従来から求められていた「複数テクストの相互参照」(第4問-A)及び「歴史叙述者の視点」(第5問-A)を扱う設問がついに登場。まさに入試改革の最前線といえる設問で出題者の意欲が感じられる。全世界史教育関係者はいますぐ必ず解いた方がいい。第4問-Aは同じ遊牧民族を異なる二つの定住国家から捉える問題、第5問-Aは中国の時代区分論争の唐宋変革を扱うことで歴史認識とその根拠に踏み込む問題である。さらにこの第5問-Aは「複数回答」を前提としており自分が選んだ解答の根拠をロジカルに展開することが求められている。
第1問 挿絵・風刺画の読解
A 16世紀末 明の軍事技術書の挿絵
問2【2】16世紀末明朝国際関係史
- 正文判定
- ①【誤】ベトナム遠征は永楽帝の時代。陳朝の衰退に乗じて征服したがその死後、黎朝が独立を回復した。
- ②【正】正しい。豊臣秀吉は1590年の天下統一後2回に渡り朝鮮に派兵した。日本史だと文禄慶長の役。朝鮮史だと壬辰・丁酉倭乱。
- ③【誤】オランダを駆逐して台湾を占拠したのは鄭成功。清朝の時代。鄭成功のオランダ勢力駆逐後子の鄭経らが三藩の乱に連動して反抗を続けたが、康煕帝の攻撃により帰順した。
- ④【誤】白蓮教徒の乱が起こったのは元と清。元の場合は紅巾の乱。指導者の韓山童の処刑後、引き継いだ子の韓林児らにより、地方豪族を巻き込んだ大農民反乱に発展した。清の場合は嘉慶白蓮教徒の乱。乾隆帝の退位後翌年に発生し、大乱となる。清朝はこの乱の平定に苦しみ、清朝正規軍(八旗と緑営)の腐敗と弱体化が露呈。乱の鎮圧には、地方官や地主層の地方自衛軍(郷勇)の活躍が大きい。戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出費は清の国力を大きく消耗させた。
問3【3】ウズベク族
- 正文判定
- ①【正】ウズベク族はブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を建国した。ヒヴァ=ハン国はブハラ=ハン国と抗争したが1873年にロシアの保護国となった。
- ②【誤】コーカンド=ハン国を併合したのはロシア。コーカンド=ハン国はフェルガナ盆地の農業やロシア・清との交易をおこなったが1876年にロシアに併合された。
- ③【誤】キルギスに滅ぼされたのはウイグル。ウイグルは744年、東突厥を倒して建国。マニ教を信奉、ソグド文字をもとにウイグル文字を作り安史の乱では唐を支援した。チベットに進出して吐蕃と対立したが、840年にキルギスに滅ぼされた。
- ④【誤】カラコルムに都を建設したのはモンゴル。モンゴル帝国第二代オゴタイは1235年にカラコルムに都を建設した。
B 風刺画(仏雑誌『クリ=ド=パリ』1898年1月23日号)
問4【4】近代マスメディア史
- 文章補充・因果関係
- 「この頃(編註1898年)既にフランスには、100万部近い発行部数を誇る日刊紙が存在していました。これほど新聞が普及していた要因としては【エ】が挙げられます」。この【エ】に当てはまる要因を選択する。
- ①【正】「印刷技術の向上」というとグーテンベルクを連想してしまい時代的に迷うが消去法的にこれしかない。
- ②【誤】「ラジオ」よりも新聞の方が先に普及した。ラジオが労働者階級にまで普及したのは戦間期以降。
- ③【誤】「政教分離法」は1905年。フランスにおいて国家の宗教的中立を定めた法律。信教の自由の保障、1801年のコンコルダートの破棄、公共団体による宗教予算の廃止、教会財産の信徒会への無償譲渡などを内容とし、教会との積年の争いに共和派が勝利した。
- ④【誤】「インドシナ戦争」は第二次大戦後。1945年の日本降伏直後、ホー=チ=ミンがベトナム民主共和国独立を宣言したため1946年に本国のフランスとインドシナ戦争が勃発した。
- 「この頃(編註1898年)既にフランスには、100万部近い発行部数を誇る日刊紙が存在していました。これほど新聞が普及していた要因としては【エ】が挙げられます」。この【エ】に当てはまる要因を選択する。
問5【5】西洋美術史 自然主義
- 自然主義の美術作品と作者の組み合わせ
- ①【誤】「民衆を導く自由の女神」は1831年に七月革命の市街戦を描いたドラクロワの作品だがフランス=ロマン主義。強烈な色彩による劇的表現を用いた。受験世界史的にはドラクロワは「キオス島の虐殺」でも出題される。ギリシア独立戦争を描き、独立運動支援を高め、絵画の虐殺とさえ酷評される激しさを表現した。
- ②【誤】ルノワールは印象派。豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。
- ③【正】ミレーは自然主義絵画で古典主義の理想化やロマン主義の誇張を捨てて、ありのままの素朴な自然の姿を描こうとした。農村や自然の風景を題材にしたものが多い。代表作は「落穂拾い」。
- ④【誤】モネは印象派で光の画家と呼ばれる。『日の出-印象』『睡蓮』、『ラ=ジャポネーズ』などが有名。
問6【6】ドレフュス事件
- 空欄補充
- 「【オ】という軍人のスパイ容疑に関する判決に憤慨した自然主義の作家ゾラ〔……〕」とあるのでドレフュス。
- 正文判定
- ①【誤】対独復讐といえばブーランジェ事件。対独強硬論者として国民的人気を集めていた元陸相ブーランジェの周辺に反共和勢力が集まり、軍部独裁政府の樹立が企てられた事件。第三共和政は危機に陥るが、クーデター決行寸前となったが将軍は合法路線を目指したので運動は挫折した。
- ②【誤】総裁政府が倒されたのはブリュメール18日のクーデタ。1798-99年にナポレオンはエジプト遠征を行いエジプトの占領には成功した。だがアブキール湾の戦いで全滅してしまいフランス軍は取り残され、イギリスは第2回対仏大同盟を結成する。そんな中ナポレオンは軍をエジプトにおいてひそかにフランスに帰り、1799年にはブリュメール18日のクーデタを決行。ナポレオンが総裁政府を打倒し統領政府を組織した。
- ③【誤】フランスにおける無政府主義のクーデタといえばブランキ。フランスでは1848年に二月革命が勃発。臨時政府に共和派のラマルティーヌ、社会主義者のルイ=ブランが入閣し共和政を宣言、失業者救済のため国立作業場設置したが資本家や農民に社会主義者への反感が強まった。それ故、四月選挙では社会主義化で土地を失うことを怖れた農民が反労働者についたので社会主義派が大敗する。同年5月にブランキらの無政府主義者が政府の転覆をはかるが失敗に終わった。6月に国立作業場の閉鎖が決定すると、パリ労働者は六月暴動を起こしたが、結局は鎮圧され社会主義勢力が後退する。同年12月には大統領選挙でルイ=ナポレオンが当選し1851年クーデタで第二帝政開始した。
- ④【正】ドレフュス事件はユダヤ系軍人ドレフュス大尉に対する冤罪が共和国の存亡をかけた対立へと発展した事件。1894年にドレフュスはドイツのスパイ容疑で終身刑となったが96年に真犯人が判明した。しかし軍が証拠を捏造したことが明らかになったにも関わらず、再審請求の道は開けなかった。そのため作家のゾラが告発を行うと、左右両派に分派し、共和国の存立を問うこととなった。
第2問 アメリカ大陸の歴史
A ラテンアメリカ
問1【7】ポルトガル史
- 正文判定
- ①【誤】アフガニスタンを保護国としたのはイギリス。イギリスはロシアの南下に対抗してアフガニスタンに3回にわたる侵略戦争を行った。第1回ではイギリスが完敗。第2回で保護国化に成功した。だが第3回目では独立を認めた。
- ②【誤】アラゴンとカスティリャが統合したのはスペイン。1479年、カスティリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドの結婚後、両王国が統合されて、スペイン王国が成立した。
- ③【正】エンリケ航海王子はセウタを攻略してアフリカ西岸探検を開始。彼自身は船酔いがひどく、ほとんど航海をしなかった。
- ④【誤】ポルトガルは第一次世界大戦では連合国側。ポルトガルでは1910年に共和派が反乱を起こしブラガンサ王朝が終わり第一共和制となった。1914年に第一次世界大戦が起こると世論は親英派と親独派に分かれたが、1915年に親英派が権力を握り対独宣戦し連合国として戦った。
問2【8】ラテンアメリカにおける宗教
- 正文判定
- ①【正】ケチュア人はティワナク文明ののちに起こった諸王国の抗争の中から勢力を増強し15世紀にインカ帝国を建設した。インカ帝国では神権政治が行われ、インカの王は太陽の子とみなされ、絶大な宗教的権力をふるった。
- ②【誤】イダルゴはアルゼンチンではなくメキシコ。神父イダルゴは1810年にメキシコで最初の武装闘争を指揮した。先住民やメスチソ(白人と先住民の混血)からなる下層階級の人々を集めて反スペイン闘争を開始するが、11年に処刑。その後メキシコは1821年に独立を達成、22年に帝政、24年に共和制に移行した。
- ③【誤】スペインの宗派はカトリック。文章に答えが書いてある純粋国語の読み取りの問題。「ラテンアメリカではとりわけカトリックの信仰が深く根付いている」「ラテンアメリカを征服した宗主国は支配を確立する目的で、自分たちが信仰している宗派の宗教施設を植民地の全域に建てた」
- ④【誤】ピルグリム=ファーザーズはアングロアメリカ。イギリスのジェームズ1世はフィルマーの王権神授説を信奉し議会無視の政治を行う。1620年に弾圧されたピューリタン(ピルグリム=ファーザーズ)がメイフラワー号で北米に移住した。
B 1831年のアメリカ合衆国大統領による一般教書演説
問4【10】1831年当時のアメリカ合衆国の状況
- 資料読解・正文判定
- ①【誤】インディアンが移住させられたのはミシシッピ川以東ではない。合衆国が東部13州から始まり西漸運動で膨張していったことを想起すれば誤文だと判定できる。
- ②【正】文章読解。「ミシシッピ州全域とアラバマ州西部からインディアンの居住地がなくなり、両州は文明化した住民に委ねられることになる」とあるので、先住民を文明化した民ではないと見なしているというのは妥当。
- ③【誤】大陸横断鉄道の完成は1869年。東部と太平洋岸が連結され、西部開拓が促され、合衆国に経済的・政治的統一をもたらした。東部から西部へはユニオン=パシフィック社が担いアイルランド人労働者が投入された。西部から東部へはセントラル=パシフィック社が担い中国人労働者が使用された。
- ④【誤】フロンティア消滅は1890年。ウーンデッドニーの虐殺で無抵抗のスー族インディアン多数が虐殺されると、この後、先住民の組織的抵抗は終了したため、フロンティアの消滅が宣言された。
第3問 人の移動の歴史
A 日本に留学した中国人について
問1【12】近代中国思想史
- 空欄補充
- 「中国の伝統的な学問や儒教倫理を根本としながら西洋の学問・技術を利用するという【ア】の立場」
- 「『狂人日記』、『阿Q正伝』を著した【イ】」
- 魯迅は文学による中国人の精神改造を目指した。白話運動を実践した最初の文学作品『狂人日記』を『新青年』に発表(1918)。『阿Q正伝』(1911~12)で現実を見ない中国人の実態を批判した。
- 周恩来は中国共産党の重要人物。受験世界史的には政治史・外交史で頻出する。西安事件(1936年12月12日)では張学良が捕らえた蔣介石に説得を行い、内戦の停止の合意を成立させた。これにより抗日のための統一という歴史的転換が進展した。戦後中共史では文革期に鄧小平と協力して秩序の回復と経済再建にあたった。毛沢東の威信を背景とする江青(毛沢東第三夫人の女優)ら「四人組」は「批林批孔運動」を展開して、毛沢東の個人崇拝を強めたが、周恩来・鄧小平らの実務家はこれに対抗した。1976年1月に周恩来が死去すると4月に第一次天安門事件勃発。周恩来の死を悼む人々が天安門広場につめかけ、その遺徳を讃えている最中に、群衆の中から毛沢東の専制に対する批判が起こった。戦後外交史ではネルーと会談して平和五原則の発表したり、卓球選手団の交流から始まったアメリカとの外交(ピンポン外交)を通してキッシンジャーと秘密裏に会談したり、田中角栄内閣と日中共同声明に調印し日中国交正常化(1972.9)が果たされたりするなどした。
- 魯迅は文学による中国人の精神改造を目指した。白話運動を実践した最初の文学作品『狂人日記』を『新青年』に発表(1918)。『阿Q正伝』(1911~12)で現実を見ない中国人の実態を批判した。
B ナチス=ドイツの民族政策
問3【14】ポーランド史
- 空欄補充
- 正文判定
- ①【正】1386年、リトアニア大公ヤゲウォがポーランド女王ヤドヴィガと結婚しリトアニア=ポーランド王国が生まれた。ヤゲウォ朝は1410年にタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を撃破し地位を確立したが、1572年に断絶。その後ポーランドでは貴族達による選挙王制で内紛が続き、ポーランド分割により国家が消滅した。
- ②【誤】三十年戦争後、バルト海の大国となったのはスウェーデン。ウェストファリア条約でスウェーデンは北ドイツ沿海の西ポンメルンなどに領土を得て、バルト海を内海とするバルト帝国を成立させた。
- ③【誤】純粋国語。リード文に答えが書いてある。「ドイツ人が東方から強制追放されて〔……〕ドイツに移住させられました」とあるので、ドイツ人は東方から西方に移動させられたと分かる。
- ④【誤】第二次大戦後、西ドイツとポーランドが国境を画定したのはブラント外交。1970年12月ワルシャワで国交正常化に調印、72年に発効。オーデル=ナイセ線での国境を画定した。
問4【15】民族自決
- 文章挿入
第4問 複数テクストの相互参照による意味の考察
A 中国の史書及び東ローマ帝国の記録における突厥の叙述のされ方
問1【16】中央アジアの遊牧民とソグド人
- 空欄補充
- 北周・北斉を従属化していること、年代は6世紀であることなどから突厥と分かる。
- 突厥は6世紀半ば柔然の可汗を倒し新たにモンゴル高原の覇者となる。東方では華北の北周・北斉を従属化し、西方ではササン朝と協力してエフタルを討った。だが隋の文帝の分断作により突厥は東西に分裂(583)した。東突厥で形成された第一可汗国は隋末の混乱の主導権を握り唐の建国を支援したが、唐の太宗;李世民に反撃され降伏(630)した。その後、第二可汗国として680年頃復興するが、744年にウイグルに滅ぼされた。一方で西突厥は中央アジア方面を本拠地としたが、7世紀半ばに唐に敗れ(657)、8世紀半ばに分裂、滅亡した。
- セルジューク朝(1038-1194)は1038年にトゥグリル=ベクが中央アジアで建国。バクダードに入りブワイフ朝を打倒。アッバース朝からスルタンの称号を授かりスンナ派を回復した。ビザンツ帝国とは敵対し、1071年のマンジケルトの戦いではビザンツ皇帝を捕らえた。その後は内紛で小王国に分裂し、1194年に滅亡した。
- ウイグルは744年に東突厥を倒して建国。マニ教を信奉しソグド文字をもとにウイグル文字を作った。安史の乱では唐を支援。チベットに進出して吐蕃と対立。840年にキルギスに滅ぼされる。
- 北周・北斉を従属化していること、年代は6世紀であることなどから突厥と分かる。
- 資料読解(ソグド人)
- 資料2の2行目に「【ア】に従属していたソグド人」とあるので、何も考えなくても「ソグド人が、遊牧国家を従属させて」という文言が誤りだということが分かってしまう。日本語が分かれば解けてしまうような設問は資料問題には相応しくないと思われる。
問2【17】ササン朝ペルシア史
- 王朝特定
- 正文判定
B イギリス議会政治史
問3【18】国王と議会の相克
- ヘンリ3世の統治下に起こった出来事
- 文章挿入
- X【誤】資料1「今後、いかなる自由人も、適法な判決又は国の法によらない限り、逮捕・監禁されてはならず」とあるので、法に基づかない逮捕・監禁は認められていないので誤り。これも純粋国語の問題。
- Y【誤】資料2は「権利の請願」の一部とあり、「権利の請願」が出されたのはジェームズ2世ではなくチャールズ1世の時。その後、メアリとオラニエ公ウィレムが「権利の宣言」を受け入れて共同統治の王(メアリ2世とウィリアム3世)として即位。「権利の宣言」は若干修正され「権利の章典」として議会制定法となった。
- Z【正】消去法的にZしかない。ただ、リード文の46頁2行目から3行目「この文章は、その後の国王たちによって確認されることはあったものの、長らく政治の表舞台で用いられることはなかった」という文言は、選択肢Zの「ヘンリ3世やその後の国王たちによって認められてきた」という表現と矛盾するかのように感じられてしまう。「確認される」という行為は「認められ」ることと同義なのだろうか。
問4【19】イギリス議会の政治
- 正文判定
- ①【誤】国王が三部会を招集したのはイギリスではなくフランス。フィリップ4世は、聖職への課税をめぐる教皇ボニファティウス8世との対立から三部会を開いて各身分の支持を得た。
- ②【正】議会法は自由党のアスキス内閣(1908~1916)の下で1911年に制定され、これにより下院の法案決定が上院に優先することを確定した。対ドイツ海軍拡張費を得るため、ロイド=ジョージ蔵相が社会上層への税負担を増やしたところ保守党が強い上院が抵抗したことを契機としている。
- ③【誤】ウォルポールはトーリ党ではなくホイッグ党。責任内閣制は、ホイッグ党のウォルポールが議会多数の支持を失った際、国王の慰留にもかかわらず辞職したことが成立の発端。
- ④【誤】共和政ローマのホルテンシウス法の内容。前287年のホルテンシウス法で、平民会での決議は元老院の承認が無くとも国法となた。これによりパトリキとプレブスは法的には平等となった。
問5【20】自由・平等・信仰
- 資料読解・正文判定
- ①【誤】アメリカ独立戦争の開始時点では、独立賛成の愛国派は約三分の一にしか過ぎなかった。そのため独立戦争を理論武装により正当化し世論を動かす必要があった。独立を承認された後に出されても意味がないことを考えると誤りだと分かる。
- ②【誤】ロックは革命権(抵抗権)を唱えたのであり否定したのではない。ロックの思想では、人民は社会契約を結んで権力を国家に信託し、国家によって権利の保障をはかる。だが、もし国家が権力を濫用する場合は、人民は信託した権力を自らの手に取り戻し、国家に抵抗する権利を持つ。これが革命権。
- ③【誤】ナントの王令の廃止はルイ14世の時。アンリ4世はナントの王令(1598)を出し、新教徒に対し信仰の自由を認めてユグノー戦争を終結させた。
- ④【正】ナントの王令(勅令)廃止は1685年。ルイ14世はカトリックによる宗教統一を目指しナントの王令(勅令)(1598)を廃止。これにより商工業を担っていた20万のユグノーたちが亡命し、フランスの経済・商業が衰退した。
第5問 歴史叙述者の「視点」(思想的立ち位置)
A 中国史時代区分論争
問1【21】唐宋変革と時代区分その1
【資料1】
中世と近世とは、いかなる点において異なるかと言うと、政治上より言えば貴族政治が衰退して君主独裁政治が起こったことである。貴族衰退の結果、高い官職に就くのにも家柄としての特権がなくなり、皇帝の権力によって任命されることとなった。
【資料2】
中世初期の支配的勢力は、新しいタイプの大地主層=新官僚層であった。「佃戸」はこの大地主の土地に縛りつけられ、居住移転の自由を持たず、土地の処分に伴って土地の買い主へ引き渡されることさえある農奴であった。
- 問1 資料読解・複数正解
- 資料1では【統治体制の変化】を根拠として宋を【近世】に区分する
- 資料2では【支配階層や土地経営の変化】を根拠として宋を【中世】に区分する。
問2【22】唐宋変革と時代区分その2
【資料3】
中国における古代統一国家の形成時期は紀元前3世紀、中世の開始時期は9世紀頃である。これらは日本と比べてかなり早いが、近世の開始時期は中国と日本とでほとんど違いはなくなった。
【資料4】
朱子学の出現こそ中国思想界を中世より近世の段階にまで高めたものであって、それは訓詁学を克服した点から見て、中世の文化の否定と言うことができる。
B ポリビオス『歴史』
問3【23】アケメネス朝とアレクサンドロスの大帝国
- 空欄補充
- 非支配地域
問4【24】ギリシア・ローマにおける歴史叙述
- 文章読解・正文判定
- ①【誤】リード文にポリビオスとリウィウスは「異なる言語で史書を著した」とある。リウィウスはアウグストゥスの厚遇を受け、建国から前9年までのローマ史をラテン語で書いたことで有名なので、ポリビオスがラテン語を用いたのは誤りだと分かる。
- ②【誤】リード文にポリビオスは「ローマの興隆を「史上かつてない大事件」と捉え、ポエニ戦争を出発点として『歴史』を著した」とある。一方で「リウィウスも、ローマ興隆期の契機をポエニ戦争とみなし」とある。このことからリウィウスもポリビオスと同様にローマとカルタゴとの戦争の歴史的意義を高く評価していることが分かる。
- ③【正】トゥキュディデスはペロポネソス戦争を厳密な史料批判に基づき記述し、これが科学的な歴史記述の典型となった。リード文ではポリビオスがスパルタに注目し「長年にわたってギリシアの覇権をめぐる争いを続けた」ことに言及していることが分かる。この「ギリシアの覇権をめぐる争い」はペロポネソス戦争を指している。よって、このことから、ポリビオスはトゥキディデスと同じ戦争に言及していると言える。
- ④【誤】タキトゥスが著したのは『ゲルマニア』。移動前のゲルマン人社会を記した重要史料で質実剛健なゲルマン人を描くことで、ローマ人の堕落を批判した。『世界史序説』はイブン=ハルドゥーン。定住民と遊牧民の交代を軸に歴史哲学を展開した。
問5【25】ローマ王政期
- 正文判定
- ①【誤】十二表法が公開されたのは共和政ローマ。十二表法は前5世紀半ばのローマ最古の成文法。旧来の慣習法が成文化されたため、貴族による法知識の独占が破られた。
- ②【誤】コンスルが政治を主導したのも共和政ローマ。コンスル(執政官)は最高公職者で、2名が任期1年で行政・軍務など国政全般を主導した。当初は貴族が独占したがリキニウス=セクスティウス法(前367)でコンスルの1名は平民より選出することとなった。
- ③【誤】コロッセウムは帝政ローマ。コロッセウム(円形闘技場)では剣奴の戦い、剣奴と野獣の戦い、キリスト教徒の処刑などの見世物が行われた。
- ④【正】前8世紀中ごろ、イタリア半島中部のテヴェレ川周辺に印欧系イタリア人の一派ラテン人が定住し、都市国家を形成したが、前6世紀末になると先住民族のエトルリア人の王を追放して共和政を実現した。
C 20世紀前半アメリカ経済史
問6【26】1914年から1939年までに起こった事柄
- グラフ読解・正文判定
- ①【誤】アメリカが第一次世界大戦に参加したのは1917年。ドイツが無制限潜水艦作戦をとるとアメリカはドイツと断交し、宣戦した。1917年から1918年のアメリカの失業率をグラフで読み取ると失業率は減少しているので選択肢①は誤り。仮に年号が分からなくとも参戦による軍需を想起できれば失業率は下がると予想できる。
- ②【誤】合衆国の連邦政府の歳出総額をグラフから読み取ると最大なのは1919年。ニューディール政策は世界恐慌(1929)に対する政策なので選択肢②は誤りと判定できる。
- ③【正】合衆国の国内の失業率が最大の年をグラフから読み取ると1933年。世界恐慌が始まったのは1929年なので、失業率が最大になったのは世界恐慌が起こった後というのは正しい。
- ④【誤】合衆国の連邦政府の歳出総額が最小となった年をグラフから読み取ると1914~1916。ワシントン会議は第一次世界大戦後の国際秩序なので選択肢④は誤りと判定できる。
問7【27】世界恐慌に対する各国の政策的対応
- 正文判定
- ①【正】ヒトラーは経済政策として恐慌対策、失業者削減に取り組んだ。 アウトバーンの建設などの公共事業を推進し、軍拡を進め、労働奉仕組織へ失業青少年を吸収した。またアウタルキー(国内自給)を目指す「四カ年計画」では、輸入に依存する天然のゴム・石油・繊維を、ドイツで産出量が多い石炭などを利用した合成ゴム・合成石油・合成繊維などで代用しようとする計画を進めた。1937年にはドイツでは失業者がほぼ一掃された。他国が恐慌から脱しえない中、独がいち早く景気回復に成功したことは、国際社会におけるナチスの評価を高めた。
- ②【誤】NIRAはイギリスではなくアメリカ。フランクリン=ルーズヴェルトは全国産業復興法 (NIRA)で、政府と企業との協力を強め、企業間の公正な競争を促そうとした。だがNIRAは違憲とされたので、ワグナー法を制定し、労働者の団結権と団体交渉権を確定、労働者の権利を保護した。
- ③【誤】失業保険の削減などの緊縮財政が提案されたのはイギリスの第二次マクドナルド内閣。与党労働党が反対したため内閣は総辞職となりマクドナルド挙国一致内閣が成立。金本位制を停止し、ウェストミンスター憲章でコモンウェルズを結成、オタワ連邦会議でスターリング=ブロックを形成した。世界恐慌の時代にはロシアは革命を経てソ連となっており、五カ年計画により世界恐慌の影響を受けなかったとされる。
- ④【誤】ブロック経済に対する説明が誤り。ブロック経済は保護貿易であり、輸入制限と関税を設けて自国と従属地域の市場を外国に閉ざすものであった。植民地と他国の自由貿易が実現されるというのは誤り。
第6問 世界史上の建築物
A 非イスラームの宗教施設の一部を材料として造られたモスク
問1【28】ジャイナ教
問2【29】ウマイヤ朝の首都の位置
問3【30】イスラームの諸王朝
- 時系列整序 Y→X→Z
- 【モスクY】ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしたのは711年。
- 【モスクX】アイバクが創始した奴隷王朝は13世紀インド(1206-1290)。
- インドのイスラーム化はトルコ系のガズナ朝(962-1186)→イラン系のゴール朝(1148頃-1215)→デリーに首都を置いた5つの王朝デリー=スルタン朝→ムガール帝国の順番。アイバクが建国した奴隷王朝(1206-1290)はデリー=スルタン朝の一番初めの王朝。
- デリー=スルタン朝は①奴隷王朝に続いて、②南インドを征服したハルジー朝(1290-1320)→③デリー=スルタン朝で最大版図となるもティムールに滅ぼされたトゥグルク朝(1320-1414)→④ティムールからパンジャーブ地方の統治を委任された地方長官が建国したサイイド朝(1414-1451)→⑤デリー=スルタン朝で唯一のアフガン系でありパーニーパットの戦いでバーブルに敗れたロディ―朝(1451-1526)と変遷する。
- 【モスクZ】スレイマン1世はオスマン朝の16世紀半ばの君主(在位1520~1566)。
B ウィーン史
問4【31】マルクス
- 空欄補充
- 正文選択
- ①【正】マルクスはエンゲルスと共に『共産党宣言』(1848)を執筆した。第二次産業革命と独占資本主義による工業化の進行で労働者の数が増加し貧富の差が拡大すると、マルクスとエンゲルスは、生活への労働者の不満が、ナショナリズムの影響を受けて多民族を排除する方向へと進むことを懸念し、労働者の団結による社会主義の実現を唱えた。
- ②【誤】マルクスは無政府主義を唱えたのではなく科学的社会主義を唱えた。第一インターナショナルでマルクスが無政府主義者のバクーニンと論争したことは有名。
- ③【誤】『法の精神』を著したのはモンテスキュー。各国の法制度はそれぞれの精神(風土や習俗)と関係していることを唱えた。共和政の精神は美徳、君主制の精神は名誉、専制の精神は恐怖であるとした。
- ④【誤】精神分析学はフロイト。精神分析学は人間の行動や神経症を、深層心理を解明することによって説明し、治療しようとする理論。
問5【32】19世紀以降、都市化が進展したヨーロッパで整備された公衆衛生や福祉政策について
問6【33】ハプスブルク家
- 正文判定
- ①【正】ポーランド分割は3回に渡り行われた(1772・1793・1795)。露・普・墺の3カ国でポーランドを分割したが、このうち第2回ではオーストリアはフランス革命の対応で参加していない。
- ②【誤】七年戦争でハプスブルク家はプロイセンにシュレジエンを奪われた。七年戦争の講和条約であるフベルトゥスブルク条約では、オーストリアが戦争目的とし、既に奪還に成功していたシュレジエンが、プロイセン領であると再確認された。その一方プロイセンは、将来マリア=テレジアの息子ヨーゼフが神聖ローマ皇帝に選挙される際、これを支持することを約束した。
- ③【誤】外交革命の相手はイギリスではなくフランス。ハプスブルク家が宿敵ブルボン家と同盟関係に転換した。墺マリア=テレジア、仏ルイ15世の愛妾ポンパドゥール、ロシア女帝エリザヴェータとの同盟は三枚のペチコート同盟として有名。
- ④【誤】タンジマートはオスマン帝国のアブデュル=メジト1世による恩恵改革。ギュルハネの勅令(1839)により全臣民の帝国内における法的な平等・公平な課税を保障。帝国は伝統的なイスラーム国家から、法治主義に基づく近代国家へと体制を一新。改革の成果としては中央集権的な官僚機構、近代的な軍隊、法の支配など、近代国家としての内実が定着したことが挙げられる。しかし経済的には列強に従属することになり、工業製品が流入し土着産業は崩壊。外債に依存し事実上破産した(1873)。