麻田雅文『満蒙 日露中の「最前線」』講談社選書メチエ、2014

  • 本書の趣旨
    • 東アジアの国際政治史にロシアを位置づける試みの一環として、その鉄道を通じた影響力を探る。(p.5)
  • 軌間の問題
    • 清朝は世界で主流の標準軌(4フィート8.5インチ=1435ミリ)を採用していた。これに対しロシア帝国は、19世紀中ごろから広軌(5フィート=1524ミリ)を採用していた。アメリカ人技師の意見に従い、期間が広ければ大型の貨車を使うことができ、また敵が攻めてきた場合もにも軌間が異なれば防衛に有利、と考えたと言われる。だが軌間が異なれば列車も別なので、他国との鉄道の接続には支障をきたすことになった。(p.24)
  • 中東鉄道の功罪
    • 中露経済史研究の先駆者スラドコフスキーは、以下のように評す。中東鉄道の敷設により、中国東北は経済開発が進み、ロシアの軍事基地とすることも可能となった。その反面、ロシアの中国東北支配は、ロシア自身の国益を損なった。その理由は三つある。第一に数世紀に及ぶ中露の友好関係を壊した。第二に、アムール鉄道の敷設を中止したため、ロシア極東は開発が遅れて防衛が困難となった。第三に、ロシアは中国東北に巨費を投じたが、結局のところ日本を利する結果になってしまった。付け加えるなら、ロシア極東の専守防衛に徹するのか、中国東北における利権拡大に走るのか、とロシアの国論を分裂させた責任も大きい。(p.57)
  • 張作霖親日的な側面とボリシェヴィキ張作霖への敵意
    • 張作霖は、北京政府に代わって「北満洲」に残されたロシアの利権回収を積極的に進めてゆく。それはたとえ私利私欲が動機であっても、ヴェルサイユ講和条約で、中国の主張が認められなかったことに憤激した民衆が北京で起こした、1919年の五・四運動を契機に高揚する中国ナショナリズムの時流にうまく合致したものであった……張が本条繁など日本人の軍事顧問を抱え、中国東北の排日運動を抑えていたように、親日的な側面があったのは否めない。孫文を称賛する一方、張は日本の傀儡に過ぎない、という固定観念を持つボリシェヴィキは、やがて彼に強い敵意を向けるようになる。(p.144)
  • 孫文外交政策
    • 近年の研究により、孫文ソ連のみならず、第一次世界大戦の敗戦国ドイツも加えて、英米仏日が支配的な国際政治の舞台において、逆境にある中独ソ三カ国が手を携えるのを望んでいたことが分かっている。言わば、独ソが手を組んだ1922年のラパロ条約を、アジアに拡大させる構想と言えよう。ヨッフェからソ連の支援を確約された孫文は国民党をソ連に倣った革命政党に改組した。さらにソ連の仲介により、中国共産党と国民党の協力関係を築いた。いわゆる国共合作である。また赤軍のような、党に対して忠実な軍隊、すなわち国民革命軍を育成してゆく。それは三年後に、張作霖を討つ軍事遠征(北伐)の中核部隊となる。(p.158)
  • 張作霖爆殺事件
    • …日本では事件後に田中首相が、「この事件の犯人は日本の陸軍の者であるようでございます」と、と上奏した。ところが事件から一年後の1919年に6月27日、田中は調査の結果、「日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました」と上奏し、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」、と昭和天皇は立腹する。「恐懼」した田中は7月2日に内閣総辞職に踏み切った。その前日には、政府が、事件の責任者を関東軍高級参謀の河本大作を中心とする関東軍将校と発表している。(p.190)
  • 日満アウタルキー構想
    • 奉ソ紛争のさなかの1929年7月3日から12日間、石原莞爾板垣征四郎関東軍の参謀たちは「北満洲」の長春ハルビン満州里などを視察した。後の満洲事変につながる作戦計画の詳細を石原が披露したのはこの時である。さらに石原は奉ソ紛争におけるソ連の行動を分析して、その軍事的脅威が復活しつつあると判断し、ソ連に対抗するためにも、中国東北の全土を日本の支配下に置こうと計画した。そのことで、対ソ国防上有利な態勢を築き、また豊富な資源を確保して、日本と中国東北を一体化した自給自足圏を構築することができる、と考えた。その構築は、第一次世界大戦の教訓として少壮軍人たちが学んでいた、総力戦の前提でもあった。(p.207)
  • ソ連の日本への中東鉄道の売却
    • ……ソ連は戦争回避のため中東鉄道の売却交渉をまとめあげ、宥和にもっていかなければならなかった。ようやく交渉がまとまった1935年3月9日にユレーネフ大使は、売却交渉が不成功に終わっていたら、日本はそれをソ連との開戦の口実にしただろう、とグルー大使に語っている。1935年3月11日、広田外相の立ち合いのもと、満洲国とソ連の代表が、最終議定書に仮調印した。その内容は、ソ連は中東鉄道とその付帯事業、社有財産を1億4000万円で満洲国へ売却し、ソ連国籍の社員への退職金3000万円は満洲国が負担して、日本は支払の保証国となる。議定書の本調印は3月23日である。
  • 中東鉄道売却の中国への影響
    • ソ連から日本への中東鉄道の売却提案が冷や水を浴びせた。24年の中ソ暫定管理協定では、中国が中東鉄道を買い戻せることが定められていた。そこで33年5月8日に顔恵慶駐ソ大使は、ソ連に中東鉄道を処分する権利はなく、中国の主権を侵害する行為だ、と抗議している。彼によれば、中東鉄道が売却されれば、「ソ連政府が国際的に不法とされた組織[満洲国]を承認し、侵略国家に積極的な援助を与えたことに等しい」。……中ソ関係はこの問題で冷え込み、熱河省をめぐる関東軍との戦闘に塘沽停戦協定(1933年5月31日)を結んで停戦を実現した中国は、日本に対する「局部的妥協政策」に転じる。進捗していた中ソ不可侵条約の交渉は停滞し、日中戦争勃発後の37年8月まで持ち越されることになった。当然ながら中国は中東鉄道の売買を認めず、……中国はこのような不法な売却を認めない、とアピールした。(pp.224-225)
  • 接収後の中東鉄道
    • 撤収から半年後の8月30日、満鉄は8時間の突貫工事で、長春からハルビンまでの路線をロシアの広軌から、満鉄と同じ標準軌に交換した。こうして、日本が念願としてきたハルビンへの直通列車が翌月から運行され、満鉄が誇った高速特急「あじあ」号が乗り入れを開始した。この工事は満洲国の鉄道網の統一という経済面のみならず、緊張の続く満ソ国境への迅速な軍隊の輸送という、軍事面からも必要とされたために急がれたのである。(p.227)
  • 中東鉄道の売却と国境紛争の増加
    • …結局すべての国境は画定できないまま、36年11月の日独防共協定の締結に伴う関係悪化で打ち切られてしまった。これが、後年のノモンハンなどにおける国境紛争の遠因となる。……中東鉄道と「北満洲」はソ連と日本にとって一種の緩衝地帯として機能していた。しかし、紛争の最前線だった中東鉄道は満洲国に組み込まれ。日本の影響力がロシア極東を眼前に臨む国境まで拡大したことで、満洲国の国境地帯が緊張の最前線となったことが紛争増加の理由であろう。ソ連は、ロシア極東という「最終防衛ライン」を堅守する必要に迫られた。(p.229)
  • ソ連満蒙開拓団 特別集団農場軍団
    • 正規軍の強化だけではなく、特別農場集団軍団という名の屯田兵6万人も、1932年3月から極東にだけ配備された。彼らは沿海州の国境にある興凱湖畔の平原や、アムール州や外バイカル州の未開拓地など、満洲国との国境沿いに投入された。農閑期には軍事教練と政治教育を受けた彼らは、有事には特別赤旗極東軍に組み込まれる兵士である。ロシア革命前まで、コサックが果たしていた役割を担うことを期待されたのだろう。
    • 将兵たちが退役後も極東で家庭を築いて、予備兵力となるのを期待するソ連は、将兵らと釣り合う妙齢の女性を極東に勧誘するキャンペーンも大々的におこなった。リーダーとなった女性の名をとって、ヘタグローヴァ運動と呼ばれる。ただし、彼女たちは将兵と家庭を営むことだけで呼び寄せられたのではなかった。彼女たちの多くが、軍や内務人民委員部、バム鉄道敷設の仕事を割り振られた。「働かざる者食うべからず」、の第12条で有名な通称スターリン憲法が採択されたのは、1936年11月である。(p.235)
  • 永田鉄山石原莞爾
    • 皇道派が牛耳る陸軍では、1934年1月まで陸相だった荒木貞夫精神主義偏重もあって軍備増強が進まず、関東軍も1個から3個師団に増設された程度であった。軍備強化の予算が取れない荒木から陸軍中堅層は離反し、皇道派は没落する。代わって、陸軍の「統制派」永田鉄山ソ連との間で広がる軍事力の格差を真摯に受け止めた。トゥハチェスキーと永田の構想は興味深い一致を示している。両者が共通して掲げたのは、軍の機械化とりわけ航空機の充実であった。1934年3月に軍務局長に就いた永田は、現下の財政ではすべてを一挙にはできないので、兵備はまず航空・防空能力能力の強化に置き、つぎに戦車、という徹底した重点主義をとる。彼が政策を転換させたことで、34年以降に航空戦力の倍増が図られた。永田はソ連に対してはとても攻勢に出られないので、ソ連との緊張緩和を促しつつ、その間に中国東北の軍備の拡充を図ろうとしていた。中東鉄道について、彼が購入に賛同していたのもそうした理由で説明がつく。だが、1935年8月12日に、永田は皇道派の将校に陸軍省内で斬殺された(相沢事件)。
    • 奇しくもこの日、石原莞爾参謀本部作戦課長として初登庁した。彼は中枢のポストに就いて、日ソ間の戦力差に愕然とする。そこで石原は、国家経済を「統制」し、軍需のための重化学工業育成に力を入れてゆく。それはソ連が同時代に進めていた五カ年計画の目標を彷彿とさせるものだ。実際に石原は、1936年6月に参謀本部戦争指導課長に転じると、比較的自由に裁量がふるえる満洲国で、ソ連の五カ年計画をモデルにした「満洲産業開発五箇年計画」を推進してゆく。だが翌年7月に勃発した日中戦争が、計画遂行を困難にする。満洲国の産業育成もあって日中戦争の不拡大を主張した石原は、参謀本部を去ることを余儀なくされた。(p.236)
  • ノモンハン事件独ソ不可侵条約と日ソ中立条約に対する中国
    • 日ソ両国が停戦に合意したのはようやく1939年9月15日、折しも9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパ全土が戦場になる第二次世界大戦の開戦と前後した。……ノモンハンソ連が攻勢をかけていた1939年8月23日、ソ連は仮想敵だったはずのドイツと独ソ不可侵条約を結んで、世界を驚愕させた……独ソ不可侵条約をアジアに引きつけて考えると、日本は反共産主義を誓う防共協定を結んだはずのドイツに、日中戦争を戦う中国は、最大の武器援助国であるソ連にそれぞれ裏切られたかたちになった。これはソ連もドイツも、ヨーロッパ情勢を最優先に考えて締結に至ったことを示唆する。……日ソも不可侵条約を結ぶのではないか……独ソ不可侵条約が締結され、さらにノモンハンの戦役までもが停戦に至ると、蔣は大いに失望し、アメリカ政府へ対日制裁の働きかけをさらに強めていく方針に転じる……中国はアメリカに従って外交方針を組んでゆくことを明言した。日本がノモンハンで戦う最中に国際情勢が急変したことはたしかで、この戦役を決して過小評価できない理由はそこにある。……1941年4月13日に日ソ中立条約が結ばれ、中国側の憂慮は的中することになった……さらに日ソ中立条約の本文とは別に作成された「声明書」は、日本側がモンゴル人民共和国の、ソ連側が満洲国の「領土の保全及不可侵を尊重することを約する」、としていた。これは、ソ連による満洲国承認に事実上等しく、中国側に衝撃を与えた。(pp.249-250)
  • 独ソ戦と関特演
    • 1941年6月22日、ドイツはスターリンの油断を突いてソ連を奇襲した。ドイツに呼応してソ連極東へ攻勢に出るのか、それとも石油やゴムなど資源確保のため、東南アジアへ向かうのか。日本は選択を迫られることになった。……結局、1941年7月7日に始まった関東軍特殊演習(以下、関特演)を受けて、関東軍は計80万、航空機600を保有するまでに膨張した。だが独ソ戦は予想よりも膠着し、西へ移動するソ連の兵力も予想するより少なかった。そこで参謀本部は8月9日、独ソ戦の推移にかかわらず、41年度内における侵攻を放棄した。(p.251)
  • ロシアの「満蒙問題」と中東鉄道
    • ロシアにとっての「満蒙問題」とは、要はロシア極東の安全保障の問題である。ロシア極東が安全であるためには、長大な国境を接する中国東北が、ロシアにとって敵対的な勢力の手に渡ってはならない。人口も少なく、経済力も軍事的な防備も不十分なロシア極東を保護するためには、中国東北を己の影響下に組み込んでしまうのがもっとも安全だと考えられた。攻撃は最大の防御なり、の実践である。
    • …この地域で影響力を維持するために必要な装置として、ロシア帝国ソ連も中東鉄道にこだわった。鉄道は単に貨物や乗客を運ぶだけではない。シベリア鉄道と接続した沿線はロシアの経済的な影響下に置かれ、必要ならば短期間で軍隊を現地に大量輸送することもできる。鉄道というインフラを押さえることで、大連やハルビンのように大都市を築き、その沿線を自在に設計することも可能である。そのため、中東鉄道は沿線のロシア化(植民地化)を促した行政機関でもあった。(p.269)
  • ロシアの膨張による防衛
    • ……ロシアの膨張というものの本質を表しているのだろう。ロシアの国土にはいくつかの大河はあるものの、高い山脈もなく、バルト海から太平洋まで広大な草原が広がっている。13世紀にモンゴル帝国のバトゥが数年で征服できたように、1812年にナポレオンが、1941年にヒトラーの軍隊が侵攻から数カ月でモスクワに姿を現したように、天然の要害に拠って守るのが難しいのがロシアだ。では、防衛にはどうすればよいのか。攻勢に出て領土を拡張し、敵対する異民族は内に取り込んでロシア化し、危険な「最前線」は国家の心臓部から遠くへ、さらに遠くへと持ってゆくことで、ロシアの中枢は守られる。16世紀のイヴァン雷帝このかた、ロシア帝国ソ連に生まれ変わっても、四方へ領土を拡張したのは、そうした戦略に基づく。……ロシアはその数世紀前から東へ傍聴した。そして東方における最終的な到達地点が、「満蒙」であった。ここで、ロシアは己に匹敵する勢力にぶつかる。それが日本と中国である。20世紀前半とは、この地域を日露中の三カ国で争った時代とも言えるだろう。(pp.270-271)