橋本倫史『ドライブイン探訪』(筑摩書房、2019年)

ドライブインの実地調査・聞き取りインタビューを通して戦後史を描くルポルタージュ
単にドライブインを紹介するだけではなく日本の道路交通史を知ることができ面白い。
日本におけるインフラ整備や高度経済成長期からバブル経済期までの実像を体感できる。
そして何より今はもう既に衰退してしまった産業の残り香がノスタルジーを誘う。
これはドライブインだけのことではなく、衰退した日本全体の黄昏そのもの言えるのかもしれない。

以下、道路交通史関連の箇所まとめ

  • 既成の街道とドライブイン
    • 律令制の時代、中央集権化が進められるなかで「五畿七道」という行政区分が生れた。それぞれの地方と行政を結ぶ道路が設けられることになり、その一つは東海道と名づけられた。この東海道鎌倉時代に改めて整備され、数キロおきに「宿」が置かれた。つまり宿場町は荷物を円滑に継ぎ送るために人馬を提供することが義務づけられており、これが原因で疲弊する宿場町もあったという。ドライブインが担っていた役割というのは、かつて宿場町が担っていた役割に近いのではないか。『社団法人ドライブイン協会10年の歩み』という記念誌を繙くと、昭和22年に小田原でドライブインを始めた加藤實さんが当時の苦労を書き記している[……]かつての宿場町のように労役を義務づけられていたわけではないけれど、街道を維持するためにドライブインが一役買っていたわけだ。」(44-45頁)

  • 観光バスとドライブイン
    • ドライブインを語るには、観光バスの歴史に触れる必要があるだろう。日本に遊覧バスが登場するのは、時代が昭和を迎える頃のこと。宮崎海岸を走る宮崎遊覧バス、白浜海岸を走る明光バス阿蘇を遊覧する登山バス。数えるほどではあるものの、全国各地を遊覧バスが走り、東京では1925年に東京遊覧乗合自動車という会社が定期便を走らせていた。こうした遊覧バスは戦時下の統制経済で事業廃止に追い込まれ、そのまま終戦を迎える。国破れて山河あり。まだGHQの統治下にあった1948年、東京で新日本観光株式会社が創立される。この新日本観光株式会社が運航したのが"はとバス"である。観光バスはまたたく間に全国に広がり、観光バス戦国時代が到来する。『旅』(1957年10月号)では「バスの旅」と題した特集が組まれている[……]統計によれば、1956年に観光バスを利用した人の数は8856人。単純計算すれば1人1回は観光バスに乗車したことになる。観光バスは全国各地を走るようになる。それはつまり、全国各地に観光地が誕生したということでもある。」(128-130頁)

  • 道路整備史② 高速道路の起源
    • 「[……]日本の高速道路は国土開発縦貫自動車道建設法によって整備が進められた。ただの高速道路ではなく、「国土開発」と冠しているのには理由がある。戦後、日本の高速道路計画の基礎を作ったのは田中清一という人だ。当時はひとりの民間人に過ぎなかった田中清一だが、「国土開発縦貫自動車道構想」を練り上げ、1947年に日本政府およびGHQに提案している。[……]「田中プラン」と呼ばれる計画の中で、田中清一はこう提言した。「日本人全部が、この狭い国土で平和な文化の高い生活を営み、食料を自給自足し、同時に各種の眠れる資源を開発するためには、人口と産業を、農業に適さない山地高原へ分散させる事が必要であり、そのために高原地帯を貫く高速道路を建設すべきである。」田中清一は、戦争に敗れた日本を復興する方法を考えた。それまでの都市は海岸沿いに多く存在していたけれど、食料不足を解消し、さらには新たな産業を生み出すためには、山地高地の再開発が必要であり、そのためには高原地帯に縦貫道を建設するべきだ―こうした理想のもとに高速道路の開発は進められた。[……]つまり、その地域に暮らす人びとが利用するためというよりも、高速道路網によって産業を発展させるためのものだったのである。」(233-234頁)

  • 道路整備史③ 高速道路の誕生
    • 「日本の道路交通網が整備されたのはいつのことだろう。戦前から道路計画は存在していたものの、本格的に推し進められるのは戦後になってからのことだ。「日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にして、これほど完全に道路網を無視してきた国は日本のほかにない」―1956年にワトキンス調査団が発表した報告書はこうした書き出しで始まる。江戸時代から続く街道は張り巡らされていたけれど、クルマで走るのにふさわしい道路ではなかった。ワトキンスレポートを受け、翌年4月に国土開発縦貫自動車道建設法が制定されており、十月には名神高速道路の施工命令が下った。名神高速道路は1963年に開通した。日本初の都市間高速道路となった。これを皮切りに次々と"縦貫道"が整備されてゆく。」(232頁)

  • 自動車の普及とドライブイン
    • ドライブインが急増した背景にはクルマの普及がある。自家用車の世帯普及率がわずか2.8パーセントに過ぎなかった1961年、『マイ・カー よい車わるい車を見破る法』という本がベストセラーとなる。その5年後には自家用車の世帯普及率は10パーセントを超え、一気に日本全土に普及してゆく。しかし、当時の道路はまだクルマの走行を前提として整備されたものではなく、舗装されていない道路がほとんどだった。[……]道路が整備されて交通量も増えてゆく。そこに目をつけた人たちがドライブインを創業するわけだ。中でもドライブインが密集していたのは日本の大動脈である国道1号線であり、『月刊食堂』(1965年5月号)では「国道1号線上のドライブインはあきらかに競争課程にある」としてその乱立ぶりが指摘されている。東海道ドライブイン銀座だったわけだ。今ではその大半が姿を消してしまったけれど[……]」(41-42頁)

  • 高度経済成長 ~工場誘致と道路網整備とドライブイン
    • 「1950年に朝鮮戦争が勃発すると、GHQ統治下の日本は補給基地の役割を担うことになった。米軍の発注を受け、各地で軍需物資が生産され、朝鮮特需を迎えた。敗戦からの復興とともに工業化の波が広がり、地方自治体は工場の誘致に乗り出してゆく。1954年には小山市でも工場誘致条例が制定されている。この条例によって工業団地が建設され、1960年代の高度成長期に工場誘致が本格化。1960年の段階では農業に従事する人が過半数を占めていたが、その比率は徐々に下がり、1970年には製造業に従事する人の数が上回った。農村だった小山は、工場を中心とした都市に変貌した。工場が増えれば、そこで生産された製品を運搬する道路が必要だ。小山市内には次々と道路網が整備され、道路をダンプやトラックが行き交うようになる。その運転手をターゲットにした商売ができないかと、鈴木宇一郎さんは「ドライブイン扶桑」を創業させるアイディアを思いついたのだろう。」(277頁)

  • 流通革命 ~自販機とドライブイン
    • 「どの自販機で購入しても、同じ品質のものが出てくる。その信頼があるからこそ、無人のオートレストランが成立する。それを可能にしたのは"流通革命"だ。1960年代に流通革命が起きると、日本は大量生産・大量消費の時代を迎える。日本全国津々浦々に規格化された商品が行き渡るようになる。それ以前の時代―それこそ「一膳めし屋や赤ちょうちん」しか存在しなかった時代―には、飲食店で提供されていたのはその店ならではの味だ。だが、流通革命により、いつでもどこでも同じ味が食べられるようになる。」(151-152頁)

  • 宗教の巡礼とドライブイン~「車遍路」~
    • 「戦後になってモータリゼーションが進むと、「車遍路」が急速に普及し、クルマやバスで来客するお客さんが増えていく。伊予鉄道遍路道に巡拝バスを走らせたのは1953年であり、数年後には四社が競合する人気路線となった[……]「ドライブイン27」はレストランだけでなく遍路宿も営んでいる。遍路宿というのはお遍路さんをターゲットにした民宿や旅館である。四国八十八ヶ所巡拝は1300キロを超える長旅だ。クルマで巡るにしても一日でまわりきることはできず、どこかに宿泊することになる。お寺や地元住民の善意により無償で提供される「通夜堂」や「善根宿」に宿泊する人もいれば、「遍路宿」に泊まる人もいる」(55頁)

  • メディアによる聖地化
    • 「海に向かって階段を降りてゆくと、すぐに巌門が見えてきた。高さ15メートル、幅6メートルの巨大な岩盤だ。岩の下には海水の浸食によって出来た洞門がある。なるほど、名前の通り門のようだ。そうして僕は、それを「巌門」として眺めている。松本清張の「ゼロの焦点」の舞台となり、歌川広重が六十余州名所図会に描いた場所として見物している。では、もし何の看板もでていなかったとしたら、僕はこの風景に立ち止まっただろうか?」(135-136頁)

  • 秘境ブーム
    • 「戦争の傷跡が癒えるにつれて、日本人は再び旅行を楽しむようになる。観光バスに乗って名所旧跡を辿る。最初のうちは名の知れた行楽地を訪れていた観光客も、次第にまだ知られていない場所を求めるようになり、1960年代に突入する頃には秘境ブームが巻き起こる。そこで脚光を浴びた地域の一つが東北だった。旅行雑誌『旅』(1962年2月号)の特集はずばり「ブームの東北」で、そこには「三陸海岸縦断300キロ」と題したルポルタージュも掲載されている。陸の孤島の面影を残している陸中海岸は、そのアクセスの悪さがゆえに、秘境を求める観光客の旅情を誘った。三陸海岸を巡るルポルタージュには、「行ってみてはじめてわかる不遇な日本のチベットの海辺!」という乱暴な副題も添えられている。秘境として脚光を浴びていた陸中海岸は、道路が改良されたことで観光客が飛躍的に増えていく。1965年の段階では、普代村を訪れる観光客は8万7000人ほどだったが、国道45号線が全線開通した1972年には28万5000人にまで増加している。」(263-264頁)

  • 70年代における北海道観光~新しき北海道~
    • 「1974年に大挙して北海道を訪れた観光客は何を目指していたのだろう?『旅』という雑誌がある。旅行雑誌の草分け的存在だ。『旅』で最初に北海道特集が組まれるのは、日本が復興期から高度成長期に移行しつつあった1955年のこと。タイトルは「新しき北海道」。ここで「新しき」という言葉が使われているのは、戦前から知られた景勝地と差別化するためだろう。戦争の混乱が落ちつくと、1934年に国立公園に指定され、景勝地として名をはせていた阿寒湖には大勢の観光客が押しかけるようになり、当時の週刊誌にはその混乱ぶりが報じられている。せっかく都会の喧騒を離れて北海道の大自然を満喫しようとやってきたのに、見渡す限り人の山で、観光を楽しむどころではなかった。そこで「新しき北海道」が特集されたわけだ。特集の巻頭には「開拓民の暮らし」と題したグラビアが掲載され、干し草を積み上げる様子や切り株の前を歩く農民の姿が紹介されている。」(15頁)

  • バブル景気とリゾート施設
    • 「1987年、総合保養地域整備法が可決された。通称「リゾート法」と呼ばれる法律は、「国民が余暇等を利用して滞在しつつ行うスポーツ、レクリエーション、教養文化活動、休養、集会等の多様な活動に資するための総合的な機能の整備を民間事業者の能力の活用に重点を置きつつ促進する」ために制定された。その背景には様々な思惑があった。1985年のプラザ合意によって円高が進むと、製造業の輸出は伸び悩んだ。産業構造が転換する中で、右肩上がりと見做されていたのがレジャー産業であり、経済産業省は「2000年には余暇市場は100兆円に達する」という大胆な予測を立てていた。1983年に開業した東京ディズニーランドが成功を収めたこともあり、日本各地にテーマパークが建設され始めた。[……]日本で週休二日制が普及し始めたのは1980年代に入ってからのことだ。それまではモーレツに働くことが美徳とされてきたけれど、余暇の時間が生まれ始めたときに、日本でもリゾート開発が進められた。」(202-203頁)

  • バブル崩壊後のポストアポカリプス~バブルの象徴としてのスキー場~
    • 「スキー客が増え始めるのは1980年代のことだ。隣の(※引用者註-石打の隣の)湯沢町の統計によれば、1980年の段階では湯沢町を訪れるスキー客は年間300万人に満たなかった。1982年に上越新幹線が開通し、リゾートブームの中でスキー場が次々と開発され、1987年には映画『私をスキーに連れてって』が公開された。こうした時代の中で、湯沢町を訪れるスキー客は1992年には年間800万人を突破する。賑わったのは湯沢町だけでなく、石打にも多くのスキー客が訪れた[……]日本がバブルに湧いた時代、石打は大いに潤った[……]だが、好況は長く続かなかった。1992年に800万人を記録したスキー客はみるみる減り、2005年には25年ぶりに300万人を下回った。数字だけみればバブル以前の水準に戻っただけのように見えるが、「いや、元には戻らないんです」とオーナーは言う。「僕が小さい頃はまだバブルの前でしたけど、やっぱり経済上は上り坂だったんです。スキー客もちょっとずつ増えて、旅館や食堂も出来ていって……見えないパワーは感じましたよ。ここのスキー場は当時一番輝いていたから、その反動も大きかったですね」」(253-254頁)