2020-06-20 列強体制【4】「東方問題」 受験世界史 列強体制 東方問題とは何か? ギリシア独立戦争 1821~29 [ギリシア]+[英仏露] VS [オスマントルコ]+[エジプト] 第一次エジプト=トルコ戦争 1831~33 [エジプト]+[英仏] VS [トルコ]+[露] 第二次エジプト=トルコ戦争 1839~1840 [エジプト]+[仏] VS [トルコ]+[英露普墺] クリミア戦争 1853~1856 [トルコ]+[英・仏・サルデーニャ] VS [ロシア] 露土戦争 1877~78 [トルコ]VS[ロシア] 東方問題とは何か? オスマン帝国の領土・民族問題をめぐるヨーロッパ列強間の外交問題の総称。狭義には、以下の5つの戦争におけるトルコ領をめぐるヨーロッパ列強の凌ぎ合いを指す。 主要な戦争 1821-29 ギリシア独立戦争→アドリアノープル条約→ロンドン会議 1831-33 第一次エジプト=トルコ戦争→ウンキャル=スケレッシ条約 1939-40 第二次エジプト=トルコ戦争→ロンドン会議→海峡協定 1853-56 クリミア戦争→パリ条約 1877-78 露土戦争→サン=ステファノ条約→ベルリン会議 ギリシア独立戦争 1821~29 [ギリシア]+[英仏露] VS [オスマントルコ]+[エジプト] (1)経過 1821 オスマン帝国からの独立を目指しイプシランディスがトルコ領モルドヴァ・ワラキアに侵攻 → 失敗 1822 ギリシア独立を目指す国外の秘密結社が蜂起して独立を宣言。 →欧米からはロマン主義とフィルヘレニズム(親ギリシア)の風潮に感化され義勇兵が参加→バイロンなど。 1825 オスマン帝国、エジプト(ムハンマド=アリー)に支援を要請。 1826 ウィーン体制下で不介入の態度を取っていた英仏露がギリシアを支援して介入。 1827 ナヴァリノの海戦でオスマンーエジプト艦隊が撃滅される。トルコは大打撃を受けギリシア独立が可能となる。 (2)終結 1829 露土間でアドリアノープル条約を締結。 ①ギリシア独立の承認(翌1830年のロンドン会議で国際的な承認) ②黒海とボスフォラス・ダーダネルス海峡の自由航行権を承認⇒イギリスはインド経営が脅かされるので極度の拒否反応を示す 第一次エジプト=トルコ戦争 1831~33 [エジプト]+[英仏] VS [トルコ]+[露] (1)経過 戦争の原因…ムハンマド=アリーがシリア領有をオスマン帝国に要求するが拒否されて開戦!(1831) ←エジプトはギリシア独立戦争時でトルコを支援したが報酬がクレタ島とキプロス島のみであったためシリアを要求。 英仏露の対応 英:オスマン帝国の援助要請を拒否。 仏:公然とエジプトを支援。 露:オスマン帝国を支援。 列強の介入 ムハンマド=アリーの進撃にトルコは慌てる。ロシアが軍事介入すると英仏はトルコに圧力をかけてエジプトと和解させる。 (2)終結(1833) キュタヒヤ条約…エジプトのムハンマド=アリーがシリアの領有権を得る。 ウンキャル=スケレッシ条約…英仏の干渉に不満を持ったトルコはロシアと相互援助条約を結ぶ。 →ロシアはボスフォラス・ダーダネルス海峡におけるロシア軍艦の独占通行権を獲得! 第二次エジプト=トルコ戦争 1839~1840 [エジプト]+[仏] VS [トルコ]+[英露普墺] (1)背景…エジプトと仏が接近すると、仏の抜け駆けを阻止するため、英はトルコに接近して領土保全策に転じる。 →イギリスが露・墺・普と協議して同盟を結成! (2)経過 ムハンマドアリーがオスマン帝国からの完全独立を求めたため、再び戦火が切られる(1939)。 英仏の対応 英:オスマン帝国を支援してエジプトを破る。 仏:孤立化して全面的なエジプト支援を諦める。 (3)戦争の終結 1840年 ロンドン会議…ムハンマド=アリーはエジプト総督職の世襲権とひきかえにシリアから撤退。 1841年 海峡協定 ①外国軍艦のボスフォラス・ダーダネルス海峡の通行禁止。 ②ウンキャル=スケレッシ条約の破棄が決定。 (4)パーマストン外交の勝利 イギリスはフランスのエジプト進出とロシアの南下政策の両方を阻止することに成功!! クリミア戦争 1853~1856 [トルコ]+[英・仏・サルデーニャ] VS [ロシア] (1)背景:聖地管理権問題…16世紀以来仏王がオスマン帝国領内におけるイェルサレムの管理権を所有していたが、フランス革命時に宗教を廃止したので、露の支援で正教会が管理権を得た。だがナポレオン三世がオスマン帝国に聖地管理権を要求して獲得したので露のニコライ1世は不満に思った。 (2)経過 1853 聖地管理権を喪失したニコライ1世が、ギリシア正教徒保護を口実にトルコに侵入! 1854 英仏がトルコ側で参戦。翌年にはサルデーニャも参戦。 クリミア半島のセヴァストーポリ要塞で激戦!1年間の包囲戦のあと陥落 → ロシアの敗北 ※ロシアの後進性が露呈され、戦時中に即位したアレクサンドル2世の国内改革へつながる ※文化史;トルストイ『戦争と平和』、女性看護団を率いたナイティンゲール (3)終結 1856年 パリ条約 →南下政策再び挫折! ①トルコの領土保全 ②黒海の中立 ③ボスフォラス・ダーダネルス海峡の外国軍艦の通行禁止 露土戦争 1877~78 [トルコ]VS[ロシア] (1)戦争の背景と経過 ボスニア=ヘルツェゴビナでギリシア正教徒が反乱を起こすとオスマン帝国は残酷に鎮圧。ロシアはパン=スラブ主義を唱えてギリシア正教と保護を名目にしてオスマン帝国と開戦。 (2)サン=ステファノ条約(1878) ①ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立 ②ブルガリアを自治国(ロシアの保護領)として領土を拡大。 (3)英墺の不満 英はブルガリアをロシアの傀儡国家と考え反発 墺はパン=ゲルマン主義を唱えてバルカン半島進出を狙っており反発 (4)ドイツ帝国のビスマルクが「誠実な仲買人」と称してベルリン会議(1878)を主宰 ☆ベルリン条約 → (サンステファノ条約改廃) ①ブルガリア領土縮小。オスマン帝国内の自治国にとどまる。(=ロシアの南下政策は三度挫折) ②イギリスがキプロス島の管理権を獲得! ③オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得