茨城県立歴史館とその周辺

北関東は徳川氏の影響が色濃く残り、群馬では徳川氏発祥の地と称する世良田東照宮、栃木では家康を神格化した日光東照宮、茨城では水戸・一橋徳川家がそれぞれ歴史的な観光資源となっている。

茨城県立歴史館・偕楽園・徳川ミュージアムは一体的な地域にありセットで見学すれば半日以上楽しめる。(個人的には茨城県立歴史館が一番充実していると思う。徳川ミュージアムよりも偕楽園茨城県立歴史館の方が歴史目的の人にとっては良いかもしれない。徳川ミュージアム腐女子向け施設であり、刀剣乱舞のパネルだの人形だのが置かれていた)

以下、茨城県立歴史館に関するメモ。

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特別展 華麗なる明治―宮廷文化のエッセンス―(2022年2月19日~4月10日)

主に服飾や衣装などが印象深い。昭憲皇太后の通訳・洋装担当として仕えた香川志保子という人物が地元茨城県の出身であるらしく推されていた感がある。香川志保子はイギリス留学中に小松宮彰仁夫妻の知己を得てヨーロッパ各国の宮廷と交流。洋装を学び、帰国後には皇室の洋風化に尽力したとのこと。明治天皇が外国語学習を軽視し通訳がいれば十分という姿勢だったのに対し、昭憲皇太后は洋楽・洋服を受け入れるのも構わないとのことだったという。香川志保子の洋行中の面白エピソードとしては宮廷の要望(おそらくオーストリアのフリードリヒ?うろ覚え)で和服を着た写真を求められたため、和装で写真屋に乗りこんだ際にとても恥ずかしい思いをしたとのこと。香川志保子が実際に着たドレスなども展示されており、当時の日本が試行錯誤しながら洋装を取り入れていった過程がよく分かる流れになっている。香川志保子なんて初めて知ったわ。

一橋徳川家記念展示4 宗敬・幹子の見た20世紀の海外

徳川宗敬(ムネヨシ)は水戸徳川家第12代篤敬(アツヨシ)の次男で、一橋徳川家を継いで第12代当主となる。伝来の家宝を茨城県立歴史館に寄贈したので、水戸に一橋徳川家の展示があるというわけ。宗敬は林業が専門で有名らしい。今回の展示は「宗敬・幹子の見た20世紀の海外」ということで、学習院高等科満洲修学旅行・ドイツ留学・サンフランシスコ講和会議・世界農村婦人協議会(スコットランド)が扱われている。日露戦争後には日本人の満洲進出の気風を促すため修学旅行が行われていた。宗敬の写真としては八達嶺頂上の写真が印象深い。後は世界史的な出来事としてサンフランシスコ講和会議の調印に宗敬も参与していたことがピックアップされていた。サンフランシスコ講和会議は全面講和・片面講話で割れており、超党派の全権委任とする必要があったこと。そのため保守系無所属議員からなる緑風会の総会議長であった徳川宗敬が全権委員に就任したとのことであった。

常設展示

各分野の展示が小さいホールの小空間で区切られており、小空間を1周して次の展示に向かうという不思議な導線であった。見る順番が分からなくなりそう。

記憶に残っている展示をメモしておく。

原始・古代

弥生時代の墓制の違いについて。他の地域では甕棺墓が多かったのに対し、茨城では再葬墓が多かった。再葬墓とは一端埋葬した掘り返して骨を壺にいれて埋葬するというもの。甕棺墓と再葬墓を比較してみようというコーナーがあった。

律令時代

常陸国風土記』が推されていた。現存しているのが日立・出雲・播磨・肥前・豊後の5カ国だけであり、県名の起源を辿る時にも欠かせないからであろう。ちなみに茨城県の由来は県庁所在地の水戸が茨城郡に属しており、「いばらき」という名称は黒坂命が賊と戦った時に茨を用いたからなのだとか(茨で城を作った説と穴の中に茨棘を入れた説がある)。

中世仏教思想

親鸞および忍性が印象深い。親鸞は越後配流の後、常陸にきて笠間稲田郷に住み他力念仏の布教をしたとのこと。常陸に20年余もいて主著『教行信証』の初稿もここで著したのだとか。一方で忍性。忍性は北条業時(なりとき)に鎌倉に招かれ極楽寺を開いて真言律宗の布教を行ったことで有名ですが、なんと1252年から10年ほど筑波郡で活動していたとのこと。鎌倉新仏教の親鸞東大寺戒壇院の忍性が常陸国で活動していて興味深い。

戦国

常陸国を統一した佐竹氏。源氏でありながら平氏側にあり頼朝から討伐を受けたのち、奥州攻めで許され御家人となる。戦国時代には義重・義宣の時代に領国を拡大し相模小田原北条氏や陸奥の伊達氏と戦いながらついに常陸一国を統一。秀吉傘下の54万8000石の大名として成長するも、関ヶ原の戦い日和見する結果となり、家康から出雲秋田へ転封された。

近世

近世は水戸徳川家が中心。常陸国には水戸徳川家を始めとして譜代大名らが配置され防御の拠点となった。水戸徳川家は参勤交代が免除され江戸に常駐、特別な場合のみ帰藩するという特異的な地位にあったのだとか。特に推されていたのが光圀と斉昭。黄門様と条約勅許問題。

近現代

近現代で印象に残っているのは、連隊と地主制。1874年創設の歩兵第二連隊は西南戦争日清戦争日露戦争を経て明治42年に佐倉(千葉)から水戸に転拠。ニコライエフスク事件では第3大隊が全滅し、1940年には満洲駐屯、最終的にはペリリューに転戦することになり玉砕という悲劇的な最後になった。もう一つは茨城県における地主制の特徴。茨城県では地主の力の方が強かったとのこと。小作争議も地主の土地取り上げに対する返還が中心で、小作人側は小作契約の継続を求めるものが多かった。このような茨城県の地主制がどのように農地改革をしたのか気になる所。


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