近現代南アジア史 近現代インド

1.イギリスのインド進出

(1) 商品経済の発展と地方勢力の自立

  • ①17~18世紀インド
    • インド綿布の世界的な流行により大量の銀が流入。商品経済の発展を背景として、各地で政治・経済活動が活発化し、地方政権が力をつけていった時期。
  • ②対外交易の拡大と金・銀流入による社会構造の変化
    • a)東インド会社の進出…インド産綿布の獲得を目指して商館建設(※英はマドラス・ボンベイ・カルカッタを掌握)
    • b)経済…従来の農業生産物 の現物での分配を基礎とする構造に大きな変化
    • c)地方勢力の自立…ムガル帝国は事実上解体・皇帝は名目的な存在となる。

(2)インドの植民地化

  • ムガル帝国の衰退
    • アウラングゼーブ帝:ムガル帝国最大領域を実現するが・・・
      • a.都市・農村で活発化した商品生産に関わろうとしない
      • b.ジズヤの復活やヒンドゥー教弾圧で反発を招く
      • c.上記a,bの結果→地方政権の台頭・帝国の分裂傾向
    • アウラングゼーブ帝の死後、ムガル帝国は支配領域をまとめてゆく政治的な力を失っていき、ムガル皇帝は名目的な存在と化す。
  • ②18世紀…第二次英仏百年戦争
    • イギリスとフランスがヨーロッパおよび各植民地での覇権をめぐって抗争を繰り広げる。
    • インドでは英仏両東インド会社がインドの土着勢力と結びつきヨーロッパの戦争と連動して抗争。
      • カーナティック戦争(1774~)…南インド東岸での3次にわたる英仏の戦い。英が勝利し、付近の王侯を圧服させた。
      • プラッシーの戦い(1757)…イギリス東インド会社軍が、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破した戦い。フランス勢力はインドから駆逐され、イギリスのインド支配が本格化した。(クライブの活躍)
    • ☆植民地獲得戦争において軍事力と資金力にまさるイギリスの勝利。
      • ※1763パリ条約 …【仏⇒英:ミシシッピ以東のルイジアナ、セネガル、ドミニカ】・【西⇒英:フロリダ】

2.インド帝国の成立

(1)東インド会社の変貌

  • 産業資本家のイギリス東インド会社に対する圧力
    • イギリス本国で産業資本家が成長すると自由主義政策を主張し、重商主義政策で特権を得ていたイギリス東インド会社に圧力がかかる。
    • 1813:インドとの貿易独占を廃止
    • 1833 :茶の取引と中国貿易の独占権廃止→商業活動そのものが停止(翌34年に実施)
    • 東インド会社はインド統治者に変身!

(2)経済的従属国へ転落

  • 【世界に誇るインド産綿布】⇒【英産業革命】⇒【英国機械制綿布】⇒【一次産品輸出・英国製品輸入 】

(3)植民地統治政策

  • 鉄道建設、言語政策(英語公用語)、官僚制度による近代的な行政・司法制度、インド人エリート養成
  • 近代的な税制 
    • ☆植民地政府の最大の目的:より多くの富を効率よく収奪すること。最大の収入源は地税
      • ①ザミンダーリー制…地主・領主に土地所有権を与えて農民から地税を徴収させてそれを納税させる
      • ②ライヤットワーリー制 …農民に土地保有権を与え、政府が直接徴税する。

(4)インド社会の変化

  • 従来:一つの土地に対して様々な仕事をする人々が権利を持ち、村の総生産の一部を得て生活。
  • 新制度:人々の中から1人だけが選ばれて土地所有者とされ、他の人々の権益は無視された。

(5)インド大反乱

  • 概要:インド人傭兵(シパーヒー)の乱から全民族的なインド大反乱へと発展!
  • 直接的契機:新式銃の弾薬包(口で噛み切る必要があったが、牛と豚の脂が塗布してあった)
  • 間接的要因
    • 藩王国取り潰し政策により没落した旧支配層の不満。
    • 植民地支配の安定によるシパーヒーの解雇に対する反感
    • 「野蛮な風習」を排斥する「啓蒙主義的」変革が「伝統」の破壊として反発を招く。サティー(寡婦殉死)禁止令・寡婦再婚法など。
      • ※インド人側でもラーム=モーハン=ローイなど宗教の近代化と因習の改善に努めた人々がいた。

(6)ムガル帝国滅亡 (1858)

  • イギリス軍がムガル皇帝を1857年に捕え、翌年ビルマに流刑にしたため、名実ともに滅亡した。

(7)インド帝国の成立

  • ①イギリス東インド会社解散(1858)
    • 東インド会社シパーヒーの乱での失政を見て、イギリス議会が新しいインド統治法を定めて解散させ、本国政府によるインド直接統治が開始された。
  • インド帝国の成立
    • 中央アジアからのロシアの南下を警戒するディズレーリはインド統治の確立を世界に示す必要からインド帝国の建国を急ぎヴィクトリア女王をインド皇帝として即位させ、インド帝国が成立した。
    • 分割統治…従来の強圧的な政策を改め、保守的な藩王国を懐柔して民族運動抑圧のために利用する政策をとったり、宗教やカースト上の差異を利用したりする政策を取った。

3.南アジアにおけるナショナリズムの芽生え

(1)19世紀前半におけるインドの社会改革運動

  • 都市部において民族的自覚をもった知識人が出現。
  • ラーム=モーハン=ローイの活動…寡婦殉死(サティー)を批判するなど社会改革運動を行う。

(2)民族運動の開始

  • バネルジーの活躍
    • 些細な理由で高等文官職を免職されたことから民族運動に転じる。1870年代末にインド人政治家として初の全国遊説。インド人協会(1876)、全インド国民協議会(1883)の設立に関わる。人種差別に反対し、参政権要求運動を指導。国民会議では穏健派。

(3)インド国民会議ボンベイ大会

  • 背景
    • インド人の民族的な自覚…西洋教育を受けた知識人層の形成+民族資本の成長
    • イギリス本国側の思惑…インド人エリートを植民地支配に利用する
  • 1885 インド国民会議 結成  ボンベイ大会
    • イギリスがインド人の不満をそらせ、対英強調を求めるために、商人・地主・知識人などの代表で創設した組織。第1回はボンベイで開催された。設立当初はインド総督に諮問されるだけの会議で穏健であった。
      • ナオロジーボンベイ生まれのパールーシー(ゾロアスター教徒)。1885年、インド国民会議の設立に参画し、86年、93年、1906年の3回議長を務めた。イギリスを訪れインド問題の啓蒙も行う。著書『インドにおける貧困と非イギリス支配』(1901)では、インドの貧困の原因をインドからイギリスへの「富の流出」に求め、インド民族主義の主張を経済学的に位置づけた。

(4)インド国民会議カルカッタ大会

  • 1906 インド国民会議カルカッタ大会 → イギリスに真正面から対抗する姿勢!
    • 英貨排斥…英資本をボイコット!(英製品不買)
    • スワデーシ…国産品愛用
    • スワラージ…インド人による自治・独立
    • 民族教育…精神的に奴隷化させる植民地教育を否定

(5)イギリスの対応

4.二つの世界大戦とインド

(1)第一次世界大戦後のインド

  • ①戦争と社会契約
    • 1917年、インド相モンタギューは戦争協力を条件に自治を約束。
      • 背景:WWⅠで大量のインド兵が戦線に送られ、多数の戦死者を出す。
  • 民族自決の国際世論のもと、自治を承認。しかし・・・そんなことはなかった!!
    • ☆1.1919年インド統治法では州行政の一部をインド人に委ねたものの、中央はイギリスが掌握し続けるものであり、自治とはほど遠い内容。
    • ☆2.ローラット法でインド人に対する令状なしの逮捕、裁判抜きの投獄を認める!
  • ③アムリットサール事件
    • 独立約束の無視とローラット法発布に対するパンジャーブ地方のアムリットサール市での抗議集会に、イギリス軍が発砲し、1000名以上の死傷者を出した事件。インドの反英運動は激化した。

(2)ガンディーの登場

  • 1888~1891 ロンドンに留学、弁護士資格を取る。
  • 1893~1915 南アフリカで弁護士業。インド人移民労働者への差別に対し、非暴力運動を展開。差別撤廃運動に勝利した。
  • 1915 ガンディー帰国。熱狂的な歓迎を受ける。

(3)ガンディーの運動と挫折

  • ①非暴力・不服従運動の展開
    • 不当な法令への不服従、納税の拒否、公職の放棄、イギリス商品の不買、国産品の使用などをつうじて独立を勝ち取ろうとするもの。
    • ☆ガンディーの歴史的意義
      • 従来ほぼ都市の知識人層に限られていた民族運動を、一般大衆の参加する全インド的な運動へと高めたこと。
  • ムスリムとの連携
    • キラーファット運動(ヒラーファト運動)…オスマン帝国のカリフ制擁護運動。WWⅠでオスマン帝国が敗北したが、インドのムスリムはこれをカリフ制の危機と捉え、イギリスの対トルコ政策に抗議する運動を展開した。結局、トルコ内部で1922年にケマルが革命を起こし、カリフ制も24年に廃止され運動は退潮した。
  • ③運動の挫折
    • 1922年 農民による警察官殺害事件が発生したため、運動の暴力化を怖れて停止された。
  • ムスリムとの分裂
    • 自分達の宗教を至上とするコミュナリズムが大衆レベルで芽生える宗教対立。ムスリムは国民会議派から離脱。

(4)1927~34年のインド

  • ①サイモン委員会問題 (1927)
    • インド統治法改正のための調査を目的とした憲政改革委員会にインド人が一人も含まれていなかったので反英民族運動が活発化した。
  • インド国民会議ラホール大会(1929)
    • 指導者はネルー。「完全なる独立」の意味である「プールナ=スワラージ」を決議。
  • ③第二次非暴力不服従運動(1930~34)
    • 塩の行進(1930)…塩の専売法に反対したガンディーが1930年、アフマダバードからダンディの海岸まで360㎞を80人で29日間行進し、自ら塩を作る作業を行った。巡礼を思わせる行進は熱狂的に支持され、反英運動をさらに高めた。
  • ④英印円卓会議 (1930~32)
    • 独立運動の抱き込みと抑止のために、イギリスがインド側の指導者をロンドンに招いて開催した。1930~32年にかけて3回開催されたが、失敗に終わった。なおガンディーは運動を中断して第2回会議に参加している。

(5)1935年~WWⅡのインド

  • ①新インド統治法
    • 1935年インド統治法
      • 州政治はインド人に委譲されたが、中央の財政・防衛・外交はイギリスが掌握し続けることになり、完全独立の要求とは程遠いものであった。
    • 1937年…新インド統治法による州選挙
  • ムスリムの動き
    • ジンナー総裁
      • 1924年、全インド=ムスリム連盟の総裁にジンナーが就任。ムスリム大衆への浸透をはかってしだいに勢力を拡大し、対英協力・反ヒンドゥーの立場を強める。1930年代の非暴力不服従運動への協力も拒んだ。
  • 第二次世界大戦とインド
  • (a)国民会議派の抵抗
    • 1939 年9月 イギリスの対ドイツ宣戦布告と共にインドもWWⅡに参戦。
      • 国民会議派、独立の為の好機到来ととらえて運動を展開。 
    • 1940 ガンディー、不服従運動を展開
    • 1942「クイット=インディア」(インドを出ていけ)」運動
  • (b)全インド=ムスリム連盟の跳躍
  • (c)分離独立
    • WWⅡ末期、イギリスの国力低下、インドの独立に好意的なイギリス労働党政権により、独立の達成が目前に迫るが、分離独立を主張する全インド=ムスリム連盟と反対するインド国民会議派の対立が激化。
    • 1947年、マウントバッテン総督による分離独立の裁定

5.戦後インド

5-1.イギリスからの独立

(1)インドにおける宗教的対立
(2)1947年 インド独立法(英;アトリー内閣)
  • インド連邦、パキスタンの分離独立
    • カシミール帰属問題…インド北西部のカシミールは、住民はイスラーム系で、藩王ヒンドゥー系であったので、インドとパキスタンの間で争奪の的となり、1947年10月以降、武力衝突を含む紛争が続いている。
    • ガンディー暗殺…1948年1月。ガンディーはヒンドゥー、イスラーム両教徒の融和を求め続けていたので、反イスラーム急進派ヒンドゥー教徒により暗殺された。
(3)ネルー政権(任1947~64)
  • 政治面
  • 経済面
    • 51年から第一次五カ年計画 → 土地改革と重工業化を推進
(4)旧英領セイロン

5-2.戦後インド史の展開

(1)インディラ=ガンディー政権(任1966~77、80~84)
(2)その後
  • ラジプ=ガンディー暗殺(1991)…遊説中にタミル人により暗殺される。
  • パキスタンの核保有…インド、パキスタンが核実験を行う(1998年)