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- 共通テストに見る歴史教育を通して育成する能力の変容
- 令和時代の歴史教育では読解力リテラシーと知識活用能力の育成が明確に求められている。大学入試が変わらなければ歴史学習は変わらないと批判され続けてきたので、共通テストは明確に出題傾向を変え、資料読解をメインとするものに舵を切った。
- それでも2022年の共通テスト世界史Bは資料読解を装った純粋国語の問題、即ち文章を読みさえすれば解けてしまうものが多いことが指摘されていた。それを踏まえてか2023年の世界史Bは純粋国語の問題は少なくなり、読解力リテラシーに歴史知識を加えて解く問題が増加した。複数の資料をたくさん瞬時に読みこなし、比較参照して、そこから客観的な判断を下すことが求められるようになったのだ。
- 90年代以前の日本では大量の情報をインプットし、求められる出題に応じて知識が出せれば良かった。それ故、『詳説世界史』を聖典とし山川用語集を全て覚え、出題パターンを分析するというのが一般的な歴史学習であった。だが今ではもうそれが成り立たなくなったのである。
- 複数資料の比較参照
- 現在は同じ歴史事象であっても、様々な語られ方をすることを当然のものとする必要がある。複数の資料を読み解き、何が問題の焦点となっていて、著述者はどのような立場で、どのような意図をもって、どんなことを伝えるためにその資料を書いたのかを分析できなければならない。
- 歴史知識って必要ないの?いいえ、必要です。
- 歴史知識というのはそういった資料を読み解くためのツールとしての役割を果たすことになる。だがそれは知識軽視にはならない。今までは知識は知っているだけで良くそれだけで評価された。だがその知識を使って考えることが求められているのだ。知識が無ければ考える前提にすら辿り着けず、資料を読み解くところにもいけない。
- じゃあ、結局どういう勉強すればいいの?
【設問一覧】
第1問 女性史
A 婦人参政権
問1【1】ロシア史
- 正文判定
- ①【誤】ピョートル1世が北方戦争で破ったのはイギリスではなくスウェーデン王カール12世。これによりバルト海の覇者となった。
- ②【誤】プロイセンとの戦いでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方を失ったのはロシアではなくオーストリア(普墺戦争)。
- ③【誤】ピウスツキはロシアではなくポーランド。第一次世界大戦後、ポーランドは1920年にウクライナに侵入してソヴィエト政府と戦争を起こして領土を拡大したが、国内の議会政治は早くから混乱し1926年に独立運動の指導者ピウスツキがクーデタで実権を握った。
- ④【正】ブラジル、ロシア、インド、チャイナでBRICs、2011年にサウスアフリカが入り、BRICSとなった。
問2【2】第一次世界大戦
- 正文判定③
- ①【誤】WWⅠでオスマン帝国は協商国(連合国)ではなく同盟国側。オスマン帝国は第一次バルカン戦争の敗北以後、ドイツに接近していた。
- ②【誤】フランスがドイツの進撃を阻んだのはマルヌの戦い。これによりシュリーフェンプランが挫折した。タンネンベルクの戦いは独将軍ヒンデンブルがロシアに圧勝した。
- ③【正】WWⅠにおいてイギリスは大量のインド軍兵士を前線に送った。そのため1917年インド相モンタギューは戦争協力を条件に自治を約束した。だが戦後、1919年のインド統治法は自治とはほど遠い内容であり、ローラット法が制定されたこともあり、アムリットサル事件が勃発し、反英闘争が激化していくことになる。
- ④【誤】レーニンが発表したのは「平和に関する布告」で全交戦国に無併合・無償金・民族自決の原則による講和を呼びかけた。「十四ヶ条の平和原則」は米大統領ウィルソンが「平和に関する布告」に対抗して出したもの。
問3【3】NZ,イギリス、アメリカにおける婦人参政権
- 正文判定②(渡部のみ正しい)
- 室井【誤】ニュージーランドが自治領になったのは1907年。本文中にニュージーランドの婦人参政権は1893年と記述されているので誤りと分かる。五大自治領の成立は良く出題されるので覚えておいた方が良い。カナダ(1867)、オーストラリア(1901)、ニュージーランド(1907)、ニューファンドランド(1907)、南アフリカ(1910)。
- 渡部【正】戦争と社会契約。第一次世界大戦ではこれまでの社会で下位的存在であった労働者、植民地、女性が戦争に動員されたことにより、社会的地位を向上させた。イギリスでは1918年に第4回選挙法改正が行われ、ロイド=ジョージ(自由党)が21歳以上の男性と30歳以上の女性に選挙権を付与した。
- 佐藤【誤】アメリカでは1920年に男女平等選挙権(婦人参政権の承認) が実現した。公民権運動はケネディ政権下の1960年代前半に行われた黒人への差別撤廃を求める運動。キング牧師らがワシントン大行進を行った。その結果、次のジョンソン政権が1964年に「偉大な社会」を掲げて黒人差別を禁止する公民権法を制定した。
B 前近代中国における女性観
問4【4】平城に都が置かれていた時代
問5【5】則天武后と唐代における北方の状況
- 文挿入①
- ①【正】唐の建国者は高祖(李淵)。北周・隋と同じ拓跋部出身であり東突厥の支援のもと長安に入り618年唐を建国した。
- ②【誤】科挙は北方民族の官吏登用制度ではない。科挙の創始は隋の文帝(楊堅)。九品中正制を廃止し科挙を創始したことで、政治の担い手が貴族から科挙官僚に移った。
- ③【誤】則天武后は隋ではなく唐代の人物であるし、江南は長江の下流域であり北方ではない。隋の大運河は、江南の経済地帯と北方の政治・軍事の中心地を結んだ水路。文帝・煬帝の2代にわたって建設に励むが、工事の負担は隋の滅亡を早めた。
- ④【誤】則天武后は北魏ではなく唐代の人物。北魏の第六代皇帝である孝文帝は平城から洛陽に遷都し漢化政策を推進した。
第2問 世界史における君主の地位の継承
A フランス王家
問1【7】ヴァロワ朝からブルボン朝へ【純粋国語】
- 純粋国語②
- ①【誤】右ではなく左。本文の小林の1つ目の台詞で左の図柄がクレシーの戦いの図版で見たことがあると述べられている。
- ②【正】本文の先生の2つ目の台詞において左の図柄(ユリの図柄)はアンリ4世が以前の王朝と繋がっていることを明確に表しているとある。家系図を見るとアンリ4世はルイ9世と繋がっている。ルイ9世はカペー朝の王である。したがって左の図柄はアンリ4世がカペー朝とつながりがあることを示している。
- ③【誤】左の図柄はカペー朝とのつながりであることは上記で述べた。右の図柄はアンリ4世の母方の家系のものとある。家系図を見ると母方はナバラ王家でありイングランド王家ではない。よってイングランド王家との結合とは考えられない。
- ④【誤】家系図を見るとジャンヌ=ダルブレ(1572年までナバラ女王)とあるので、ナバラ家は母方から継承したものだと分かる。
問2【8】プロテスタント
- 正文判定①
- ①【正】サン=バルテルミの虐殺とはカトリーヌ=ド=メディシスによるユグノーの虐殺。新旧両派の和解としてユグノーのナヴァル王アンリがシャルル9世のイモウトと結婚したが、ユグノーの台頭を恐れた王母カトリーヌ=ド=メディシスは祝福のためにパリに集まったユグノーを不意打ちし、3000人余りを虐殺した。シャルル9世は良心の呵責に苛まれて精神崩壊し2年後に死亡した。
- ②【誤】ドイツ農民戦争の指導者はツヴィングリでなくトマス=ミュンツァー。ツヴィングリは「万人司祭説」を主張し、チューリヒで宗教改革を進めた。
- ③【誤】首長法はヘンリ7世ではなくヘンリ8世。イギリス国王を「国教会の最高の首長」と定めた。イングランド教会はカトリックから分離独立し、イギリス国王に従属することになった。ヘンリ7世はテューダー朝の創始者。
- ④【誤】イエズス会はカトリックでありプロテスタントではない。イグナティウス=ロヨラはイエズス会の創始者。スペイン貴族出身の軍人であり負傷した際に回心する。
B ファーティマ朝カリフ
問4【10】イベリア半島史【空欄補充前提】
- 空欄補充+正文判定③
- 空欄補充:10世紀のウマイヤ家なので半島はイベリア半島と分かる。
- ①【誤】ルーム=セルジューク朝は小アジア(アナトリア半島)。セルジューク朝の本家から分離し、1077年に成立した地方政権である。
- ②【誤】イベリア半島最後の王朝となったのはグラナダ王国(ナスル朝)。ムラービト朝はイベリア半島に侵攻して半島南部のアンダルシア地方を奪った。
- ③【正】ベルベル人のムワッヒド朝はムラービト朝を倒し再び半島南部のアンダルシア地方を支配下に入れた。
- ④【誤】ワッハーブ王国はイベリア半島ではなくアラビア半島。ムハンマド=ブン=アブドゥル=ワッハーブが中央アラビアの豪族 サウード家と連携してアラビア半島の大半を支配下におさめる(都;リヤド)。だがオスマン帝国の命をうけたエジプトのムハンマド=アリーに壊滅させられた(のち復活)。
問5【11】カリフ
- 正文判定①
- ①【正】正統カリフはアブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの順番。アブー=バクルはムハンマドの腹心であり後に義父(アイーシャの父)。ヒジュラにも同行した。ムハンマドの死後は後継者に選出され「カリフ」を称し、離反したアラビア半島諸部族を征服、イスラーム共同体の統一を成し遂げた。
- ②【誤】カリフ制の廃止はアブデュルハミト2世ではなく、トルコ共和国のケマルの政策。ケマルは1924年、宗教的権威の保持者であるカリフを廃止し、国家制度の世俗化を行った。アブデュルハミト2世は露土戦争を口実にミドハト憲法を停止し、皇帝専制政治を復活した。
- ③【誤】ブワイフ朝はカリフとして権力を握ったのではなく大アミールと称した。ブワイフ朝はイラン系のブワイフ家が建てたシーア派系12イマーム派の王朝。946年にバグダードに侵入し、大アミールと称してアッバース朝カリフを傀儡化した。
- ④【誤】アッバース家のカリフを擁立したのではなく、サファヴィー朝ではなくマムルーク朝。フビライの弟のフラグが1258年にバクダードを攻略し、アッバース朝を滅ぼすと、アッバース家はマムルーク朝に招かれカイロで形だけのカリフとなった。サファヴィー朝は、神秘主義教団の指導者イスマーイール1世がトルコ系遊牧騎馬軍団キジルバシュの支持を得て開く。後、神秘主義教団からの脱却が図られ、12イマーム派がイランの支配的宗教となる。
問6【12】ファーティマ朝
- 正文判定④
- ①【誤】ファーティマ朝(909~1171)はアッバース朝(750~1258)より以前に成立していない。ファーティマ朝は、シーア派の分派イスマーイール派がチュニジアに建国。当初からアッバース朝に対抗してカリフを称した。969年にはエジプトを攻略してカイロを建設。12世紀後半にアイユーブ朝のサラディンに滅ぼされた。
- ②【誤】上記①参照。ファーティマ朝はスンナ派の一派ではなく、シーア派の分派イスマーイール派が建てた。
- ③【誤】国語の問題。資料2は「無能力によってカリフの資格が無いと判断している」のではなく、ファーティマ朝カリフがアリーの子孫であることを否定することは「無能力を取り繕うのに好都合だった」と述べている。
- ④【正】上記①の通りファーティマ朝は当初からアッバース朝に対抗してカリフと称した。また資料2はアッバース朝カリフが地方総督へ送った手紙を取り上げ、そこでファーティマ朝カリフの系譜がアリーの子孫であると証明していることを紹介している。
第3問 世界史に対する疑問や議論
A フランス革命
問1【13】ブルボン朝復古王政 ルイ18世(位1814~24)
- 正文判定④
- ①【誤】アルジェリア出兵を行ったのはシャルル10世(位1824~30)。国民の不満を海外へそらすために、出兵した。
- ②【誤】恐怖政治を敷いたのはロベスピエール。国民公会の時、1794年3月エベール・ダントンが処刑されロベスピエールの恐怖政治が始まったが、1794年7月テルミドール9日のクーデタでロベスピエールは処刑された。
- ③【誤】ヴァレンヌ逃亡事件はルイ16世。国民議会の時、1791年4月宮廷と議会の調停をしていた穏健貴族ミラボーが死亡すると、6月にヴァレンヌ逃亡事件が発生。革命の急進化に怯えマリーアントワネットの母国オーストリアに逃亡するが失敗。
- ④【正】ウィーン会議で仏代表タレーランにより正統主義が提唱され、フランス革命以前の主権と領土を正統とした。このためブルボン家が復活してルイ18世が即位した。
B 科挙
問3【15】朱子学【空欄補充前提】
- 空欄補充+正文判定③
- 【ウ】は宋代の新しい学問なので朱子学
- ①【誤】科挙が創設されたのは宋ではなく隋。宋の科挙は太祖趙匡胤の時に殿試が追加された。殿試は皇帝自ら試験官となり宮中でおこなう最終試験であり科挙官僚に忠誠を誓わせた。
- ②【誤】金の支配下で儒教・仏教・道教の三教の調和を唱えたのは王重陽が始めた全真教。
- ③【正】南宋の首都は臨安。朱熹が宋学を大成した。学問方法としては格物致知を取り、大義名分論を実践した。経典は四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)を重視。
- ④【誤】王守仁(王陽明)は陽明学。朱子学の客観的な性即理に対して、主観的な心即理の立場をとり、前者が理論に始終しがちなのに対して、その実践をあわせて主張した。
問4【16】17世紀明末における書院を拠点とした争い
- 空欄補充④
- ①【誤】黄巾の乱は後漢末期。184年太平道の張角が黄巾の乱を起こす。前220年、曹操の子;曹丕により後漢は滅亡、三国時代へ突入した。
- ②【誤】岳飛と秦檜の対立は南宋。岳飛は宋の再建をめざし高宗に仕え淮河を境に金を凌ぎ、主戦派の中心として活動するが敗れる。秦檜は和平派の中心として活動、1142年に紹興の和議を成立させたが、南宋が臣下の礼をとらざるをえなかったので激しく非難され、売国奴とされた。
- ③【誤】土木の変は1449年なので15世紀。正統帝が親征を行うがオイラトの指導者エセン=ハンに敗れ土木堡で捕虜となる。明軍は壊滅したが、正統帝は無条件で解放された。
- ④【正】万暦帝の時代(位1572~1620)、東林党(顧憲成が開いた東林書院出身の正義派)と非東林党(宦官に買収された官僚)が政争で対立した。
問5【17】人材登用制度【資料読み取り+歴史知識】
- 正文組み合わせ①
- 中国における科挙以前の人材登用制度
- 朝鮮・日本での人材登用制度
C 中国文化史
問6【18】明・清文化史
問7【19】漢・唐文化史【純粋国語】
第4問 資料
A 貨幣
問2【22】ウマイヤ朝史【資料読み取り+歴史知識】
- 資料読み取り+正文判定②
- 佐々木【正】:純粋国語。一番下の先生の台詞参照。ウマイヤ朝は各地の言語を行政に用いることを認めていたが、行政を用いる言語をアラビア語に変更するなどの統治政策が行われるようになった。
- 鈴木【正】:資料読み取り+歴史知識。上から4番目の台詞(佐々木の一番初めの台詞)参照。貨幣2にはアラビア語の銘文が刻まれ十字架が改変されていることが書かれている。設問の鈴木のメモを読むとコーランの言語で刻まれた銘文とあるので、コーランがアラビア語で書かれていることが分かれば正文だと判定できる。
- 広田【誤】:歴史知識。ヴァンダル王国を滅ぼしたユスティニアヌスは6世紀のビザンツ皇帝。ソリドゥス金貨を発行開始はローマ帝国のコンスタンティヌス帝。
B 古代ギリシア
問3【23】ギリシア・ローマ史
- 資料読み取り+空欄補充⑤
- 空欄【ア】:上から2番目の台詞において資料1、資料2の著者は共に五賢帝の時代(1世紀末から2世紀後期)に活躍したとある。上から4番目の台詞にはヘラクレイデスはアリストテレス(前384年~前322年)の下で学んでいたとある。マラトンの戦いは紀元前490年。よってマラトンの戦いにより近い時代に生きていたのは資料1、2の著者たちよりもヘラクレイデス。
- 空欄【イ】:「マラトンの戦いに時代が近い人物が信頼できるとしたら」という仮定に答えればよい。上記空欄【ア】で資料1、資料2の著者よりもヘラクレイデスの方がマラトンの戦いにより近い時代に生きていたことが明らかになっているの。そのためヘラクレイデスの証言が信頼できることになり、ヘラクレイデスは使者の名前をテルシッポスとしているので、答えはテルシッポスとなる。
問4【24】ペルシャ戦争【空欄補充前提】
- 空欄補充+正文判定①
- 空欄【ウ】についてはマラトンの戦いを含む戦争とあるので、ペルシャ戦争だと分かる。
- ①【正】ペルシャ戦争のきっかけはイオニア地方のギリシア人反乱。アケメネス朝ペルシアが小アジアのイオニア地方を征服・支配したが、アケメネス朝の圧力にミレトスなどのギリシア人植民市が反乱。アテネは反乱都市を援助したことからアケメネス朝のダレイオス1世が遠征を開始した。
- ②【誤】ペルシャ戦争はアケメネス朝ペルシャ。突厥と組んでエフタルを滅ぼしたのはササン朝ペルシャ。
- ③【誤】ペルシャ戦争後にアテネを盟主として組まれたのはデロス同盟。コリントス同盟(ヘラス同盟)は、マケドニアのフィリッポス2世がカイロネイアの戦いの後の前337年に結成したスパルタを除くギリシア諸ポリスの同盟。マケドニアはその盟主となりギリシアを支配下に置いた。
- ④【誤】ギリシア連合軍は、プラタイアイの戦い(前479)で、ペルシア陸軍を撃破した。これによりペルシャ戦争におけるギリシアの勝利が確定した。
問5【25】ギリシア・ローマ文化史【資料読み取り+歴史知識】
C 中世ヨーロッパ史
問6【26】アングロサクソンジュート族【資料読み取り+資料解釈】
問8【28】キリスト教の社会的影響
- 正文判定②
- ①【誤】クローヴィスの改宗は対ノルマン人ではなく対ローマ人対策。クローヴィスの改宗によりガリア各地で司教として地域社会を支配していたローマ人貴族層の支持を取り付けることができた。
- ②【正】ジョン=ボールはワット=タイラーの乱の思想的指導者。名言「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が領主であったか」
- ③【誤】統一法はテューダー朝のエリザベス1世。イギリス国教会の祈禱や礼拝の統一はかる。メアリ1世時のカトリック復帰による混乱をおさめ、国教会が確立した。コンスタンティヌス帝はキリスト教を統治に利用するためミラノ勅令で公認し、ニケーア公会議で教義を統一。
- ④【誤】第1回十字軍はウルバヌス2世が提唱。ボニファティウス8世は聖職課税問題において仏王フィリップ4世にアナーニ事件で屈服。教皇庁はローマから南フランスのアヴィニョンに移転した。
第5問 歴史統計
A 近現代東南アジア史
問1【29】イギリス外交史
- 一問一答(マラヤの宗主国→イギリス)+正文判定①
- ①【正】シンガポールは英領となり東南アジアにおける交通の拠点となった。18世紀末~19世紀初めにペナン・マラッカ・シンガポールをイギリスが獲得しジャワを占領。1824年の英蘭協約でナポレオン戦争後の東南アジアの勢力範囲を確定。マラッカ海峡を境界として、北側のマレー半島がイギリスの勢力圏、南側のジャワ島・スマトラ島などがオランダの勢力圏となった。
- ②【誤】イギリス東インド会社の貿易独占権廃止は19世紀後半ではなく19世紀前半。1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、1833年に東インド会社の中国貿易独占権廃止された。これにより東インド会社の商況活動全面禁止が決定した(翌34年実施)。
- ③【誤】公行の廃止はアヘン戦争後の南京条約。北京議定書は義和団の乱。
- ④【誤】オタワ会議ではスターリング=ブロックを廃止したのではなく結成した。
問2【30】アメリカ史
問3【31】1929年当時の東南アジア各地の経済と貿易
- 正文判定
- ①【誤】4地域の対宗主国向けの輸出額の割合の数字を読み取ると以下の通り。インドネシア→オランダ(21.0)、マラヤ→イギリス(14.3)、フィリピン→アメリカ(75.7)、インドシナ→フランス(22.1)。よって一番低いのはマラヤ→イギリスであり、インドネシア→オランダではない。
- ②【正】インドシナの輸出上位地域を見ると第3位にマラヤが入っているため上位5地域に入っていることが分かる。イギリスは1895年にマレー連合州を結成。マレー半島を保護領化して組織した。20世紀にはインドから大量の移民(印僑)を導入し、広大な未開地をゴム・プランテーションとして開発。
- ③【誤】強制栽培制度はフィリピンではなくインドネシアでオランダにより行われた。
- ④【誤】インドシナの輸出額最大の地域は香港でありその宗主国はイギリスであって、インドシナと同じ宗主国(フランス)ではない。
B 産業革命
問4【32】イングランドの都市人口と農村人口の変化
- 図表読解①
- ①表1の都市人口比率は増加している。農業革命で第二次囲い込みが行われた。新農法とはノーフォーク農法のこと。18世紀前半にイギリス東部のノーフォークで開発された輪作農法であり、農地を四区画に分け、1年ごとに大麦・クローヴァー・小麦・カブの順で植え、4年1巡の四輪作制をとる。従来の三圃制で生まれてしまった休耕地を無くしたところが革新的。
- ②表1の都市人口比率は増加している。減少していないので不適。
- ③表2の農村農業人口100人当たりの総人口は上昇しているため図表読解は正しいが、農業調整法は20世紀アメリカのフランクリン=ルーズベルトによるニューディール政策なので不適。
- ④表2の農村農業人口100人当たりの総人口は上昇している。減少していないので不適。
問6【34】世界初の産業革命が起こった国はイギリス
- 正文判定②
- ①【誤】綿製品、茶、アヘンは大西洋三角貿易ではなくアジア三角貿易。大西洋三角貿易は武器と黒人奴隷と砂糖。
- ②【正】ダービー父子はコークスを開発した。コークスは、石炭を燃料としては良質な鉄を生み出すことができなかったため、ダービー父子により開発された石炭加工燃料。石炭を空気と遮断した状態で燃焼させて、硫黄・コールタールなど不純物を除くことで高温燃焼を可能とした。コークスによる鋼鉄製造で鉄の生産量が急増し、鉄製機械が普及することになる。
- ③【誤】選挙権拡大運動はラダイト運動ではなくチャーティスト運動。1832年の第1回選挙法改正では労働者に選挙権が与えられなかったため、都市労働者たちが人民憲章を掲げて政治闘争を改正。フランス二月革命の影響を受けて1848年には最高潮の盛り上がりを見せたが、請願は拒否され、停滞した。
- ④【誤】1833年の工場法は環境問題ではなく児童労働が制限された。