「非常時」・「準戦時」時代の呉鎮守府・呉海軍

参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第1節軍縮期の呉海軍-第4項「非常時」・「準戦時」の時代

(1)「非常時」から「準戦時」への移行

  • 軍備増強
    • 日本海軍当局は昭和9年頃から無条約時の軍備計画案の研究準備を行い昭和9年度から12年度にかけて第二次補充計画が実施される
    • 海軍兵員も昭和6年満州事変以降増加の傾向を辿り、さらに新補充計画の実施に伴う艦艇の整備に伴い次第に増員されていく
    • 昭和8年度以降の海軍予算も急膨張の傾向を辿り、昭和10年度にはついに八八艦隊計画時の大正10年度の合計額を上回る。
  • 呉市における軍需景気
    • 昭和9年頃からワシントン軍縮八八艦隊計画遂行当時の豪勢を思わしめるようになってくる。
    • 昭和10年には「いよいよ非常時に突入する呉軍港都」といわれ、高地部の建築制限、看板撤去、写真業一斉取り締まり、三呉線全線通して本線列車通過に対して軍港遮蔽を計画するなど膨張を強化、市民一般の緊張をそそって街に"非常時"の声が氾濫という状況となる。
    • 海軍労働組合連盟すらも機関紙の年頭の辞において非常時を強調し、「労働報国」を唱える
  • 呉海軍の猛訓練と事故
    • 駆逐艦早蕨の転覆事故(昭和7年12月5日)
      • 呉鎮所属の第13駆逐隊呉竹、若竹、早苗、早蕨の4艦が馬公警備の任を帯び昭和7年12月3日呉軍港を出発したが、西航の途次東支那海に於いて台風に遭い、早蕨は転覆し104将士が艦と共に殉難
    • ②「友鶴事件」(昭和9年3月12日)
    • 駆逐艦深雪と電が正面衝突(昭和9年6月29日)
      • 午後6時ごろ連合艦隊が煙幕演習中、第二水雷戦隊深雪、電は済州島南方海面で正面衝突、両艦とも切断され深雪の後部は沈没、戦死傷者は各4、行方不明2。深雪は呉所属第11駆逐隊に所属する1700トンの新鋭艦であった。
    • ④「第四艦隊事件」(昭和10年9月26日)
      • 秋季大演習中、岩手県沖合太平洋上で大暴風雨に遭遇、駆逐艦"初雪"、"夕霧"が艦首切断流失したのをはじめ、多くの艦艇が損傷、50名以上の将兵が死亡。事故原因の調査の結果「特型駆逐艦については船体強度不十分であることが明らかとなり、また電気溶接に問題点のあることが指摘」された。
      • この大演習から呉軍港への帰途、2等巡洋艦"浅間"が広島湾白石灯台付近で座礁。"浅間"は"那須丸"の曳航などにより呉湾に入港。座礁後4日10時間にて離礁しえたるは記録的成功と報告されている。
    • これらの事故の頻発は船体構造上の欠陥などもさることながら、軍縮条約下における低トン数への過重武装や量の不足を補おうとした猛訓練などが直接間接にその原因をなしていた。

(2)呉海軍航空隊の拡充(p.71~)

  • 呉航空隊における漁業補償問題
    • 昭和6年6月13日、広分遣隊は独立して呉航空隊の開庁式が行われる。しかし航空隊の実際の配置は敷地や設備の大拡張を必要としていた。そして漁業補償という難題において、漁業組合と対立が生じる。
    • 当初は海軍の照会に対し、広村長は漁業補償は村当局で講ずるので、海軍の手をわずらわせることはない旨を昭和6年5月4日付で鎮守府参謀長に約束していたが、事態は曲折を経る。
    • 漁業組合と海軍で補償問題で対立、広村側も妥協案を出すが結局、広島県内務部長が仲介することになる。だがその後も「1か月に昼夜3回ずつの入漁」をめぐって、それを無条件とする漁業組合と条件つきとする海軍側とのあいだに不一致がのこり、着工後にもひともんちゃくをまぬがれなかった。条件の統一解釈の結末は資料的にはあまり判然とせず最後まで不明確な点が残り戦時下に入っての昭和13年4月にもトラブルが起こっている。
    • 航空隊敷地は昭和7年1月25日に着工、竣工は昭和9年11月、竣工式は11月3日。
    • 昭和9年2月15日には、大分県に佐伯航空隊も工事を完了し呉鎮守府管下の航空隊として開隊されるにいたっている。
  • 呉海軍航空隊の開隊・拡張後の連日の猛訓練
    • 事故の頻発→一連の調書が残存
    • 遠距離飛行→昭和11年4月、北満飛行が行われ、94式水上偵察機4機がハルピンまで航空。「北鮮及北満方面水陸基地調査」などをかねての訓練。飛行の帰途、うち1機が朝鮮羅津南方100カイリの洋上において消息をたち、搭乗員3名が行方不明となる。濃霧に遭遇した結果の事故。
    • 海軍航空隊の全搭乗員数→昭和12年11月1日現在、士官331名、特務・准士官170名、下士官兵1929名、合計2430名に過ぎなかった。

(3)諸組織の動向(p.78~)

  • 昭和8年12月1日、警備戦隊新設
    • 呉鎮では旗艦那智以下妙高阿武隈、神通、加古、第14・16・19・20の各駆逐隊、潜水艦若干をもって編成
    • 初代司令官北川清少将
  • 昭和9年12月15日、呉防備戦隊開隊
    • 呉防備戦隊は、白鷹を旗艦に勝力、朝日、第11掃海隊をもって編成。
    • 初代司令官安藤隆少将
  • 昭和12年5月14日、「海軍通信隊令」制定(施行は6月1日)
    • 従来の呉海軍無線電信所が呉通信隊に再編
  • 昭和12年5月1日 地方海軍人事部設置
    • 「海軍人事部令」が改正され、各軍港に海軍人事部をおくほか、札幌・金沢・大阪・高松に地方海軍人事部が設けられた。このうち大阪および金沢が呉鎮守府の管下になった。
    • 呉海軍人事部は鎮守府と並んで右隣りにあり、高等官をのぞく一切の人事万般を取扱い、特に海軍軍事普及班が常置されており、軍港見学の相談相手になって、親切に一切の案内を担当していた。

(4)「非常時」下の呉鎮長官(p.82~)

  • 山梨勝之進(~昭和7年12月1日)
    • 「非常時」を画するにいたった昭和7(1932)年の5.15事件のころは山梨勝之進が呉鎮長官だったが、同年12月軍事参議官に転出

(5)「非常時」下の呉海兵団

  • 海兵団の増強
    • 特に志願兵の強化がすすめられる
  • 海軍兵士の処遇
    • 呉鎮のこの時期の糧食品の供給状況をみると、当時の日本人の平均的な食事にくらべてかなり高い水準である西洋食的でもあった(『海軍省年報』の軍需部糧食品供給状況など)
    • 昭和11年1月「海軍兵食を日本化」として食事内容が変化
  • 昭和恐慌の影響
    • 昭和恐慌後の不況を農漁村はずるずるとひきづる。海軍兵士の家族にも生活困難を訴えるものが多くなる。そのような状況に対応して昭和8年1月25日付で呉鎮では「下士官兵家族困窮者救護内規」を定める。
    • 不況下にあっては、現役をはなれたものの就職問題が悪化。呉海軍人事部も「近次財界不況の深刻化に伴ひ海軍離現役軍人の就職率は漸次逆転を予想さるるに至りしを以て極力各地方職業紹介所、会社工場等と連結を保ち求人の開拓に努むると共に一方離現役前の職業教育を励行し就職難の打開に努め」ていた。