広島平和記念公園内の碑及び遺構、被爆建物などを通して平和を学ぶツーリズムに参加してきた。写真及びボランティアガイドの説明をここにまとめておくこととする。
【目次】
平和都市記念碑
平和資料館から北へ数メートルの所にある。アーチ状の建物であり、ここを覗くと平和の灯火・原爆ドームを直線で見ることができる。このアーチは家形埴輪をモチーフとしているらしい。この中には被爆者名簿が入っており、毎年付け加える。ガイドの説明では2022年現在、32万8929名の名前が納められているそうである。放射線の被害者は今も増え続けており、市長が箱の中に納めていく。平和の灯火は1964年から常に燃やし続けている。雨の日も嵐の日も消さない。現在も原爆は13000個あり米露英仏中印パ北朝鮮が所有するのに対して警鐘を鳴らしている。平和の灯火一帯は原爆当時全てが吹き飛び似島まで見られた。似島は軍の検疫所となった島。原爆の際には被害者が島まで運ばれ救護所となった。


北天神町原爆死没者芳名
北天神町は賑やかな商店街。天神町筋には市場などが栄えていた。このように栄えていた土地をそのまま復興させようとしたのではなく何故公園にしたのか。それはハマイシンゾウ市長の政策による。広島市は復興に必要な金に喘いでいたので、平和記念都市とすることで援助を引き出そうとした。国はこれを拒否しようとしたが、GHQの後押しで法案が成立した。

遺構館(2022年3月オープン)
原爆が落ちた時の焼け土は1m下を掘ると出て来る。当初は平和記念館の下を掘ったが、オバマが来た時に埋めてしまった。そのため、この焼き土を展示しようとした遺構館ができた。

峠三吉詩碑(「人間を返せ」)
詩の碑文。朝鮮戦争を契機に「人間を返せ」の詩を作った。碑が斜めに向いているのは峠三吉の家の方向を向いているから。峠三吉は被服支廠とも関係があり、峠三吉の婦人が看護中に死んだことから「倉庫の記録」を作った。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
パネルがあり死亡者の遺影と名前を確認できるようになっている。螺旋状のスロープを降りていくのは過去にタイムスリップをするための装置なのだとか。閲覧室では被爆者の手記を読むことができる。

原爆の子の像(ササキ=サダコ)
ササキ=サダコは2歳の時に被爆したが10年間元気。だが12歳の時に発病(小6の2月)。縮景園の隣のノボリマチ中学に進学したが1回も学校に行けず死亡した。近年、折り鶴問題といって千羽鶴を捧げてもゴミが増えるだけということが懸念事項だった。だが折り鶴はリサイクルされることになり、折ってある状態のものを元に戻して再生紙とすることになった。小中学校の卒業証書はこの千羽鶴リサイクルペーパーが使われている。またボールペンの軸にするなどお土産屋ではこの再生紙を利用した商品が手に入る。


原爆供養塔
丸山の中に遺骨が入っている。納骨堂。誰だか分からない遺骨を保存している。どの宗教でも供養する。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑
朝鮮民族関係者の死没者を祀る碑。戦時中、広島には朝鮮民族が10万ほどおりそのうち2~3万死んだとされている。朝鮮では死後亀が迎えにくるというので亀の形をしている。

レストハウス(燃料配給所)
戦前は大正呉服店だったが戦時中に燃料配給所となる。8月6日原爆投下時、野村英三さんのみ地下にいたので生き残る。朝会の後、書類を取りに行くため地下に行って無事。地下のコンクリートを見学することができる。3階はこの世界の片隅にの聖地巡礼スポットとなっており映像が流れている。中島地区の成り立ちと歴史が紹介されている。被爆ピアノもある。



