2020-07-21 前近代南アジア史【2】 インドにおけるイスラーム王朝 受験世界史 前近代南アジア史 1.インドへのイスラーム伝播 2.ムガル帝国 ムガル帝国重要君主 3.ヒンドゥーとイスラームの文化融合 (1)新興宗教 (2)言語 (3)インド=イスラーム文化 4.インド洋貿易のネットワーク (1)ヴィジャヤナガル王国(1336~1649) (2)セイロン島 (3)インド洋イスラーム=ネットワークの断絶 (4)インド洋イスラーム=ネットワークの再活性化と衰退 1.インドへのイスラーム伝播 ①ガズナ朝(962-1186)…アフガニスタンのトルコ系軍事政権。北インドに侵入を繰り返す。 ②ゴール朝(1148頃-1215)…アフガニスタンのイラン系軍事政権。北インド支配の基礎を築く。 ③デリー=スルタン朝…デリーを首都にした5つのイスラーム王朝が興亡。 a.奴隷王朝(1206-1290)…マムルーク出身のデリー駐屯司令官アイバクが建国 b.ハルジー朝(1290-1320)…トルコ系。地租の金納化など経済改革を行う。南インドを征服。 c.トゥグルク朝(1320-1414)…トルコ系。デリー=スルタン朝で最大版図。ティム-ルにより滅亡。 d.サイイド朝(1414-1451)…トルコ系。ティムールからパンジャーブ地方の統治を委任された地方長官が建国。 e.ロディー朝(1451-1526)…アフガン系。パーニーパットの戦いでバーブルに敗れる 2.ムガル帝国 ムガル帝国重要君主 ①バーブル(位1526~30) ※インドに侵入 ティムール直系の子孫バーブルがパーニーパットの戦いでロディー朝を滅ぼす。 →デリーに入城してムガル帝国を樹立。しかし中央アジアへの望郷の念が失われず統治は不安定。 ②フマーユーン(位1530~40、55~56) ※帝国の一時的滅亡 一時デリーを追われイランに逃亡。その後、勢力を盛り返しデリーを奪還するが事故死。 ③アクバル(位1556~1605) ※帝国の実質的な建国 a.遷都…デリーからアグラへ b.統治:中央集権的機構の整備 全国を州に分割し官吏を派遣、土地を測量し税制を確立。 マンサブダール制…全ての官僚に序列をつけ、その位階に応じて給与と保持すべき騎馬の数が決められた。 c.宗教:イスラームとヒンドゥー教の融和をはかる ラージプート(クシャトリヤに属する王侯・戦士ジャーティー)の王女を妃に迎え、王族を高級官僚に迎える。 非ムスリムに対するジズヤを廃止。 ④シャー=ジャハーン(位1628~58) ※タージ=マハル a.デカン高原の地方政権を服属させ、帝国の安定期をもたらす。 b.タージ=マハルなど建築事業に力を注ぎ、インド=イスラーム文化の黄金時代を築く。 c.息子(アウラングゼーブ)に幽閉され愛妃の眠るタージ=マハルを窓から見ながら晩年を過ごす。 Cf.ムムターズ=マハル…シャー=ジャハーンの愛妃。18年間に14人の子どもを産む。 ⑤アウラングゼーブ(位1658~1707) ※厳格なスンナ派・領域最大 a.厳格なイスラーム国家を目指した強権的な政策が反動を受け帝国の分裂を招く。 b.ジズヤを復活してジハードを展開 →各地の異教徒・異端派が反抗。 c.たびかさなる遠征で財政が窮迫したため、軍人や官僚に徴税権を与え、民間人による徴税請負も公認 → 中央集権体制が崩壊。 d.帝国の分裂→西インドのラージプート族、デカン高原のマラータ王国(ヒンドゥー勢力)、パンジャーブ地方のシク教が武装して独立王国を形成。 e.ヨーロッパ諸国の侵入 e-1)イギリス:マドラス(1640)、ボンベイ(1661)、カルカッタ(1690) e-2)フランス:シャンデルナゴル(1673)、ポンディシェリ(1674) f.アウラングゼーブ帝の死後、各地に藩王国が成立。 3.ヒンドゥーとイスラームの文化融合 (1)新興宗教 ①カビール…下層ムスリム出身の宗教改革者。儀礼や偶像、カースト制を否定。イスラーム神秘主義の影響下にヒンドゥー教との融合をはかり、神ラーマへの帰依(バクティ)を説いた。 ②ナーナク…イスラーム神秘主義とカビールの影響を受けてヒンドゥー教を改革しシク教を創始。ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教を融合し、偶像崇拝や苦行、カースト制を否定した。 (2)言語 ①ペルシア語…公用語 ②ヒンディー語…デリー周辺 ③ウルドゥー語…口語・ペルシア語・アラビア語が混成して成立。 (3)インド=イスラーム文化 ①建築:インド独特のイスラーム建築。Ex.タージ=マハルなど。 ②絵画:イランの細密画にインドの絵画文化が融合。ムガル絵画・ラージプート絵画など。 4.インド洋貿易のネットワーク (1)ヴィジャヤナガル王国(1336~1649) ①建国:トゥグルク朝の支配を脱して首都ヴィジャヤナガル(勝利の町)を建設。 ②繁栄:ヒンドゥー政権を再興し、カリカット・クイロンなどの港市を支配 →インド洋貿易:イスラーム=ネットワークとも深い関係 北インド諸国に対抗するためホルムズに米や木綿を輸出し、大量の軍馬を購入。 インド西部のマラバル海岸の港市には現地のムスリム商人が内陸部と海外商人を仲介。 ③衰退:16世紀に力が衰え17世紀にヨーロッパ諸勢力が海岸部に進出。 (2)セイロン島 上座部仏教国家が存続していたが、ポルトガル、次いでオランダの勢力が及ぶ。 (3)インド洋イスラーム=ネットワークの断絶 ①16世紀初め、ポルトガルにより一時寸断される。 ②ポルトガルの政策転換 背景:鉄砲が防御不能ではなく、支配するポルトガル人もごく少数だったため。 転換:香辛料を独占してヨーロッパに運ぶよりも、貿易拠点を確保してムスリム船から通行料を取る。 (4)インド洋イスラーム=ネットワークの再活性化と衰退 ①オスマン帝国 1517年、セリム1世がマムルーク朝を滅ぼし紅海ルートを入手 貿易…東方からのメッカ巡礼ルートの確保のためインド洋への関心を強める。 イラクを征服して、ペルシア湾岸に出口を得る。 1538年、インド西岸のディウにあったポルトガルの拠点を攻撃 ②海上交易が盛んだったアジア勢力 東南アジアのイスラーム諸国 ムガル帝国 1622年にホルムズからポルトガルを駆逐したサファヴィー朝 ③17世紀後半 世界的に遠距離貿易が衰退(ヨーロッパでは17世紀の危機・東アジアは貿易統制)→支配層が海上貿易の関心を失う。