吉田裕、森茂樹『アジア・太平洋戦争(戦争の日本史23)』、吉川弘文館、2007

参考になった箇所をまとめておく。

帝国日本の欠陥

明治憲法体制の問題点

「問題は、内閣総理大臣外務大臣・大蔵大臣、あるいは参謀総長軍令部総長といった、天皇に会える「輔弼」者の間に上下関係がなく、自分の管轄の範囲については他の干渉を一切排してまったく勝手に天皇に会い、同意を求めることが可能だったことである。簡単にいえば、天皇と各大臣や両総長の間はそれぞれ別のパイプで結ばれ、他からの介入ができなかったのである。総理大臣といえども他の大臣を指揮することはできず、ましてや軍の行動をチェックするのは不可能だった。どうしてもやりたければ、天皇を説得して、天皇経由でチェックするしかない。しかし、他の大臣や総長も同じように天皇に拝謁して意見を言えるのだから、これはなかなか難しかった。結局、政府全体を統括できるのは天皇一人だけであり、政府や軍の各部の間での統一性や整合性は、天皇の目が行き届くかぎりでしか保たれなかったのである」(31頁)

統帥権独立」の始まり

1878年(明治11)8月、竹橋事件をきっかけとして参謀本部が設置される。この事件は待遇への不満から起こった近衛砲兵の反乱であるが、おりから自由民権運動が盛り上がりを見せていたこともあり、時の陸軍卿山県有朋は、こうした軍の反乱が内乱や革命にまで広がることを懸念した。彼はただちに「軍人訓戒」を出して軍人の政治関与を禁じ、12月には参謀本部陸軍省から独立させて天皇直属とすることで、軍を政治運動から隔離することを図った。これによって軍隊の指揮を管轄する部局は政府からまったく独立し、その干渉を受けないことになった。「統帥権独立」の始まりである」(32頁)

明治憲法の分立制に対する井上毅の説明

「〔……〕1889年、明治憲法が制定されるが、そこで定められた統治機構は、分立した諸機関が相互に牽制し合い、誰も独裁的権力をふるまえないようになっていた。特に天皇の大権行使を輔弼する国務大臣は個別に天皇を輔弼することになり、彼らの合議機関である内閣については憲法の条文に定めないことになった。この点について、憲法起草案の実務を担当した井上毅は、内閣が一体となれば総理大臣が内閣の全権を持ち、天皇の主権を侵すことになるからだと説明している。その背後には、民権派による政党内閣が成立することへの懸念があった。ようするに、万一民権派の内閣ができても、その手が及ばないような機関をたくさん作っておいて民権派を牽制しようというのである。唯一の統治権総覧者たる天皇は、いわば政党に対する防波堤だった」(32頁)

明治憲法体制下におけるリーダーシップ

「〔……〕この仕組み(※明治憲法の分立制-引用者)が円滑に機能するためには、天皇が複雑な国家機関全体に目を配れる超人的なリーダーでなくてはならない。そのようなことは現実にはありえず、諸機関が相互に牽制し合い、官僚は統制を失って自立化し、縄張り主義が横行するもとになった。このような体制の下でどうしても強力なリーダーシップを確立しようとするならば、天皇直属のスタッフが国策の方針について助言をする仕組みを設けねばならない。伊藤博文は首相の権限を強化することでこの問題を解決する目論見を持っていたが、自己の権限を奪われたくない他の為政者・官僚の反発でこれを果たせなかった。それでも明治時代は維新の功労者である元老たちが超法規的な指導者としての役割を果たし、大正期には政党が議会の多数を背景に組閣して一定のリーダーシップを確立することができた。だが、1930年代に入って政党が退場すると、自立した官僚たちの矮小な縄張り争いが国政を左右することになる。軍部の発言力は増大するが、彼らも国制全体の責任を引き受ける気はなく、予算や権限の取り分を増やすことに汲々としていたにすぎないのである」(32頁)

陸海軍の対立、陸軍省と陸軍参謀本部の対立、海軍省と海軍軍令部の対立

「人事・予算などの軍事行政を管轄するのは陸軍省海軍省であり、その長である陸軍大臣海軍大臣(ともに現役の大・中将)は、国務大臣として閣議に列席し、天皇を輔弼する。陸軍省海軍省の関係は完全に対等であり、陸軍大臣海軍大臣による輔弼も別個におこなわれ、相互の関係はない。なお、陸海軍大臣は現役の武官から任用されるが、身分上は文官である。国防計画・作戦計画に関する事項、兵力使用に関する事項などを管轄するのは、参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)であり、その長が参謀総長軍令部総長である。現代風にいえば、両総長は、「制服組」のトップということになるが、ここでも参謀本部と軍令部の関係は完全に対等であり、参謀総長軍令部総長は、おのおの別個に「大元帥」としての天皇を補佐する。このような分立性を大きな特徴としていたため、各組織の組織的利害などをめぐって、陸海軍間だけでなく、陸軍省参謀本部海軍省と軍令部との間にもつねに対立が生じ、その調整のために大きなエネルギーが費やされることになる。そして、実際に戦争がはじまると状況はいっそう深刻化する。まず、予算と資材の配分をめぐって、陸海軍間の対立が激化する。さらに、陸海軍大臣は、内閣の一員であるため、国務と統帥の統合や国力全般の状況に配慮せざるをえず、作戦至上主義の立場に立つ参謀本部・軍令部との対立が深まる。参謀本部と軍令部は、緊密な共同作戦が必要とされるにもかかわらず、統一した戦略と指揮系統を欠いているため、混乱が倍加される」(95-96頁)

陸海軍が異なる軍事戦略をとった末路

「〔……〕日本側の最大の弱点の一つは、陸海軍の間に統一した軍事戦略が欠如していた点にあった。1907年(明治40)に策定された「帝国国防方針」は、日本の軍事戦略を確定した最高レベルの国防国策だが、そこには根本的な欠陥がはらまれていた〔……〕この国策の下で、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国としたことである。「帝国国防方針」自体は、その後、三次にわたって改訂されることになるが、陸海軍がおのおの別個の仮想敵国を持ち、陸軍は対ロシア・対ソ戦のための軍備の充実に、海軍は対米戦のための軍備の充実に狂奔するという基本的性格には変化がなかった。日本には統一した軍事戦略にもとづき、かぎられた予算と資材とを効率的・重点的に投入する態勢がそもそも存在しなかったのである。事実、アジア・太平洋戦争の開戦後も、陸軍は対ソ戦を断念したわけではなく、陸軍にとって南方戦線での英米との戦争はあくまで副次的戦争でしかなかった。関東軍特殊演習(関特演)の名目で対ソ戦準備を進めていた陸軍中央部が年内の対ソ武力行使を断念したのは、41年(昭和16)8月9日のことだったが、その場合でも、翌42年春にドイツの対ソ春季攻勢に呼応するかたちで、対ソ武力行使をおこなうことが計画されていた。〔……〕開戦の時点で、陸軍にとって南方戦線はあくまで副次的な戦線にすぎず、南方に配備された兵力数が満州のそれを上回るようになるのは、米軍の反攻が本格化する43年以降のことである〔……〕中国が民族的抗戦を継続していることによって、多数の兵力が中国戦線に拘束されている〔……〕陸軍は、かぎられた兵力を、対米英・対中・対ソの三正面に分割して配備することをよぎなくされていたのである。」(63-64頁)

ハル・ノートの論点は満洲問題ではなく自由主義的国際秩序と東亜新秩序の衝突

「〔……〕東郷は、日中関係は米国に介入させずに日中二国間で解決することを望んでいた。中国において何者の優越も認めない九ヶ国条約の復活を阻止するということ。そして米国が主張する領土保全および内政不干渉、機会均等、武力による現状変更を認めないという「四原則」に反対することは、すなわちこの地における日本の優越を確立するということ、言い換えれば、「東亜新秩序」を建設するということにほかならない。〔……〕東郷はなぜ「ハル・ノート」を見て絶望したのかは明らかであろう。満洲問題が決定的だったのではない。12月1日の御前会議での東郷の説明は、「米国の対日政策」は終始一貫して我不動の国是たる東亜新秩序建設を妨碍せんとするに在り、今次米側回答は仮に之を受諾せんか(中略)大陸より全面的に退却を余儀なくせられ其の結果満州国の地位も必然動揺を来すに至るべく」というものである(『時代の一面』)。あくまでも中心は米国流の自由主義的国際秩序と東亜新秩序の衝突であり、満州については「そうなれば結局満州も」というかたちで言及されているのである」(47-49頁)

軍事における昭和天皇の役割

「軍にとって天皇がお墨付きをもらうだけの存在であったとしても、そのことは天皇が実権を持たないロボットのようなものであったことを意味しない。それどころか、天皇がロボットではお墨付きの威力も失わせるわけで、軍にとっても天皇は自分の意思をもった能動的な存在でなければならなかった。天皇をロボットに仕立てるのではなく、自分の意思をもち、能動的な天皇をいかに軍の都合に合わせて誘導するかというのが、陸海軍の指導者たちの関心事であった。そして、昭和天皇は軍事知識も豊富で、作戦指導にそれなりの見識を持っていたから、それを誘導してうまく味方にできれば、この上ない権威づけとなったのである。ゆえに〔……〕大臣や参謀総長軍令部総長たちは天皇への上奏合戦に血道を上げることになる〔……〕もちろん、昭和天皇自身に全体を見通す大戦略があればよいのだが、軍事に関する情報はすべて参謀本部と軍令部から報告されるのだから、彼らの誘導を免れることは並大抵ではなかった〔……〕昭和天皇は、個別の上奏に細かい質問をして欠陥を指摘することはよくしたが、戦争全体を見渡した総合的見地から、上奏内容にかかわらず自ら指示を出す、ということはできなかったのである。」(176-177頁)

「民族解放」による新たな帝国の建設

「〔……〕「民族解放」の題目は、所詮日本による支配を糊塗するためのものにすぎないようにみえる。だが、日本が東南アジア支配を正当化する理屈として、なぜ「民族解放」を選んだのかという点はやはり重大である。ヒトラーは、ドイツ民族の生存のために不可欠な「生存圏」を確保するという名分のもとに中・東欧に侵攻した。しかし日本は、「自存自衛」のためには東南アジア支配が必要なのだ、と開きなおることはできなかったのである。日本が「民族解放」を旗印にしたのは、第一次世界大戦後の脱植民地化と民族自決の流れに便乗することが、日本にとって好都合と思われたからである。すなわち、欧米人とは異なる人種的な近接性や、後発の「持たざる国」という立場を利用して、欧米宗主国から「独立」させたアジア諸民族の支持を集め、日本の「指導」を受け入れさせることが可能であると計算されたのである。「民族解放」は植民地に代わる新たな帝国建設の手段であった。〔……〕「民族解放」のスローガンは単にアジア支配のうわべを飾る美辞麗句だったのではなく、「独立」の意味をゆがめて解釈することによって、それ自体が日本の建設する新たな帝国を支える基本原則となることを期待されていたのである。」(185-186頁)

聖断の意味

「〔……〕日本軍は「聖断」によって武器を置いた。だが、これは昭和天皇が軍部の抗戦論を抑え込んで和平に漕ぎ着けたということではないし、和平派と継戦派の対立を天皇が裁定して戦争を終結させたというのも正確ではない。軍部といえども、4月ごろにはもはや戦争の継続は困難と覚悟していたのであり、ただ、講和を少しでも有利な条件の下でおこなうことを望んでいたのである。阿南陸相は、その気になればいつでも辞表を出して後継陸相の推薦を拒否することにより、内閣を倒すことができた。しかし、あえてそれをしなかったのは、倒閣の責任を負ってまで戦争をつづける意思はなかったことを示唆している。結局、「聖断」は陸海軍が部内にかかえている強硬な抗戦派をなだめるために、軍上層部も含めた暗黙の合作によって演出されたとみるべきだろう。天皇が降伏を決断することで、誰もが降伏を最初にいいだすという不名誉を免れ、部下に対する面目を保ちながら戦争を終結させることができたのである。」(293頁)

日本の戦争目的の歪んだ形での実現

「日本は、米国を打ち破るためではなく、日本の力を認めさせて「戦意を喪失」させるという奇妙な目的のために米国と先端を開いた。そして、冷戦の本格化とともにアメリカは日本の軍事的な利用価値を認め、提携を図るようになっていく。日本の戦争目的は、国土を荒廃させ、アジアに深い爪跡を残しながら、なんとも皮肉なかたちで実現したのである」(299頁)

帝国日本の軍事上の敗因

陸軍の短期決戦主義

「陸軍の場合、第一に指摘することができるのは、長期戦に対する研究や準備がきわめて不充分であり、「短期決戦」や「速戦速決」の軍事思想が優位を占めたことである。このため、作戦面ではつねに主動的に攻勢に出ることが強調され、奇襲や先制攻撃、機動戦による敵野戦軍の包囲殲滅などが重視されることになった(前原透『日本陸軍用兵思想史』天狼書店、1994年)。さすがに、長期戦・総力戦として戦われた第一次世界大戦の影響の下で、1918年(大正7)の「帝国国防方針」の改訂では、長期の総力戦を戦い抜くという思想が新たに取り入れられた。しかし、それにつづく1923年(大正12)の再改定では、ふたたび短期決戦思想に逆もどりしてしまっている(黒野耐『帝国国防方針の研究』総和社、2000年)。長期戦の思想は、陸軍のなかに根づくことはなかったのである。」(64-65頁)

海軍の艦隊決戦思想と大艦巨砲主義

「海軍の対米作戦計画は、開戦後ただちにフィリンピン・グアム島を占領したうえで、太平洋を横断して来航してくるアメリカの主力艦隊と西太平洋において艦隊決戦ををおこない、これを撃破するというものだった。この場合も、アメリカとの国力の格差を考慮に入れて、短期決戦が前提とされた。この艦隊決戦の際の主力は戦艦部隊であり、日本海軍は射程の優る大口径砲を搭載した大型砲艦を保有することによって、この決戦に勝利しようとしたのである。そして、このような大艦巨砲主義にもとづいて建造されたものが、1941年(昭和16)12月に竣工した「大和」と翌42年8月に竣工した同艦の「武蔵」である。ともに排水量6万9000トン、46センチ主砲9門、15.5センチ副砲12門搭載の巨大戦艦で、40センチ主砲搭載の列強の主力艦に優越する新鋭艦だった。」(77頁)

漸減邀撃作戦による歪み

漸減邀撃作戦とは何か?

アメリカとの艦隊決戦のために、海軍が採用したのが「漸減邀撃」作戦である。国力に大きな格差がある以上、主力艦同士の艦隊決戦において、日本海軍が量的な優位に立つことはありえない。そのため、ハワイを出撃してくるアメリカ艦隊に対して潜水艦部隊による魚雷攻撃、南洋諸島の基地から発進する陸上攻撃機に雷爆撃、巡洋艦駆逐艦などによる夜襲などを波状的に実施して、その兵力を漸減させた上で、主力艦同士の艦隊決戦に持ちこむ。これが「漸減邀撃」作戦である。しかし、この作戦構想は、海軍の軍備に独特のゆがみをもたらすことになる。」(79頁)

潜水艦

「この作戦構想(※漸減邀撃作戦-引用者)にしたがえば、日本の潜水艦はハワイ付近まで進出し戦闘に参加できるだけの航続力と、アメリカ艦隊を追尾できるだけの水上速力を持たなければならない。必然的に日本の潜水艦は大型化し、大出力のエンジンからは大きな機械音を発するようになる。この機械音をアメリカ海軍の対潜部隊に探知されて、日本の潜水艦は大きな損害を蒙ったといわれている。」(79頁)

陸上攻撃機

「海軍は、1936年に96式陸上攻撃機を制式採用した。最大速度377キロ、航続距離4380キロ、魚雷1または250キロ爆弾3発を搭載する双発の爆撃機である。当時としては、世界水準を抜く高性能機だったが、欠陥も多かった。「漸減邀撃」作戦を実施するために、なによりも長大な航続距離が必要とされ、その分だけ性能上は爆撃搭載量や防禦性能が犠牲にされたからである。事実、日中戦争に投入されたこの96式陸攻は、中国空軍の反撃にあって大きな損害を出し、防禦火器の不足、防弾装置の不備など防禦性能の欠陥を露呈することになる。96式陸攻の後継機は、41年採用の一式陸上攻撃機である。最大速度440キロ、航続距離6100キロ、魚雷1または爆弾800キロを搭載する双発の爆撃機だが、この一式陸攻にもやはり96式陸攻と同様の欠陥があった。とくに、航続距離を増すため、主翼そのものを燃料タンクとするインテグラル・タンク(主翼表面がそのままタンクの外殻を兼ねる)を採用した結果、被弾するとすぐに発火するという弱点を持つことになったのである」(80頁)

戦艦

「巨艦の全体を防禦甲板で覆うのは困難であるため、「大和」では重点防禦部分を弾薬庫、機関部などに限定した集中防禦方式がとられた。防水区画による間接防禦も、徹底した集中防禦方式がとられたため、排水量のわりには防水区画はすくなかった。ようするに、防禦面ではかなりの脆弱性を持っていたのである。また水上砲戦を重視し、副砲として対水上用の15.5センチ三連装砲を4基搭載していたが(44年の改装で2基撤去)、この結果、アメリカの戦艦とくらべると「大和」の対空能力は大きく劣るものとなった。米海軍は多数の12.7センチ副砲を対空・対水上の両用砲として搭載し、さらにレーダーと連動した射撃管制装置や目標に接近すると爆発する対空砲用のVT信管を開発・装備していたからである。くわえて、速力の問題もあった。「大和」と同時期に建造された「ノース・カロライナ」級戦艦以降、アメリカ海軍は、速力33ノットの高速戦艦を次々に就役させた。これらの高速戦艦は空母の護衛に大きな役割を果たしたが、「大和」の速力は27ノットしか出なかったため、高速の空母機動部隊と行動をともにすることはできなかった」(80-81頁)

補助艦

「〔……〕巡洋艦駆逐艦などの補助艦の装備について〔……〕「漸減邀撃」の作戦の下で、これらの艦艇に与えらえれた役割は、高速でアメリカ艦隊に接近して魚雷攻撃をしかけ、主力の「漸減」をはかることである。そのため、日本海軍の巡洋艦駆逐艦は、他国の海軍以上に魚雷戦を重視し、多数の大型魚雷を搭載している点に大きな特徴があった。しかし、その反面、対潜・対空兵装は軽視され、船団護衛などには不向きなものとなった。」(81頁)

漸減邀撃の軍備上の影響

「〔……〕「漸減邀撃」作戦は、海軍の軍備をきわめてアンバランスなものとした〔……〕」(81頁)

山本は艦隊決戦を棄てるのではなく無理にでも決戦の機会を作り出そうとした

「〔……〕山本は、現代戦では華々しい決戦がおこなわれるとはかぎらないことを見抜いていた。さらに米軍の来攻を待って決戦をおこなうという海軍伝来の方針が、図上演習で成功をおさめたためしがないことをも冷徹に指摘している。しかし、彼は決戦主義そのものを棄てるのではなく、無理にでも決戦の機会を作り出す方向に向かう。「日米戦争に於て我の第一に遂行せざる可からざる要項は、開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃撃滅して、米国海軍及米国民をして救ふ可からざる程度に其の士気を阻喪せしむること是なり。」海軍の邀撃戦略の欠陥を突いた山本は、ついに事実上の先制攻撃論に踏み込む。そして、「開戦劈頭に於て採るべき作戦計画として〔……〕真珠湾攻撃の構想を明らかにするのである。」(125頁)

漸減邀撃作戦からの変化 邀撃から先制へ

「本拠地の近くで行われる邀撃戦は、進出距離が短く、補給や支援が容易であるという利点があるが、反面、敵がどこからくるか事前に分からないため、主戦場への兵力の集中が難しくなる。敵軍の侵攻地点が一ヵ所に絞りきれるような例外的な場合をのぞけば、兵力を広範囲に分散して警戒に当たり、敵主力の意図が判明したのちに自軍を決戦地点に向かわせることになるから、当然、小さく分割された自軍の兵力が優越する敵兵力によって先制され、各個撃破されてしまう危険が高くなるのである。そこで、日本海軍は決戦前に敵兵力を「漸減」させるという当初の戦略から、しだいに決戦海面そのものを前方に進めてすこしでも早く決戦をおこない、敵を殲滅するという方向に変化して行く。戦力の構成も先制第一撃を重視する方向に向かい、1930年代後半には航空機の拡充や進出距離の長い航空母艦の建造ははじまる。1937年(昭和12)の第三次補充計画で建造され、対米戦において機動部隊の主力となる「翔鶴」「瑞鶴」の二隻の空母は、日本からハワイの真珠湾まで無補給で往復することができるほどであり、もはやとても「邀撃」兵器とはいいがたいものであった。決戦海面もどんどん前進し、1936年にはマリアナ諸島西方海域とされていたのが、1940年に策定された海軍の年度作戦計画では「兵力を配備して防禦すべき地点」に新たにマーシャル諸島が追加され、決戦海面はその北方海域まで、実に2000キロ近く東進してしまった(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 対本営海軍部・連合艦隊1』朝雲新聞社、1975年、同編『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦1』同上、1968年)。これにともなって連合艦隊の根拠地を前進させることが必要となり、カロリン諸島のほぼ中央に位置するトラック環礁がそれに選ばれた。このトラックの拠点化が海軍を暴走させ、陸軍を振りまわすもととなるのである。」(21-22頁)

大量空母の集中運用

「〔……〕元来航空母艦は艦隊決戦において戦艦などの主力艦後方から掩護するものと考えられてきた。自身は大した戦闘能力をもたず、しかも航空機用の燃料や弾薬を山と積んでいるため攻撃を受けるときわめて脆い空母は、最前線に出てゆくのは危険すぎたのである。だが、日本軍は日中戦争の経験から、航空機は大兵力を集中して先制第一撃を加えるときにもっとも有効であるという結論に達し、それまではタブーとされてきた大量の空母の集中運用という戦術が生み出される。そして、この集中使用を円滑におこなうため、1941年4月に空母7隻からなる第一航空艦隊が編成されるのである。」(126頁)

航空機による積極攻勢主義の加速(マレー沖海戦)

「〔……〕41年12月10日にはマレー沖海戦が起こり、仏印南部の基地を発進した日本の陸上攻撃機が、「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」の2隻と交戦した末にこれを撃沈した。これは純粋に航空兵力だけで戦艦との戦闘に勝利した初めての例であり、航空優位の時代の幕開け告げるものとして世界に衝撃を与えることになる。英国のチャーチル首相は、東洋艦隊壊滅の報を受けたときのことを、「戦争の全期間を通じて、私はこれ以上の直接の衝撃を受けたことはなかった」と回想している(『第二次世界大戦回顧録』)。山本五十六連合艦隊司令長官は、この戦果にいつになく上機嫌だったという。せっかくこの戦果をあげた日本が日本がそこから十分に学ぶことなく、以後も「大和」型巨艦にこだわりつづける愚を冒したとは後世しばしばいわれることだが、別に航空機を軽視していたわけではない。実際には海軍はむしろ航空機の威力を頼んで積極攻勢主義を加速させ、これがミッドウェーの大敗やその後の作戦方針の混乱を引き起こしたといえるだろう。」(113-114頁)

日本が航空戦力の優位を示したが、空母機動部隊を戦略の中心にしたのはアメリ

「〔……〕アジア・太平洋戦争の実際の戦闘は、大艦巨砲主義や艦隊決戦思想がもはや時代後れの軍事思想でしかないことを明らかにした。41年12月8日の真珠湾への奇襲攻撃で、日本海軍の機動部隊は、アメリカ太平洋艦隊の戦艦群に壊滅的打撃を与えた。また、12月10日には、海軍の第22航空戦隊に所属する陸上攻撃機が、マレー沖でイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈して、航空戦力の優位を立証した。ところが、この戦訓からいち早く学んだのはアメリカだった。アメリカ海軍は、海上兵力の主役の座から戦艦群を引きおろし、航空母艦(空母)を中心にした機動部隊を海軍戦略の中心にすえた。これに対して、日本海軍の対応は大幅に遅れた。1944年(昭和19)3月、軍令部は第一艦隊(戦艦基幹)を解隊し、第二艦隊(重巡洋艦基幹)と第三艦隊(空母基幹)を統合して第一機動艦隊を新設した。連合艦隊司令長官直率の「大和」と「武蔵」は戦艦「長門」とともに第一戦隊となり、第二艦隊に編入された。この改編により、「敵戦艦群は主隊の地位を去って、空母群の前衛ないし護衛の地位に就くこととなった」が、この事実が示すように、日本海軍が空母優先の艦隊編成を採用するまでに、開戦以来2年3ヶ月もの歳月を必要としたのである(野村實『日本海軍の歴史』吉川弘文館、2002年)。」(77-78頁)

珊瑚海海戦 世界初の空母部隊同士の海戦

ポートモレスビー攻略作戦は、ニューギニア北東部の要衝ラエ、サラモアの占領からはじまった。3月8日、南海支隊(堀井富太郎少将)歩兵第144連隊第2大隊がサラモアに、呉鎮守府特別陸戦隊(海軍)がラエに上陸し、飛行場を占領確保した。つづいてソロモン諸島のツラギ島とポートモレスビーの攻略が企てられたが、これに必要な上陸部隊を安全に輸送するために、「翔鶴」「瑞鶴」「祥鳳」の3隻の空母が珊瑚海の警戒に当たることになった〔……〕アメリカは〔……〕太平洋艦隊で稼働できる「レキシントン」「ヨークタウン」の2隻の空母を投入して日本の作戦を阻止しようとかかったのである。5月3日に陸戦隊がツラギ島に上陸するが、米国側の艦載機の空襲を受ける。そして、駆けつけた日本側空母部隊との間で、5月7、8日の両日にわたって、世界初の空母部隊同士の海戦である珊瑚海海戦が発生したのである。この海戦で、日本側が「レキシントン」を撃沈し、「ヨークタウン」にも損傷を与えたが、「祥鳳」を失い、「翔鶴」も飛行甲板に被弾して着艦不能となった〔……〕単純な戦闘としてみれば、主力空母を撃沈した日本側に若干の分があるように見える結果となった。だが、この結果、海路からのポートモレスビーの攻略は中止を余儀なくされたのであるから、作戦としてはまったくの失敗だったといえる。〔……〕より深刻だったのは、この後おこなわれるはずだったミッドウェー作戦に投入できる航空兵力が激減したことである。「翔鶴」「瑞鶴」は修理のため、ミッドウェー作戦には参加できなくなった。この結果、作戦に用いられる戦力は三分の一以上も減少してしまったのである。」(137-139頁)

ミッドウェーの敗因

「〔……〕三隻の空母が失われたのは、日本側の歪んだ決戦主義が反映した技術上の欠陥によるといえる。この時、日本側では、ミッドウェーの基地を攻撃するつもりで飛行機に爆弾を積み込んでおり、米空母襲来の報を受けて急ぎ魚雷に換装している最中であった。艦内のいたるところに爆弾や魚雷が転がっている状態で米軍の奇襲を受けたため、空母はたちまち爆発炎上してしまったのである。後に「運命の5分間」などと大げさに言い立てられる挿話だが、問題は空母の防禦や防火設備そのものの不足である。」(141頁)

アメリカの対日作戦~艦隊決戦せず飛び石作戦~

「〔……〕アメリカの実際の対日作戦も、日本海軍の予想とは異なるものだった。緒戦の敗北から立ち直ったアメリカは、42年8月のガダルカナル島上陸作戦を起点にして、対日反抗作戦を開始する。その特徴は、機動部隊の支援の下に、島伝いに日本本土に向かうというものだった。ここでも、主力艦による艦隊決戦を想定していた海軍の作戦計画は大きな狂いを生じることになった」(78-79頁)

ガダルカナルの敗因

ガダルカナルでの日本軍の敗因は、なによりもまず、米軍の反攻の時期をまったく見誤り、防備がなされていなかったことだろう。しかし、それ以前に、この島に進出すること自体が作戦線を伸ばしすぎて補給・輸送を困難にするという点が見落とされていたことも重大である。結局、最初に飛行場を奪われて制空権を喪失した日本軍は、輸送を妨害されて兵力はもとより装備も食料も送り込めない状態にされてしまったのである。」(154頁)

シーレーン問題① 海上護衛戦の軽視

アジア・太平洋戦争時の日本の戦争経済は、南方占領地からの原油ボーキサイト、ゴムなどの戦略物資の搬入を前提として成り立っており、日本本土と南方占領地を結ぶ海上輸送路は、日本の戦時経済の大動脈だった。ところが、日本海軍はこの海上輸送路確保のための海上護衛戦を軽視して、これに充分な兵力を振り向けなかった。海軍が、潜水艦や航空機の攻撃による船舶の喪失の急増に衝撃をうけて、海上護衛戦のための中央機関として海上護衛総司令部を設置するのは、1943年(昭和18)11月のことである」(82-83頁)

シーレーン問題② ガダルカナル戦以降の戦闘形態の変化

「日本の弱点のひとつに、資源の供給を海外に仰がねばならないということがある。だからこそ南方作戦が実行されたわけだが、問題は南方で入手した資源を本土の工場まで運ぶための輸送手段である船舶の確保であった。つまり、日本の国力は船舶の保有数に左右されるのである。〔……〕ガダルカナル戦が〔……〕船舶が消耗しはじめる端緒となった。理由はようするに、戦闘の形態が変化しはじめたことである。第一に、海戦の主力が空母ではなく駆逐艦になった。狭い海域での戦闘や護衛には当然空母や巡洋艦のような大型艦よりも、小型艦で高速な駆逐艦のほうが適している。ソロモン沖の海戦は、第三次ソロモン沖海戦と南太平洋海戦をのぞけばすべて駆逐艦が中心となったのである。なかには大きな戦果をあげた戦闘もあったが、同時に消耗も激しく、多くの駆逐艦が失われた。この結果、東南アジアと日本本土の間の輸送を護衛するための駆逐艦が足りなくなってしまうのである。〔……〕護衛専用の艦艇の建設も大幅に遅れたままであった。これは、米軍が通商破壊戦の態勢をととのえるにつれて深刻な問題となってくる。」(158頁)

消耗戦による国力の枯渇 ニューギニアでの攻防

「日本軍のガダルカナル撤退後、米軍の進撃は、中部太平洋ギルバート諸島からマーシャル諸島を経て日本に向かう経路と、ニューギニアを経由してフィリピンに至る経路の二手に分かれた。そして、このニューギニアにおける攻防こそが、日本の国力を枯渇させ、戦争全体の帰趨を決するものとなったのである。ニューギニアは日本の2倍の面積をもち、縦横無尽の地上戦が展開できそうに見えるが、その大半は数千メートルの山脈とジャングルであり、海岸地帯のわずかな平地は湿地帯で寸断されている。海・空からの輸送・支援にたよりながら海岸線上の要衝を取り合うという、島嶼線に近い戦闘が展開されることになる。そして、制空・制海権を失っている日本軍には、このことが重くのしかかってくる。1943年(昭和18)2月にガダルカナルを失った後、日本軍は米軍の侵攻に備え、ラバウルから東部ニューギニアのラエ、サラモア、フィンシュハーフェンに増援部隊を派遣し、ここを防禦要地として固めることにした。だが、ニューギニアに渡ろうとするたびに輸送船が米軍機の攻撃を受け、大きな損害を出すことになる。〔……〕事態の緊迫するなか、山本五十六連合艦隊司令長官は自らラバウルに向かい、作戦を指導することにした。4月18日、山本はブーゲンビル島ブインに視察に赴くが、日本海軍の暗号を解読していた米軍側はブイン西方でこれを待ち伏せ、撃墜したのである。長官の戦死は全軍に衝撃を与えた〔……〕ガダルカナルからニューギニアにつづく一連の戦闘は、地上戦であると同時に、地上戦とそれに対する補給を支援し、相手側のそれを破壊するための航空戦でもあった。そして、このようなうちつづく航空戦が、実は恐ろしい消耗戦であることが明らかになっていく〔……〕」(162-164頁)