個別ヒロインのシナリオ統合とキャラクターの存在意義

ループ・並行世界・多元宇宙を扱った作品は数多い。最近出たものうちですぐに挙げられるのが『何処へ行くのあの日』、『リトルバスターズ』、『スマガ』、『俺たちに翼はない』等かな?初代東鳩なんかはヒロユキちゃんの性格が個別ルートによって違いすぎとかなんとかというのが議論になったのが懐かしいね。確かに、この業界のゲームのジャンルでは、どんなシナリオを構成しようと、結局は「複数の女の子の中から選択肢を選んで各ヒロインに与えられたストーリーを垣間見る」ということに帰結してしまうよね。


このような限界に対し、かつては「泣きゲ」などのジャンルを打ち出し、ヒロイン死んだり、主人公が永遠の世界に旅立ったりしてシナリオそのものに意味を見出してきた。そのなかでも多いのが「少女救済」で、困った女の子や社会不適合な女の子を救うことに価値を見出して、それによりプレイヤー自身も救済されるというパターン。しかしながら近年ではそのプロットやパターンも使い古され、奇抜な内容で注目を引くしかなくなってきた。いわゆる「ヤンデレ」ブームというものがその顕著な例であろう。昨今の流れでは、「泣きゲオルタナティブ、ポスト「泣きゲ」というのが時代の要請であったような気がしないでもない。


このような状況を打破するには、個別ヒロインのシナリオを読んだ後、読んだら読みっぱなしではなく、その後に何らかの意義付けを見出さなければならない。そのために安易に利用されるようになったのが「個別ヒロインのシナリオは大局を構成するうちの一部であり、より高次のシナリオで統合するための装置」という考え方だと思われる。従って、最近ではループ・並行世界・多元宇宙がよく利用されるのであろう。だが、ここで問題となってくるのがヒロインの空気化。ループ・並行世界・多元宇宙モノでは、個別ヒロインのシナリオが「より高次のシナリオに繋がるための装置」にしかすぎなくなってしまっているので、どうしてもヒロインそのものには主眼が置かれなくなりがちなのである。故にシナリオにおけるヒロイン像・ヒロインの重要性は空気化しどうでも良いような存在となってしまっている。つまりは、ヒロインはそのキャラクター表現において、記号化したものを身に纏うことで「キャラ立ち」することでしか、存在を示せなくなってしまっているのである!!んじゃないかな?