【ノート】群馬県立歴史博物館 第110回企画展講演会(4)「日本開国と群馬の生糸-鉄道・蒸気船・電信-」

講演会でメモしてきた断片をノートに整理しておく。

  • 講義概要
    • 現在行われている企画展「日本開国と群馬の生糸-鉄道・蒸気船・電信-」の展示担当者による解説。生糸生産と生糸輸出がもたらした歴史的意義について、①開国、②ペリー、③生糸貿易、④蚕糸業、⑤絹の道の5つの観点から論証する。結論としては、世界遺産の価値について絹の大衆化というグローバルヒストリーが挙げられた。また日本の近代化への貢献という点については、生糸の道などを丹念に見ていく必要があるという今後の課題が示された。

【目次】

群馬県立歴史博物館 第110回企画展講演会(4)「日本開国と群馬の生糸-鉄道・蒸気船・電信-」

1.開国-横浜開港

  • 横浜開港問題
    • ハリスは当初品川湊の開港を要求したが幕府は神奈川にさせる。だが結局開港したのは神奈川宿ではなく横浜村。
    • 孝明天皇ら攘夷派による横浜鎖港要求の圧力、生麦事件などにより横浜開港も問題があった。
  • 神奈川か横浜か
    • 神奈川を開港するといったのに横浜を開港したので矛盾が生じるため、後に横浜を内包する神奈川県を作った。

2.ペリーがもたらしたもの

  • ペリー提督持参品の荷揚げ風景
    • 蒸気機関車(ミニチュアのようなもの)講演者曰く、昔デパートの屋上にあったようなもの
    • 電信実験:電信機の他、電信、電池持参
  • 群馬の生糸との関係
    • 開国とペリーのもたらしたものが生糸貿易に繋がっていく。

3.生糸貿易の始まり

  • 安政6年(1859)6月2日 横浜開港
  • 誰が初めて生糸を輸出したのか
    • 日本蚕糸業史1巻では10の諸説。芝屋、中井屋など…
      • 中井屋は2月の段階ですでに上田藩の生糸を集める準備をし、10月上旬の段階で、中井屋は横浜から輸出された生糸の約50%を扱ったと書かれている資料もある(西川論考)
    • 商人たちは生糸貿易に商機を見ていく
  • 幕末から明治期の主要な生糸売込商(群馬)
    • 幕末
      • 中井屋重兵衛(嬬恋)
    • 明治
      • 吉村屋幸兵衛(大間々)…1836-1907。大間々に生まれ、新川村(桐生市)の本家で糸繭商などの商売を学ぶ。横浜開港後は桐生の絹織物買継商などからの資金融通を受け上州や奥州の輸出生糸販売を手掛け、前橋藩の藩専売売込商の一人にもなり、多量の生糸販売に伴う手数料収入で財をなした。店は弁天通り(横浜市中区弁天通)に構えた。明治3年(1870)には伊藤博文らと米国の金融制度調査に赴く。
      • 茂木惣兵衛(高崎)…1827-1894。横浜開港後、横浜の生糸商野澤屋に入り、のれんを引き継ぐ。金融業としても活躍し、慶応3年(1867)横浜荷物為替組合の筆頭、明治2年には横浜為替会社頭取となる。その後横浜の第二国立銀行設立にも関わり、明治8年群馬県下の銀行としてはじめて第二国立銀行高崎支店をつくった。さらに、明治11年には第七十四国立銀行の設立に携わりのち頭取となる。第七十四国立銀行を機関銀行として、生糸商として最大の取扱高を誇っていく。

4.蚕糸業の発展

  • 電信の使用
    • 横浜の生糸価格は乱高下が激しかったため商人たちは新技術の電信を使用
  • 外国商人の求めるものは?
    • 日本の生糸は粗製乱造、市況調査を実施、売れるものは何か
  • 南三社
    • 群馬の生糸生産は主に組合製糸
    • 富岡製糸場がある一方で座繰製糸。養蚕農家が生糸まで作る。
    • 改良座繰組合。農家の生糸をあげ返し均質な生糸を作る。

5.生糸の道

  • 舟運
    • 利根川河岸
      • 江戸時代初期の利根川舟運では江戸への輸送物は年貢米などをはじめ麻・紙・煙草などで、江戸から上州に戻る際には塩や綿、肥料などが送られた。この舟運を差配したのが河岸問屋。
    • 倉賀野河岸
      • 利根川水系最上流部の河岸として発展。河岸の船積問屋は時期により異なるが江戸中期は10軒ほどで推移。天明3年(1783)の浅間焼け以降は、利根川水系の水位があがったため、より下流域までしか大型船が入れなくなり、問屋数は減少していく。
  • 鉄道
    • 中山道幹線鉄道(現在の高崎線)
      • 明治初年より東京と京都を結ぶ鉄道敷設が計画される。中山道東海道のどちらを通すかで政府は検討。山間地を通り運輸の便が悪い中山道に鉄道を通した方が隣接地域に効果が高いと結論付けるが財政難により敷設は進まず。
      • 明治14年(1881)、日本で初めての民間の鉄道会社として日本鉄道会社が誕生。第一区線としたのが東京-高崎間で、第1部(東京-川口)、第2部(川口-熊谷)、第3部(熊谷-高崎)と分けて敷設を計画。明治16年7月には上野-熊谷間が開通し営業を始め、次いで翌17年5月に上野-高崎間が開通、6月に開業式。8月には高崎-前橋間が全通(距離で109.2㎞)。明治18年3月に品川線(品川-川口)が開通し、生糸の一大産地上州地方から横浜に直結する輸送網が整う。
    • 生糸による外貨獲得
      • 日本の鉄道網は、明治5年の新橋-横浜間の開通から20年程度で全国に普及。しかし蒸気車やレールに至るまで国内で製造できる段階になかったので、輸入により鉄道網を整備した。輸出生糸の総量は伸び続けており、生糸で外貨を稼ぎ、鉄道網を整備したと言える。
      • 明治22年蚕業試験場での大蔵大臣松方正義の言「日本の軍艦は総て生糸を以て購入するものなれば、軍艦を購求せんと欲せば、多く生糸を産出せんことを謀らざるべし」(北村實彬・野崎稔『農林水産省における蚕糸試験研究の歴史』農業生物資源研究所、2004)
    • 鉄道網の整備と生糸輸出
      • 明治17年(1884)の上野-高崎・前橋間の鉄道敷設を皮切りに明治18年に高崎-横川、明治22年に前橋-小山(両毛線)が開通し、繭・生糸生産の活発な西毛と機業地帯の桐生をつなぐ。
      • 明治30年には高崎-下仁田(上野鉄道)が開通。富岡製糸場と高崎をつなぐ。さらに群馬長野県境の山間地域である下仁田までを繋ぐ。荒船風穴には蚕種冷蔵のために全国から蚕種が送られて来たが、この上野鉄道が利用された。しかし荒船風穴の蚕種貯蔵所は上野鉄道の終点下仁田駅から2人6町(約8.5㎞)もあった。荒船風穴は電信技術により依頼主の出穴指示などに対応した。

おわりに

  • 生糸生産と生糸輸出は何をもたらしたのか
    • 世界遺産の価値
      • グローバルヒストリー、絹の大衆化
    • 日本の近代化への貢献
      • 生糸の道などをさらに丹念に見ていく必要がある。