箕輪城跡(100名城No.16)訪問

群馬県高崎市の箕郷に所用のため訪れたのだが、箕輪城が観光資源としてPRされていたため、ついでながら見てきた。

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置かれていたプリントより抜粋

箕輪城の歴史

  • 築城
    • 西暦1500年頃、高崎の浜川地域を拠点とした長野氏が築城。
  • 築城者長野一族
    • 史料不足により築城年・築城などの多くは不明。後の系図からの推定では築城者は①長野業尚(ナリヒサ)/尚業(ヒサナリ)とされる。以後、②憲業(ノリナリ)/信業(ノブナリ)、③業政(ナリマサ)、④業盛(ナリモリ)の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていた。
  • 箕輪城 全盛~陥落まで
    • 長野氏の全盛期は業政の時代。西上野の諸将と婚姻関係を結び勢力を広げる。
    • 永禄年間に西上野は武田・北条・上杉の三つ巴の戦いの舞台となる。
    • 武田信玄の西上野侵攻により、国峰城、安中城、松井田城、倉賀野城が落城、永禄6年(1566)には箕輪城も陥落。
    • 長野業政は関東管領山内上杉家に最後まで尽くしていた。
  • 長野氏滅亡後の箕輪城
    • 武田期(1566~1582):内藤昌秀(マサヒデ)/昌豊(マサトヨ)
    • 織田期(1582年1カ月弱):滝川一益
    • 北条期(1582~1590):北条氏邦
  • 廃城
    • 徳川期(1590~1598):井伊直正が家康の家臣では最大の12万石の城主となるが、高崎に移ったため、廃城となる。

箕輪城の遺構

  • 遺構
    • 1598年の井伊家の移城により箕輪城は廃城となったため、当時の建物は現存しないが、大規模な堀・石垣は良好に残る。
  • 特徴は堀
    • 本丸周辺では最大幅30メートル、深さ10メートルの空堀が巡る。
    • 城の中央部を南北に分断する大堀切
  • 石垣
    • 大手門から本丸に上がる途中の虎韜門、鍛冶曲輪、三の丸、二の丸などに石垣が残る。
    • 城の目立つ場所に城主の権威を示すために建築されたと推定されたとの説がある(出典不明)。
  • 城主交代による城の造り変えが分かる!
    • 長野→武田(内藤昌秀)→織田(滝川一益)→北条(北条氏邦)→徳川(井伊直政)と移り変わるが、その造り変えの状況が発掘調査で明らかになっている。
    • 現在の堀、石垣は井伊氏時代のもの

写真

本丸跡

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郭馬出西虎口門

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大堀切・土橋

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御前曲輪・井戸

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年表

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キャラクターIP

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