講座で聞いた内容をノートにとっていたので、整理しておくこととする。
- 講義要旨
- 上杉謙信は関東で戦を行っているが、新潟からどのように山を越えてきたのか。謙信の越山を取り上げて群馬(上野国)と謙信の関りを扱う。
- 謙信は三国峠を越えて越後から上州へやってきた。また、謙信が関東に来るのは主に冬季である。その理由は冬になると北条氏の動きが活発化し、武将たちが謙信に救援を求めるから。室町幕府体制下にある謙信は関東管領・上野国守護の地位にあったからそれに応じなければならなかった。
【目次】
はじめに
- 「越山」とは
- 越後の上杉謙信が三国峠を越えて関東にやって来ること。武田氏の碓氷峠越にも用いることがある。戦国時代の武家文書に頻出する。
1.関東越山の位置
- ①戦国史上の位置
- 越後の上杉氏と相模の北条氏は関東管領と古河公方の地位を巡り天文21年~天正7年まで戦争していた。その際、越後の上杉氏が軍事行動の一環として三国峠を越えて関東にやってきていた。上杉氏と北条氏の争いは甲斐の武田氏、間島東方衆(宇都宮・佐竹・里見氏など)を巻き込み、関東八ヶ国の覇権戦争として展開された。
- ②地理上の位置
- 越後から上州へ至るには三国峠越えと清水峠越えがあるが、謙信が通行したのは三国峠。清水峠は最短ではあるが峻険で富士信仰の山伏たちの修行の道であった。
- ③政治領域上の位置
- マクロ的な領域…日本海から太平洋まで越後・上野・武蔵・相模・伊豆という列島を縦断し、上杉氏の守護任国をつなぐ機能。
- ミクロ的な領域…上田荘の坂戸と沼田領の沼田城をつなぐ機能。三国峠越え道は途中を小川・猿ヶ京・相俣・浅貝・荒砥などの要害、宿でつなぐ。
- ④上杉謙信の生涯における位置
- 上杉謙信は天正17年(1548)に家督を継承してから天正6年(1578)に死去するまでの29年間のうち、26年間を北条との戦争に費やす。
- 天文21年(1552)から天正4年(1576)までの25年間で最大17回越山を実施
- ※特に大越山と呼ばれる永禄3年(1560)の第2回越山から天正4年(1576)までの17年間で最大16回の越山を実施。
- 関東へ行くことは謙信の主要政策課題であった。
2.越山の大義
理由も無いのに困難な越山を続けることは出来ない。謙信は越山の理由をどのように正当化していたのか。
- ①「公方・管領体制」の再構築
- ②守護任国の権益護持
- 上野守護としての大義
- 永禄4年(1561)の第2回越山の時に謙信に従った254名の武将のうち、103名が上野国の武将(関東幕注文)。→永禄12年の越相同盟締結に際し、越相双方が上野国を「上杉本国」とすることが確認され、永禄3年の越山時の国分け状態をあるべき秩序(静謐・惣無事)とすることが確認された。
- ③越後上杉氏の「越山の伝統」 ※謙信が始めたのでは無くて、前々からやっていた
- 越後守護としての大義
- 越後上杉氏は将軍に近い立場で関東の政治・軍事に深く関与している。関東管領家=山内上杉氏は血統的には越後上杉氏によって継承されており、山内上杉氏に危機があるごとに越山し支援する伝統があった。
- 上杉房方の越山
- 応永24年(1417)、上杉禅秀の乱で上杉憲基を支援するため越山
- 上杉房定の越山(2回やってくる)
- 康正元年(1455)、享徳の乱勃発にあたり、上杉房顕(実弟)を支援するため、京都から下向し、武蔵・五十子に幕府本営を構築
- 長享2年(1488)、長享の乱で上杉顕定を支援するため越山
- 上杉房能の越山
3.上杉謙信の越山の特徴-極端な季節性-
北条氏が冬になると騒ぎ出すので、謙信は冬にやって来る。
- A.積雪期型
- 往路・袋のいずれか、あるいは往復路ともに降雪期の三国峠を通行する場合。13回(除:第1回、第2回、第7回、第17回)
- B.長期越冬型
- 往復路ともに非積雪期の三国峠を通行し、積雪期には関東に滞在する。1回(第2回)※いわゆる「大越山」。8月から翌年6月まで。
- C.夏期型
- 三国峠の通行も関東での滞在も降雪期に全くかからない場合。2回(第7回、第17回)。
冬の三国峠越えは、とても大変で危険。なぜ危険なのに行けたのか。
- 第4回越山(永禄5年12月)
- 目的:北条氏康・武田信玄軍に包囲された武蔵・松山城の太田資正の救援
- 経過:12月16日までに越山して沼田城に着陣。翌年の正月に深谷・高山・小幡を攻撃しながら館林を巡り武蔵岩付城に入城。だが交戦する間もなく松山城は開城してしまい救援は失敗に終わる。
- 降雪・積雪の状況
- 「深雪」、「遠境・雪中」、「一苦労」、「駕興をもって」←雪なので馬は使えない。地元スタッフの応援体制があった。
- 第5回越山(永禄6年11月)
- 目的:「兼約の筋目」により、武蔵・岩付城の太田資正を救援し、常陸・小田氏治(←講演者曰く戦国最弱)を屈服させる。
- 経過:11月下旬に越後府内を出馬、12月21日に浅貝(苗場スキー場あたり)に到達、24日までに沼田に着陣。
- 降雪・積雪の状況
- 謙信の言い訳。府内・浅貝間に1か月かかったことを「雪中の時分に候間、中途に時日を送り、越山遅々せしめ候」と里見義堯、冨岡重朝に釈明
- 第10回越山(永禄12年11月)
- 目的:越相同盟に反発し、関東に侵攻した武田信玄の背後を突く。西上野で武田を叩くことが目的だったのだが……
- 経過:北条氏・今川氏から度重なる救援依頼を受け11月にようやく越山。しかし西上野ではなく下野の佐野氏を攻撃し北条方の佐野昌綱を従属させてしまう。北条氏はやむをえずこれを許容した。
- 降雪・積雪の状況
- 深雪・御大儀、雪中をしのぎ、深雪の刻御越山誠御苦労
- 第11回越山(元亀元年10月)
- 目的:越相同盟と並行して、この月に締結した徳川家康との同盟を履行するために、西上野の武田勢を駆逐すること。
- 降雪・積雪の状況
- 謙信は道中に書いた条書の末尾に寒さで花押が書けないから「書状印判にて申し候」と記す。
- 元亀2年正月20日に謙信に越山を要請した北条氏政は、「誠に深雪、馬足相い叶いがたし」と記述している。
- 第13回越山(天正2年1月)
- 目的:北条氏政に包囲された武蔵・羽生城の木戸忠朝・広田直繁兄弟の救援
- 経過:2月5日沼田城着陣、2月23日から赤石・赤堀・善・山上・女淵・五覧田を落としながら進撃。藤阿久に布陣して金山城を攻撃。4月1日過ぎに羽生の利根対岸の大輪(明和町)に布陣。雪融け水で満水の利根川を前に謙信は苛立つ。渡河のため様々な検索をしてきた家臣に対して「佐藤のバカ!」と激高してしまった。救援も失敗する。
- 降雪・積雪の状況
- 雪割隊の存在。起請文を焼いて灰にしたものを溶かした水を重臣たちに飲ませているので遅れても不審に思うなと羽生城の玉井豊前守に対して書いている。
5.終わりに ~謙信はなぜ、危険を冒してまで雪中越山をしたのか?~
- 1.正義に溢れた「義の武将」だから → 講演者は否定
- 2.略奪をして越後の冬をしのぐため → フジキヒサシ氏の戦争論。事実、戦争に行けば必ず乱暴狼藉する。
- 3.天命。そういう星のもと(室町幕府体制に基づく関東管領かつ上野国守護)にあるから → 講演者の説
講座終了後、三国峠に登ってきた
新潟側登山口→御神水→三国権現