広島港から船で20分、似島(広島市南区)へと渡ることができる。
ここはかつて軍の検疫所が置かれていた「軍の島」であり、戦争遺構が数多く残っている。
今回は検疫所に関する戦争遺構を回ってきたので、案内板やパンフレットなどをメモしておくこととする。
【目次】
似島と戦争
広島市南区似島には、戦争にまつわる遺構が数多く点在している。日清戦争の終戦直後の1895年には現在の似島学園の位置に第一検疫所が、日露戦争中の1905年には元少年自然の家の位置に第二検疫所が、第二次世界停戦中の1940年には馬匹検疫所が建設された。
検疫所は戦地から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行う施設で、終戦まで検疫の仕事が続けられた。原爆投下後は多くの被災者が運び込まれて臨時野戦病院となる。原爆投下直後から20日間に約1万人の負傷者が運び込まれ、その殆どが死亡し、火葬が間に合わなかったので、多くは土中に埋葬された。1947年の発掘では1500体、以降4回の発掘で2602体、遺灰100人分、多くの遺品が大量に発掘された。


似島の略年表
1895年4月 日清戦争終結
1895年6月 陸軍検疫所(第一検疫所)を設置(現似島学園)
1904年2月 日露戦争宣戦布告
1904年10月 第二陸軍検疫所を設置(現少年自然の家)
1905年1月 捕虜収容所を設置、ロシア兵2891名収容(現似島学園)
1914年7月 第一次世界大戦、第五師団青島出兵
1917年2月 ドイツ軍捕虜545名を収容
1919年 陸軍弾薬庫を設置(現似島学園)
1940年 陸軍馬匹検疫所設置(現似島小・中学校)


第一検疫所関連
第一検疫所跡(現似島学園)
1895年6月1日開設。第一検疫所の建設は地元住民の土地を強制買収し、通常なら3年かかると言われていた工事を、地元の人々を「徴用」でかり出し、わずか2ヶ月で完成させた。戦後の昭和21年、似島学園が戦災孤児・原爆孤児の施設として開設された。また周辺には桟橋が残っている。日露戦争時に戦地から帰還する兵士等の検疫・消毒を行うため、未消毒の兵士を上陸させた桟橋と、無事に検疫を終えた兵士等が帰途につくために乗船する船の消毒桟橋跡が見られる。

第一検疫所焼却炉煙突
1895年建造。検疫所の汚物を焼却した赤レンガ煙突。火葬場は別場所に存在していた。

第二検疫所関連
第二検疫所跡(現似島臨海少年自然の家)
1904年10月設置。第二検疫所の土地は、もともとは島の人々の食料を補給する畑であったが半強制的に取り上げ検疫所を建てた。戦地から帰還する何十万の兵士が国内へコレラを持ち込まないようにする役割があった。また被爆当時は救護・野戦病院として機能した。第一次大戦時の1917年2月から1920年4月までの間、検疫所の山側半分の区域をドイツ俘虜収容所として使用した。

バウムクーヘン伝説
第二検疫所は第一次大戦時にドイツ軍の俘虜収容所となった。その中にマイスターの資格を持つ菓子職人カール・ユーハイムがおり、市内の物産陳列館(現原爆ドーム)でドイツ人俘虜による展示即売会が開催された際、バウムクーヘンを販売した。これが日本におけるバウムクーヘンの始まりとする説がある。
