近現代東南アジア史【2】蘭領東インド

1.東南アジアへのオランダの進出

東ティモール(葡)を除くインドネシア群島全域~

  • ①ジャワ島の獲得
    • 16世紀末  オランダ ジャワ島に到達。香辛料 の獲得をねらう
    • 17世紀前半 アンボイナ事件 (1623)を契機にイギリスに優越し、領土獲得に乗り出す。
    • 18世紀半ば マタラム王国 を滅ぼしオランダはジャワ島の大半を直接支配下に置く。
  • ②オランダのジャワ島支配
    • (a)19世紀 商品作物の導入(コーヒー、サトウキビ、藍など)
    • →オランダ政庁、買い上げ価格を一方的に決め、生産者サイドはきわめて不利な立場。
  • (b)強制栽培制度…オランダ政庁は栽培すべき作物の種類と土地、生産量、必要な労働者の数などを支持し、生産物を低い支持価格で徴収。オランダは莫大な利益をあげた。しかしこれによりジャワ村落は食料の自給がしばしばできなくなり、大きな困難を背負わされた。
    • ☆実施した要因1.ジャワ戦争(1825~1830):オランダ支配への大規模な反乱により財政状況が悪化。その立て直しのため。
    • ☆実施した要因2.ベルギーの独立(1830):ウィーン会議でオランダはハプスブルク家から南ネーデルラントを獲得していたが、七月革命の影響でベルギーとして独立してしまったので、その負債を回収するため。

2.蘭領東インドにおける民族運動

  • ①19C末~:サミン運動…農民サミンが始めた民衆運動。蘭支配に抵抗し原始共産社会への回帰を求める。
    • Cf.カルティニ…蘭語による近代教育を受け、女性の地位向上を目指し改革に取り組む。『闇から光へ』
  • ②植民地政策の根本的な見直し(強制栽培制度の廃止など )
    • 「倫理政策」(20世紀初め)…オランダは東インドへの道義的責任を感じ、キリスト教布教、原住民の福祉向上、現地への権力移譲を掲げる。
    • 住民への福祉政策…現地人官吏養成政策の一環として多くの学校が設立される。
      • 貴族の子弟に蘭語教育や専門教育→ 民族的自覚→知識人主体民族運動団体ブディ=ウトモ結成。
  • ③サレカット=イスラーム
    • 1911年に結成された民族的な組織。当初は相互扶助的性格が強かったが、政治的活動も行うようになった。1918~20年の民族運動の昂揚期には中心的な役割を果たし、民族独立や社会主義を掲げる。
    • 植民地政庁の弾圧を受け、組織は崩壊し、20年代にはいると急速に衰退。

3.蘭領東インドにおける民族運動の再編成

  • 背景
    • オランダの過酷な支配と搾取に対し、WWⅠ後、1911年設立のサレカット=イスラーム1920年成立のインドネシア共産党によって民族運動が推進されたが、26~27年の蜂起が弾圧され、再編成された。
  • インドネシア共産党(1920)
  • インドネシア国民党(1927国民同盟 ⇒ 28国民党)
    • スカルノが創建した民族主義団体。オランダからの独立を目指す愛国運動であるムルデカ運動を展開。28年にはインドネシアという統一された祖国・民族・言語を目指すことを宣言。
    • 29年に弾圧を受け、指導者たちが逮捕され、運動は沈滞した。
    • 42年日本軍の進駐 ⇒ 日本軍と連携しつつオランダからの独立運動を推進。日本の降伏後に独立を宣言した。

4.第二次世界大戦後の蘭領東インド

4-1.独立戦争

  • 日本軍政下で独立準備。日本降伏後8月17日にスカルノを指導者として共和国を宣言。宗主国オランダはこれを認めず独立戦争。ゲリラ戦と国際的批判により、49年11月ハーグ協定で独立承認

4-2.開発独裁

  • スハルト政権(1968~98)
    • 九・三〇事件を収拾して実権を握り68年大統領。反共親米路線を取り、西側資本を導入して積極的な経済発展を図った。しかし貧富の差の拡大、スハルト一族による利権の独占などで批判を浴び、98年大統領を辞任した。
    • ASEAN(1967)…タイ・マレーシア・シンガポールインドネシア・フィリピンで結成。当初は反共軍事同盟的傾向。

4-3.スハルト退陣以降のインドネシア

  • ②ハビビ政権(1998~99)
    • スハルト一族の排除や青磁の自由化に努めたが経済が好転せず退陣。
    • 政権末期、東ティモール独立派へのテロ活動を抑えきれず国連の介入を受けた。
  • ③メガワティ政権(2001~04)
    • スハルトの娘。経済の再建に少しずつ成果を上げたが、テロ活動などの治安悪化で外資が細り苦慮。