標茶町塘路湖周辺レポ

塘路湖にある駅逓所、釧路集治監、標茶町博物館を見学してきたので、備忘録として所感などを記しておくこととする。

駅逓所

塘路駅逓所

近世において蝦夷地に和人が進出したが、それは沿岸部に限ってのことであった。近代に入り、和人たちは内陸部に入植していったが、交通は不便であった。それ故、北海道において交通インフラの一種として設置されたのが駅逓所であり、一定の距離ごとに馬と人夫を用意しリレー方式で継立していった。駅逓所は地域の有力者に委託される場合が多く、宿泊施設を兼ねると共に地域のコミュニティとしての役割も果たした。現在の塘路駅逓所は移築されたものであり、本来は水運に便利な塘路湖のほとりにあり、漁業を指揮した越善氏が居住していたものである。その後、昭和に入り釧網線が開通すると塘路駅逓所は役割を終えることになる。明治期北海道の交通インフラの歴史を示す施設である。
 

釧路集治監

釧路集治監

元々、釧路集治監は塘路湖周辺にあったのではなく、現在の標茶高校の場所にあった。明治18年(1885)に標茶に釧路集治監が置かれると、大量に人が流れ込み、一挙に発展が始まる。釧路集治監と言えば外せないのが、硫黄山の採掘に囚人労働力を貸与したことであり、多くの囚人が眼病や盲目となった。そのため間もなく硫黄の採掘には囚人たちは従事しなくなったが、他の労働には使役された。標茶の繁栄は集治監とともにあったため、明治34年に集治監が網走へ移転すると、一挙にゴーストタウンと化した。その後、釧路集治監の建物の中には陸軍の軍馬補充部が入る。陸軍の思想は北東アジアの寒冷地で軍馬を使用することであり、寒さに強い馬にすることが目指された。第二次大戦中、輸送が断たれ軍馬を送れなくなると、今度は対ソ戦の拠点となる。戦後は標茶農業高校に使われたが、老朽化などの理由で塘路湖に移築された。
 

標茶町博物館

標茶町博物館

新しい感じのする室内で主に1階が受付・休憩室・図書などのホール、2階が常設展示となっている。展示の順路は歴史系展示→自然系展示という導線になっている。歴史系展示は先史時代から始まり、北海道独自の続縄文、擦文の土器がよく分かる。また道東はオホーツク文化の影響を受けており、擦文文化と融合したトビニタイ文化の土器も展示されていた。先史時代が終わると、アイヌ文化形成期を迎える。標茶町のチャシも、国史跡「釧路川流域チャシ跡群」の構成要素となっているものがいくつかあり、ジオラオで解説されていた。塘路湖アイヌ文化と言えば、武田泰淳の『森と湖の祭り』の舞台となった場所であり、映画の影響で観光化が進んだことが解説されていた。また祭祀が観光化され物議が醸し出されるようにもなったが平成初期を最後に祭りは実施されなくなってしまった。近現代の展示については釧路集治監による市街地形成だけでなく、様々な農業の取り組みが紹介されていた。失敗に終わった稲作の展示は印象的で、入植者たちは北海道の広大な土地で稲作をすることを夢見て移民してきた程であり、当時の米への執着が窺われた。結局は混合農業の方向に進んだし、集治監の後に軍馬補充部が設置されたことから馬の生産が盛んになり、戦後はウマからウシへと転換が図られ、酪農が主要産業となっていった。その他、戦後の展示では内陸部へ入植するための殖民軌道や標津線の終焉などがよくまとまっていた。標茶町の歴史の流れがよく分かる展示構成になっていたし、導線がしっかり確保され順路の所には足跡を付けるなどする工夫が見られた。時代の特徴を概観するパネルも良かったし、キャプションも読みやすかった。

標茶発祥の地

熊牛村外4村