【感想】学園アイドルマスター「似合うんじゃない?」(2024/09/30)を読んだ。

文化祭参加したくない勢である手毬を面倒見の良い清夏が構ってあげる話。
学校行事には積極的に参加する人々と出来るだけ関わり合いになりたくない人々がいる。
教育課程的には特別活動において集団内で一つの目標に向かって行動する経験をさせる必要がある。
手毬はそれを理解しているし、学校のカリキュラムを真面目にこなすので一応形式的には参加していた。
だが手毬は文化祭に価値を見い出せない勢であり準備でレッスン時間が削られるのを良しとしなかった。
故に嫌々参加しながら不平不満を垂れ流しクラス内の士気を下げる害悪的存在と化してしまったのだ。
そんな手毬に対処することとなったのが清夏であり手毬を買い出しに連れ出しクラスの雰囲気を浄化。
また婉曲的にやんわりと文化祭の意義を説き、手毬を構ってあげることで害悪を抑え込もうとする。
それでも手毬がブータレると、今度は一緒にバルーンアートを作ってあげて、クラスに害が及ぶのを防ぐ。

斜に構える中二病的な精神的幼さを見せる手毬に対し、粘り強く対応してあげる清夏の面倒見の良さが光る!

駄々を捏ねる手毬をあやす清夏ママ

教育基本法的に学校教育は人格の完成を目的としている。人間が社会集団を形成して生活している以上、一つの目標に向かって集団で協力する経験は必要不可欠である。そのため教育課程においては文化祭などの特別活動が設定されている。だが学校行事にノリノリで参加する人々がいる一方で、あまり関わり合いになりたくない人々も存在する。様々な人材を上手くコントロールしながら目標を達成したり、空中分解してしまったりを経験することに学校教育の意義があるのだ。だが中には、不平不満を垂れ流すのに、何故かクラスにいる人物も存在する。はっきりいってクラスの士気を下げるだけの邪魔な存在であるが、こういった因子がいることもまた社会集団を運営する一つの要素だ。本サポカはそれが手毬なわけである。手毬は文化祭を小馬鹿にし準備をするならレッスンをした方がマシと公言して憚らない。手毬は文句は言うが生真面目であり教育課程を尊重するので、サボらずに準備に参加しているのだ。きっとクラス内では相当ウザがられているであろう。いつもなら咲季やことねが何とかしてくれるが、今回登場するのは清夏であった。
 

飾り付けをコケにする手毬を秒で論破する清夏

清夏はクラスの士気低下を防ぐため、手毬を買い出しに連れ出す。そしてアレコレと手毬をきにかけ婉曲的に文化祭の意義を説いたりもするのだ。なぜ清夏はここまで手毬を構ってあげるのだろうか。勿論放っておいたら1組の雰囲気が最悪になるというのは間違いないだろう。だが清夏は手毬のストイックさを買っており、アイドルに向ける情熱やレッスンでの頑張りを評価しているのである。それは清夏がイップスやリーリヤからの期待の重さというメンタル面での問題を抱えており、不器用ながらも一生懸命レッスンをする手毬は心に響くものがあったのかもしれない。手毬が不平不満を漏らすたびに清夏は一つ一つ丁寧に答えてあげるのであった。①手毬が文化祭の楽しみ方が分からないと言えば楽しみ方を教えるというし、②すぐに片付けるのに教室を飾り付けるのはおかしいと言えばアイドルのステージを比喩にだして納得させ、③作業が捗らなければ一緒に作業をしてあげ、④レッスンした方が意義があるとか言い出せばどうせやらねばならぬのだから楽しもうぜと声掛けしてくれるのだ。……清夏スゲーな。斜に構えることがカッコイイと思い込む中二病的な精神的幼さを見せる手毬に対し、清夏は諦めずに最後まで面倒を見てくれるのであった。
 

雑務を倦厭する手毬に一緒に作業しようぜと言ってくれる清夏(社会的促進)
似合うんじゃない?