雑録

観光資源としての博物館(2) 軍港都市のストーリー(消費される対象としての歴史)

戦前の新聞を読むと、呉は「軍港呉市」や「軍港都市呉」といった表現をよく見かけます。
その名の通り、呉は近代に入り人工的に作られた都市だったのです。
そのため呉の歴史を通して、日本の近現代史を辿ることができます。
ここでは軍港都市のストーリーがどのように描かれているかを辿っていくことにしましょう。
(※参考文献『常設展示図録』新装改訂版、ザメディアジョン、2009年)

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1.呉鎮守府の開庁

1-1.前近代の呉

まず前近代の呉浦はどのような様子であったかを見ておきましょう。

近世の呉浦では田圃や帆掛け船を見ることができ、農業や漁業を中心とする土地だということが分かります。

このような呉を一変させたのは、海軍が置かれたことによります。
1853年のペリー来航を契機に日本は造船技術の差に危機感を抱き、海軍力の整備が重要な課題となります。

1-2.鎮守府の設置

海軍の拠点として「鎮守府」が置かれることになり、日本全国で調査が行われることになります。
1881年には赤松則良が「西海に造船所を建設すべき」という建議書を川村純義に提出。
川村純義は三条実美に「軍艦を製造し、西海に造船所を新設すべき」という上申書を出しました。
1883年、鎮守府候補地として呉湾を調査した肝付兼行は「此呉湾ヲ除キテ他ニナシ」と報告します。
呉が適しているとされたのは、三方を山に囲まれ、防御に優れた土地であったからです。
また艦艇の入出や生産活動の拠点としても適していたとされています。
こうして1889年、鎮守府が呉の地に設置されました。

2.呉海軍工廠の設立

2-1.軍艦の造修

鎮守府では、船を作ったり、兵器を作ったりすることが求められました。
それが呉鎮守府造船部と造兵部です。
日清戦争を経てそれぞれ呉海軍造船廠、造兵廠となり発展していきます。
兵器の国産化が目指され海軍初となる「12センチ速射砲」や「15センチ甲鈑」が製造されます。

日露戦争の前年、呉海軍造船廠と造兵廠は事業の統一をはかることがもとめられます。
こうして呉海軍工廠設立されます。
日露戦争では、呉工廠は船舶の改装や修理に追われました。

国産艦艇として呉で最初に作られたのは造船廠時代の通報艦宮古」。偵察機やレーダーが無い当時、敵艦隊の情勢を偵察する役割を担いました。

2-2.技術移転の進展

また日露戦争中には戦艦「八島」と「初瀬」が沈没してしまったため、急遽代艦が建造されることなりました。
これが全てを国産の技術で建造された巡洋艦「筑波」です。
日露戦争には間に合いませんでしたが、日本の近代造船技術史上では特筆される艦です。

日本は列強諸国から技術導入を図っていったわけですが、その一例とも言える展示が「ヤーロー式ボイラー」です。
この「ヤーロー式ボイラー」は巡洋戦艦「金剛」に搭載されていました。
「金剛」は日本が技術導入のために外国に発注した最後の主力艦でありイギリスのヴィッカース社において1913年に竣工しました。
金剛型としては、霧島・榛名・比叡が姉妹艦として製造されます。
「金剛」は途中で近代化改装を受け、この「ヤーロー式ボイラー」は取り外されましたが、
1993年まで科学技術庁の金属材料研究所の暖房用として使用されていました。

2-3.呉と潜水艦

海軍工廠は潜水艦技術の導入についても力が入れられます。
1907年にイギリスから2隻の潜水艇を購入すると同時に材料と部品も調達し、呉海軍工廠で建造しました。
しかし潜水艇開発には悲劇もありました。
それが「第六潜水艇」の沈没です。
1910年に通風筒から浸水し16メートル海底へ沈没し乗員14名全員が殉職しました。
しかしながら危機的状況に際して艦長佐久間勉は沈没状況を冷静に書き残し、人々に感銘を与えました。
戦前4月15日は第六潜水艇を偲ぶ日となり、現在も慰霊碑のある鯛之宮神社では追悼式が行われています。
海軍目的で訪れた観光客は、博物館と共に鯛之宮神社と海軍墓地を周遊するというのが定番コースです。

3.大戦景気と呉海軍工廠

3-1.八八艦隊計画軍縮体制

日露戦争後の1907年、帝国国防方針によって八八艦隊計画が目指されます。
海軍拡張による技術の進歩と1914年に始まった第一次世界大戦による大戦景気によって呉の街は好景気にわきます。
しかしながら、第一次世界大戦後にはヴェルサイユ体制とワシントン体制が敷かれます。
1922年のワシントン軍縮と1930年のロンドン軍縮によって艦艇の建造は制限され、呉で人員削減による失業者が増えました。

3-2.軍縮期における新技術

軍縮下では産業の合理化や新しい技術の習得が目指されたり、猛訓練により軍事力の劣勢をカバーしようとしたりしました。
航空機や酸素魚雷などがその一例です。
しかしながら友鶴事件では重武装が問題となり、第四艦隊事件では電気溶接が見直されました。
このため戦艦大和でも電気溶接の技術は使われていますが、重要な部分はリベット(錨打ち)で作られています。

3-2.不況とその克服

第一次世界大戦後の日本は戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、昭和恐慌に見舞われ不況に喘いでいましたが、
高橋経済や1931年の満州事変によりいち早く好景気となりました。
「景気は呉工廠から」と言われ繁栄した呉市では「国防と産業の大博覧会」が開かれました。

第一次大戦後における新技術は上述しましたが、1921年には呉港の山を挟んで向こう側の広には航空機関連の呉工廠・広支廠が作られます。
1923年には航空機生産体制の拡充を目指して、広支廠は広海軍工廠として独立しました。
航空機の開発はさらに重視され1941年には第11海軍航空廠に発展します。

4.戦艦大和の建造

4-1.建造の始まり

1934年、第二次ロンドン軍縮会議の予備交渉が行われますが、これが失敗に終わりワシントン軍縮条約の破棄通告が閣議決定されます。
1936年末の軍縮条約失効を見据えて、日本海軍は史上最大の戦艦の設計を開始しました。

戦艦大和の設計に大きな影響を与えたのが金剛代艦案です。
ワシントン軍縮では艦齢20年を超えれば新造が出来るという条項があり戦艦金剛の代艦計画が開始されたのです。
平賀譲の案は堅実で保守的、藤本喜久雄の案は斬新で進歩的でした。
藤本は設計の責任者として大和の基本設計を推進し、福田啓二が後任として大和の基本設計をまとめます。
最終案A-140-F6までに23種類もの案が出されました。

4-2.大和の技術

大和の建造には当時の最先端の技術が使われました。
有名なものとしては、
目標までの距離を測る測距儀は戦後の精密工学機器に、
造波抵抗を減らすバルバスバウは戦後の船舶に、
スクリューは鋳物技術に影響を与えたことなどがよく知られています。
46センチ砲の砲塔を組み立てたピットは水圧試験などに利用されています。

では実際に大和広場に出て、十分の一大和を見てみましょう。
(階段で下部におり1周周りながらバルバスバウとか艦艇塗料とかスクリューとかの話をする)

4-3.大艦巨砲主義による艦隊決戦思想と漸減邀撃作戦の終り

こうして大和は1941年12月16日に竣工し、ミッドウェー、マリアナ、レイテに参戦しますが、
時代は戦艦から航空機へと移り変わっていました。
46センチ砲を作ったのも、アウトレンジから敵戦艦を攻撃するためのものでした。
アメリカが太平洋へ艦隊を移動させるにはパナマ運河を通らねばならず艦艇の大きさが制限されます。
それ故搭載する砲も限られるため、敵の攻撃が当たらない位置から砲撃しようとしていたのでした。
しかし時代は空母から航空機をたくさん飛ばしたほうが勝つ状況になっていたのです。

4-2.『男たちの大和』と潜水調査

最終的に日本は特攻するしかなくなり大和も沖縄に向けて出撃することになります。
男たちの大和』では特攻の意義について士官の間で議論が起こるシーンが印象的です。
臼淵磐が進歩について唱え日本の新生にさきがけて散るのは本望ではないかという場面が見どころの一つです。
男たちの大和』は戦後生き残って孤児を育てた乗員の養女が沈没位置に養父の遺灰を撒きに行くことが話のアウトラインです。
そこで北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒と連呼されるので沈没位置を覚えた人も放映前後は多かったようです。
沈没した大和では幾度か潜水調査が行われます。
1985年には「海の墓標委員会」、1999年には「大和プロジェクト'99」、2016年に呉市の調査が行われました。

5.呉と太平洋戦争

5-1.太平洋戦争の始まり

1937年に始まった日中戦争は泥沼化し、日本は援蒋ルート遮断のために1940年9月23日に北部仏印に進駐します。
同年9月27日には三国同盟に調印し、翌1941年4月には日独伊蘇の連携を目指した松岡外交により日ソ中立条約が締結されます。
しかし同1941年6月には独ソ戦が勃発。松岡外交が破綻します。
そのため7月の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」がだされるのですが、
これは海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を決定したものでした。
同1941年7月に日本がさらに南部仏印にも進駐すると、アメリカは対日石油危機を全面禁止します。
これにより日本はジリ貧状態に陥ることが決定的になり、それならば早期開戦だという空気が高まっていくのです。
結局、日米交渉は破綻に終り、1941年12月8日太平洋戦争が開戦します。

5-2.戦時下の呉

緒戦こそ優勢であった日本でしたがミッドウェーに敗北し、ガダルカナル島では戦線が膠着します。
結局ガ島からは後退することになりマリアナ沖海戦敗北、サイパン陥落、レイテ沖海戦敗北と敗北を重ねます。

呉工廠では戦争の激化に伴い失われた艦艇を補うため造修に多忙を極めます。
戦時下の呉工廠の特徴として輸送艦建造、航空機戦への対応、特攻兵器の開発が挙げられます。
ミッドウェーでは赤城・加賀・飛龍・蒼龍が失われたため空母の建造が急がれるとともに、
伊勢などの戦艦の、航空戦艦への改装も行われました。
戦局が悪化すると人間魚雷回天などの特攻兵器が生み出されます。
黒木博司は仁科関夫らと共に人間魚雷を構想。
塚本太郎など若い命が特攻に志願されました。

男性が兵隊にとられた日本では女性が銃後として社会に進出します。
奉仕作業や挺身隊などでの労働力代替、ナギナタやタケヤリの訓練が行われました。
工廠のあった呉は空襲の対象となり14回も攻撃を受けます。
米軍機と艦艇が激しい戦いを繰り広げる一方で、呉市街地は焼け野原となります。

最終的に日本はヒロシマナガサキソ連の対日参戦により無条件降伏を受け入れます。
呉吉浦で撮影されたヒロシマのキノコ雲の写真は有名です。
この世界の片隅に』というマンガがあり、これは戦時下に呉に嫁いできたご婦人を描いた作品なのですが、
呉空襲や原爆などが描写されており、作中のキノコ雲はこの吉浦から撮影された原爆がモチーフとなっています。

6.終戦と呉

6-1.イギリス連邦による占領

敗戦後、日本はGHQの占領下に置かれます。
GHQというとアメリカのイメージが強いかと思いますが、中国・四国地方にはイギリス連邦が進駐します。
主要な産業を海軍に依存していた呉では市民たちが困窮に喘ぐこととなりました。
軍艦の解体作業や英連邦に職を求めることで生活を支えますが、復興が進むと軍艦解体は終り英連邦の撤退も始まります。

6-2.軍転法・朝鮮特需・高度成長

呉市は平和産業港湾都市を目指し1948年に呉港の開港に成功すると旧軍港都市転換法を通過させることで、
旧海軍施設を利用した経済復興を目指します。

そして1950年に勃発した朝鮮戦争により戦争特需が起こり、経済は急速に回復しました。
高度経済成長期には旧日本海軍の施設や技術を活かし造船業などの重厚長大産業で繁栄します。

NBCにより戦後の呉で初めて作られた大型タンカー「ペトロ・クレ」を筆頭に、
巡視船「とかち」や日本船籍史上最大のタンカー「日精丸」が造られました。

中国の共産化や朝鮮戦争により占領軍の占領政策は転換され逆コースをもたらします。
1954年には自衛隊法が制定され。海上自衛隊呉地方隊と呉地方総監部が発足します。
1956年に国連軍は撤退式を行い返還された施設の多くを海上自衛隊が継承することとなりました。

そのため今でも呉市では海自カレーや艦船巡りなどが観光資源の一つとなっており、
旧日本海軍の遺構が日本遺産とされ、多くの観光客を呼んでいます。

7.大型展示

1階の最後は大型展示資料です。
良く知られたものとしては零戦・回天・海龍が展示されています。

7-1.酸素魚雷

大型資料展示室に入って一番初めに登場するのは九三式魚雷です。
軍縮体制時における新技術の導入はお話したかと存じますが、
射程距離の不足と航跡発生を問題を解決するため燃料酸化剤に純粋な酸素を用いることに成功します。
開発したのは呉工廠魚雷実験部で、水雷部が製造を担当しました。
太平洋戦争まで酸素魚雷を実用できたのは日本だけでした。
 

7-2.回天

この九三式魚雷は特攻兵器にも用いられ、回天一型が実戦投入されます。
回天は人間が魚雷を操縦しながら体当たり攻撃をする特攻兵器です。
展示してあるのは回天十型の試作型であり潜水艦用の電気推進魚雷「九ニ式魚雷」を利用したものです。
本土決戦用の近距離攻撃のために開発されました。
この展示では当時回天の乗組員となった慶応の学生の遺書の録音を聞くことができます。

7-3.海龍

同じ水中特攻兵器としてはもう一つ特殊潜航艇「海龍」があります。
海龍は水中を飛行機のように潜航・浮上することを目指して開発された有翼潜水艇です。
しかし戦争末期の後期量産型は両脇の魚雷を発射した後、目標の艦に突撃する水中特攻兵器になりました。
展示してある海龍は静岡県網代沖で沈没したものが1978年に引き揚げられたものです。

7-4.ゼロ戦

海龍の向かい側に展示してあるのが零式艦上戦闘機六二型です。
1940年に海軍の制式機として採用された当初は、機動性・装備・航続距離と世界に類を見ないものでした。
しかし連合国側の新型戦闘機の登場などで消耗が激しくなり、
1944年10月の神風特攻隊の編成以降は爆弾を積んで体当たりを仕掛ける攻撃を取るようになりました。
展示してある機体は明治基地第210海軍航空隊の所属機。
1945年にエンジントラブルで琵琶湖に着水したものを、1978年に引き揚げたものです。
他にも九一式徹甲弾や三式焼霰弾、青葉の20センチ主砲身、各種エンジンがあります。
艦砲射撃をするための計算機である射撃盤は2021年から新しく展示が開始されたものです。

ここで大型資料展示は最後となります。
スロープに沿って2階に参りますとミニ企画展と艦艇の模型が展示されています。