2020-06-12 戦前主要政党メモ 受験日本史 戦前における主要政党のメモ書き 愛国公党 1874年1月,征韓論に敗れて下野した副島種臣,後藤象二郎,板垣退助,江藤新平の前参議が結成した日本最初の政党。 立志社 1874年4月創立。板垣退助を中心に土佐に設立された自由民権運動の中心的結社。 愛国社 1875年高知県の立志社を母体に各地の民権政社を結集して大阪で組織された政治結社。 国会期成同盟 明治13年(1880)に結成された国会開設運動の全国的団体。愛国社から発展。 自由党→解党→立憲自由党→自由党 1881年 10月 18日に板垣退助らが結成。薩長両藩出身者が支配する藩閥政府と対決,自由民権の伸長,地租軽減,条約改正などの要求を打出し,各地で急速に勢力を伸ばした。政府の弾圧で84年 10月 29日に解党したが、板垣退助を中心に立憲自由党として1890年に再結成された。第1議会では改進党と民党連合を形成,予算案をめぐり藩閥政府と対決したが,いわゆる土佐派の裏切りにより民党側は敗北を喫し,党の統制は乱れた。このため 91年組織改革を断行,総裁に板垣退助を選出,党名も立憲の2文字を削り自由党と改称した。 憲政党(合同) 1898年6月 29日自由党 (党首板垣退助 ) と進歩党 (党首大隈重信 ) が憲法擁護,政党内閣樹立を掲げ,藩閥勢力の打倒を目指して合同,結成した。同月大隈を首相,板垣を内相とする日本最初の政党内閣を成立させたが,旧自由党系と旧進歩党系の反目から衝突,内閣は倒れた。 憲政党(分離後) 憲政党解体後、旧自由党系党員が板垣を党首として新憲政党を結成。一方大隈ら旧進歩党系は憲政本党を結成した。新憲政党は第2次山県有朋内閣を支持したが,1900年に提携を打切り,この年に伊藤博文がつくった立憲政友会に合流し,解党した。 立憲政友会 1900年9月 15日に結成。政府系与党を模索していた伊藤博文が文官任用令改正で山県と対立した憲政党と接近して結成。原敬による日本最初の本格的政党内閣を樹立。清浦奎吾内閣成立時、清浦支持派が離反し政友本党を組織。最後の政党内閣は立憲政友会の犬養毅。 立憲改進党 1882年結党。「明治十四年の政変」で政府を追われた大隈重信を中心。イギリスの立憲政体を模した。初期議会では自由党と協調して民力休養を唱え,予算の削減にあたるなど民党としての面目を保った。日清戦争後は国権主義的立場に立ち,96年3月1日進歩党となった。 進歩党 明治29年(1896)立憲改進党が合併して組織した政党。党主は大隈重信。明治31年の第三次伊藤内閣成立後、自由党と合同して憲政党に改組。 憲政本党 1898年 10月,憲政党が旧進歩党系と旧自由党系に分裂したことを受け,翌 11月,進歩党系が大隈重信を党首として結成。 1900年に結成された立憲政友会におされて党勢はふるわず,内部対立が続いた。 07年大隈を党首の地位から追い,党首を欠いたまま内紛を続け,10年に小会派と合同して立憲国民党となった。 立憲国民党 1910年3月憲政本党の後身として結成。犬養毅が指導的地位にあった。 12年 12月桂内閣 (第3次) の成立に際し,第1次憲政擁護運動が起り,立憲国民党は常にその先頭に立った。だが桂は立憲同志会結党をもくろみ立憲国民党からも人材を招じたため、勢力は衰え22年解党,革新倶楽部となり,さらに同倶楽部は 25年政友会に合流した。 革新倶楽部 立憲国民党の後身として,犬養毅らによって 1922年結成された。立憲政友会,憲政会とともに第2次護憲運動のために活動。 25年5月 10日その総会において立憲政友会との合同を決定して解散。 立憲同志会 1913年桂太郎によって結成が計画される。3度首相になった桂は,常に立憲政友会の抵抗に悩まされ,第3次内閣 (1912) も政友会を中心とした憲政擁護運動の激しい反対を受けた。桂はこの反対運動に対抗するため,立憲国民党の党員などを誘い政党結成を計画した。しかし,桂内閣は総辞職し,彼自身病死するにいたった。その後加藤高明を中心にあらためて結党式をあげた。 憲政会 1916年 10月 10日,立憲同志会が他党と合同して結成。同志会の加藤高明が初代総裁。24年に立憲政友会,革新倶楽部とともに野党3派でいわゆる「護憲三派」を結成,この年の総選挙で第1党になり,3派による加藤内閣を生んだ (いわゆる護憲三派内閣 ) 。 25年加藤首相の病死により,若槻内閣を組閣。 27年,若槻内閣が倒れ,政友本党と合同して立憲民政党に代った。 政友本党 1924年に清浦奎吾内閣の成立にあたって立憲政友会を脱党した人々が結成。27年憲政会と合同して立憲民政党を結成するにいたった。 立憲民政党 憲政会と,立憲政友会から分裂した政友本党とが合同して 1927年6月1日結党した。総裁に浜口雄幸,顧問に若槻礼次郎。1929年に成立した浜口内閣では大蔵大臣に井上準之助をおき,30年 11月金解禁を断行。ロンドン軍縮会議では,軍部,政友会の強い反対を押切って条約締結に成功したが,31年4月浜口がテロに倒れて同 13日総辞職に追込まれた。翌日成立した第2次若槻内閣もまた,満州事変不拡大方針が敗れ,閣内不統一もあって同 12月 11日総辞職,政権を犬養毅立憲政友会内閣に譲った。 立憲帝政党 1882年に結党。81年の自由党,82年の立憲改進党の結成により,政府に対立する政治運動がますます激しくなったことから,これに対抗するため福地源一郎を中心に結成された。党勢はふるわず,まもなく解党を宣言した。 大政翼賛会 1940年、第二次近衛内閣成立前後に全ての既成政党は解散されて、大政翼賛会が結成されて、近衛自らが総裁となった。知事が各支部長となる政府中心の御用結社となってしまった。