『神様になった日』のコンテンツ産業史上の意義「<セカイ系>と<セカイ系の否定>とその先にあるもの」

  • セカイ系」と「セカイ系の否定」の誕生
    • 90年代後半からゼロ年代にかけてセカイ系というものが流行りました。これは社会や集団といったものを拒否し、主人公とヒロインだけの人間関係、または主人公の周辺の人間関係が全てであるという考えを提示しました。このセカイ系は一大センセーションを巻き起こしたのですが、2010年代前半頃からセカイ系に対するアンチテーゼが出されます。それはセカイ系の亜種でもあり、愛している人やその周辺の人間関係があるからこそ、それらが所属している社会や国家や地球や世界のために、主体的に自己を犠牲にするというものでした。

  • ノベルゲームの構造とセカイ系
    • この「セカイ系」と「セカイ系の否定」はノベルゲームが生み出した構造や文法と相性が良かったので、1周目は「セカイ系の否定」で大義に生き、グランドエンドで「セカイ系」をするという流れに収束していきました。マルチエンドならではの表現技法ですね。これの到達段階となったのが2019年の『天気の子』だったのです。正史では主人公が社会を否定し女を選びセカイ系エンドを迎えますが、劇場版を見に行った人々が最後のシーンで選択肢が見えた!と口々に感想を漏らしたのは、上述した文脈が背景にあったからなのです。

  • セカイ系のその先にあるもの
    • こうしてセカイ系を巡る表現技法というものが頂点に達した現在において『神様になった日』が新しいチャレンジをしています。この作品の煽り文句は「神を殺して世界を守るか、世界を狂わせてまで神を生かすか」というモノになっています。つまりはこれまでセカイ系モノにおいてテーマになっていた「セカイ系」を選ぶか「セカイ系の否定」を選ぶかというジレンマ問題に真っ向勝負を仕掛けていると考えられます。煽り文句においては二つの選択肢が投げられていますが、「選択肢を選ぶこと」が主眼となることはないでしょう。「主体的意志による選択肢の自己決定」は手垢に塗れたテーマであり、これほど大風呂敷を広げた挙句に、それをやるというのは二番煎じもいいところです。つまり、「セカイ系」と「セカイ系の否定」のその先にあるものを提示することが『神様になった日』には求められているのです。

  • ※追記:11話終了時点での雑感 選択肢の自己決定ができる主体的意志とはどこからか
    • 従来のセカイ系ジレンマ問題は、世界(普遍的な社会一般)かセカイ(自分たちの関係性)かという二項対立でした。この点で言うと、そもそも『神様になった日』には選択肢を選ぶ二項対立すらありませんでした(10話)。そして「終わってしまった世界」で生きる姿が描かれます。そこでは主体的な意思決定を行う「主体」とは何かが問われることになりました(11話)。12話のサブタイは「きみが選ぶ日」であり、一見すると結局は主体的意志決定モノじゃん!?と思われるかもしれません。しかしながら、そもそもこの状態の佐藤ひなに選べるだけの自我があるのか。作風としては「選ぶ」云々ではなく、選ぶ「主体」とは何か。そもそも人間を人間たらしめているのは記憶や思考や心なのかという問題にシフトしている気がします。

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  • 歴史的意義
    • 2020年代の初頭にあって、成功すれば新しい時代潮流を生み出すマイルストーンになり得るかもしれない存在。それが『神様になった日』なのです。いや、ポシャる可能性も十二分にありますが……それはそれで新たなる表現への挑戦(失敗事例)とも言えるので、間違いなく後の世のコンテンツ産業史のテキストで一項目割かれる作品となることが予想されます。


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