「満州事変」・「上海事変」と呉鎮守府・呉海軍

参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第1節軍縮期の呉海軍-第3項「満州事変」・「上海事変」の勃発

(1)「満州事変」の勃発(p.53~)

  • 満洲事変と呉海軍 「天龍」の出動
    • 昭和6年9月18日満州事変勃発、昭和7年2月までに満洲全域をほぼ手中におさめ、昭和7年3月1日には「満洲国」が建国宣言する。
    • この間、昭和6年11月に天津市などで両国軍隊の衝突があり、海軍も陸戦隊を出動させたが、海軍は第二遣外艦隊を中心に全体としては警戒態勢を強めた程度にとどまる。
    • ただ昭和6年9月末に巡洋艦天龍が要請を受けて翌10月9日に邦人保護の任務を帯びて呉軍港を抜錨する。
  • 昭和6年11月15日 呉市民大会(於:二河公園、戸主会連主催)
    • 当日は「我等の生命線を守れ」をスローガンにして市民約5万が集まる、「皇国の危機」「国運を賭して支那の迷蒙を破れ」「連盟を脱退するとも満蒙の権益を確保せよ」と血潮を湧かす
    • 寺口戸主会連盟会長開会、国歌合唱
    • 扶桑艦長杉坂大佐、満蒙権益について講演
    • 市民大会、佐々木市長座長が宣言、決議を首相以下各方面に打電、呉鎮長官、五師団長に書面送致
    • 陸軍少将松本勇講演
  • 満洲事変時には戦時体制には及ばず
    • 呉海軍の出動は天龍のみにとどまる。
    • 昭和6年10月19日から24日にかけて呉鎮守府は第2回基本演習を広島湾・伊予灘・豊後水道などにおいて実施するが、演習の課題は「豊後水道二於ケル局地防備ノ急速設営並ニ之カ適否」であり、戦時体制がおよんだ形跡はみられず。

(2)「上海事変」への出動(p.52~)

  • 巡洋艦大井および駆逐隊4隻の出動
    • 昭和7年1月18日日蓮宗の僧侶など5名が上海で中国人によって殺傷され上海事変が勃発、上海にあった日本海軍の特別陸戦隊が在留日本人保護のために軍事行動を開始、中国軍と衝突。当初において海軍が戦闘の主力となったため、呉軍港も「俄然戦争状態」となるにいたる。
    • 1月21日夜、巡洋艦大井および駆逐艦4隻が特別陸船体2個中隊を搭乗させて抜錨、上海にむかう。出港がかなり公然化されたので歓送風景が市内をつつみ、夜10時には「灯の海、旗の波、闇に遠ざかり行く艦を追ふて声を限りの万歳」という出陣。23日昼過ぎには上海到着、在留邦人歓呼狂喜して迎える。
  • 阿武隈と那珂の出動
    • 1月27日には呉在泊の那珂、阿武隈に出動命令が下る。司令長官は「条約派」であった堀悌吉少将。
  • 海軍陸戦隊の苦戦
    • 第19路軍を主力とする中国軍は精鋭を誇り、苦戦に次ぐ苦戦。陸軍の出兵を要請せざるを得なくなる。激しい市街戦に戦死傷者続出。
    • 2月4日「英霊」2柱が佐世保経由で帰還、6日に海軍葬、2月10日には戦傷者33名送還、その後も戦死傷者の帰還は絶えず海軍合同葬も第2次から5次へと続く。事変がひと段落した時には、呉所属戦死傷総計156、うち戦死13、傷死10、公務行方不明2、戦病その他3、戦死として取扱われるもの計28。
  • 上海事変停戦後の呉
    • 3月2日停戦、3月23日巡洋艦大井帰港、上陸した2個中隊約300名は呉海軍第一練兵場で閲兵式のあと、市内を行進して市民の歓迎を受ける。その後も各艦と陸戦隊が陸続として帰還。
    • 昭和7年4月22日 全市あげての大歓迎会が二河公園や旧グランドで開催
      • 呉新聞の報道→「芸南の春たけて 歓迎と感激の宴 花の香を織り込めて 二河原頭大楽園」、「末次司令長官以下 凱旋勇士四千名 知事、師団長以下市内の名士を網羅」、「美技連四十名が会場を手踊行進 女給、朝日券のサービスに 歓声どよめき」、「勇士を犒ふ余興の数々」、「お歴々も弁当配り」、「凱旋万歳の叫びは九嶺の天地を圧し 感激と歓喜は渦巻を展開」
  • 上海事変の決着
    • 昭和7年5月5日、上海の英国総領事館において停戦協定の調印、5月7日には呉海兵団の応召兵の解除退団式が挙行されて事変のいちおうの決着がつく。

(3)両事変と呉市民(p.57~)

  • 呉市民の戦争支持
    • とりわけ海軍を主力とした「上海事変」に呉市民は熱狂し、「銃後」で支援。軍縮下の沈滞ムードの打開が、期待されていた。
  • 千人針・慰問袋
    • 満洲事変勃発と共に呉市で大募集が行われる。中国新聞呉支局・呉水交社・呉婦人文化講座・呉市役所・在郷軍人会呉連合分会・呉商工会議所・呉海友会・呉海軍協会などが協同で「慰問袋大募集」をすすめ、他の団体や個人も募集に応じる。昭和6年11月25日までに呉鎮守府はその数2万4093袋に達したと発表。
    • 上海事変後も第二次海軍慰問袋募集事業がおこなわれている。
  • 「軍用機献納運動」
    • きっかけは昭和7年2月6日の第1回海軍葬。呉在住在郷軍人会を主体とする呉海友会から起こる。献納のための後援会が2月14日に結成。在呉非現役海軍軍人が中心、町総代・戸主会・青年団・婦人会その他の団体が協力。佐々木英夫呉市長も依頼状を各戸に配布して依頼。熱心に運動するが当初の目標15万円には容易には達せず。そのため募金を盛り上げるための様々な試みがなされる。呉鎮号献金募集書画展を開催。名家寄贈の書画を蔵本通の善法寺で展示即売しその売上金を献納した。愛国婦人会呉支部は後舞踏大会を後援、その1枚10銭の会員券の売上を寄贈した。
    • 昭和7年4月28日、ようやく10万5000円に達する。結局、最初の爆撃機を変更し広廠式13攻撃機2基を献納に決定。昭和7年5月13日2機の起工式、6月8日竣成、6月19日に「報国第三、四号」としての命名式をおこなう。当日、「工廠陸岸を埋めた3万の大観衆、阿賀、広の新開、石槌山頂上にまで動く人影は翼下に描かれた「ホウコク」の文字を仰いで万歳、歓呼、広湾をゆるがせ、山野にこだます」と伝えられる。
    • このあとも献金がつづいて、海軍側がそれに上のせして、もう1機がさらに献納されている。飛行機献納はこの後もことあるごとになされていく。
  • 積極的に戦意高揚に努める呉市
    • 呉市内では講演会や各種の時局展などが開催されて戦意の高揚がはかられ、市民は海軍病院に戦傷兵士を慰問し、戦勝の祈願祭に参加、停戦後は凱旋景気で「陸に海に湧き立つ呉市」を現出する。
  • 忠魂碑(二河公園)
    • 昭和7年11月20日には総工費3万円をもって二河公園Cグランドに建設した呉市内陸海軍人戦没勇士を祀る「忠魂碑」の除幕式があり、ひきつづいて招魂祭が開催され、「異常な亢奮を市民に投げかけて」いる。

(4)事変下の鎮守府司令長官

  • 満洲事変勃発時の長官は野村吉三郎