戦前主要政党メモ

戦前における主要政党のメモ書き

  • 自由党→解党→立憲自由党自由党
    • 1881年 10月 18日に板垣退助らが結成。薩長両藩出身者が支配する藩閥政府と対決,自由民権の伸長,地租軽減,条約改正などの要求を打出し,各地で急速に勢力を伸ばした。政府の弾圧で84年 10月 29日に解党したが、板垣退助を中心に立憲自由党として1890年に再結成された。第1議会では改進党と民党連合を形成,予算案をめぐり藩閥政府と対決したが,いわゆる土佐派の裏切りにより民党側は敗北を喫し,党の統制は乱れた。このため 91年組織改革を断行,総裁に板垣退助を選出,党名も立憲の2文字を削り自由党と改称した。
  • 憲政党(合同)
    • 1898年6月 29日自由党 (党首板垣退助 ) と進歩党 (党首大隈重信 ) が憲法擁護,政党内閣樹立を掲げ,藩閥勢力の打倒を目指して合同,結成した。同月大隈を首相,板垣を内相とする日本最初の政党内閣を成立させたが,旧自由党系と旧進歩党系の反目から衝突,内閣は倒れた。
  • 立憲改進党
    • 1882年結党。「明治十四年の政変」で政府を追われた大隈重信を中心。イギリスの立憲政体を模した。初期議会では自由党と協調して民力休養を唱え,予算の削減にあたるなど民党としての面目を保った。日清戦争後は国権主義的立場に立ち,96年3月1日進歩党となった。
  • 憲政本党
    • 1898年 10月,憲政党が旧進歩党系と旧自由党系に分裂したことを受け,翌 11月,進歩党系が大隈重信を党首として結成。 1900年に結成された立憲政友会におされて党勢はふるわず,内部対立が続いた。 07年大隈を党首の地位から追い,党首を欠いたまま内紛を続け,10年に小会派と合同して立憲国民党となった。
  • 立憲同志会
    • 1913年桂太郎によって結成が計画される。3度首相になった桂は,常に立憲政友会の抵抗に悩まされ,第3次内閣 (1912) も政友会を中心とした憲政擁護運動の激しい反対を受けた。桂はこの反対運動に対抗するため,立憲国民党の党員などを誘い政党結成を計画した。しかし,桂内閣は総辞職し,彼自身病死するにいたった。その後加藤高明を中心にあらためて結党式をあげた。
  • 立憲民政党
    • 憲政会と,立憲政友会から分裂した政友本党とが合同して 1927年6月1日結党した。総裁に浜口雄幸,顧問に若槻礼次郎。1929年に成立した浜口内閣では大蔵大臣に井上準之助をおき,30年 11月金解禁を断行。ロンドン軍縮会議では,軍部,政友会の強い反対を押切って条約締結に成功したが,31年4月浜口がテロに倒れて同 13日総辞職に追込まれた。翌日成立した第2次若槻内閣もまた,満州事変不拡大方針が敗れ,閣内不統一もあって同 12月 11日総辞職,政権を犬養毅立憲政友会内閣に譲った。
  • 立憲帝政党
    • 1882年に結党。81年の自由党,82年の立憲改進党の結成により,政府に対立する政治運動がますます激しくなったことから,これに対抗するため福地源一郎を中心に結成された。党勢はふるわず,まもなく解党を宣言した。
  • 大政翼賛会
    • 1940年、第二次近衛内閣成立前後に全ての既成政党は解散されて、大政翼賛会が結成されて、近衛自らが総裁となった。知事が各支部長となる政府中心の御用結社となってしまった。