最初は「ロシアの南下政策に対する英領インド防衛のためにイギリスがアフガニスタンを保護国として国境画定を進めた」ことを書けばいいのだろうと思っていたのですが・・・。アフガニスタン史、マジ泥沼。調べれば調べるほど分からなくなっていく。確実に述べられるのは、以下の通り。
- (1)アフガニスタンがイランの支配から自立(1747年)
- (2)ロシアが南下政策を展開。
- (3)イギリスは英領インドを防衛するためアフガニスタンに進出。
- (4)1907年の英露協商でロシアがアフガニスタンをイギリスの勢力圏であると認める。
とりあえずまぁ一つずつ確認していくしかないわね。じゃあ、まず(1)から解説よろしくお願いするのだわ。
(1)アフガニスタンがイランの支配から自立(1747年)
まず初めに現代アフガニスタンの起源から。アフガニスタン地域はサファヴィー朝の支配下にありました。その中からアフガン人がサファヴィー朝の首都イスファハーンを落とします(1722年)。
けど、このときはまだアフガン人たちは自立したわけではないのよね?
サファヴィー朝の滅亡後には、アフガン人たちはアフシャール朝に組み込まれることになります。1747年になってアフガン人たちがドゥッラーニー朝を建国したことを契機にアフガニスタン地域はイランから自立することになったのです。
この時点でもう既に複雑なのだわ。とりあえず18世紀の半ばにアフガニスタン地域に独立政権が誕生したのね。
(2)ロシアが南下政策を展開。
19世紀になるとロシアが南下政策を展開してきます。ロシアはカージャール朝を支援してアフガニスタンに侵攻させたのです(1838年頃〜)。
ふむ。なるほど。このロシアの南下政策により英領インド支配が脅かされると危惧したイギリスが、アフガニスタンを支配下に置こうとするのね。
(3)イギリスは英領インドを防衛するためアフガニスタンに進出。
イギリスはまずアフガニスタンを支配下におくために第一次アフガン戦争(1838〜42)を行うのですが、なんと敗北してしまうのです。
アフガニスタンを支配できなかったイギリスは、アフガニスタンを緩衝地帯として保持しようとするのね。
そのため今度はカージャール朝とぶつかります(イギリス=ペルシャ戦争)。この戦争ではカージャール朝がアフガニスタンの独立を承認することになりました(1857)。
アフガニスタンの独立により緩衝地帯を確保したイギリスは、ふたたびアフガニスタンに襲い掛かるのね。これが第二次アフガン戦争(1878〜80)なんだけど、すっごい複雑。
(4)1907年の英露協商でロシアがアフガニスタンをイギリスの勢力圏であると認める。
1904年に日露戦争でロシアが敗北し、ドイツが中東進出を活発化させると英露が接近します。
この英露協商でイラン・チベット・アフガニスタンにおける英露対立が解消されることになりました。
イランでは北部がロシア、東部がイギリスの勢力範囲となり、中部は中立地帯となったのだわ。チベットは内政不干渉地帯。そしてアフガニスタンはイギリスの勢力範囲となったの。
こうしてアフガニスタンは、イギリスの英領インド防衛のために領域確定と国際的地位を左右されたのですね。
インドからイランにいたる地域の諸王朝の領域は、元来、固定的なものではなかった。しかし、こうした状況はイギリスのインド支配にともなって変化し、アフガニスタンの領域とその国際的地位は確定されていった。この過程について述べよ。(90字)(東大1989-2-C)