雑録

【報告用レジュメ・概要&論評ver.】伊藤之雄『原敬』(講談社選書メチエ、2014年)「原敬を考える意味−はじめに」および「第一部」(17-122頁)

原敬を考える意味−はじめに (17-28頁)

(1)概要
  • 本書の趣旨は原敬の生涯と原の第一次世界大戦後の新状況への対応を見ること。その際の視座は「公利」の概念であり、そこから原を再評価する。分析枠組みとして3点挙げており、(1)鉄道政策と普選反対、(2)内政と外政、(3)原の人間性(a.薩長藩閥への怨念の融和、b.郷里の岩手・盛岡、c.家族)から原を分析する。
(2)論評
  • 原の再評価というが、客観的な実証というよりも、全体として原擁護・賛美の内容として叙述されている。

第一章 維新後の没落−南部藩の少年の成長(30-50頁)

(1)概要
  • 原敬が生まれてから明治4年(1871)に15歳で東京に遊学するまでの期間を、原の思想形成という視点から叙述。太田塾では農家の子どもとの交流により、武士以外の身分に違和感をもたなくなったと指摘。また原が不安や恐怖を抱く性格だったことを、感受性と理解力に優れていたためと肯定的にとらえ、大物政治家になる気質と再評価している。また成長後の原が質素で汚職に染まらなかった原因として母の影響を挙げる。
  • 小山田の下での漢籍素読については、原が歴史や思想を学ぶ土台となったと主張。非合理的なものを拒絶する、理屈が合わないことは決して屈しないとして、従来の気弱というイメージ像を否定している。薩長に対しては母リツの影響で思慮分別が育まれていたので怨みの感情にとらわれなかったとする。
  • 作人館での学びでは文章能力と歴史的感覚を養い、それが西欧哲学を学ぶ土台となり、政治家となった際に、政治・外交の流れの変化を先取りして判断する特異な才能を開花させたのだと述べている。また作人館では入寮したことで「知的に自信を持ち、健康で、堂々と議論し、少し年長の人も含めた同年代のいろいろな人々との交流が苦にならなくなった」とする。そして元服した原には、円熟した思慮分別が備わり、近世身分制下での意識を越える感覚を見せているとし、それは母リツにより形成されたと分析し、外交官から政治家となるうえでの財産となったと評価している。
(2)論評
  • 「神童」としての原のイメージ像が強く全面的に押し出されている。
  • 原の思慮分別、合理的思考、反封建思想などを全て母リツの影響とするのは牽強付会だと思われる。

第二章 学成らざれば死すとも還らず−苦学・キリスト教・司法省学校(51-75頁)

(1)概要
  • 第二章は、上京してから司法省学校を退学するまで。原は旧南部藩主が東京で共慣義塾という英語学校を設立したことから上京する。だが金を騙し取られ、学費がなくなり塾を辞める。海軍兵学寮にも落ちる。詰んだ原は神学校の学僕となり洗礼を受ける。だが生涯続く信仰とはならなかった。伊藤氏は原がエヴラールに師事したことで、西欧文明を表面的に取り入れてもだめで根本精神を理解できねばならないという本質をつかんだと述べている。
  • 明治8(1875)年から原は国防、国家、教育に関する文章を書き始める。(1)国防は樺太を捨て千島を欧米に売り北海道開拓の費用に充てると主張、(2)国家に関しては清と比較して藩閥政府を評価、(3)教育に関しては父母が子や孫に及ぼす教育の重要性を唱える。伊藤氏は父母両方を重んじていることから男尊女卑の風潮に流されていないと原を評価。
  • 同年、原は分家して「商」と登記して平民となる。これを伊藤氏は士族意識と決別するための意図的な行動であると分析している。その後、原は外務省交際官養成のための生徒の試験や海軍兵学校を受けるが不合格となる。明治9年(1876)にようやく司法省法学校に合格。だが「賄征伐」を契機に明治12(1879)に退学となる。伊藤氏はこれを「司法省法学校を退学になったことについて、まったく後悔はなかった。後ろを振り返っている余裕などなく、目標に向けて前進あるのみだ」と叙述し、原にエールを送る。
(2)論評
  • 父母両方の教育を重んじたから男尊女卑ではないとすることや、分家して「商」としたことを士族意識と決別するための決意とすることは、あくまでも憶測であり、実証できるものではないのではないか。
  • 退学になった原に対して「後悔はなかった」とするのは根拠不足であるし、なおかつ「目標に向けて前進あるのみだ」とかエールを送りだすのは偏向的すぎるのではないか。

第三章 自己確立への模索−中江兆民塾から『郵便報知新聞』記者時代へ(76-102頁)

(1)概要
  • 司法省法学校を辞めた原は中江兆民の塾に入る。そこで原はフランス啓蒙思想を学び、「公利」を追求する成熟した国民により国家が支えられることを学ぶ。中江兆民塾を辞めた原は1879年11月に郵便報知新聞社に入社。原は藩閥政府に一定の評価を与える一方で非合理的な政策に対しては批判した。原は中産ブルジョワの自立を唱え、武士が専横な旧体制を批判した。伊藤氏は原が平民を選んだ理由としてこのことを挙げている。原は政党政治を評価する一方で日本では政党政治には時間がかかるとし国会の早期開設を批判した。だが後に転向し1881年3月には国会開設を求めるようになる。天皇制に対して原は「一系万世」、「二千五百余年」の歴史、皇室が永遠と主張するが、立憲国家における天皇の政治的役割の位置づけについては考えを持っていなかった。伊藤氏は原が男尊女卑を越えていると賛美するが、女子は家庭内で子育てをするものという固定観念からは逃れられない。東北・北海道周遊では北海道開拓を唱え、札幌-室蘭間の鉄道敷設を主張した。東北に関しては盛岡の誇りを持ちながらも仙台をより重視した。アイヌに対しては長期教育の必要性を説き、教育の可能性を信じ女性もアイヌも教育で可能性が生まれるとした。
(2)論評
  • 中産ブルジョワの自立心と封建的武士の特権批判を繰り返し上げ、「商」の身分を選んだと指摘するが、原の思想の実証というより、伊藤氏の主観による恣意的解釈が強い。
  • 原が女性に対して蔑視していなかったと強調するが、ジェンダー的には差別している。教育の重要性を説く際にアイヌと女性を並列させて説くことからも無意識的な蔑視が伺われる。→原は、アイヌについては同化政策を主張。
  • インフラ整備の長所ばかり強調し、鉄道敷設による開発主義や経済的支配-従属性に対しては無頓着。
  • 伊藤氏は原が北海道の富裕さに着目するばかりで「海内周遊記」における漁業問題と開墾問題には触れず。

第四章 外交を深く考える−『大東日報』主筆(103-122頁)

(1)概要
  • 四章は郵便報知社を退社し大東日報社に入社するが、そこも退社し外務省へ入るまでを扱う。明治14年の政変で大隈とともに下野した矢野文雄が郵便報知新聞社を買収したことを契機に原は退職。その後、原は藩閥政府系新聞社である大東日報社に入る。伊藤氏は思想的に対立する新聞社に入ったとしても原の主張には一貫性があり、誠実な人間であると評価。原の主張は以下の5点。(1) 国民の政治参加要求として、国会開設を求める「自由民権」を達成すべき目標とする、(2) 民権運動側の「過激の論」や「急躁」「軽躁」の論や行動を批判、かつ藩閥政府側が合理性のない政策を専制的に行うことを批判、(3) 民権運動側(国民)も藩閥政府も、現実に根差した改革的姿勢を維持し、合理的な相互批判を行いつつ連携し、秩序を持って漸進的に日本の近代化を進めていくことを主張、(4) 「公利」が「私利」より重要である強調、(5)「キリスト教を信じることと、愛国心を持ち「国体」を信じることは両立できる」。
  • 原の外交論は、即時条約改正が可能という主張であったが、伊藤氏は「改正ができないことを感覚的には理解していた」と擁護(114頁)。壬午事変に対しては、井上外務卿と下関に同行したで政府の方針をベースに自説を融合させて記事を書く。朝鮮の動向を見通せていないにも関わらず、伊藤氏は当時の日本政府でも同様で電信がないので仕方がないと原を擁護。1882(明治15)年になると、井上外務卿と下関に同行した際のコネで外務省入りをはたした。
(2)論評
  • 原敬の対する擁護論が偏向的。原がマイナスの行動をとったとしても、大局(時代趨勢や日本政府や技術的限界)を用いて、○○もできなかったのだから、原ができなくても仕方がないという論調をとっている。さらに原が実際にできていないことなのにも関わらず、実は感覚的にはできていたのだと評価する叙述もある。