(1)17世紀後半
- ①第二次ウィーン包囲の失敗(1683)…オスマン帝国の軍事面における衰退のはじまり。
- ②カルロヴィッツ条約(1699)…オーストリアにハンガリー・トランシルヴァニア・スロヴェニア・クロアチアを割譲。大規模な領土喪失。
(2)18世紀
- ①チューリップ時代…アフメト3世(位1703~30)の治世。フランス文化の影響のもと、花鳥・美酒・歌舞音曲に明け暮れした耽美主義の時代。チューリップが珍重されたことによる。
- ②エカチェリーナ2世の侵攻 →キュチュク=カイナルジャ条約(1774)
- ロシアに対し、アゾフなど黒海北岸の割譲・クリム=ハン国の宗主権放棄(→1783併合)・黒海におけるロシア船の自由航行権・オスマン帝国内における正教徒の保護権を認める。
- ③ナポレオンの侵攻 → フランスの遠征軍がエジプトを占領(1798)
地方名士(アーヤーン)の台頭による中央権力の弱体化・地方勢力の自立
(1)19世紀初め
- ①セリム3世 …ニザーム=ジェディット:洋式新軍団の創設、近代的軍需産業の創出、欧州に常設大使。
- ②マフメト2世…イェニチェリ廃止、西洋式常備軍の創設、徴税・行政制度の改革、寄進財産(ワクフ)の改革。
(2)タンジマート(恩恵改革) アブデュル=メジト1世
- ①歴史的意義…ギュルハネの勅令(1839)により全臣民の帝国内における法的な平等・公平な課税を保障。帝国は伝統的なイスラーム国家から、法治主義に基づく近代国家へと体制を一新
- ②改革の成果…中央集権的な官僚機構、近代的な軍隊、法の支配など、近代国家としての内実が定着。
- ③経済的従属…工業製品が流入し土着産業は崩壊。外債に依存し事実上の破産(1873)。
(3)立憲政への動きと挫折
- ミドハト憲法 (1876)…アジア最初の憲法。二院制議会と責任内閣制をとり宗教を問わず帝国内の諸民族をオスマン人と見なすオスマン主義に立脚。だが露土戦争(1878)を口実にアブデュル=ハミト2世が停止し皇帝専制体制が復活。
(1)ナポレオンの侵略
- 1798年のエジプト遠征→混乱に乗じてムハンマド=アリーがエジプト総督となり、オスマン帝国も追認(1805)。
(2)ムハンマド=アリーのエジプト近代化政策
- ①内政
- マムルークを一掃、近代的な陸海軍の創設、造船所・官営工場・印刷所の建築、教育制度の改革
- →徴兵制や強制労役を通じて、エジプト人は国民統合される。
- ②外政
- オスマン帝国の要請でワッハーブ王国を滅ぼす(のち復活)
- 第一次エジプト=トルコ戦争(1831~33)…シリア領有を求めてムハンマド=アリーがオスマン帝国に宣戦。ロシアがオスマン帝国を援助したが、イギリスの干渉によりエジプトはシリア統治権を得る。
- ウンキャル=スケレッシ条約(1833)→ロシア以外の外国軍艦のボスフォラス・ダーダネルス両海峡の航行禁止
- 第二次エジプト=トルコ戦争(1839~40)…シリアの世襲権を求めるムハンマド=アリーに対してオスマン帝国が攻撃。ムハンマド=アリーは仏の援助で勝利したが英が干渉してスーダン以外の征服地を返還。
- ロンドン会議→ロンドン4国条約→海峡協定(1841)→ウンキャル=スケレッシ条約破棄。外国軍艦の両海峡の航行禁止
(3)英の保護国となるエジプト
- ①不平等条約…トルコーイギリス通商条約(1838)がエジプトにも適用され、関税自主権を失い治外法権を承認。
- ②国家破産…綿花に依存したモノカルチャー化は国際価格に国家の経済が大きく左右され、経済が弱体化。南北戦争後、アメリカ産綿花の輸出が再開され、綿花価格は暴落し大打撃を受ける。1862年に外債発行、76年に破産。英仏による国債管理下に置かれる。
- ③スエズ運河 の持ち株をイギリスが買収
- 1869年、フランス人レセップスがスエズ運河を建設。1875年、財政難に陥ったエジプトがスエズ運河の持ち株をイギリスに売却。イギリスは保守党のディズレーリがユダヤ人財閥のロスチャイルド家の資金力を利用。これ以後、イギリスのエジプトに対する介入が深まる。(※フランスは普仏戦争の敗北により疲弊中)
- ④ウラービー革命 (1881~82)…エジプトに対する外国支配の強化に対して、ウラービーの指導でおきた武装蜂起。「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに掲げ、エジプト民族運動の出発点となる。
- →英が単独出兵で鎮圧し事実上の保護国→1914年WWⅠで完全保護国化。
(4)エジプト周辺地域
- ①アラブ文芸復興運動…シリアやレバノンで近代的なアラビア語の著述や出版が盛んとなる。
- →言語を通じてアラブ民族意識を高め、19世紀末以降に展開するアラブ民族主義運動への道を開く。
- ②マフディーの乱…1881年、スーダンでマフディー(救世主)を名乗る指導者が蜂起し独立国家を建設
- →1898年、英・エジプト連合軍に滅ぼされ、英支配下に入る。
- ①パン=イスラーム主義の歴史的背景
- 東方問題の激化により西アジア諸国において民衆的自覚とイスラーム教徒としての連帯の必要性が生まれる。
- ②パン=イスラーム主義 が唱えられる。 Byアフガーニー
- 帝国主義的侵略にさらされたイスラーム諸国の間で、ムスリムを中心に大同団結してイスラーム世界の統一を目指し、侵略に対抗しようと生まれた思想。エジプトのオラービー(ウラービー)革命やイランのタバコ=ボイコット運動に影響を与える。
- ③代表的思想家
- アフガーニー (1838/39~1897) イラン生まれ
- ムハンマド・アブドゥフ (1849?~1905)。エジプト出身
- アフガーニーの弟子。『固き絆』を刊行し、イスラーム世界に大きな影響を与える。ウラービーの反乱後、エジプトを追放されるが、1888年に帰国。ヨーロッパ近代文明とイスラームが本来は矛盾しないことを説き、シャリーアの改革の徹底によるウンマの復興を唱える。イスラーム世界全体に多大な思想的影響を残した。
- ムハンマド・ラシード・リダー(1865-1935)。シリア出身
- ①背景:日露戦争における日本の勝利→立憲制が専制政治に勝るという認識が広がる。
- ②展開:ミドハト憲法復活の声が高まり、「青年トルコ人」は若手将校と結んで1908年に政権を奪取。立憲政を復活させる。
- ③「青年トルコ人」政権の統治
- a.パン=トルコ主義…トルコ人の団結・統合をはかる政策。帝国内の非トルコ系民族の反発を招いた。
- b.列強の干渉
- c.対応…危機を乗り越えるために3B政策をとっていたドイツに接近する。
☆オスマン帝国は同盟国としてWWⅠに参戦し、敗戦国となる。
- 1922年10月 スルタン(世俗的支配権保持者)廃止 ⇒メフメト6世亡命、オスマン帝国滅亡
- 1923年7月 ローザンヌ条約 …屈辱的なセーヴル条約の破棄、不平等条約撤廃、連合軍の撤退
- 〃 年10月 トルコ共和国を正式に樹立。
9-1.中東
1919年、パリ講和会議にはフサインの三男ファイサルが出席するが、結局は英仏の委任統治領となる。
- (1)-1.イギリスの委任統治領
- ①パレスチナ(英)…英の三枚舌外交により現代まで続くパレスチナ問題発生!
- フサイン=マクマホン協定 → 対トルコ反乱を条件としてアラブの独立支持を約束
- サイクス=ピコ協定 → 英仏露でトルコ領を分割しパレスチナを国際管理地
- バルフォア宣言 → ユダヤ人の資金援助を条件にユダヤ人国家建設を支持
- ②イラク(英)
- ③ヨルダン(英)
- (1)-2.フランスの委任統治領
- ①シリア(仏)
- ②レバノン(仏)
- 1941年にシリアから分離、43年に共和国が成立。
- 1924 イブン=サウードがワッハーブ国の再建を目指して、アラブ独立運動の指導者であったヒジャーズ王国のフサインを破る。
- 1926 イブン=サウードがヒジャーズ=ネジド王国を建国 ⇒27年、英とジェッダ条約を結んで承認される
- 1932 ヒジャーズ=ネジド王国、アラビア半島の大部分を統一。サウジアラビア王国成立
9-2.アフリカ
(1)エジプト
- ①イギリスの保護国から独立へ
- 1914 エジプト保護国化 …第一次世界大戦勃発と同時にオスマン帝国の主権を否認し保護国化
- 1919 反英運動高まる…エジプトの民族代表団ワフドを中心に大衆運動が広がる
- 1922 英、保護権を放棄…英が一方的に条件付き独立を宣言。エジプト防衛権、スエズ運河駐屯権、スーダン領有権を留保した。エジプト王国の成立。
- 1936 エジプト=イギリス同盟条約…エジプトに完全な主権を認め、イギリス軍と官吏の退去を定めた。しかしスーダンとスエズ運河にはイギリスが駐兵を続けた。
- ②イスラーム勢力の伸長
- 世界恐慌とともに都市労働者、農村から流入した貧困大衆の間に経済的社会的格差に対する不満が拡大。
- ①独立王朝…16世紀中頃からシャリーフ(ムハンマドの子孫)政権が支配。スペインやポルトガルの侵攻を撃退。。
- ②立憲政への動き…日露戦争における立憲政の勝利にモロッコも影響される。
- ③フランス保護国化…モロッコ事件(タンジール事件→アルヘシラス会議→タンジール事件)を経て、1912年に保護国化。