雑録

なぜ孫文は晩年に中国国民革命の基礎を固めることにつながる政策転換をおこなったのか?


孫文の晩年の政策転換だから、「中国国民党の結成」と「第一次国共合作」について述べればいいと思うのだわ。


こうした歴史上の変化をとらえるには何から何へと変わったのかをおさえることが重要です。まず孫文がなぜ中国国民党を結成したのか、考えていきましょう。


孫文は非公開の革命政党を率いて活動していたのだわ。第二革命が失敗したことにより、秘密結社的な革命集団が必要だと考えて結成された中華革命党なのだわ。けど孫文は五・四運動を見て考えを改めるのよね。


ここで孫文は大衆運動のエネルギーを認識するのですね。軍閥を打倒し中国を統一する国民革命を成功させるには、労農の大衆的な力を組織することが必要だと考えを改めるのです。


こうして1919年10月に公開の大衆政党である中国国民党が結成されたのね。第一の「なぜ」が解けたわ。「五・四運動の大衆運動に影響を受けたから」だわ。


続いて第二の「なぜ」についてみていきましょう。第一次国共合作です。孫文ブルジョワ民主主義だったはずです。なぜ中国共産党を受け入れたのでしょうか??


孫文ソ連に対して好感度を上昇させる契機になったのはカラハン宣言だわ。帝政ロシアが持っていた帝国主義的特権を放棄し、民族運動を支援しようとするといったのだわね。これで孫文は共感を覚えたわ。


孫文1921年コミンテルンのマーリンと会談すると、22年には李大訢・陳独秀らと接触。そして1923年に孫文=ヨッフェ会談でソ連の援助を引き出すと年末にはコミンテルン代表のボロディンが顧問となります。そしてボロディンはいっさいの革命勢力を中国国民党のもとに結集することを勧告しました。


長かったわね。こうして1924年1月「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が掲げられ、第一次国共合作が成立したのね。第一次国共合作は、「共産党員が個人の資格を持ったまま国民党に入党する」(その逆は認められない)というのが、教員によっていつも強調されるところだわ。


こうした孫文の政策転換によって、北方の軍閥を倒し、列強支配から中国を解放する国民革命を目指す準備が整ったのですね。まぁ孫文は翌1925年3月に死んじゃうけど。「革命いまだならず」が有名ですね。


まとめると第二の「なぜ」に対する答えは、「ソ連コミンテルン接触して影響を受けたから」が答えになりそうだわね。


つまりは「五・四運動の影響で秘密結社の中華革命党を解消して大衆政党である中国国民党を結成」し、「ソ連コミンテルンの影響を受けて第一次国共合作を行うに至った」というのが、「なぜ孫文は晩年に中国国民革命の基礎を固める政策転換をおこなったのか?」という発問の答えとすることができるでしょう。


今回の元ネタよ!!

第一次大戦後の中国では、軍閥の割拠と半植民地状況に反対する民衆の運動が高まり、それは1924-27年の国民革命へと発展していった。中国国民党の指導者孫文が、晩年においてこの国民革命の基礎を固めるために行った政策転換を、具体的に説明せよ(30字×4行=120字)(東大1988-2-A)