第一次世界大戦が総力戦となったことを見た日本は、帝国民を動員する必要性を感じ、総力戦体制の構築に努めた。海軍では海事思想の普及が求められることとなり、ワシントン軍縮後には海軍軍事普及委員会が設置され、ロンドン軍縮の際には海軍軍事普及部として再編された。
国民の理解を深め、支持と協力を得るため、様々な方法が取られたが、軍港都市呉では軍港見学・軍艦拝観が行われ、観光資源の一つとなっていた。
ここでは、観光を通してどのように海事思想の普及が図られていたのか、その実態の一端について、1933年に呉郷土史研究会から発行された『呉軍港案内』の記述をまとめておくこととする。(旧字は適宜改めた)
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軍港見学
見学のための手続き
呉軍港を見学しやうとする場合は、予めその見学期日5日前までに呉鎮守府へ願出でて許可を受けることが必要である〔……〕但し、少人数、または個人の場合は呉へ着いてから、その当日鎮守府へ直接に願出ても、すぐ見学を許される(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、10-11頁)
見学できる範囲
誰でも観覧を許可されるのは、呉海軍工廠、広海軍工廠、呉航空隊、海軍潜水学校、呉海兵団、軍艦、駆逐艦、潜水艦(新造潜水艦を除く)の諸部隊である。呉鎮守府からさらに許されたものは、呉海軍病院、呉軍需部をも見学することが出来る。海軍兵学校(江田島)の見学は同校宛別に直接願出を要する。一般の観覧は呉工廠及軍艦、海平団、潜水艦等ゆつくりすると6時間を要する。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、11頁)
軍港見学・軍艦拝観が許可される日時
観覧は、日曜、祭日の別なく、毎日午前8時より午後4時までの間に於て許可される。但し特別の場合に限り右以外の時刻に於ても許可せられることがある、尚軍艦の見学に限り月曜及土曜の午前中は艦内作業の関係上、又日曜、祝祭日は海上輸送の関係上、往々許可せられない場合があるから避けた方がよい。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、14-15頁)
宿泊と食事
在郷軍人団、青年訓練所生徒、男子青年団員等服装その他により一見識別することが出来且、指揮者を有する統制ある団体に限り、希望により下士官兵集会所(桜松館)にて差支なき場合、宿泊の便宜を海軍で取計つて貰える(1泊20銭、1食15銭以上)しかし桜松館ではほんの寝るだけで規則もあることだし寛げないので市中の旅館を希望するものもある、海軍でも世話してゐるし、旅館の方でもウンとサービスして団体などには特に食事宿泊の便を計つてゐる。尚見学中時間の都合で市中で楽に食事をとる暇なき場合は弁当の準備もして貰える、この場合は予め軍事普及部へ申込んでおくとよい。持参の弁当をとる場合は鎮守府裏門の軍港観覧者案内所または下士官兵集会所等において湯茶の準備がある。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、15-16頁)
講話・説明・解説
軍港見学上の予備知識、乃至海軍の現状等に関する軍事講話を望む場合は約30分乃至1時間位適当の場所でこれをうける事ができる。〔……〕観覧を許可されたものに対しては各部の案内係によつて懇切丁寧な説明をうけることが出来る、また団体その他の場合には軍事普及部から案内係として特に士官又は下士官の付添をうけることがある。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、16頁)
軍艦拝観
軍艦の拝観や乗員へ面会、慰問等のため赴く場合は〔……〕一般の場合は通船を雇はなければならない。海軍第一上陸場から附近で待ち合わせてゐる旗を立てた通船へ声をかけると、すぐやつて来る。〔……〕戦艦、一等巡洋艦など大きい軍艦ほど沖へ繋留してゐるので料金も高くなるが、たいてい見学などの場合は鎮守府で見学艦として軍艦が一定の期間指定してあつて、戦艦の場合は工廠陸岸繋留中の時や、また巡洋艦などでも、なるべく見学に便利な様特に考慮が払つてある(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、17頁)
軍艦の拝観はその時期によつて見学艦が指定されてゐるので希望通り見学が出来ないかも知れない、しかし、たいてい、戦艦、一等巡洋艦その他なるべく新鋭の軍艦を見学せしめる様考慮されてゐる。先づ戦艦とはどんなものかを知りたい人のため興味ある解説をここに掲げておく。
軍艦伊勢案内
艦の種類 我国の戦艦(陸奥、長門、伊勢、日向、山城、扶桑、金剛、榛名、霧島)中の1つで陸奥、長門に次ぐ最も威力ある軍艦である。大正11年の華府会議により加賀、土佐等の新艦の建造が止められ、その後十年間は戦艦を造られぬと云ふ、帝国海軍の国防第一線の主力として貴重な軍艦である。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、23頁)
各施設
呉海軍人事部
鎮守府と並んで右隣、無線電信所を前にして、鎮守府構内にある。〔……〕志願兵、徴募、海軍軍事に関する講演、軍港見学等に関する斡旋指導もすべて、人事部においてなされてゐる。特に海軍軍事普及班なるものが常置されており、軍港見学の相談相手になつて、親切に一切の案内をしてゐる。また管下二府十五県にわたり、講演官を派遣、または軍艦を派遣して海軍思想の普及発達に努めている。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、36-37頁)
呉海軍艦船部
鎮守府の左隣、やはり鎮守府構内にある、人事部とともに、恰も鎮守府の両翼の如く連なつてゐる〔……〕毎年、1回又は2回、艦船その他の保存整備展覧会を開いて『軍艦を大切にする』観念を奨励してゐる(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、37-38頁)
呉海兵団
〔……〕軍港の警備、航空機に依らぬ空中防御、陸上防火、兵員の補充及新兵教育等に関することを掌る、新兵教育は約5カ月間で〔……〕現役満期前下士官兵に対する公民並に職業教育(約1ケ月)も此処で行ふ〔……〕入退団兵と最も密接な関係があるので、従つて、地方官民とも極めて縁故がふかい。海軍と云へば海兵団を脳裡に浮べる親しみ深いところ、海軍見学にも最も親切丁寧で開放的である。馴染みふかいあの勇壮な海軍軍楽隊も海兵団内においてある。海軍第一門(眼鏡橋正面)から海軍構内へ入つて、すぐ右側である団門はその構内道路に面して東方へ向つてゐる、海軍案内所も団内にある。(『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1933年、39-40頁)