【レポート用メモ】ヘリテージツーリズム×ピースツーリズム(2)~広島市中心部平和学習関連施設~

平和記念公園原爆ドームと平和記念資料館を見た後、そこから徒歩で行ける平和学習関連施設のまとめ。平和記念公園を見てそれで終わりではなく、さらに平和学習を進めたい人々向け。広島市は平和記念都市建設法により復興を果たしたので、資料館や被爆建物の展示パネルなどが市中に整備されているので、それを回っても良いかもしれない。

【目次】

本川小学校平和資料館

  • 「爆心地に最も近い学校」
    • 原爆ドームから相生橋を渡って向こう側にある小学校に付属する資料館。学校の敷地内にあるので門でチャイムを鳴らして入る。キャッチフレーズとしては「爆心地に最も近い学校」。10名の教職員と約400名の子どもたちが死亡した。資料館は原爆の被害を受けた状態をそのまま利用している被爆建物である。この建物は1928年に建てられた初めての鉄筋コンクリート3階建ての校舎であった。本川には未だ原爆の遺物が沈んでおり、本川小学校の児童がその引き上げ作業を行っている。近年では産業奨励館のバルコニーの一部が引き上げられており、それらが展示されていた。また校庭には被爆時の遺物が埋まっており深く掘り返すと熱線で変形した当時の物品が出て来る。これらも資料として展示されていた。地下には原爆投下直後の本川小学校周辺のジオラマがある。

  • 生き残った唯一の児童
    • 本川小学校でクローズアップされているのは唯一人生き残った故・居森清子さん(正確にはもう一人清子さんの友人が生き残ったが父親に引き取られた後に死亡した)。清子さんとその友人はたまたま靴脱ぎ場におり原爆の被害から逃れることができた。熱風と火災から逃れるために二人は本川に潜り耐えきった。その後上述した通り清子さんは和子さんと別れるが、そのまま永遠の別れとなる。清子さんは進学も出来ず後遺症を抱えながら中卒で働き、結婚。82歳で亡くなるまで伝承活動に従事した。唯一人生き残った負い目を平和を伝えるために生かされていると読み替えて奮闘していた言説が印象的であった。

  • 不可思議な予言?女性教員の指輪
    • 当時本川小学校に勤めていた沖本さんは娘に「今日は爆弾が落ちるから早く帰るわ……」との言葉を残して出勤したらしい。この時点で結構ホラーであり、この展示の解説を読んでいる時、なんか首筋がゾクゾクと来た。しかも沖本さんは原爆投下後、行方不明となる。そんな沖本さんの遺品である指輪が26年後に似島で見つかった。確かに当時被爆者は検疫所があった似島に運ばれて行ったので可能性としては十分ありえる話なのだが、出勤前の台詞を考慮するとすごく意味深に思えてしまう。SF的展開だと未来予知だったり、ループしておりn周目だったりとか色々考えてしまう。「今日は爆弾が落ちるから早く帰るわ……」。なぜこのような台詞を残したのか謎は深まるばかりである。
本川小学校平和資料館
本川から引き上げられた原爆ドームの一部と校庭に埋まっていた遺物

袋町小学校平和資料館

  • 伝言の内壁で有名な袋町小学校
    • 本川小学校と同様に平和資料館が設置されている小学校。本川小の資料館が敷地内から入るのに対し、袋町小の資料館は入口が道路に面しており小学校からは独立している。袋町小学校でクローズアップされているのがチョークで書かれた伝言。1945年10月の文部省の学術調査団がこの伝言を写真として記録していたが、焼け残った鉄筋の校舎は戦後再利用され伝言も漆喰で塗り直されてしまった。1999年漆喰を剥がしたらその伝言が見つかり平和資料として整備・展示されることとなった。

  • 地下に靴脱ぎ場があり助かった児童
    • 本川小学校の生き残り児童が実名で伝承をしているのに対し、袋町小の場合は2名の証言が匿名で残っている。当時3年生以上は集団疎開していたが、1、2年生は木造校舎の解体作業に従事していた。だから8月6日も普通に学校があった。この時、素足であったので地下の靴脱ぎ場に取りに行っている間に被爆した。防火用水の水を被って逃げ延びたとのこと。

  • 救護所としての袋町小学校
    • 袋町小学校は原爆投下翌日から救護所として救護活動の拠点となった。その際、語られるのがジュノー博士の貢献。赤十字国際員会の報告を受けたジュノー博士はGHQと交渉し医薬品を贈った。後、ジュノー博士は袋町小学校を訪れ医療活動に従事したとも伝えられている。
袋町小学校平和資料館
著明な伝言板

広島市役所旧庁舎資料展示室

  • 原爆投下後に市役所が果たした役割
    • 広島市役所旧庁舎は昭和3年に竣工し当時としては全国諸都市の中でも随一と呼ばれる程の近代的な庁舎であった。原爆によって鉄筋コンクリートの外郭と数室を残して全焼。死傷者が続出する中、行政機構は停滞するが、生き残った職員が緊急措置に対応することとなった。その中でも重要だったのが、罹災証明書の発行。給付金や見舞金を受け取るためには罹災証明書が必要であったことからこの発行作業をしなければならなかった。

  • 繁華街であった中島地区を平和記念公園
    • 戦後財政難に苦しむ広島市が復興のために地方特別法を制定させようとしたことはよく知られている。それが平和記念都市建設法である。平和記念資料館の南、本川から元安川京橋川へと貫く平和大通りがあるが、この大通りも建設法に基づくものであり供木運動が実施され整備された。またかつて繁華街であった中島地区が平和記念公園として整備されたが立ち退き前で家が残存する写真が印象的であった。
広島市役所旧庁舎資料展示室

世界平和記念聖堂

  • 在日外国人と原爆
    • 世界平和記念聖堂はカトリック幟町教会の聖堂。建設の指揮を執ったのは当時の主任司祭であったフーゴ・ラサール神父。追悼と慰霊、全ての国の人々の友情の平和のシンボルとしようとした。現在では重要文化財となっているが解説などは少ない。1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世が広島を訪れて平和アピールと祈りを捧げたため、その銅像が建っている。個人的には当時の新聞スクラップが気になったのだが、別の利用者がおり閲覧できず残念であった。当然欧米人の被爆者もいたわけで、彼らがどうだったのか。
世界平和記念聖堂