【項目】
1.軍港都市の建設と発展
鎮守府設置以前の呉
都市の出現
- 鎮守府設置の画期
- 軍人、労働者が呉に集まり、彼等を相手に商売を行う者たちが居住していき、人口増加とともに多様な業者が立地する都市へと成長。
- 産業構造の変化
- 池田幸重『呉案内記』(田嶋商店、1907)によると、以前は農業・漁業従事者が8分、商工業者が2分の割合の土地であったが、鎮守府の設置後は「実業界も大いに面目を一新して商工業大いに起り、耕作、漁者は皆無の姿に皆無の姿」になった。
市街地と海の距離
- 『呉市概略図』(1911、12月刊行)の情報操作
- 人間の出入りの制限
- 市街地部分から軍用地部分への民間人の立ち入りは基本的にはできない。工廠勤務者との面会は許可制、工場内の立ち入りは不可能。工廠の観覧は許可証を得た場合のみ可能で工廠内の行動は厳しく制限。
市街地のにぎわい
- 「軍人と職工とは呉の生命」
- 軍人と工廠労働者がいるために「月々数十万円の金が呉市に落ちて十余万の市民は種々に活動」できる(『呉案内記』)。
- 軍人・労働者はどこで金を使ったか
- 本通…業務地区の中心。銀行の多くが店舗を構え金融業務の中心。路面電車も通り、市街南北路の軸線。医院・医者も集中し、銭湯や旅館・料理店も多い。
- 中通…盛り場の中心。旅館・料理店の半数以上が仲通り沿いに位置。中国地方随一の「呉座」をはじめとする劇場・寄席があった。
軍港都市の盛り場
- 『新編 呉軍港案内』
- 本通…「粒よりの代表的一流商店」が並び、盛り場などは無い。舗装道路、優美な銀行をはじめとする建築物、鈴蘭灯、鉄製の電柱、いずれも美しく、どの町よりも気品がある。
- 中通…呉市の発展とともに生まれ出た近代的な「カフェー」「その他バー」「喫茶店」が集中する街路。道路舗装、鈴蘭灯に輝く夜景は美しい。艦隊が入港した際には、「海の勇士歓迎」「祝無敵艦隊入港」といったビラや立て看板。他の都市にはない「繁栄と愉悦、近代的ないきいきとした軍港情緒」が現出。呉市を代表する歓楽街。
- 朝日遊郭…本通、中通を北上した地点に存在。市内のカフェーに対抗して洋装化・近代化を進め、客の気を引こうとする営業努力。その矛先は「海軍さん」「職工さん」。
- 遊興空間における海軍の階級
- 遊興空間内で海軍の階級差にもとづいた遊び方や場所の空間的分化がみられる。市街地に海軍の社会性が持ち込まれる。市街地と軍用地は密接なつながり。
- 市街地と軍用地の境界
- 本通をまっすぐに南に向かい軍用地の第一門、その直前に通過する眼鏡橋。
博覧会の開催
- 戦争と呉→最大パフォーマンスが「国防と産業大博覧会」
- 「日本の鎮め、非常時日本の心臓」たる呉軍港で、海軍の精鋭、産業の振興、科学の精華を極めた軍需工業の全貌をあつめ「非常時日本の意気と覚悟」を示すことを目的として計画・実施された。期間は1935年3月27日から5月10日までの45日間。
- 会場の立地
- 第一会場…市街地北西部の二河公園。二河公園は海軍の射的場の払い下げ地。海軍兵器参考館である海光館や戦死者忠魂碑、呉工廠殉職者招魂碑などが所在。
- 第二会場…市街地南西部に当る臨海地、川原石海軍埋め立て地。
2.市街地の復興
空襲と終戦
- 1945年3月~7月、14回の空襲が呉を襲う
港湾利用の模索
- 水野甚次郎の政治
- 建設委員会の設置。
- 都市計画部において、呉軍港が持っていた日本有数の港湾設備と陸上施設を利用して国際貿易港として登場した場合を想定した都市計画案を議論。
- 海軍消失後の呉
- 海軍施設を民間転用し、空間的にも機能的にも都市の連続性を高めていくことが、呉の復興にとって、ほぼ唯一の道だった(のだが・・・)
- 連合軍の進駐
- 旧市街地部分(戦災区域)のみからの復興
- 復興の歩みは分断を前提したものとして開始。旧軍用地を除外した旧市街地部分(戦災区域)のみを対象とした都市計画が出発せざるを得ない状況。
新たな南北軸
- 今西通
- 呉駅前から北に延びる。呉駅と本町12丁目をむすぶ36~40メートル幅の道路として計画。
- 蔵本通
戦後の中心地
3.平和産業港湾都市をめざして
旧軍港市転換法とはなにか
- 「軍転法」の肝
- 国有財産の処理。旧海軍施設は国有財産化されており、進駐軍の利用に供するほか、一部は戦後賠償に充てられていた。これらの施設を自由に使うことができれば復興に大きな途が開ける、いや、それしか活路はない、というのが四市の共通の思い。それが結実したのがこの特別法の構想。
- 「軍転法」の経緯
- 1947年4月 最初の公選市長選。呉では鈴木術が当選。
- 選挙直後から四市が横須賀市に会し、各市の再建について共同協力することが確認され、旧軍港都更生協議会が作られる。
- 1947年6月 第1回協議会は横須賀で開催。「国有財産の特別処理に関する陳情書」作成→要旨は産業貿易都市を目指すため、旧国有財産の処分に特別措置を講じて欲しいというもの。
もう一つのキーワード
- 「建設」ではなく「転換」
- 広島場合は「建設」。広島は軍都を捨て去り平和記念都市を目指すという戦前・戦後の都市像の断絶が意図的に生み出される結果となる。
- 呉の場合は「転換」。工廠を中心とした旧海軍施設、そしてそこで蓄積された技術を利用することが戦後復興の活路ととらえられていた軍港都市の場合、新たな都市の「建設」による平和実現という発想ではなく、従来のものを連続的に利用するものの、その利用方法を変えることで平和に彩られた新たな都市像の獲得を目指そうとした。
旧軍港都市転換法の浸透策
- 祭典の開催
- 軍転法国会通過直後の4月16日、17日に「転換法通過感謝市民大会」が、5月3日には「春祭り」が開催された。
時代の中の旧軍港都市転換法
- GHQの許可
- 朝鮮戦争の勃発
- 産業界は特需となり貿易拡大をはじめとする活性化が起り、そのことが軍転法を用いた旧軍用地への工場誘致を促したことは事実だが、軍隊の町としての性格を放棄する機会までも失う。
- 国連軍の撤退
- 1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し日本は主権を回復するが国連軍の撤退は進まず、全面撤退が表明されたのは1956年、呉地域からの撤退は翌57年となる。
軍隊の町
- 自衛隊の創設