呉市史編纂室編『呉市史』第三巻(呉市役所、1964年)

呉市史』の第三巻は明治16年から大正15年までの呉海軍について記載してある。
以下、呉市の通史に関する箇所をまとめておくこととする。

鎮守府開庁以前

  • 明治16年 海軍省水路局の基本調査の開始
    • 「日本の沿岸を東西二部の海軍区に分けた(常泊所-東京湾・長崎港)のは明治8年であつたが、翌9年に鎮守府制度と東海鎮守府(横浜)を設けた〔……〕これから我が海軍は沿岸防備策源地設定の必要度を次第に加えて行き、その目的達成のために、海軍卿川村純義時代の首脳部は特に画策するところがあつた。即ち海軍省水路局の活動が開始せられ、その科学性の上に海軍基地選定が行われたのである。明治16年、呉並に佐世保へ向つて水路局が行動したのはそれである。」(28頁)
  • 明治16年 肝付兼行少佐の来呉
    • 「呉湾とその近海の測量に海軍省水路局から局員が来た明治16年には、局長は柳猶悦であつた〔……〕2月10日に同局から海軍少佐肝付兼行・海軍中尉三浦重郷、外に中尉1名・水兵2名が呉に到着した〔……〕肝付少佐の一行は2月10日に来着して宮原村の勝盛平九郎方に止宿し呉湾その他を測量した。そして7月25日に呉を去つて、長崎へ向つた。彼等が呉に来てからは、此の地に鎮守府設置の目標が確実になつて来たことを村民も認識した〔……〕」(28-29頁)
  • 呉選定の理由~前近代から現代までの系譜~
    • 「これより先、わが海軍は第二海軍の根拠地を広島・山口方面に予定し、三原・呉・江田島・徳山等がその候補地とされた。しかし明治16年の肝付少佐一行の呉湾測量の結果、呉が最も有望視されたのであつた。それは広い瀬戸内における呉湾立地論、特に軍港立地論の上から基礎的に調査研究が始められ、適格性が認められたのである〔……〕尤も呉湾を良泊として認めたことは明治16年の此の一事を以て始めとするわけではない。少なくとも14世紀の中葉に、二神・南方の二将は征西将軍懐良親王の方に属して伊予の北徒征伐のため呉湾から出撃している。また16世紀には末永氏が此の湾岸の水域に拠っていたことが知られている。それが今、19世紀の末葉に至つて強く再認識せられて軍港化したものである。そしてその後の目ざましい発達は東洋有数の軍港を出現せしめた。第二次世界大戦によつて全く軍港的機能を失なう至つたが、自然の港湾とそのものと、護岸の構築と諸建築物の基盤とは、依然として後来の人々の手にその利用を委ねて居り、終戦後に見るような臨港大工業地帯に変貌したのである。呉湾の歴史的輪廻の若返りを目前に見る人々にとつて、呉湾のもつ普遍の価値が切実に感得せられるのである」(33-36頁)
  • 明治17年 呉のエポック・メーキング
    • 明治16年に肝付少佐一行の予察的測量の結果は海軍省にもたらされ、呉湾が軍港候補地として有力視されるに至つたため、翌17年、調査は本格化し決定の線を打ち出すに至つた。即ち16年を東の空が白らみそめた年とすれば、17年は黎明の光が山端に顔をのぞかせた年である。この明治17年こそは、呉のエポック・メーキングとして永遠に記念すべき年となつた。」(37頁)
  • 明治18年 明治天皇の第一次呉行幸(上陸せず)
    • 明治天皇の呉行幸明治18年が最初であつた。この行幸は明治5年以降の六大行事の一つであつた。これは、かねて18年の春に九州小倉近郊で行われた広島・熊本両鎮台の大演習親閲の予定であつたものが御病のため行われず小松宮彰仁親王に代閲せしめられたもので、帰途巡幸予定の山口・広島・岡山三県民の失望を慰するためと民情視察とを主眼に7-8月の交、特に上記三県へ行幸を見たものである。〔……〕8月1日-3日広島、4日正午広島発、午後1時10分横浜丸で宇品発、春日護衛艦、2時呉湾着、甲板で松村海軍少将の説明を受けつつ湾内外一覧、天皇上陸なく船は呉湾を出て早瀬ノ瀬戸を通過〔……〕呉に天皇上陸を見なかつたわけは、前年の大津波の後で海浜が荒れており非衛生的であつたことに起因すると伝えられている。しかし天皇海上望見によつて軍港予定地として認識を新たにされたのであつた。」(51-53頁)
  • 明治19年 ベルタンの来呉と呉の正規軍港化
    • 「〔……〕19年4月9日には左の人々が長門丸で来呉した〔……〕ベルタンはフランス造船術の巨匠である〔……〕明治19年日本政府の招聘で来朝し、軍艦および船渠の建造を指導した〔……〕ベルタンの来呉の用務は、造所設立方法を樹立するための実地見聞を求めることにあり、帰京の後、彼は西郷海軍大臣に意見書を提出し、将官会議に回付された〔……〕ベルタン一行が呉を去つて程なくの5月4日には次の勅令(※引用者註-勅令第39号)が出て呉は正規に軍港と制定された。これこそ呉軍港が中外へ紹介された最も記念すべき日であると共に、第二次大戦に終止符が打たれるまで此の都市は全面的にその特色ある色彩で被われたのであつた」(62-64頁)
  • 佐藤鎮雄による呉市街の創建
    • 明治19年10月、第二海軍区鎮守府建築委員長に海軍少将真木長義、建築事務管理のために委員副長に海軍大佐佐藤鎮雄が任命されたが22年4月1日解任された。尤も真木委員長は中央にあつて、呉には常駐せず、事務は専ら佐藤委員副長の主宰するところであつた。佐藤鎮雄は堺川以東・眼鏡橋以南の海岸海面及陸上の諸施設並飛地地域の諸施設を行い且つ文政新開を官有地とした。鎮守府関係の諸建設の外に呉の都市計画に至るまで広い視野から指導し、それまでの村落形態から呉市街を創建する礎石を置いた人とせられている」(69頁)

鎮守府開庁と皇族

  • 明治22年の呉鎮守府の開庁と明治23年明治天皇の第二次呉行幸
    • 「海軍の部隊を構成すべき360名は明治22年6月23日にその家族300名余を伴つて横須賀から呉に来着し、24日入営した。6月26日、鎮守府初代司令長官中牟田倉之助が鎮守府に着任した。呉鎮守府の開庁は明治22年7月1日海軍省の告示によつて示されたが、その正規の開庁式は明治天皇行幸を得て翌23年4月21日に挙行された。この日こそ、第二次大戦に至る間の日本海軍の一大根拠地として活躍した呉軍港出発点として、呉市民の想起すべき記念日でなければならない」(76頁)
  • 明治27年 日清戦役と明治天皇の第三次呉行幸
    • 「日清戦役に際し明治天皇大本営を進めて明治27年9月15日広島行幸、翌28年4月27日広島から京都へ行幸まで7カ月半の行在所が置かれ、従つて臨時帝国議会も此処で開かれた。この間、広島は臨戦地境として内外注視の的となつた〔……〕天皇は、その間、27年10月2日に呉軍港に行幸された。それは黄海の海戦で激闘した軍艦松島(旗艦)・比叡(僚艦)・並びに西京丸(樺山軍令部長の坐乗した船)の将兵をねぎらう為めであつた(特に松島は大損傷を受けていた)」(96頁)

戦争と呉

日清戦役

  • 黄海海戦
    • 「この海戦に参加しした軍艦は、本隊として旗艦松島・千代田・厳島・橋立・比叡・扶桑の6艦、第一遊撃隊として旗艦吉野・浪速・秋津洲・高千穂の4艦、それに赤城と西京丸とが別行動をとつた。これらの内、呉軍港所属のものは吉野・千代田・厳島・赤城の諸艦で、松島・秋津洲・高千穂は佐世保に属し橋立・扶桑・浪速は横須賀に所属していた。そして此の海戦で呉所属の赤城は彖嶴内の偵察任務を帯び、または比叡は隊伍を離れて1回目に敵定遠鎮遠を左舷に見て敵中に入つた。2回目に復び敵中に入つたが、その姿は一時見えなくなつた。また旗艦松島には再三敵弾が命中したが、就中、四番砲に命中破裂した時には、砲の付近に堆積してあった装薬を爆発せしめたので死傷者80余名を出し、惨状を呈した〔……〕かようにして松島艦は修理を要するため呉に回航することとなる〔……〕此の海戦で破損した松島の外、同様に破損修理のため呉に入港したものは比叡と西京丸とであつた。この三艦船の乗組員を見舞うため、当時広島大本営明治天皇の呉行幸明治27年10月2日に行われた」(161-162頁)

日露戦役

  • 第三艦隊
    • 「日露戦役の際は、第三艦隊(司令長官海軍中将片岡七郎)が呉軍港及竹敷要港に待機した。その編成は以下の通りである。第五戦隊(鎮遠、松島、橋立)、第六戦隊(秋津洲、和泉、須磨、千代田)、第七戦隊(扶桑、済遠、平遠、筑紫、海門、磐城、愛宕、摩耶、鳥海)、通報艦(宮古)、水雷艇隊(第一艇隊、第十一艇隊、第六艇隊)、附属特務艦船、豊橋仮装巡洋艦一」(166頁)

日独戦役

    • 大正3年8月4日、呉港停泊中の軍艦千代田は神戸へ、厳島は門司へ、それぞれ出動命令が下ると、休暇中の兵員を急電で帰艦せしめ、軍港は俄かに活気づき、6日両艦は抜錨した〔……〕23日、日独両国交戦状態に入り宣戦布告、我が艦隊は集結地から戦線へ発進していつた〔……〕11月7日、青島が陥落し、そこの軍事的経営の分担を呉も受け持つことが多かつた。11月25日第五駆逐艦隊子ノ日、若葉、潮、朝風が帰投、28日丹後帰投。12月7日春日、9日石見、12日常盤、13日第一艦隊旗艦摂津と比叡が帰投、南遣艦隊からは26日伊吹、31日平戸が帰投した。大正4年2月4日南遣艦隊の矢矧、5日同生駒、10月25日第三艦隊の明石、12月30日淀(4月に1度帰港)が帰つた。遣米艦隊の浅間は2月4日墨国沿岸で坐礁し常盤・千歳の救援を受けて12月28日呉に帰投した。常盤は5月10日、千歳は10月25日に帰呉して共に12月29日ウラジワストーク(ママ)方面へ出動した。大正4年5月、日支交渉危機と呉海軍の行動。大正6年呉海軍の地中海出動、ウラジワストーク(ママ)出動」(171頁)

海軍の増強と軍縮

  • ワシントン体制
    • 「日露戦役の後は、海軍の拡張となつて明治45年、造船船渠を開渠し、戦艦扶桑を起工した。そして第一次欧州大戦、さらに日独戦役に至つて活況を呈し、軍艦・兵器の外註(ママ)まで受けた。そこで八四艦隊から八六艦隊計画(大正7)に進み、広工廠新設、製鋼部拡張も見た。そして更に八八艦隊計画さえも現出するに至つた。そこへ華府軍縮会議(大正10)が始まり、軍縮による主力艦の制限は下士官兵の大量退団となり、工廠工員の大整理、関東大震災に伴う行政整理が相ついだ」(180頁)

造船部の発展

  • 明治23年 呉鎮守府造船部の発足と横須賀からの技術移転
    • 「呉の造船工業は、明治23年4月、呉鎮守府開庁式と同時に、呉鎮守府造船部という庁名の下に発足した。しかし海軍の造船は、横須賀において既に27・8年も早く発足し、明治となつて幾多の艦船を建造し来り、海軍造船の元祖として技術的進歩をしていたのであつた。故に呉造船部が創業されるに当り、横須賀から伝来する技術的諸要素は甚だ大なるものがあつた」(244頁)
  • 明治24年~28年 船渠と船台
    • 明治24年には、今も現存の第一船渠が竣工した。これで呉の所轄艦艇は、入渠修理が始めて可能となつたわけである。又これと前後して第一船台・第二船台も出来上がつた。明治27年この第二船台で軍艦宮古の建造が始められた。又永らく神戸市小野浜に在つた海軍造船所は、同28年初め頃、工員及び工場建物機械一切が呉に移転、呉造船に編入された。呉造船はますます大を成すに至つた」(244頁)
  • 明治31年 呉海軍造船廠と通報艦宮古
    • 「日清戦役において呉造船部が果した役割が偉大であつたことに鑑み、造船部の大拡張となり、庁名も呉海軍造船廠と改称された。これは明治31年のことであつた。年を同じうして第二船台で建造中であつた軍艦宮古(通報艦、1800トン)が浸水し、呉で始めて(ママ)軍艦の進水を見たのであつた。又31年には第二船渠の構築が竣工して、常時日本海軍の有した如何なる大艦でも、入渠修理が可能となつたのである」(244頁)
  • 明治35年 二等巡洋艦対馬河川砲艦宇治を建造するが未だ主力艦は作れず
    • 明治35年には二等巡洋艦対馬(3300トン)が第二船台で進水し、同36年には河川砲艦宇治(620トン)が第一船台で進水するに至り、呉の造船もその技術において、横須賀と対等にはなつたが、まだ両地とも主力艦即ち戦艦・装甲巡洋艦を建造し得るには程遠かつたのである。それは船体製造技術の幼稚というのではなく、之に伴う兵器甲鉄の産業がまだ呉造兵廠で発達の途中だつたからである。」(244頁)
  • 明治35年 呉市の誕生と第三船台
    • 明治35年呉市の誕生と前後して、海軍造船大監小幡文三郎が呉に来任するに及び呉造兵工業の大発展とにらみ合せ大に将来を期待して第三船台の改装の大構築にかかつた。それは37年に竣工したが、図らずも時を移さず、これが主力艦建造の一大画期と一致したのであつた。」(244-245頁)
  • 明治36年 呉海軍工廠
    • 明治36年11月、日露国交の暗雲低迷を前にして、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠は合併されて、呉海軍工廠と改称され、造船・造兵両工業は一廠長の下に経営される事となつた。」(245頁)
  • 明治37年 日露戦役
    • 「〔……〕37年には日露戦役となり、5月15日には連合艦隊の6大戦艦の内、初瀬・八島の二隻が、敵の機雷に触れて沈没したのであつた。この戦力補充は、急遽取り計らわれねばならぬのに、外国依存は戦時故に不可能であつた。海軍は勢い日本内地で何とかしなければならぬ羽目に立迫られた。しかし〔……〕第三船台は竣成したばかりであり、又、造兵では12インチ主砲の製作設備及び装甲鈑の鍛錬設備が出来たばかりであつた。果然として呉で装甲巡洋艦筑波・生駒(いずれも13750トン)の2隻を建造すべしとの命令が中央から発せられた。しかも横須賀を差し措いて主力艦創始建造の扉が呉で開かれるに至つたのであつた」(245頁)
  • 明治38年~40年 巡洋艦筑波・巡洋艦生駒・戦艦安芸・巡洋戦艦伊吹
    • 明治38年12月幾多の難局を克服して軍艦筑波は進水、翌39年4月には軍艦生駒も進水した。それから後は呉と横須賀は、主力艦建造の隻数を均分に受命するようになつた。呉では40年4月戦艦安芸(19800トン)が進水し、又同年11月巡洋戦艦伊吹(14600トン)が進水した。但し主機械装備の都合で伊吹の方が先きに艤装を終えたのであつた」(245頁)
  • 明治44~大正3年 戦艦摂津・戦艦扶桑
    • 「列強を通じて大艦巨砲主義の競争を出現し、呉では明治44年3月、戦艦摂津(20800トン)が進水し、大正3年3月戦艦扶桑(30600トン)が進水した。これに先んじて明治45年3月、第三船渠及び造船船渠の構築が同時に竣成したのである。呉では他地では見られない造船船渠が構築されたので、扶桑は始めて(ママ)この船渠で造られたのである。以後の呉は船渠内建造が主となり、第三船台が従となつたわけである。又この頃までは、主力艦建造地は呉・横須賀に限られていたが、これからは神戸(川崎造船所)長崎(三菱造船所)が加わるようになつた」(246頁)
  • 八八艦隊
    • 「時を経るに従い日本海軍は、ますます戦力を増強して、終に米国・英国と共に世界の三大海軍国となり、大正の半ばに及んで八八艦隊が計画された。此の計画は議会の協賛も済み、いよいよその実施期となつた。八八艦隊とは、16インチ砲を主砲とする戦艦8隻・巡洋戦艦8隻、計16隻を以て編成する大艦隊を意味する。更にこの主力艦に付随する巡洋艦駆逐艦・潜水艦等々を加えその費用は莫大なものであつた。一例を挙げると、大正11年度の日本の一般会計予算14億2969万円の内、海軍費用は3億7389万円で国庫歳出の26%を占め、また陸軍費は2億3030万円で16%を占めたのである。大正8年11月、戦艦長門(33800トン)は呉の造船船渠で進水して、八八艦隊の第一艦を出現したのであつた。引続き呉では、同型戦艦赤城が起工され、建造最中のところ、米国の提唱により日米英仏伊の各海軍国軍縮会議がワシントンで開かれる事となつた。」(246頁)
  • 大正10年 ワシントン軍縮
    • 「大正10年12月のワシントン会議が妥結した結果、主力艦の現有勢力を英5、米5、日3、即ち日本は英・米の各5に対し3に制限されることになつた。建造中の赤城は航空母艦に構造替えすることに英米側と協議がまとまり、大正14年4月進水させることが出来たが、ワシントン会議以後日本海軍は永らくの間主力艦建造不可能の実情であつた」(246頁)
    • 「いわゆる553の比率は軍隊方面にも不満があり「訓練には制限なし」の標語が生れたり、又「月月火水木金金」など唱えるに至つたのである。技術方面でも幸い補助艦は建造制限がないので頻りに「量よりも質に」と唱えられ、東京の海軍艦政本部では造船中将工学博士平賀譲を中心として、巧妙精緻な軽・重巡洋艦を設計するに至つた。この巡洋艦英米脅威の的となり、後年重ねて補助艦へも制限を加えようとする会議が英米より提議されるに至つた」(247頁)
  • 潜水艦の建造
    • 「呉は港内静かなのみか、港外がまた瀬戸内海なので荒天が稀な故に、潜水艦の建造乃至訓練基地に絶好と認められ、盛んに建造されるようになり、波型・呂型により伊型に及ぶ各種にわたり行われた。これは明治の末葉より第二次世界大戦時代まで続いたのであつた」(247頁)