ひぐらしのなく頃に業 第22話「クレイジーサイコレズ~沙都子と梨花の百合セカイ系~」の感想・レビュー

祭囃し編追体験梨花の脱雛見沢願望が100年ループの結果だったことを知った沙都子。
梨花の強固な脱雛見沢願望を転換させるにはもう1度「昭和58年6月」して心を圧し折るしかない。
こうして因果塗り替え合戦が発動し梨花がどんなに破滅フラグを回避してもBAD ENDへ収束。
完全に『ひぐらしのなく頃に』の世界観が沙都子と梨花だけの二人の世界になってしまった。
一応原作は社会問題を描き出しエンターテイメントを用いて提供していたのだが……
ひぐらし業は二人の人間関係を扱うことが全てであり、それは即ちセカイ系

クレイジーサイコレズと百合セカイ系

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  • 二人(ないしは関連する内部の)人間関係だけが全て
    • ひぐらしの歴史的意義はいくつか挙げることができます。まず初めにヒロインの個人的な問題を通して社会全体の問題を描いていたことがあげられます。そしてただ単に社会的な問題を扱うだけではなく、祭囃し編では登場人物たちがこれまでのバッドエンドを乗り越えることで得た強さを発揮して、大団円を迎えました。即ち、セカイ系のその先を提示したことに、ゼロ年代における画期性があったのです。(※ここでのセカイ系とは「登場人物たちに降り注ぐ問題は所与のものであり、それを前提とした人間関係を描くことを主眼とする作品」という意味)。だから当時のプレイヤーたちは狂ったようにひぐらしをプレイしていましたし、2010年代初頭の作品の系譜に繋がりました。例えばまどマギなどは(意識的にせよ無意識的にせよ)影響が見られます。まどかとほむらの二人の人間関係だけが全てのように見せかけつつハイパーアルティメッドまどかによって全ての魔法少女の救済(=世界のルールの打破)に繋がりました。つまりは世界のルールを所与のものとするのではなく、きちんとその構造を描き出し、さらにそれを打破するというのが、ひぐらしの最大の歴史的意義だったのです。
    • しかしひぐらし業は沙都子と梨花の二人の人間関係だけが全て。祭囃し編は所与のものであり舞台装置にしか過ぎません。折角打破したセカイ系の枠組みに回帰してるではありませんか。沙都子は梨花の脱・雛見沢の願望が100年ループの結果だったということを知り、だったら昭和58年6月の繰り返しをもう一度発動させ、梨花の心を圧し折ってやることにしたのでした。だから梨花が破滅フラグをいくら回避してもデッドエンドに収束してしまっていたんだね!と1クール目の構造が回収されます。いやもうループした沙都子が自立してそれぞれが別の高校に進学すりゃよかっただけの話じゃん(と言ったらシナリオが成立しないんだろうなぁと)。梨花に裏切られ(たと感じ)、凄惨な高校生活を送ってしまったが故に、沙都子は梨花に執着するのでしょう。その狂気はまさにクレイジーサイコレズ百合セカイ系。今回の顔芸大賞は梨花の甘い嘘に対して沙都子が嘘だッをするシーンでした。

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