太平洋戦争期の呉鎮守府・呉海軍

参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第2節戦時下の呉海軍-第2項太平洋戦期の呉海軍

(1)太平洋戦争の勃発(p.108~)

  • 12月1日 開戦準備進む
    • 人員増員、船舶徴用、機雷敷設
  • 12月4日12時
    • 「呉防戦機密第八番電」
      • 機密呉防備戦隊作戦命令第1号二依ル機雷堰敷設終了
  • 12月8日
    • 朝、呉警備隊司令官「各砲台ハ砲1門二付爆弾20発ヲ準備シ信管ヲ装着セヨ」と命令し戦時警備体制に入る。
    • 鎮守府において「本日ヨリ戦時警備を実施ス」。当日呉鎮司令長官豊田副武大将は機密呉鎮守府作戦命令第75号を発し、呉鎮守府訓示第三号を与える。

(2)戦時下呉海軍の活動(p.112~)

  • 開戦早々、アメリカ潜水艦と防備戦隊が接触
    • →これにより12月20日以降、広島湾に防潜網が設置される。このあとも「敵潜ラシキモノ見ユ」がしばしば発信されているが、結局戦果のほどは定かではなかった。
  • 昭和17年に入っての呉防備戦隊司令部の報告
    • 「敵潜水艦開戦頭書ヨリ豊後水道方面ニ出没シ内海西部ニ侵入ノ疑濃ナルヲ以テ前月二引続キ当戦隊及艦隊協力ノ上掃蕩ヲ実施スルト共ニ管区海上ノ哨戒ヲ厳ニス」
  • 昭和17年1月 防潜網に日本船がかかって爆沈
    • 監視艇「海王丸ハ矢風ノ照明下ニアリテ追跡中遂二設置線二達シ停止シ監視中該帆船ノトコロ二於テ機雷爆発経過20分頃船首ヲ直立シテ沈没セルヲ認メ後退セリ」
  • 昭和17年2月28日 「呉鎮守府機雷清掃規定」制定
    • 「呉鎮守府ニ於ケル浮流機雷ノ清掃要領並ニ船舶漁舟ヲシテ海軍ノ行フ浮流機雷清掃ニ協力セシムル事項ニ関シ規定」したもの
      • 具体的な規定の事例→第8条「浮流機雷ヲ発見曳航シ海軍官憲又ハ地方官憲ニ引渡シタル船舶漁舟ニ対シテハ拾得機雷1個ニ付重油20「ガロン」ヲ支給ス」
  • 昭和17年4月18日 アメリカ空軍によるはじめての東京を中心とした本土空襲
    • 同日午後2時55分 西部軍管区全地区警戒警報令
    • 同日午後3時5分 呉鎮長官「呉地区、徳山地区、内海西部海面土佐沖海面二対シ警戒警報ヲ発令」する。警報が解除されるのは翌19日午後9時30分。
      • 被害は少ないが日本国民に心理的衝撃を与える→呉海軍警備隊は「敵機ノ本土空襲ニ依リ一部国民ノ中ニハ流言蜚語二依リ惑乱セラルルモノナキニシモ非ズ之ガ取締二留意スルト共ニ一層防諜ニ力ヲ注ギ不逞分子ノ策動防遏ニ努メ警備ノ万全ヲ期セリ」という
    • 同年5月 広工廠付近・呉航空隊内・飛渡ノ瀬・鍋峠付近・新宮高地などに、機銃防空砲台の仮設がすすめられる。
  • 昭和17年6月 ミッドウェー海戦に敗北しても戦局を欺瞞する
    • 呉鎮の記録→「帝国陸海軍ハ4日以降……『ミツドウエー』方面ヲ急襲シ要地並ニ敵有力ナル機動部隊ヲ撃破スルト同時二」
    • 呉海軍警備隊の記録→「大東亜戦争ハ吾方ノ圧倒的戦勝裡二愈々進展セラレ……制海空権ハ概ネ我ガ掌中ニ帰セリ」
  • 昭和17年8月 敵潜水艦頻出
    • 「8月中旬以降豊後水道沖、土佐沖に敵潜頻リニ出没」という状況と化す。
  • 昭和17年10月 敵潜による機雷敷設
    • 日本近海へのアメリカの潜水艦の出没はさらに頻度を増し、はじめて紀伊水道に20箇以上の機雷を敷設するにいたる。呉鎮参謀長は警戒を呼び掛ける。
  • 呉防備戦隊に対する米潜水艦の戦闘の激化
    • 「今回遭遇セル敵潜ハ従来ト趣ヲ異ニシ攻撃精神旺盛且執拗ニシテ連続掃蕩ヲ行フモ避退セズ毎回二発宛ノ魚雷ヲ以テ執拗ニ攻撃シ来リ且深々度聴音発射ヲ実施セル形跡アリ将来掃蕩上留意ヲ要スベキ事項ト認ム」
  • 鎮守府第六特別陸戦隊バラレ派遣隊のソロモン群島における苦戦
    • ガダルカナル島に基地ヲ有スルボーイング及直衛戦斗機ヲ以テスル敵編隊ハバラレ航空基地爆撃ノ為連日ノ如ク執拗ナル攻撃ヲ実施シツツアリ」
    • 「敵機ノ来襲回数ハ殊ニ増加シ活気ヲ呈シ居ルモノノ如シ殊ニ味方中攻隊及戦闘機隊ガ本島ヨリ去リ当方面ニ於ケル航空兵力減少スルニ及ビ此ノ傾向ハ著明トナリ輸送モ困難ノ度ヲ増シタルモノノ如シ」
  • 昭和18年4月10日 呉鎮防備戦隊は南方洋上までの護衛作戦などにも従事するようになっていた
  • 昭和18年6月8日 陸奥が桂島泊地で沈没
    • 「後部火薬庫の爆発を生じ、34番砲塔間で船体が両断し、瞬間的に沈没」するという突発事故が発生。沈没当時、同戦艦には乗組員1321名と飛行予科練習生およびその教官など153名、計1474名が乗艦していた。
    • 「6月8日の12時10分すぎごろ、停泊中の陸奥の後部40.3センチ砲の第三砲塔の火薬庫が突如、大爆発を起こした。その振動と閃光は、猛烈な勢いであたりにこだました。〔中略〕たちまち水煙がたちこめ、高さ百メートルの黒煙があたりにたなびく。陸奥は完全に転覆し、赤い艦底を水面に堕した。扶桑の内火艇が救済に駆けつけたが、犠牲者は予想外に多かった。乗っていた者の約四分の三が艦と運命をともにしたのである」
    • 陸奥の沈没は呉鎮守府警備区域内の出来事であり、その上極秘の連合艦隊泊地に於ける重大事件であった。参謀部では先ず最悪の原因と考えられる敵潜水艦が瀬戸内海に潜入したことを考えた。紀伊水道や豊後水道も防潜網で閉鎖され、厳重警戒が続けられたが、結局敵潜水艦らしいものの脱出は認められなかった
    • 陸奥は自爆したものと考えられ「M査問委員会」が設けられる。同委員会により「無傷の生存者のうち水兵は、戦艦扶桑の甲板で言語に絶する取り調べを受けた」。
    • 結局、実態は解明されず、「盗癖のため、とかくうわさのあった二等兵曹が、容疑者となった。彼の遺体が艦内から発見されなかったことも、いっそう故意説の疑いを深くした。M査問委員会の結論も、この故意爆沈説に傾いたものとなった」されている。
    • 陸奥は大正10年に完成して以来、その40.3センチ主砲は結局、一度も射つチャンスにめぐまれないうちにあえなく沈没し去ってしまった。
  • 「呉鎮守府陸上応急工作規定」
    • 軍港地域が直接空襲をうける可能性が考慮され「呉附近海軍各部……二於テ空襲又ハ天災等二依リ被害ヲ蒙リタル場合ノ応急工作ニ関スルコトヲ規定」した
  • 昭和19年における戦局の悪化
    • 呉鎮報告→「敵ハ中央突破ノ野望ヲ逞シクシ内南洋方面ノ我ガ基地ニ対シ機動部隊ヲ以テ執拗ナル反撃ヲ継続シツツアリ」
    • 3月7日「呉鎮守府航空部隊戦策」が定められる
      • 空襲を予定し「索敵哨戒ヲ厳重ニシ敵来襲前二之ヲ補足撃滅ス」
    • 3月末 連合艦隊司令長官古賀峯一大将が呉鎮特別陸戦隊も守備するパラオからダバオに飛行艇で移動中、行方不明となる。
    • 6月 ノルマンディー上陸開始、サイパンへの米上陸
    • 6月16日 在支米空軍による本土空襲、北九州地区及中国西部地区に来襲
      • 鎮守府管区にも空襲警報が発令されるが、爆弾攻撃は主として八幡製鉄所地域であった
    • 7月7日~8日 サイパン陥落
    • 7月18日 東条英機内閣総辞職
    • 8月 テニアン・グァムなどの守備隊玉砕 サイパンテニアン両島のB29・B24の基地が使用可能となり、本土への本格的爆撃が完全に射程距離内にとらえられた
    • 10月12日 米潜水艦の近海への出没活発化に対し呉鎮で対潜兵器懇談会開催→座談会はもっぱらレーダーによる索敵攻撃の急を訴えて終わっている。
    • 10月24日 戦艦武蔵沈没
    • 10月25日 海軍特別攻撃隊敷島隊がはじめて特攻攻撃を敢行
    • 11月 米軍機による本格的本土空襲が開始される。→呉地区に6日、17日とB29が1機偵察飛行にあらわれる。12月にも2度にわたりB29による偵察飛行。
  • 昭和20年
    • 2月 鎮守府の戦時日誌→「『マリアナ』ヲ基地トスル敵大型機ノ本土来襲ハ益増加シ本期間二於テモ60機乃至150機ノ大編隊ヲ以テ東京、名古屋、浜松、神戸等ヲ攻撃セル外一機乃至二機ヲ以テスル四国、中国、九州方面ノ偵察モ亦極メテ頻繁トナレリ」
      • 残存する戦時日誌はここをもって途切れている。

(3)呉軍港への空襲(p.121~)

  • 昭和20年3月 B29による大都市への「絨毯爆撃」本格化
    • マニラ陥落・硫黄島占領→防空兵力の不足→第332海軍航空隊(呉)の主力を南方方面戦闘に転用→防空実施上大なる不利(呉市街への空襲の詳細は呉市史第5巻第8章第3節参照)

①3月19日の空襲

  • 経緯
    • 米海軍は空母16隻を4群に分けた第38機動部隊で四国、九州沖を遊弋しながら西日本の航空基地や呉軍港、神戸港の艦船を反復空襲した。
    • 17日
      • 22時40分 鹿屋哨戒機 北20度50分 東経133度30分に敵機機動部隊らしきものを3群探知
    • 18日
      • 2時10分 都井崎の135度140浬付近に触接 九州内海方面は敵機動部隊来襲の算濃厚となれり
      • 3時 西部軍管区に警戒警報発令
      • 4時6分 呉鎮管区にも警戒警報発令 「艦艇並二飛行機ノ分散避退準備ヲナシム」
      • 6時 西部軍管区空襲警報発令
    • 19日
      • 6時15分 「敵小型機70機豊後水道北上ス」
      • 7時10分 「対空戦斗(敵2機湾内廃潜水艦ヲ銃爆撃)」
      • 7時10分~10時 呉軍港に百数十機が来襲
  • 戦闘の様子
    • 3.19呉空襲は沖縄侵攻の事前作戦 
      • 呉地区には膨大な兵力が終結しており米軍機と日本側砲台・艦船とのはげしい戦闘がはじまる
        • 「米機の猛撃もさることながら、わが対空射撃もまた極めて激しいものであった。陸上防空砲台と数十隻の在泊艦船の対空射撃は、大和の46センチ主砲、伊勢級の36センチ砲をはじめとし、重巡の20センチ、軽巡の15.5センチから12.7センチ、12センチ、8センチ高角砲数百門、25ミリ機銃数千挺によるもので、軍港内は弾幕と敵の急降下機の爆弾と、艦船の炎上とで実に凄惨な状況を呈した」
        • 「対空弾は満天を覆い、こんなに砲火が集中した所は対戦中外にはないのではないか」とすらいわれるほど
  • 日本側の戦果
    • 昭和20年3月18日から21日にかけての一連の攻撃にたいし、日本側は、第5航空艦隊(宇垣纏司令長官)が反撃を続け「空母フランクリンおよびワスプが大破し、エンタープライズおよびエセックスが中破した。フランクリンでは戦死者832人に達し、アメリカ軍艦がこうむった最大の人的被害となった」
    • 松山基地にいた新編成の343航空隊(源田実司令)は紫電改46機、紫電8機、計54機をもって迎撃。グラマン48機、爆撃機4機、計52機を撃墜。
  • 日本側の被害
    • 沖縄への出動をまえに集結していた「帝国海軍」の残存艦艇がその多くの戦闘力を失う。「パール・ハーバーの逆」
    • 戦艦伊勢
      • 昭和20年3月19日6時15分「空母30機に依て攻撃され、多数の近弾と4ケの直撃弾を受け……1200頃空母機再び来襲、艦橋に命中弾1ケを出し……至近弾3ケの破片に依り全体的大損害を受けた。当日の死傷者数は戦死約50名、負傷100名に上つた」
    • 戦艦日向
      • 「多数の空母機に依つて攻撃され、多数の近弾及左舷に直撃弾1ケを受けた」
    • 戦艦榛名
      • 「航空機15機に依り攻撃され艦橋の後方右舷に命中弾1ケを受け軽微な損害」をうける
    • 空母天城
      • 「0930空母機30機に依り又1530には再び同種類の飛行機20機に依つて攻撃され……飛行甲板にロケット命中弾1ケ……飛行甲板及格納庫甲板は大損害を蒙り且左舷後部機械室に浸水……左舷に至近弾が命中し……水線下に重大な損害を与へ……艦橋前方右舷に対する近弾のため前部爆弾庫に浸水」している
    • 空母葛城
      • 「右舷前部に命中弾1ケを受け……此爆弾は500封度のGP爆弾で舷側に飛び込んで舷側の鉄板と上部格納庫甲板に直径5呎の穴を開け……1名戦死、3名負傷した」
    • 空母龍鳳
      • 「一爆弾は上部格納庫甲板の第167肋材に命中し、それがため飛行甲板に直径10米の穴が開く」ほか各所に被弾し、修理のため呉工廠に入渠している。しかし「機械類は修理したが、飛行機甲板や格納庫甲板は修理しやうともしなかつた」といわれる。ほどこす術とてなく「猛烈に偽装を施された」にとどまった。戦死20名、負傷30名をだす。
    • 巡洋艦磐手
      • 射撃演習のため呉から豊後水道へむかう途次、グラマン8機の攻撃をうけたが、なんらの損害もうけなかった。1名戦死、12名負傷
    • これ以上に大淀、利根も空爆を受ける。

②5月5日の空襲

  • 昭和20年5月5日 午前中 
    • 主として広工廠および第11空廠にたいして行われる
  • 戦況
    • 防備にあたる戦闘機はすでに南方作戦に転用され手薄で迎撃は15機のみ。そのうち5機が撃墜されておりB29の方はわずか3機のみの損失。なすがままの空襲をうける。
  • 米軍
    • 空襲はマリアナ基地の米陸軍第20航空軍第21爆撃兵団によるもの
    • 各都市を焼夷弾で絨毯爆撃していたが3月下旬に焼夷弾を使い果たし、本国から補給される3カ月間沖縄支援作戦に切り替え、機雷投下による呉湾封鎖と航空機工場の爆撃攻撃に集中していた。そのようななかでの航空機工場としての広への爆撃であった。
  • 空襲
    • 空襲警報発令が当日10時31分、解除が11時20分、約49分間の空爆であった。
    • 11空廠のみで22工場が破壊され様々なタイプの機械500台以上が破壊され、それらの大部分は修理不能におちいった。生産中の航空機も被害を受ける。
    • 広工廠・第11空廠はこの49分間の空襲でその大半を破壊・焼失し、ほとんど完全に生産機能を喪失した。
    • 6月26日にはこの機能を失った広工廠を11空廠に吸収合併するにいたる。
    • 人的被害は両工廠あわせて戦死114名、負傷150名、市民の被災者は1000名以上

③6月22日の空襲

  • 第3回目の本格的空襲は、呉工廠への爆撃が中心
    • 6月22日、B29のべ約180機が呉工廠に襲い掛かる。
  • 呉海軍警備隊の戦闘詳報に見る爆撃の様子
    • 「0820防空関係員第二警戒配備、0836呉地区警戒警報第一種、0841呉地区空襲警報発令、四国南西端二終結セシ敵B29約180機は数梯団二別レ松山方面ヨリ或ハ国東半島附近ヨリ北進又ハ北東進シ漸次呉地区二連続的侵入シ概ネ0930ヨリ1045ノ間主トシテ呉工廠中心部ヨリ西南部ヲ爆撃セリ」
  • 壊滅的打撃
    • 投下爆弾は1トン爆弾が159発、1トン未満が177発で、合計336発という大量のもの。工廠の伝統ある諸施設はこの空襲でほとんど壊滅的打撃を受けた。
  • 呉鎮の反撃
    • 砲台から迎撃のためについやした弾薬は1142発、その戦果は、呉海軍警備隊の記録でも撃墜1機、撃破9機に過ぎなかった。
  • 6月23日
    • 第3回呉空襲の翌日、沖縄守備隊全滅

④7月1日~2日の空襲

  • 第4回目は市街地を中心とした焼夷弾による猛爆
    • 非戦闘員たる一般市民を直接対象とした空襲で残忍な結果をもたらした。雨模様や濃霧、高度4000メートルからの空爆に、なんの術もなく市街は猛爆にさらされ続けた。
    • 火災→火災箇所は呉市街地中央部、軍需部、海兵団、病院等で、一部の敵機は広方面に廻り、航空隊、11空廠にも火災を起こさしめた
    • 被害状況→焼失家屋23589戸、死者1939名、傷者3948名
    • 海軍関係→鎮守府、海兵団、防備隊、軍需部どちらを向いても火の海、会計部庁舎やこれに隣接する第一倉庫にも多数の焼夷弾が落下
  • 化学兵器の水準の差
    • 「今回ハ天候ノ関係上照射機関ノ活用ヲ見ルニ至ラザリシモ敵ハ我ガ照射機関ノ有無二関ラズ「レーダー」装置ニヨリ、相当ノ精度ヲ以テ爆撃シ得ル」
    • 「敵ハ明二天候偵察ノ後当日ノ如キ天候ヲ選ビダルモノニシテ電探射撃ノ必要ヲ痛感ス」

⑤7月24日の空襲

  • 第5回目の空襲 
    • 戦闘詳報はもはや残されていない
      • 広島県警察百年史』→「自0600頃至1200頃」の約6時間「主トシテ呉市及軍港二対シ銃爆撃 艦載機ヲ主トシタル小型延約870機」
      • 「本土防衛作戦史」→「0540-1600の間6波延約1000機侵入主として呉軍港及内海各部の船舶並二同方面の我航空基地を攻撃し一部は見張所及交通機関並に工場等を銃爆撃した」
  • 艦艇の状況
    • 呉湾に残存していた艦艇は、いずれも使用不能の損害をこうむる。
      • もっともそれらの艦艇にしてもすでに3月19日の艦載機の空襲で直撃弾を受け損傷した各艦は周辺の島陰に疎開していた。
      • 米軍機による数回にわたる機雷の敷設によって、呉軍港は封鎖され、B29が全国の燃料施設を継続的に爆撃したため重油がなくなり、呉軍港周辺に係留されていた日本海軍最後の艦艇は身動き出来なくなっていた
    • 艦艇の浮き砲台化
      • 各艦は「本土決戦に備えて豊後水道のため副砲、高角砲、対空機銃装備の半数以上を取りはずして四国沿岸に送り、残り装備で呉軍港防衛の防空砲台に変身、上甲板に築山を作って松の木を植えたり、艦構造物に網をかぶせ、松、杉の小枝を網の目に差してカムフラージュしていた」ような始末でさえあった。
  • 艦艇の被害状況
    • 戦艦伊勢
      • 午前8時すぎより爆撃を受ける。艦橋右舷に直撃弾炸裂、牟田口艦長以下20名戦死。その後浸水多量で一時着底したが排水作業により浮上。
    • 航空戦艦日向
      • 何百機という空母機が0915と1630の間に呉を襲撃し、50機乃至60機(大部分TBF)が約200ケの爆弾を以て日向を攻撃。命中弾10ケ及近弾20ないし30ケを出した。同艦は直ちに浸水し始め、攻撃後間もなく座礁情島沖100メートルの海底に着底した
      • 乗組員千余名中戦死者204名重軽傷者600余名に及ぶ。艦長草川淳少将もグラマンの投下した爆弾により戦闘艦橋において壮烈な戦死。
    • 巡洋艦利根
      • 能美島沖に係留されていたが、空母機(グラマン)約10機が利根を攻撃し直撃命中弾四ケ及び近弾7ケを出した。甚大な損害の結果として同艦は浮力を失い浅い所へ曳航されて沈没を防ぐため海浜へ乗り上げさした。戦死者128名
    • 巡洋艦青葉
      • 空母機に依って0615から1600まで絶えず攻撃された。約30機のグラマンが此日中攻撃して、艦首に命中弾1ケ及第二煙突の左舷側後方に至近弾1ケを出している。これにより総ての機械室及第四、第五、第六、第七罐室の完全な浸水同艦は浮力を失い1000に海底に沈んだ。
    • 巡洋艦大淀
      • 潜水戦隊旗艦として建造された唯一の軽巡洋艦であったが、7月24日に約50機の空母機によって爆撃された。
    • 巡洋艦磐手
      • 非常な老齢艦で主として訓練及本土水域に於ける作戦に使用されていたものであったが、その老齢さのゆえか、きわめてあえなく沈没し去っている。いばわたんなる衝撃波で沈没したようなもの。直接の被害僅少なるも老齢のため各部へ浸水擱座。
    • 標的艦摂津
      • グラマン機に約30機に依って攻撃され右舷に直撃弾3ケと多数の近弾を受けた。近弾のため鉄板は裂け同艦は漸次浸水した。7月26日に船体正平の状態で座礁した。

⑥7月28日の空襲

  • 最後の本格的空襲
    • 状況
      • 午前6時10分ころから午後4時25分ころにかけて「県下沿岸部主トシテ呉市軍港安芸郡江田島御調郡土生町艦船並二軍施設及重要工場二対シ銃爆撃」とある。
    • 米軍機
      • 艦載機主トシテ小型機延約950機及大型B29 B24延110機
    • 空襲目的
      • 前回24日につづき、疎開させていた残存艦艇への執拗な攻撃がこの空爆の中心
  • 艦艇の被害状況
    • 伊勢
      • 海底に沈み1800まで引揚作業を継続したが不成功に終わった。同艦は完全な損失と判定され放棄されるに至った。
    • 日向
      • 24日の空襲で沈没、海底に着底したが8基の連装高角砲中2基4門、26基の25ミリ3連装機銃中7基はなお使用可能で続く7月28日の空襲でも敢然戦闘を続けていた。残存する対空兵器によって、あくまで射撃を継続していた
    • 榛名
      • 捷一号作戦のフィリピン沖海戦で活躍したあと燃料の補給も困難な状態となり、やむなく本土防衛のため呉に帰港したが、時すでに呉軍港も安住の地にあらず、江田島の小用港近くの海岸に繋留防空砲台と化していたが、これまでの損害は軽微であった。それゆえ7月28日の攻撃は榛名に集中され同艦は多数の命中弾及近弾を受け、其の非装甲各部に於ける浮力が失われた。浸水が増すと同時にまた上甲板に開けられた爆弾の穴から海水が這入つてきたので同艦は急速に沈んでしまった。
    • 空母天城
      • 水線下の被害は軽微であり到底沈没に至るような程度ではなかったが、次第に浸水を増し、数日後には遂に艦は横倒れとなってしまった。
      • 天城は護衛不足、燃料不足、飛行機不足のため1度も使用されなかった
    • 利根
    • 青葉
      • 艦尾をちぎって沈没
    • 大淀
      • 転覆沈没
    • 出雲
      • 浸水甚だしく転覆
    • 葛城
      • 唯一残った1隻。戦後は武装を取り除かれ送還任務に就く為艤装される。

⑦機雷の敷設

  • 米軍機による呉軍港周辺への機雷敷設も、日本海軍の行動に致命的な打撃をあたえた
    • 米軍機による機雷投下は昭和20年3月27日からはじまる。それから5月頃にかけて米軍は誘導型磁気機雷をはじめ、各種新型感応機雷を瀬戸内海その他の重要航路と港湾に敷設。その数は約1万2千個にも及んだ。このためこれらの航路や港湾は死の海と化し、海上交通は麻痺状態となった
    • パラシュート機雷投下の目的は、沖縄戦に対し日本海軍艦艇の作戦出撃を阻止すること。この目的は効を奏し「事実日本の艦船の大部はこのために出港不能となり、わずかに1回だけ日本の機動部隊は出撃したものの、重大なる被害を生ずるに至った(大和以下の出撃)」
    • この大量の機雷にたいし、海軍も掃海対策におわれたが、海軍所有の掃海艇も新式機雷などに有効に作動しえず、「呉軍港内は、機雷のため交通が杜絶し……どんな船でも、少しでも動くと必ずドカンとやられる」状況と化し、広い呉軍港内はしずまりかえって1隻の船艇の動くものすらない日が続いた。
    • これにより海軍の作戦行動のみならず一般物資の輸送にも困難をもたらし、敗戦を早める大きな要因のひとつにもなる。

(4)組織・制度の変遷(p.141~)

  • 米空軍の猛爆撃に対する海軍航空隊の拡充・整備
    • 昭和17年10月26日 海軍大臣「海軍航空隊ノ所管、名称及所在地又ハ原駐基地左ノ通定メラル」(内令第1978号)
      • 呉鎮関係としては、大分・宇佐(大分)・小松島(徳島)・徳島・岩国(山口)・呉・佐伯(大分)・築城(福岡)の核航空隊が列挙されている。
    • 増設
      • 昭和18年4月1日→縮毛(高知)、6月→詫間(香川)、7月1日→第331(佐伯航空基地)、第531(呉航空基地)、10月1日→姫路(兵庫)、松山(愛媛)、12月1日→宮崎
    • 昭和19年 陸海軍中央協定
      • 「本土に近接する敵機動部隊の攻撃は海軍部隊主として之に当り敵陸上基地の攻撃には陸海軍航空部隊が協同して作戦を実施」する
      • 8月1日 呉鎮に332航空隊が編成配備「B29邀撃の専任航空部隊たらしめ」ている
    • 昭和20年5月
      • 「敵の本土空襲激化に伴ひ防空並機動部隊攻撃等の区分が不可能となつたので全海軍の戦闘機航空隊を統合する為之をGF(連合艦隊)の指揮下に入れ……本土決戦に備えしめた」のであった。
  • 軍港防備
    • 昭和17年1月10日
      • 昭和8年12月に設けられた呉海軍警備戦隊が、同日付で廃止される。
      • 同日「呉海軍警備隊所属特設監視艇6隻ヲシテ豊後水道哨戒二関シ呉防備戦隊司令官ノ指揮下に入ラシム」という措置がとられる
    • 昭和17年8月31日
      • 呉潜水戦隊が開隊。その任務は「所在海面ノ警戒二任ジツツ訓練二従事速ニ戦備ヲ完成ス」。同戦隊の初代司令官は醍醐忠重少将
  • 運輸
    • 昭和17年2月13日 臨時地方海軍運輸部設置
      • 大東亜戦争中地方海軍運輸部ヲ置ク」という臨時的なもの。
      • その任務は「所在地二於ケル運輸二関スル事務ヲ掌ル」というもの
      • 呉鎮下では、徳山・呉・門司に設置されている。
  • 海軍潜水学校
    • 戦局の悪化とともに潜水艦の重要性が認識され、呉市にあったのではしだいに狭隘になり、また練習潜水艦の潜航海面にも遠いということで移転先が検討される
    • 昭和14年6月、新興人絹株式会社から同工場地先2万坪の譲渡をうけて、建設が開始された。
    • 昭和17年3月、校舎の一部が完成、呉市からの移転がはじまる
    • 昭和17年11月23日、呉市から佐伯郡小方村への移転が完了。
    • 昭和19年4月1日、山口県平生町に潜水学校がつくられる(昭和20年8月10日に柳井分校となる)
    • 昭和20年6月1日、石川県に七尾分校開校
  • 海軍施設部
  • 新・第海兵団建設計画
    • 呉海兵団、大竹海兵団の収容能力が限界となったので、呉市に近い、のちに安浦町を形成する沿岸地域に3万名を収容する大海兵団を建設する計画が樹立された
    • これにもとづき19万5000坪の用地を買収、昭和18年から本格的工事開始
    • 昭和19年9月1日、安浦海兵団開隊
  • 昭和20年における臨時的制度改正
    • 6月10日、「鎮守府及警備府衛生部規定」制定→呉鎮守府にも衛生部が新設
    • 1月、「緊急施策措置要綱」の閣議決定→各省権限の地方移譲
      • 6月1日付で「海軍人事部処務規定」改正、人事部第三課を勤労主務課に改組
      • 6月19日 五地方海軍部が設けられる。呉鎮管下では四国地方海軍部新設
  • 鎮守府所在の海軍人事部の戦地における出先機関の設置
    • 昭和17年末。呉鎮守府は、第二海軍補充部を編成してラバウルに進出。「海軍部隊の人事補給の円滑を計ろうとする措置」
    • 実際には激戦地での人事補充は困難をきわめたが、同補充部は敷地の確保、兵舎の建設などの受入態勢の整備に全力を投入して、任務を遂行する
    • 戦局の悪化にともない、昭和18年4月以降は飛行機部隊がトラック島へ引き上げるにいたり、ラバウルアメリカ空軍の猛爆にさらされ、本来の任務の実施は事実上不可能な状況においこまれていく。

(5)戦時下の呉鎮守府司令長官(p.145~)

  • 第30代 野村直邦 昭和18年10月20日
    • 前歴
      • 鹿児島県出身、明治18年生まれ、海兵35期、明治41年少尉任官、海大を優等で卒業、各艦長、ドイツ駐在武官などをへて、昭和10年11月、連合艦隊参謀長、ドイツ駐在が前後にわたり長く、昭和15年9月には三国同盟軍事委員などをつとめる。昭和18年5月10日ドイツ潜水艦U511号に搭乗し、敵中2カ月余の航海をへて帰国後まもなくの呉鎮長官就任。
    • 野村の自叙伝における呉鎮長官時代の記述
      • 昭和18年10月、呉鎮守府長官に新補された。呉鎮守府に着任後は、本務の遂行はもちろん、世界に誇る大工廠を活用して、独乙潜水艦をモデルとする潜水艦の多量生産と、最新式ダイムラーベンツの三千馬力エンジンを搭載する高速内火艇の量産とに努力した。このダイムラーベンツのエンジンは、独乙大本営参謀総長カイテル元帥に懇望し、野村の帰国に際し、日本海軍へのお土産として受理したものであった。されば私は、これを多量生産に移すため、艦政本部その他の関連部門に協力を要請したが、これに必要なる金属材料、部品等が欠乏して私の機体は裏切られ、失望落胆、実に言語に絶するものがあった。かかる折柄、わたくしは昭和19年3月1日附海軍大将に親任されて感激した」
    • その後
  • 最後の呉鎮長官 第32代 金沢正夫 昭和20年5月1日~昭和20年11月15日
    • 前歴
    • 就任にあたって
      • 金沢中将の就任にはすでに敗戦まじかく特別の事情が介在。呉鎮最後の専任参謀寺崎隆治大佐によれば、金沢正夫はとくに海軍大臣米内光政大将の信頼厚いものがあった。米内光政海軍大臣が、この時期「本土決戦と終戦に備え……各鎮守府司令長官も有能で若い中将級を充てることにし……そして海軍最大の工廠や諸施設、各種部隊を有し、しかも本土決戦時重要な役割を持つ呉鎮守府司令長官に金沢さんを任命することとし」たとされる。
    • 戦時中の金沢中将
      • 米空軍の猛爆にさらされていた呉鎮において、本土決戦に備え作戦準備に寧日なく各部を廻り自ら筆をとって適切なる作戦計画を立案(K1作戦=敵が豊後水道に来攻の場合、K2作戦=敵が四国南岸に来攻の場合、K3作戦=敵が紀淡海峡に来攻の場合)して発令陣頭に立って鎮守府部隊を指揮」した。
    • 金沢中将の戦後処理
      • 秩序ある敗戦処理に全力を傾注。部下が呉を去るたびに「励精辛苦 前途洋々」と色紙に書いて手渡したという。残務処理が一段落した11月15日に「海軍は解散しても呉市に築き上げられた海軍魂は永久に解消しない」ということばを残して呉を去った。

(6)敗戦(p.149~)

  • 昭和20年7月24日~28日 呉軍港に散在する帝国海軍の残存艦艇が致命的な猛爆にさらされる
  • 8月6日 広島に原爆投下
    • 鎮守府からは専門家25名の調査団を7日、8日広島に派遣、機密に調査させ、原爆なることを確認、海軍大臣に報告
    • 医官、衛生兵など100名より成る救護班を直ちに派遣、治療に当たらしむると共に重患者を呉海軍病院に収容治療した。
  • 8月9日 長崎に原爆投下
  • 敗戦後の混乱
    • 本土決戦にそなえ、特攻出撃の意気に燃えていた若い士官中には敗戦を容易に肯んじないものも多かったため、特殊潜航艇などの重要部品を取り外させる。
    • 妹尾知之工廠長は、吉浦の火工部で玉音はデマであるといい戦争継続を叫ぶ若い士官を説得
    • 徴用工や勤労学徒は荷物をまとめて帰りはじめ制服の士官たちが日本刀を振りかざして制止するが帰っていく工員たちの列は続いた
    • 呉港の潜水艦桟橋に横づけしている潜水艦をみると「日本は負けない。あくまで戦いぬこう」と手旗信号を送る
    • 伊47潜水艦の若手士官を中心に「ラバウルへ行こう」の声が高まる
    • 連合艦隊参謀副長の松原博少将が空路、来呉して復員をいそぐよう命令、21日には艦尾の軍艦旗が下ろされる
    • 在呉の各部隊や各庁の公用車の乗り逃げが頻々と起る。軍需部や工廠などの軍需品の持ち出しも行われ守衛司令が軍刀を振りかざして制止しても、威令が届かない。
  • 金沢長官・妹尾工廠長の対処
    • 一切の製作はやめて工員の内から最優秀で適任の者数百人を選び臨時守衛に任じ、物資物品の流出を取締らせて、問題の発生を事前に防止。
    • 物資などを積極的に市民に放出。建築物を国民学校校舎に、広の大川に繋留中の大量の木材は市に供給して建築材料とし放出。その他石炭や鉄材、消防機具など、小さいものでは硝子切りに至るまで払下げ
  • 占領軍の進駐
    • 9月26日正午までに呉、広、仁方を中心に半径10哩以内及び沿岸小島嶼から武装軍隊撤退の要求が米第6軍から為される。
    • 9月26日 先遣部隊が来呉、占領準備を始める。
    • 10月2日 呉鎮守府呉市内下山手町の水交社第二別館に「呉鎮守府」の門標といっしょに移転
    • 10月6日 占領軍の輸送船団が入港
      • 呉方面進駐の米海軍最高指揮官第四水陸両用部隊司令官ライフ・スナイダー少将坐乗のマウント・マッキンレー号(1万トン巡洋艦)、米陸軍最高指揮官第10軍団長サイバート少将の率いる輸送船団約30隻が午前8時広湾を威圧するかの如く入港しウイリー陸軍少将を指揮官とする基地隊員約500名が旧鎮守府構内に進駐を開始した。
    • 10月7日 本隊1万9500名が広湾から上陸
      • 官邸の旗竿には米国の国旗が掲げられる
  • 残存艦船の処分
    • 敗戦時、呉鎮守府在籍艦船は戦艦3隻、虚空母艦7隻、巡洋艦8隻、駆逐艦24隻、海防艦20隻、輸送艦4隻、その他合計143隻。これらの大部分ははげしい空襲によってもはや沈没ないしは座礁していた。
    • 武装解除の上、撃沈、解撤、連合軍に引渡し又は他に流用の目的を以て日本政府に返還され潜水艦25隻、駆潜艇2隻は10月末及び11月初めにかけて佐世保へ回航。舟艇は連合軍の指令により昭和21年5月及び22年12月に1945隻を内務省及び運輸省に移管した。
    • 本土決戦に備えて建造、訓練をおこなっていた特殊潜航艇110隻余については、いったん第4ドックへいれて鉄板や泥をかけ……その後、またそれを掘り出して、深海に運んで沈没させた
  • 関係諸施設
    • すべて国有財産として大蔵省に移管。膨大な軍需物資については当初は民間に放出されたが占領後に保管を命ぜられた。しかし敗戦時の混乱のなかで略奪不正持ち出しされた莫大な軍需品は一般民生にうるおわず、一部悪徳業者の利用するところとなり所謂引退蔵物資となり闇師の横行となって日本経済混乱の一因となり、ひいては国民道徳の頽廃に拍車をかけた
  • 呉鎮の閉庁
    • 呉鎮にあっては自決者もなく、戦争継続に決起するほどのものもなく、金沢長官の指揮下に比較的よく統一が保持され「終戦処理は殆ど何らの事故なく順調に経過し各鎮守府の模範であると称せられた」
    • 昭和20年11月30日 「海軍官制」廃止 呉鎮守府もついに閉庁となる
      • 明治22(1889)年7月1日に開庁以来、多くの戦闘の兵站基地となり、戦艦大和をはじめとする多数の艦艇を建造しつづけてきた呉海軍の歴史はここにその伝統ある56年艦の幕を閉じた。
    • 昭和20年12月1日 呉地方復員局開庁、昭和34年までその復員業務をつづけていく。