上杉和央「軍港都市<呉>から平和産業港湾都市<呉>へ」(坂根嘉弘編『西の軍隊と軍港都市: 中国・四国 (地域のなかの軍隊 5)』、吉川弘文館、2014年、104-130頁)

  • 本論の内容
    • 軍港都市としての呉は空襲と敗戦により断絶したが、占領政策の変化と自衛隊の創設により軍隊の街として連続しており、「赤れんが」という海軍イメージの利用により、空間的な広がりを見せている。

【項目】

はじめに

平和産業港湾都市

  • 本論の題材
    • 広島の呉を題材に、軍港都市から平和産業港湾都市にいたる変化を扱う。
    • 海軍鎮守府および海軍工廠(海軍直属の軍需工場)の町として成立した後から、戦後の「軍転法」に至るまでの呉の歴史
    • 分析視点は「連続」と「断絶」

連続と断絶

  • 都市史としての連続性と断絶性
    • 断絶性
      • 呉は1945年(昭和20)に大規模な空襲を受け、海軍施設のみならず市街地部も壊滅的被害を被る。戦後復興がはじまった時、海軍も存在しなければ海上自衛隊もなかった。軍港都市として歩んできた呉の都市史には断絶がある。
    • 連続性
      • 戦前の要素を「転換」して用いることで戦後復興を目指す
  • 本論の趣旨
    • 断絶しているが連続しているという呉の独特さの様相の一端を描写すること。
  • 空間的な連続と断絶
    • 断絶性
      • 軍港都市は市民生活が展開する市街地部分と海軍鎮守府ないし海軍工廠の置かれた地区とは空間的には連続はしているが確固たる境界線で区分。
    • 連続性
      • 軍人や工廠労働者は市街地部分でさまざまな活動を行っている。

1.軍港都市の建設と発展

鎮守府設置以前の呉

  • 呉は近代都市ではあるが、前近代の呉が寒村というイメージは誤り
    • 近代都市の形成
      • 1886(明治19)「海軍条例」で全国を五つの海軍区に分け、鎮守府設置を定める。1889年7月に呉鎮守府設置。都市化の契機は鎮守府や工廠の設置。
    • 前近代の呉
      • 軍港都市の中心となる宮原村では17世紀後半には漁業と市を中心とした呉町が成立し、地域経済の中心となる。18、19世紀を通じて発展し、1885年には3639戸、17818人になっていた。

都市の出現

  • 鎮守府設置の画期
    • 軍人、労働者が呉に集まり、彼等を相手に商売を行う者たちが居住していき、人口増加とともに多様な業者が立地する都市へと成長。
  • 呉市の成立
    • 1902年(明治35)には和庄町、宮原村、荘山田村、二川町が合併して呉市が成立。
  • 産業構造の変化
    • 池田幸重『呉案内記』(田嶋商店、1907)によると、以前は農業・漁業従事者が8分、商工業者が2分の割合の土地であったが、鎮守府の設置後は「実業界も大いに面目を一新して商工業大いに起り、耕作、漁者は皆無の姿に皆無の姿」になった。

市街地と海の距離

  • 呉市概略図』(1911、12月刊行)の情報操作
    • 海軍および海軍工廠にかかる用地部分は海岸線も含めて一切表現しなかった。
    • 呉は港を中心に大きな進展を遂げたにもかかわらず、市街地と「海」との距離は極めて遠いものとなる。
    • 民間が利用可能な港は市街地西側の川原石港のみであり、それ以外の海岸線はすべて軍用地となり、その先の海面も海軍の利用に限定された。
    • 漁をするための港も、漁のための海も呉市民は大幅に失ってしまった。
  • 人間の出入りの制限
    • 市街地部分から軍用地部分への民間人の立ち入りは基本的にはできない。工廠勤務者との面会は許可制、工場内の立ち入りは不可能。工廠の観覧は許可証を得た場合のみ可能で工廠内の行動は厳しく制限。

市街地のにぎわい

  • 「軍人と職工とは呉の生命」
    • 軍人と工廠労働者がいるために「月々数十万円の金が呉市に落ちて十余万の市民は種々に活動」できる(『呉案内記』)。
  • 軍人・労働者はどこで金を使ったか
    • 本通…業務地区の中心。銀行の多くが店舗を構え金融業務の中心。路面電車も通り、市街南北路の軸線。医院・医者も集中し、銭湯や旅館・料理店も多い。
    • 中通…盛り場の中心。旅館・料理店の半数以上が仲通り沿いに位置。中国地方随一の「呉座」をはじめとする劇場・寄席があった。

軍港都市の盛り場

  • 『新編 呉軍港案内』
    • 本通…「粒よりの代表的一流商店」が並び、盛り場などは無い。舗装道路、優美な銀行をはじめとする建築物、鈴蘭灯、鉄製の電柱、いずれも美しく、どの町よりも気品がある。
    • 中通…呉市の発展とともに生まれ出た近代的な「カフェー」「その他バー」「喫茶店」が集中する街路。道路舗装、鈴蘭灯に輝く夜景は美しい。艦隊が入港した際には、「海の勇士歓迎」「祝無敵艦隊入港」といったビラや立て看板。他の都市にはない「繁栄と愉悦、近代的ないきいきとした軍港情緒」が現出。呉市を代表する歓楽街。
    • 朝日遊郭…本通、中通を北上した地点に存在。市内のカフェーに対抗して洋装化・近代化を進め、客の気を引こうとする営業努力。その矛先は「海軍さん」「職工さん」。
  • 遊興空間における海軍の階級
    • 遊興空間内で海軍の階級差にもとづいた遊び方や場所の空間的分化がみられる。市街地に海軍の社会性が持ち込まれる。市街地と軍用地は密接なつながり。
  • 市街地と軍用地の境界
    • 本通をまっすぐに南に向かい軍用地の第一門、その直前に通過する眼鏡橋

博覧会の開催

  • 戦争と呉→最大パフォーマンスが「国防と産業大博覧会」
    • 「日本の鎮め、非常時日本の心臓」たる呉軍港で、海軍の精鋭、産業の振興、科学の精華を極めた軍需工業の全貌をあつめ「非常時日本の意気と覚悟」を示すことを目的として計画・実施された。期間は1935年3月27日から5月10日までの45日間。
  • 会場の立地
    • 第一会場…市街地北西部の二河公園。二河公園は海軍の射的場の払い下げ地。海軍兵器参考館である海光館や戦死者忠魂碑、呉工廠殉職者招魂碑などが所在。
    • 第二会場…市街地南西部に当る臨海地、川原石海軍埋め立て地。
  • 二つの南北基本軸
    • 国防と産業大博覧会の会場二地区はいずれも二河川沿いでほぼ南北の関係→市街地南東部の軍用地の中心地区-第一門-眼鏡橋-本通・中通・朝日遊郭と続く呉市東部の南北基本軸から見ると、呉駅を挟んだ反対側に位置。

違う呉・同じ呉

  • 会場ごとの役割
    • 第一会場
      • 産業本館(日本中の特産品)、軍需工業館(軍需工業製品)、特設館(満洲館、朝鮮館、台湾館)、本願寺館、アメリカ人リンゲンス一行の冒険曲技、別府温泉館、「猟奇的な海女館」
      • 特に重要なのが特営演芸館。「桜花をあざむく呉券の美妓、羽田歌劇等々の艶麗な舞踏演芸」が催される。中通の芸妓の取次を行う呉券番に属する芸妓が出張。
    • 第二会場
      • 海軍館・陸軍館・航空館などの軍事・国防を中心とする会場。
      • 長さ10mの軍艦模型や45㎝切断魚雷などの兵器を展示。
      • 呂号第53型潜水艦が係留され、観覧が可能。
      • 沖に留められた軍艦「矢矧」への乗船。
      • 魚雷発射、水中爆破といった模擬演習も実施。
  • 特色
    • 空間構造の移植…呉市の東部に存在した民と軍に彩られた空間構造を西部に移植。
    • 博覧会の大きな特徴…一般市民が軍と盛り場の両極間を自由に行き来できた点。
  • 二極構造の変化
    • 断絶があるものの連続する二極の構造は戦前・戦中を通じて維持されるが、呉空襲・終戦に伴う海軍の消滅により大きな変化が訪れる。

2.市街地の復興

空襲と終戦

  • 1945年3月~7月、14回の空襲が呉を襲う
    • 7月1日、2日にかけての深夜になされた空襲は主に市街地を対象とした焼夷弾攻撃。市街地の大半が焼失する甚大な被害。
    • 7月24日と28日になされた呉軍港の空襲では、戦艦「榛名」「伊勢」「日向」が大破し、航空母艦「天城」と巡洋艦「大淀」が転覆したのをはじめ、ほぼすべての艦艇が航行不能となり、建造中であった艦艇もふくめて、軍港の機能を失う被害を受ける。
  • 終戦
    • 空襲→被害の復興が戦後の大きな課題として生じる
    • 海軍の解体とそれに伴う海軍工廠の閉鎖→軍人と工廠労働者に大きく依存してきた都市構造を大きく変更する必要性に迫られる。

港湾利用の模索

  • 鈴木登(みのる)の政治
    • 海軍工廠跡に民営の平和産業工場を開設、都市構造の変化に応じた作成を念頭に置く。
    • 呉市復興委員会(産業部・教育部・民生部・都市計画部・転用部)を設置するが直後に辞任
  • 水野甚次郎の政治
    • 建設委員会の設置。
    • 都市計画部において、呉軍港が持っていた日本有数の港湾設備と陸上施設を利用して国際貿易港として登場した場合を想定した都市計画案を議論。
  • 海軍消失後の呉
    • 海軍施設を民間転用し、空間的にも機能的にも都市の連続性を高めていくことが、呉の復興にとって、ほぼ唯一の道だった(のだが・・・)
  • 連合軍の進駐
    • 1945年10月6日アメリカ軍進駐開始、翌年英連邦軍が旧海軍官舎地域や海兵団跡地といった海岸地区を大部分接収。その南にある旧工廠地区も、賠償対象として進駐軍の管理下におかれた施設・設備が多数ある状況。
  • 旧市街地部分(戦災区域)のみからの復興
    • 復興の歩みは分断を前提したものとして開始。旧軍用地を除外した旧市街地部分(戦災区域)のみを対象とした都市計画が出発せざるを得ない状況。

新たな南北軸

  • 今西通
    • 呉駅前から北に延びる。呉駅と本町12丁目をむすぶ36~40メートル幅の道路として計画。
  • 蔵本通
    • 今西通と本通の間、境川右岸に位置。幅40メートルの幹線道路として計画。
    • 戦時中に建物疎開をしており、都市計画工事のしやすさが考慮された。
    • 新たな官庁街と新呉港となる旧軍需部とを結ぶ道路として計画されたことが、蔵本通を本通よりも幅員をもつ道路とする根拠となる。
    • 本通10丁目に接続させ、市街地内部のみならずくれと広とを結ぶ幹線路としても位置づけられる。
  • 遅れる港湾整備
    • 蔵本通の南端に位置した旧呉海軍第一上陸場の接収が解除され、呉中央第一桟橋となるのは1958年。
    • 一般の呉の海の玄関の任を負った市街地西部の川原石港の整備は1955年頃。それ以前は市街地から離れた仁方港や阿賀港といった港を使用せねばならない状況。

戦後の中心地

  • 闇市の形成
    • 西部…中央市場の開設など、日常生活用品に密着する地区になっていく。
    • 東部…生活用品の中心であると同時に、趣味や娯楽、嗜好品を求める人々が集まる場所として歩んでいく。
  • 歓楽街
    • 中通
      • 1945年暮れには第一劇場(7丁目)、翌年には第二劇場(7丁目)、第三劇場(8丁目)が次々建設。進駐軍専用のダンスホール「パレス」(7丁目)も出現。闇市マーケットもあわせ、戦前ににぎわいをみせていた地区は空襲1年後には活気を取り戻す。その後も演芸館(6丁目)、大呉デパート(6丁目)などの開業のほか、アーケード(5丁目~9丁目間)も敷設される。
    • 進駐軍のお膝元
      • 眼鏡橋・四つ道路(本町3丁目)には進駐軍相手のギフトショップやキャバレーが立ち並ぶ。
    • 本通
      • 1951年頃にはビヤホール、キャバレー、レストランが次々と開店するなど、中通に匹敵する歓楽街となる。

戦前との異同

  • 軍人
    • 【同】進駐軍を相手にした活動が呉市街の復興を支える。軍人との共生は戦後になっても連続。
    • 【異】対象が日本海軍から進駐軍となる。異国文化が流入、「国際都市クレ」の様相を呈する。
  • 労働者
    • 戦前の市街地を支えた旧工廠の労働者たちに再び職を提供するには港湾の復興が不可欠。市街地の整備だけではいかんともしがたい状況。

3.平和産業港湾都市をめざして

旧軍港市転換法とはなにか

  • 「軍転法」の肝
    • 国有財産の処理。旧海軍施設は国有財産化されており、進駐軍の利用に供するほか、一部は戦後賠償に充てられていた。これらの施設を自由に使うことができれば復興に大きな途が開ける、いや、それしか活路はない、というのが四市の共通の思い。それが結実したのがこの特別法の構想。
  • 「軍転法」の経緯
    • 1947年4月 最初の公選市長選。呉では鈴木術が当選。
    • 選挙直後から四市が横須賀市に会し、各市の再建について共同協力することが確認され、旧軍港都更生協議会が作られる。
    • 1947年6月 第1回協議会は横須賀で開催。「国有財産の特別処理に関する陳情書」作成→要旨は産業貿易都市を目指すため、旧国有財産の処分に特別措置を講じて欲しいというもの。

平和産業港湾都市

  • 平和産業港湾都市とは
    • 「軍転法」の条文を整備していくなかで、平和産業都市と港湾都市とを連結させた結果

もう一つのキーワード

  • 「建設」ではなく「転換」
    • 広島場合は「建設」。広島は軍都を捨て去り平和記念都市を目指すという戦前・戦後の都市像の断絶が意図的に生み出される結果となる。
    • 呉の場合は「転換」。工廠を中心とした旧海軍施設、そしてそこで蓄積された技術を利用することが戦後復興の活路ととらえられていた軍港都市の場合、新たな都市の「建設」による平和実現という発想ではなく、従来のものを連続的に利用するものの、その利用方法を変えることで平和に彩られた新たな都市像の獲得を目指そうとした。
  • 広島と呉の差異性
    • 広島における平和記念都市と呉(軍港都市)における平和産業港湾都市は等しく「平和」を掲げる都市像を目指しつつも、戦前と戦後のとらえ方には断絶と連続というまったく異なるベクトルが働いている。

軍港都市転換法の浸透策

  • 軍転法の議決
    • 1950年4月7日に参院、同11日に衆院で議決された。
  • 祭典の開催
    • 軍転法国会通過直後の4月16日、17日に「転換法通過感謝市民大会」が、5月3日には「春祭り」が開催された。
  • 住民投票運動
    • 祝賀ムードのなか、5月4日には軍転法の住民投票に向けた徹底対策本部が設置。祝賀行事は軍転法の浸透に大きな役割を果たす。住民はこの法律の内容を十分に理解しないまま、祝祭気分に浸っていた。
  • 軍転法公布
    • 6月4日の住民投票では投票率82.1%、投票総数に占める賛成票92%という高い支持率を獲得。その結果6月28日に軍転法公布を迎える。

時代の中の旧軍港都市転換法

  • GHQの許可
    • 当初はたとえ転換しても軍事利用は可能ということで軍転法の趣旨に対するGHQの理解は得られなかった。だが非武装民主化から復興援助へという占領政策の変化を背景に、最終的に旧軍施設の平和産業利用に対して賛意が示される。
  • 朝鮮戦争の勃発
    • 産業界は特需となり貿易拡大をはじめとする活性化が起り、そのことが軍転法を用いた旧軍用地への工場誘致を促したことは事実だが、軍隊の町としての性格を放棄する機会までも失う。
  • 国連軍の撤退
    • 1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し日本は主権を回復するが国連軍の撤退は進まず、全面撤退が表明されたのは1956年、呉地域からの撤退は翌57年となる。

軍隊の町

  • 自衛隊の創設
    • 朝鮮戦争と国際情勢の変化により自衛隊が創設される。1954年10月1日には海上自衛隊呉地方総監部が開庁される。旧呉鎮守府をはじめとする旧海軍施設の主要部分は海上自衛隊が利用することになる。
    • 自衛隊進出の結果、国有財産の転換計画も大幅な修正が迫られる。1960年度までの軍港都市四市の旧軍用地の転換割合をみると、呉は17.9%と最も低い数値を示す。その次に低い佐世保が39.7%であるので呉がいかに低いかが分かる。
  • 呉はどのような街になったのか?
    • 海軍工廠地帯
      • NBC、呉造船、尼鉄鉄鋼、日立製作所、淀川鉄鋼、日新製鉄といった企業が連続して立地。造船と鉄鋼を中心とした工業地帯となる。企業進出の結果、重工業都市へと成長し、多くの労働者に働き口をもたらす。
    • 鎮守府地域
      • 海上自衛隊や教育隊が位置。軍隊の町としの性格は引き続き連続。
    • 企業地域に向かう道路は閉鎖されていないため戦前のような断絶でないものの、市街地と工場地帯は空間的な分断がなされ続けた。

おわりに

呉の宿命?

  • 軍港都市としての連続性
    • 工場労働者のみならず自衛隊員らが市街地における市民活動の基盤を提供していく存在となっていくという意味では軍港都市としての側面が連続。

イメージの連続

  • 「赤れんが」による海軍イメージの連続
    • 1978年、中通は海軍施設のイメージとして強かった赤れんがを舗装に採用した「れんがどおり」へと整備されていく。1980年代以降、蔵本通も歩道が赤れんがによって舗装されていく。呉駅や市立図書館、市立美術館も赤れんがを基調として整備されていく。
    • 平和産業港湾都市呉市の長期基本構想における都市像として位置づけられるなかにあって、海軍イメージに由来する赤れんがは都市の基調をなしていく。2005年に開館した大和ミュージアムにまで引き継がれる。
  • 軍港都市の空間的広がり
    • 戦前には明確区分されていた海軍用地と市街地だが、戦後になって、赤れんがという海軍イメージを用いつつ、一体的な都市像が形成されるようになる。軍港都市は近年空間的な広がりを見せる。