幕政混乱期(1862~66)
幕府が薩摩藩の干渉で幕政改革を行ったり、長州藩の要求に押されて攘夷決行日が定まったりする。
- 1862
- 1863
- 4.長州藩、朝廷急進派公家と結び将軍家茂を上洛させ攘夷を要求(5/10を攘夷決行期日とす)
- →長州藩は実際に5/10に攘夷決行、下関海峡を通過する外国船を砲撃す。
- 7.薩英戦争…薩摩藩敗北。無謀な攘夷を反省する機運が生まれ開国路線へ(→西郷隆盛・大久保利通ら下級武士革新派が藩政掌握)。イギリスも薩摩を評価し、薩英関係が緊密化。
- 8.八月十八日の政変…薩摩・会津・公武合体派公家が朝廷実権掌握→尊攘派を京都追放
- 1864
- 1865
- 条約勅許…列強、兵庫沖に艦隊を派遣し圧力をかけ、条約の勅許を得る。
- 1866
(3)1867年をめぐる攻防期
- ①慶応の改革(1866~67)…慶喜による幕政改革。
- 軍備増強…フランス公使ロッシュに接近。横須賀製鉄所の建設など。
- 組織改革…【従来:老中などの職制】→【改革後:内政事務・陸軍・海軍・会計・外国事務の専任制】
- ②公議政体論VS武力倒幕論
- a.武力倒幕論(薩摩・長州)…武力行使により江戸幕府滅亡と徳川家の国政排除をねらいとする政治運動。
- b.公議政体論(土佐)…雄藩連合政権を作ろうという国家構想。徳川氏を中心とする列藩会議。
- ③大政奉還
- 土佐藩が幕府に建白。慶喜はこれを受け10/14朝廷に上表。15日に許可される。
- ④倒幕の密勅
- 薩摩(10/13)、長州(10/14)にだされたが、大政奉還が許可され武力倒幕の口実を失う
- ⑤王政復古の大号令(12/9)
- 討幕派、武力を背景に朝廷でクーデタ。天皇中心の新政府樹立(江戸幕府滅亡)
- 同日深夜の小御所会議で辞職納地決定!
- ⑥慶喜、京都から大坂城へ引き上げ
- 年末、慶喜は前内大臣と称し、費用を諸大名と同様に負担するという条件で、議定に迎え入れられることになった!(政治的勝利)
- ⑦薩摩藩、関東各地で挑発行動を展開!
- →江戸の留守を預かる幕府勢は江戸薩摩藩邸を焼き討ち
- ⑧「討薩の表」
(4)新政府の国内統一事業
- 戊辰戦争と並行して統一事業が進められ、1871年の廃藩置県で国内統一を達成した。
- (※戊辰戦争に勝利してもすぐに新政府が全国政権になったわけではない。全国には大名を領主とする藩体制が残存していた)
- 1868
- 1869
- 1871
- 7.廃藩置県→徴税・軍事は各藩に属していたため御親兵の武力で断行。地方行政は中央政府が派遣する府知事・県令が担当することになり、国内の政治的統一達成!
- 7.官制改革(太政官制:三院制)→太政官を三院とし正院のもとに各省を置く。