- ノベルゲームの構造とセカイ系
- セカイ系のその先にあるもの
- こうしてセカイ系を巡る表現技法というものが頂点に達した現在において『神様になった日』が新しいチャレンジをしています。この作品の煽り文句は「神を殺して世界を守るか、世界を狂わせてまで神を生かすか」というモノになっています。つまりはこれまでセカイ系モノにおいてテーマになっていた「セカイ系」を選ぶか「セカイ系の否定」を選ぶかというジレンマ問題に真っ向勝負を仕掛けていると考えられます。煽り文句においては二つの選択肢が投げられていますが、「選択肢を選ぶこと」が主眼となることはないでしょう。「主体的意志による選択肢の自己決定」は手垢に塗れたテーマであり、これほど大風呂敷を広げた挙句に、それをやるというのは二番煎じもいいところです。つまり、「セカイ系」と「セカイ系の否定」のその先にあるものを提示することが『神様になった日』には求められているのです。
- ※追記:11話終了時点での雑感 選択肢の自己決定ができる主体的意志とはどこからか
- 従来のセカイ系ジレンマ問題は、世界(普遍的な社会一般)かセカイ(自分たちの関係性)かという二項対立でした。この点で言うと、そもそも『神様になった日』には選択肢を選ぶ二項対立すらありませんでした(10話)。そして「終わってしまった世界」で生きる姿が描かれます。そこでは主体的な意思決定を行う「主体」とは何かが問われることになりました(11話)。12話のサブタイは「きみが選ぶ日」であり、一見すると結局は主体的意志決定モノじゃん!?と思われるかもしれません。しかしながら、そもそもこの状態の佐藤ひなに選べるだけの自我があるのか。作風としては「選ぶ」云々ではなく、選ぶ「主体」とは何か。そもそも人間を人間たらしめているのは記憶や思考や心なのかという問題にシフトしている気がします。
- 歴史的意義