第1節 タバコからみる日本史と世界史のつながり

日本におけるタバコ栽培の広がり

日本でタバコの喫煙が行われたのが16世紀であり、栽培が広まっていったのは17世紀からである。その急速な広まりにはタバコそのものの魅力もあったが、当時の社会背景と密接に関わってきている。そのため、どうして日本でタバコ栽培が広まったかを考える事は、江戸時代における日本の商品流通の展開を考えることにつながる。ここでは、タバコの流入からどのように日本でタバコ栽培が広がっていったかを見ることを通して、江戸時代の経済がどのような特質を持ち、どのように変質していったかを考えていきたいと思う。

タバコの流入

日本で喫煙が始まったのは、16世紀であったとされているのが通説であるが確たる史料はみつかっておらず、南蛮貿易の絵図などに喫煙している姿が見られる(注1)のでそのように判断できる。伝来には諸説あるが、スペインのアカプルコ貿易のルートと、ポルトガル喜望峰を廻るインド洋ルートが考えられている。『タバコと塩の博物館 常設展示ガイドブック』では「慶長に入ると、たばこ・喫煙に関する文献や喫煙風俗を描いた絵画が多く見られる」(注2)とあり16世紀末には喫煙の風習がある程度広まっていると考える事ができる。

スペインのアカプルコ貿易とは、ガレオン貿易とも呼ばれ新大陸のポトシ銀山などで採掘された銀を太平洋を横断してフィリピンのマニラへと運びそこを拠点として日本や中国との交易をおこなった貿易のことである。ポルトガルのインド洋ルートは既存のムスリム海上交易圏を利用したものであり、中国のマカオを拠点にしていた。こうした貿易ルートにより中国にはメキシコ銀や石見銀山の日本銀が大量に流入し、中国におけるタバコ栽培の拡大の要因ともなるが、これは後述する。

1.岡光夫「近世におけるタバコ作の展開」4頁
2.『タバコと塩の博物館 常設展示ガイドブック』29頁

タバコ作の広まりと初期の禁止令

日本におけるタバコ栽培は17世紀から始まるが18世紀初頭まで、幕府からたびたび禁止令を受ける。その理由を児玉は「煙草の栽培は従来の田畑を利用することが多く、五穀の産出を妨げることになる」と述べている(注1)。だが、禁止令にもかかわらずタバコは農家にとって換金作物となっていたので有名無実化し、元禄期から次第に容認されるようになり、八代将軍吉宗の時代を迎えると幕府からの禁令は出されなくなっていった(注2)。そして18世紀後半になると、藩専売が行われるようになり、タバコ生産は現金収入源として禁止から奨励へと転換される。タバコを藩専売とした主な藩があった地域は鹿児島、勝山、園部、津、水戸である(注3)。

1.児玉幸多「江戸時代のたばこ」6頁
2.谷田有史「享保期の演劇史料からみたたばこ産地」75頁
3.鬼頭宏『文明としての江戸システム』182頁

商品作物としてのタバコ

こうしてタバコはその商品作物としての価値のため初期の禁止から藩専売へと至ったのであったが、岡は享保以前におけるタバコの伝播について、その重要な点を3つ指摘している。一つ目がタバコの広域の広がりであり「本州の南端から東北に至るまで」栽培されるようになったことを挙げている。二つ目としては、僧侶による伝播を挙げている。そして三つ目が、これが一番重要なことであるが、伝播の早さである。岡はそれを以下のように表現している(注2)。曰く「タバコと同じ頃に渡来したサツマイモが北限に達するのに、200年以上を要しているが、タバコは第一に示した固有の生物的特質を有するとはいえ、半世紀余の超スピードで伝播している」と。

そして岡はこうしたタバコの伝播の社会的背景について「タバコの各地への急速な伝播の背後には、三都をはじめ城下町や宿場が形成され、そこで異常ともいえるタバコブームが出現していた」(注3)と述べている。では、こうした城下町や宿場にはどこからどのようにタバコが流入したのであろうか。江戸時代の流通制度はどのようなものであったのであろうか。タバコの急速な伝播を調べるには、当時の江戸時代の商品流通を考える必要がある。

1.岡「近世におけるタバコ作の展開」8頁
2.同
3.同8−9頁

商品流通の展開

江戸期の幕藩体制における商品流通は、大まかに分けて3期について考えることができる。1期目は大坂を中心に年貢米の換金が主な目的とされていた時期、2期目は商品作物栽培の隆盛により幕府の財政構造が変化するとき、そして3期目が江戸地廻り経済圏が形成される時期である。以下、江戸期における商品流通の展開に考えていきたいと思う。

  • 幕藩体制の経済循環構造
    • 鬼頭は幕藩体制そのものが経済循環構造を作っていたと指摘する(注1)。つまりは商品と貨幣の流通、一定の市場経済の前提である。その経済循環構造を成り立たせていたのは、要因をまとめると以下の4つを挙げることができる。
      • 一つ目は、米納年貢制である。課税対象は土地であったが、課税額は検地に基づき石高で示された。そして米で納められたが、俸給された米がそのまま流通していたのではない。米を貨幣に変える必要があったのだ。この点で、米納年貢は販売する市場の存在を前提として初めて可能であったと考えることができよう。
      • 二つ目は、武士の城下町集住である。武士とその他の身分が明確に区別されて、城下町に集住させられた。また士農工商のうち農民を除く身分は都市住民であった。村落と都市に二分されたときに、農業生産や生活必需品はどのように手に入れるだろうか。それは商品と貨幣との交換である。こうして恒常的な貨幣経済が必要とされていた。
      • 三つ目は、参勤交代制である。大名は参勤交代制によって隔年に江戸に居住しなければならなかった。またその妻子は江戸居住を義務付けられていた。このため江戸は巨大な武士人口を抱えることにあり、その需要を満たす必要があったため、巨大な消費市場となった。
      • 四つ目は、幕府による正貨の発行の独占である。諸藩は正貨を獲得するにはどうしなければならなかったであろうか。諸藩は正貨を獲得するためには、年貢米を売りさばかなければならなかった。諸藩は年貢米を領国外の市場つまりは大坂の米市場で年貢米を販売しなければならなかったのである。
    • このような点から幕藩体制は経済循環構造に組み込まれていたので商品作物栽培が広がりタバコ栽培の急速な拡大の一因となったと考える事ができるが、以下ではその経済構造のを具体的に見ていくことにする。
  • 蔵屋敷と蔵物
    • 安藤達朗は江戸時代初期の蔵物を中心とする経済構造について説明している(注2)。大名は領内における自給自足体制を確立しようとし藩経済という経済圏を樹立するが、領域内における市場不足、持久できない商品、貨幣不足により、中央市場と結合しなければならなかった。このような条件によって、大名たちは換金する必要が生じて大坂などに蔵屋敷を設けて回送したのである。このように商品が流通したものを「蔵物」という。鬼頭はこのような経済構造は、おおむね寛文・延宝期(1661〜81年)までには確立したと述べている(注3)。
  • 問屋商人と納屋物
    • 江戸期における小自作農の増加は農業生産性の向上の意欲を高める。そして全国的商品流通の拡大に関して鬼頭は元禄の荻原重秀の貨幣改鋳の重要性を指摘する(注4)。もともと幕府の貨幣改鋳は出目をねらったものであるが、貨幣供給量が増加されることになり、これは経済を刺激し一種の経済成長を生み出したという。そして河村瑞賢の東廻り航路と西廻り航路の開通は海運の全国的交通を形成することになる。この貨幣供給量の増加と海運航路の形成により、農民は商品作物栽培に強い執着を見せるようになるのである。
    • このように商品作物栽培が盛んになったが、これらの作物がどのように売りさばかれていたのか疑問が沸くだろう。このことを考えさせることは非常に興味深いことだと思われる。農民は直接市場にまで持っていくことはできない。これらの商品を集荷したのは問屋商人と呼ばれるものたちであった。安藤によればこの問屋商人の出現により蔵屋敷を通さない全く新しい全国的商品流通を生んだとされる(注5)。問屋商人は地方商人を仲買として独自のネットワークを作り商品作物を集荷し問屋制家内工業で加工して売りさばいたという。このような商品を納屋物というが、この納屋物と問屋商人により蔵屋敷を通さない商業ネットワークが形成されたのである。元禄期から享保期にかけて納屋物が蔵物を凌駕していくのであるが、このことは元禄期にタバコが容認され始め享保期に禁止令が出されなくなることと対応している。
  • 享保改革と田沼期における幕府の財政構造の変化
    • 吉宗の享保改革の経済的特徴は、新田開発、農業生産性を高めるための実学の奨励、農民に対する商品作物栽培の奨励、年貢挑発制度としての定免法や有毛検法の採用である。商品作物栽培奨励や有毛検法により作付き制限令は実質的に意味を失った。こうして商品経済の農村への浸透が更に促進されたのである。だが吉宗の改革は幕藩体制の根幹を揺るがすものであった。すなわち、幕藩領主が農民に年貢として徴収した商品=蔵物が商品流通の主体であった時は幕藩領主の統制化にあったといえるが、商品作物栽培が盛んになり納屋物が商品流通の主体となると幕府の統制が及ばなくなってくるのである。このような状況に対処したのが、田沼意次であった。
    • 田沼の経済政策は「市場経済を指向した経済・金融政策、非農業生産を重視した産業政策、貿易推進政策と土地開発計画」にその特徴がある(注6)。吉宗の政策と田沼の政策は、吉宗が農民からの収奪の強化であったのに対して、田沼は商品流通機構を介在させての農民からの再収奪といえよう。どういうことかというと、大坂だけでも約130の株仲間を公認し、多くの座・会所を儲け、座・会所・株仲間にはそれぞれ専売権などの特権を与え、代わりに運上・冥加を上納させたのである。だがこれは、幕藩体制構造を大きく変化させるものであったので、後に株仲間政策は政権担当者によって揺れ動いた。
  • 江戸地廻り経済圏
    • タバコの生産拡大には商品作物栽培の広がりと商品流通の展開が背景にあった。では、地方で栽培されたタバコは中央市場と自藩だけで消費されたのであろうか。タバコの消費は江戸後期の商品流通とも関係がある。
    • 商品経済が発達するにつれて農民の中でも農作業のかたわら、物資を扱う商人が出てくるようになる。これらの商人を在郷商人というが、農村内で商品作物を集荷して販売するようになる。これらの事態は巨大な商品市場でもある関東周辺でも進展して江戸地回り経済と呼ばれた。また江戸のみではなく、地方の多くでこのような事態が起こった。このような状況を鬼頭は以下のように表現する(注7)。「江戸時代後期になると、地域間経済循環構造は大きく変貌する…江戸は周辺地域のいわゆる江戸地廻り経済圏の発展によって、中央市場としての機能が高まった。…地方領国でも畿内から先進技術が分散した結果、プロト工業化が進み、下関・兵庫・名古屋・酒田などが成長した。…以上の結果として大坂と畿内の地位が相対的に低下した」。享保・田沼期以降、問屋商人を株仲間として組織することで、商品流通を把握しようと試みていたわけだが、在郷商人の出現によりそれも適わなくなった。天保改革では、江戸・大坂周辺を天領として農民の一元支配を作り上げ、在郷商人を掌握しようとして、株仲間解散令や上地令を出した。しかし結局は有効な政策をとれないまま倒幕される。
    • 幕藩体制は自作農による自給自足体制を根幹としていた。しかし当初から藩経済でのみ自給自足体制を維持することはできなかった。そのため大坂に年貢米その他を集荷し流通することでその流通経路を掌握しようとした。だが、商品作物栽培の進展とともに大坂を介さない問屋商人による納屋物が流通するようになる。これに対しては、株仲間などを組織して統制しようとする。株仲間の結成は指定商人による商品作物の独占を生んだから農民は買い叩かれるようになったが、農民自身が商品流通に参加するようになり在郷商人となった。各地で在郷商人が発生し、活発に活動することは士農工商兵農分離が原則の幕藩体制の根幹に反するものであった。つまり、在郷商人の登場により農村内で物質の流通が盛んになったことは、幕藩体制による農民支配が破綻したことを意味していた。
    • また18世紀後半には、諸藩が藩政改革を行うようになるが、その経済政策は幕政改革に通じるところがある。藩専売がそれに該当し、産物方・国産会所などを設け藩が直営する場合もあったが、藩内の有力商人に特権を与えてそれを介して統制した。タバコも藩専売の対象となったのは上述の通りである。
    • ここまで、なぜ新大陸からの伝来物であるタバコが日本において急速に拡大してきたのかを考えてきたが、タバコ栽培が拡大した理由には江戸期における商品作物栽培が背景にあった。まとめるならば織豊政権時代に生み出された小自作農が商品流通に巻き込まれ現金収入のために商品作物を栽培するようになり、幕藩体制初期の自給自足を前提とした藩経済が変容し、地方市場が発達したからであった。このようにタバコ栽培の拡大を考えることによって、江戸期における商品流通を生徒に考えさせることができよう。

1.鬼頭宏『文明としての江戸システム』講談社 2002  205頁
2.安藤達朗『日本史講義』駿台文庫 1994 92頁
3.鬼頭 209頁
4.鬼頭224-227
5.安藤94頁
6.鬼頭258頁
7.鬼頭212頁

参考文献