参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第2節戦時下の呉海軍-第2項太平洋戦期の呉海軍
(1)太平洋戦争の勃発(p.108~)
- 12月1日 開戦準備進む
- 人員増員、船舶徴用、機雷敷設
- 12月4日12時
- 「呉防戦機密第八番電」
- 機密呉防備戦隊作戦命令第1号二依ル機雷堰敷設終了
- 「呉防戦機密第八番電」
(2)戦時下呉海軍の活動(p.112~)
- 昭和17年8月 敵潜水艦頻出
- 「8月中旬以降豊後水道沖、土佐沖に敵潜頻リニ出没」という状況と化す。
- 呉防備戦隊に対する米潜水艦の戦闘の激化
- 「今回遭遇セル敵潜ハ従来ト趣ヲ異ニシ攻撃精神旺盛且執拗ニシテ連続掃蕩ヲ行フモ避退セズ毎回二発宛ノ魚雷ヲ以テ執拗ニ攻撃シ来リ且深々度聴音発射ヲ実施セル形跡アリ将来掃蕩上留意ヲ要スベキ事項ト認ム」
- 呉鎮守府第六特別陸戦隊バラレ派遣隊のソロモン群島における苦戦
- 昭和18年4月10日 呉鎮防備戦隊は南方洋上までの護衛作戦などにも従事するようになっていた
- 昭和18年6月8日 陸奥が桂島泊地で沈没
- 「後部火薬庫の爆発を生じ、34番砲塔間で船体が両断し、瞬間的に沈没」するという突発事故が発生。沈没当時、同戦艦には乗組員1321名と飛行予科練習生およびその教官など153名、計1474名が乗艦していた。
- 「6月8日の12時10分すぎごろ、停泊中の陸奥の後部40.3センチ砲の第三砲塔の火薬庫が突如、大爆発を起こした。その振動と閃光は、猛烈な勢いであたりにこだました。〔中略〕たちまち水煙がたちこめ、高さ百メートルの黒煙があたりにたなびく。陸奥は完全に転覆し、赤い艦底を水面に堕した。扶桑の内火艇が救済に駆けつけたが、犠牲者は予想外に多かった。乗っていた者の約四分の三が艦と運命をともにしたのである」
- 陸奥の沈没は呉鎮守府警備区域内の出来事であり、その上極秘の連合艦隊泊地に於ける重大事件であった。参謀部では先ず最悪の原因と考えられる敵潜水艦が瀬戸内海に潜入したことを考えた。紀伊水道や豊後水道も防潜網で閉鎖され、厳重警戒が続けられたが、結局敵潜水艦らしいものの脱出は認められなかった
- 陸奥は自爆したものと考えられ「M査問委員会」が設けられる。同委員会により「無傷の生存者のうち水兵は、戦艦扶桑の甲板で言語に絶する取り調べを受けた」。
- 結局、実態は解明されず、「盗癖のため、とかくうわさのあった二等兵曹が、容疑者となった。彼の遺体が艦内から発見されなかったことも、いっそう故意説の疑いを深くした。M査問委員会の結論も、この故意爆沈説に傾いたものとなった」されている。
- 陸奥は大正10年に完成して以来、その40.3センチ主砲は結局、一度も射つチャンスにめぐまれないうちにあえなく沈没し去ってしまった。
- 「呉鎮守府陸上応急工作規定」
- 軍港地域が直接空襲をうける可能性が考慮され「呉附近海軍各部……二於テ空襲又ハ天災等二依リ被害ヲ蒙リタル場合ノ応急工作ニ関スルコトヲ規定」した
- 昭和19年における戦局の悪化
- 呉鎮報告→「敵ハ中央突破ノ野望ヲ逞シクシ内南洋方面ノ我ガ基地ニ対シ機動部隊ヲ以テ執拗ナル反撃ヲ継続シツツアリ」
- 3月7日「呉鎮守府航空部隊戦策」が定められる
- 空襲を予定し「索敵哨戒ヲ厳重ニシ敵来襲前二之ヲ補足撃滅ス」
- 3月末 連合艦隊司令長官古賀峯一大将が呉鎮特別陸戦隊も守備するパラオからダバオに飛行艇で移動中、行方不明となる。
- 6月 ノルマンディー上陸開始、サイパンへの米上陸
- 6月16日 在支米空軍による本土空襲、北九州地区及中国西部地区に来襲
- 7月7日~8日 サイパン陥落
- 7月18日 東条英機内閣総辞職
- 8月 テニアン・グァムなどの守備隊玉砕 サイパン・テニアン両島のB29・B24の基地が使用可能となり、本土への本格的爆撃が完全に射程距離内にとらえられた
- 10月12日 米潜水艦の近海への出没活発化に対し呉鎮で対潜兵器懇談会開催→座談会はもっぱらレーダーによる索敵攻撃の急を訴えて終わっている。
- 10月24日 戦艦武蔵沈没
- 10月25日 海軍特別攻撃隊敷島隊がはじめて特攻攻撃を敢行
- 11月 米軍機による本格的本土空襲が開始される。→呉地区に6日、17日とB29が1機偵察飛行にあらわれる。12月にも2度にわたりB29による偵察飛行。
(3)呉軍港への空襲(p.121~)
- 昭和20年3月 B29による大都市への「絨毯爆撃」本格化
①3月19日の空襲
- 経緯
- 米海軍は空母16隻を4群に分けた第38機動部隊で四国、九州沖を遊弋しながら西日本の航空基地や呉軍港、神戸港の艦船を反復空襲した。
- 17日
- 22時40分 鹿屋哨戒機 北20度50分 東経133度30分に敵機機動部隊らしきものを3群探知
- 18日
- 2時10分 都井崎の135度140浬付近に触接 九州内海方面は敵機動部隊来襲の算濃厚となれり
- 3時 西部軍管区に警戒警報発令
- 4時6分 呉鎮管区にも警戒警報発令 「艦艇並二飛行機ノ分散避退準備ヲナシム」
- 6時 西部軍管区空襲警報発令
- 19日
- 6時15分 「敵小型機70機豊後水道北上ス」
- 7時10分 「対空戦斗(敵2機湾内廃潜水艦ヲ銃爆撃)」
- 7時10分~10時 呉軍港に百数十機が来襲
- 戦闘の様子
- 日本側の戦果
- 日本側の被害
- 沖縄への出動をまえに集結していた「帝国海軍」の残存艦艇がその多くの戦闘力を失う。「パール・ハーバーの逆」
- 戦艦伊勢
- 昭和20年3月19日6時15分「空母30機に依て攻撃され、多数の近弾と4ケの直撃弾を受け……1200頃空母機再び来襲、艦橋に命中弾1ケを出し……至近弾3ケの破片に依り全体的大損害を受けた。当日の死傷者数は戦死約50名、負傷100名に上つた」
- 戦艦日向
- 「多数の空母機に依つて攻撃され、多数の近弾及左舷に直撃弾1ケを受けた」
- 戦艦榛名
- 「航空機15機に依り攻撃され艦橋の後方右舷に命中弾1ケを受け軽微な損害」をうける
- 空母天城
- 「0930空母機30機に依り又1530には再び同種類の飛行機20機に依つて攻撃され……飛行甲板にロケット命中弾1ケ……飛行甲板及格納庫甲板は大損害を蒙り且左舷後部機械室に浸水……左舷に至近弾が命中し……水線下に重大な損害を与へ……艦橋前方右舷に対する近弾のため前部爆弾庫に浸水」している
- 空母葛城
- 「右舷前部に命中弾1ケを受け……此爆弾は500封度のGP爆弾で舷側に飛び込んで舷側の鉄板と上部格納庫甲板に直径5呎の穴を開け……1名戦死、3名負傷した」
- 空母龍鳳
- 「一爆弾は上部格納庫甲板の第167肋材に命中し、それがため飛行甲板に直径10米の穴が開く」ほか各所に被弾し、修理のため呉工廠に入渠している。しかし「機械類は修理したが、飛行機甲板や格納庫甲板は修理しやうともしなかつた」といわれる。ほどこす術とてなく「猛烈に偽装を施された」にとどまった。戦死20名、負傷30名をだす。
- 巡洋艦磐手
- 射撃演習のため呉から豊後水道へむかう途次、グラマン8機の攻撃をうけたが、なんらの損害もうけなかった。1名戦死、12名負傷
- これ以上に大淀、利根も空爆を受ける。
②5月5日の空襲
- 昭和20年5月5日 午前中
- 主として広工廠および第11空廠にたいして行われる
- 戦況
- 防備にあたる戦闘機はすでに南方作戦に転用され手薄で迎撃は15機のみ。そのうち5機が撃墜されておりB29の方はわずか3機のみの損失。なすがままの空襲をうける。
- 米軍
③6月22日の空襲
- 第3回目の本格的空襲は、呉工廠への爆撃が中心
- 6月22日、B29のべ約180機が呉工廠に襲い掛かる。
- 呉海軍警備隊の戦闘詳報に見る爆撃の様子
- 壊滅的打撃
- 投下爆弾は1トン爆弾が159発、1トン未満が177発で、合計336発という大量のもの。工廠の伝統ある諸施設はこの空襲でほとんど壊滅的打撃を受けた。
- 呉鎮の反撃
- 砲台から迎撃のためについやした弾薬は1142発、その戦果は、呉海軍警備隊の記録でも撃墜1機、撃破9機に過ぎなかった。
- 6月23日
- 第3回呉空襲の翌日、沖縄守備隊全滅
④7月1日~2日の空襲
- 第4回目は市街地を中心とした焼夷弾による猛爆
⑤7月24日の空襲
- 第5回目の空襲
- 艦艇の状況
- 呉湾に残存していた艦艇は、いずれも使用不能の損害をこうむる。
- 艦艇の浮き砲台化
- 各艦は「本土決戦に備えて豊後水道のため副砲、高角砲、対空機銃装備の半数以上を取りはずして四国沿岸に送り、残り装備で呉軍港防衛の防空砲台に変身、上甲板に築山を作って松の木を植えたり、艦構造物に網をかぶせ、松、杉の小枝を網の目に差してカムフラージュしていた」ような始末でさえあった。
- 艦艇の被害状況
- 戦艦伊勢
- 午前8時すぎより爆撃を受ける。艦橋右舷に直撃弾炸裂、牟田口艦長以下20名戦死。その後浸水多量で一時着底したが排水作業により浮上。
- 航空戦艦日向
- 巡洋艦利根
- 巡洋艦青葉
- 空母機に依って0615から1600まで絶えず攻撃された。約30機のグラマンが此日中攻撃して、艦首に命中弾1ケ及第二煙突の左舷側後方に至近弾1ケを出している。これにより総ての機械室及第四、第五、第六、第七罐室の完全な浸水同艦は浮力を失い1000に海底に沈んだ。
- 巡洋艦大淀
- 潜水戦隊旗艦として建造された唯一の軽巡洋艦であったが、7月24日に約50機の空母機によって爆撃された。
- 巡洋艦磐手
- 非常な老齢艦で主として訓練及本土水域に於ける作戦に使用されていたものであったが、その老齢さのゆえか、きわめてあえなく沈没し去っている。いばわたんなる衝撃波で沈没したようなもの。直接の被害僅少なるも老齢のため各部へ浸水擱座。
- 標的艦摂津
- 戦艦伊勢
⑥7月28日の空襲
- 最後の本格的空襲
- 艦艇の被害状況
- 伊勢
- 海底に沈み1800まで引揚作業を継続したが不成功に終わった。同艦は完全な損失と判定され放棄されるに至った。
- 日向
- 24日の空襲で沈没、海底に着底したが8基の連装高角砲中2基4門、26基の25ミリ3連装機銃中7基はなお使用可能で続く7月28日の空襲でも敢然戦闘を続けていた。残存する対空兵器によって、あくまで射撃を継続していた
- 榛名
- 捷一号作戦のフィリピン沖海戦で活躍したあと燃料の補給も困難な状態となり、やむなく本土防衛のため呉に帰港したが、時すでに呉軍港も安住の地にあらず、江田島の小用港近くの海岸に繋留防空砲台と化していたが、これまでの損害は軽微であった。それゆえ7月28日の攻撃は榛名に集中され同艦は多数の命中弾及近弾を受け、其の非装甲各部に於ける浮力が失われた。浸水が増すと同時にまた上甲板に開けられた爆弾の穴から海水が這入つてきたので同艦は急速に沈んでしまった。
- 空母天城
- 水線下の被害は軽微であり到底沈没に至るような程度ではなかったが、次第に浸水を増し、数日後には遂に艦は横倒れとなってしまった。
- 天城は護衛不足、燃料不足、飛行機不足のため1度も使用されなかった
- 利根
- 満水して座礁
- 青葉
- 艦尾をちぎって沈没
- 大淀
- 転覆沈没
- 出雲
- 浸水甚だしく転覆
- 葛城
- 唯一残った1隻。戦後は武装を取り除かれ送還任務に就く為艤装される。
- 伊勢
⑦機雷の敷設
- 米軍機による呉軍港周辺への機雷敷設も、日本海軍の行動に致命的な打撃をあたえた
- 米軍機による機雷投下は昭和20年3月27日からはじまる。それから5月頃にかけて米軍は誘導型磁気機雷をはじめ、各種新型感応機雷を瀬戸内海その他の重要航路と港湾に敷設。その数は約1万2千個にも及んだ。このためこれらの航路や港湾は死の海と化し、海上交通は麻痺状態となった
- パラシュート機雷投下の目的は、沖縄戦に対し日本海軍艦艇の作戦出撃を阻止すること。この目的は効を奏し「事実日本の艦船の大部はこのために出港不能となり、わずかに1回だけ日本の機動部隊は出撃したものの、重大なる被害を生ずるに至った(大和以下の出撃)」
- この大量の機雷にたいし、海軍も掃海対策におわれたが、海軍所有の掃海艇も新式機雷などに有効に作動しえず、「呉軍港内は、機雷のため交通が杜絶し……どんな船でも、少しでも動くと必ずドカンとやられる」状況と化し、広い呉軍港内はしずまりかえって1隻の船艇の動くものすらない日が続いた。
- これにより海軍の作戦行動のみならず一般物資の輸送にも困難をもたらし、敗戦を早める大きな要因のひとつにもなる。
(4)組織・制度の変遷(p.141~)
- 米空軍の猛爆撃に対する海軍航空隊の拡充・整備
- 昭和17年10月26日 海軍大臣「海軍航空隊ノ所管、名称及所在地又ハ原駐基地左ノ通定メラル」(内令第1978号)
- 呉鎮関係としては、大分・宇佐(大分)・小松島(徳島)・徳島・岩国(山口)・呉・佐伯(大分)・築城(福岡)の核航空隊が列挙されている。
- 増設
- 昭和19年 陸海軍中央協定
- 「本土に近接する敵機動部隊の攻撃は海軍部隊主として之に当り敵陸上基地の攻撃には陸海軍航空部隊が協同して作戦を実施」する
- 8月1日 呉鎮に332航空隊が編成配備「B29邀撃の専任航空部隊たらしめ」ている
- 昭和20年5月
- 「敵の本土空襲激化に伴ひ防空並機動部隊攻撃等の区分が不可能となつたので全海軍の戦闘機航空隊を統合する為之をGF(連合艦隊)の指揮下に入れ……本土決戦に備えしめた」のであった。
- 昭和17年10月26日 海軍大臣「海軍航空隊ノ所管、名称及所在地又ハ原駐基地左ノ通定メラル」(内令第1978号)
- 軍港防備
- 運輸
- 海軍潜水学校
- 新・第海兵団建設計画
- 昭和20年における臨時的制度改正
(5)戦時下の呉鎮守府司令長官(p.145~)
- 第30代 野村直邦 昭和18年10月20日~
- 前歴
- 野村の自叙伝における呉鎮長官時代の記述
- 「昭和18年10月、呉鎮守府長官に新補された。呉鎮守府に着任後は、本務の遂行はもちろん、世界に誇る大工廠を活用して、独乙潜水艦をモデルとする潜水艦の多量生産と、最新式ダイムラーベンツの三千馬力エンジンを搭載する高速内火艇の量産とに努力した。このダイムラーベンツのエンジンは、独乙大本営参謀総長カイテル元帥に懇望し、野村の帰国に際し、日本海軍へのお土産として受理したものであった。されば私は、これを多量生産に移すため、艦政本部その他の関連部門に協力を要請したが、これに必要なる金属材料、部品等が欠乏して私の機体は裏切られ、失望落胆、実に言語に絶するものがあった。かかる折柄、わたくしは昭和19年3月1日附海軍大将に親任されて感激した」
- その後
- 第31代 沢本頼雄 昭和19年7月17日~昭和20年5月1日
- 最後の呉鎮長官 第32代 金沢正夫 昭和20年5月1日~昭和20年11月15日
- 前歴
- 就任にあたって
- 戦時中の金沢中将
- 金沢中将の戦後処理
(6)敗戦(p.149~)
- 昭和20年7月24日~28日 呉軍港に散在する帝国海軍の残存艦艇が致命的な猛爆にさらされる
- その間の4月26日、ポツダム宣言が発せられる
- 8月6日 広島に原爆投下
- 8月9日 長崎に原爆投下
- 敗戦後の混乱
- 本土決戦にそなえ、特攻出撃の意気に燃えていた若い士官中には敗戦を容易に肯んじないものも多かったため、特殊潜航艇などの重要部品を取り外させる。
- 妹尾知之工廠長は、吉浦の火工部で玉音はデマであるといい戦争継続を叫ぶ若い士官を説得
- 徴用工や勤労学徒は荷物をまとめて帰りはじめ制服の士官たちが日本刀を振りかざして制止するが帰っていく工員たちの列は続いた
- 呉港の潜水艦桟橋に横づけしている潜水艦をみると「日本は負けない。あくまで戦いぬこう」と手旗信号を送る
- 伊47潜水艦の若手士官を中心に「ラバウルへ行こう」の声が高まる
- 連合艦隊参謀副長の松原博少将が空路、来呉して復員をいそぐよう命令、21日には艦尾の軍艦旗が下ろされる
- 在呉の各部隊や各庁の公用車の乗り逃げが頻々と起る。軍需部や工廠などの軍需品の持ち出しも行われ守衛司令が軍刀を振りかざして制止しても、威令が届かない。
- 金沢長官・妹尾工廠長の対処
- 一切の製作はやめて工員の内から最優秀で適任の者数百人を選び臨時守衛に任じ、物資物品の流出を取締らせて、問題の発生を事前に防止。
- 物資などを積極的に市民に放出。建築物を国民学校校舎に、広の大川に繋留中の大量の木材は市に供給して建築材料とし放出。その他石炭や鉄材、消防機具など、小さいものでは硝子切りに至るまで払下げ
- 占領軍の進駐
- 残存艦船の処分
- 敗戦時、呉鎮守府在籍艦船は戦艦3隻、虚空母艦7隻、巡洋艦8隻、駆逐艦24隻、海防艦20隻、輸送艦4隻、その他合計143隻。これらの大部分ははげしい空襲によってもはや沈没ないしは座礁していた。
- 武装解除の上、撃沈、解撤、連合軍に引渡し又は他に流用の目的を以て日本政府に返還され潜水艦25隻、駆潜艇2隻は10月末及び11月初めにかけて佐世保へ回航。舟艇は連合軍の指令により昭和21年5月及び22年12月に1945隻を内務省及び運輸省に移管した。
- 本土決戦に備えて建造、訓練をおこなっていた特殊潜航艇110隻余については、いったん第4ドックへいれて鉄板や泥をかけ……その後、またそれを掘り出して、深海に運んで沈没させた
- 関係諸施設
- すべて国有財産として大蔵省に移管。膨大な軍需物資については当初は民間に放出されたが占領後に保管を命ぜられた。しかし敗戦時の混乱のなかで略奪不正持ち出しされた莫大な軍需品は一般民生にうるおわず、一部悪徳業者の利用するところとなり所謂引退蔵物資となり闇師の横行となって日本経済混乱の一因となり、ひいては国民道徳の頽廃に拍車をかけた