トルストイ『復活』(上・下)(岩波文庫、2014)

地主貴族のボンボンが叔母の屋敷で働いていた小間使いをやり捨てる。女は娼婦に堕ちるが、無実の罪で裁判を受けることに。その際ボンボンが陪審員担当となったのだが、手違いにより冤罪になってしまう。ボンボンは今でこそ世俗にまみれているが、かつてはリベラルであったため、理想と現実に苦悩し、娼婦の冤罪を救うため奔走し始める。最終的に娼婦の冤罪は晴れ、改心にすら至るのだが、ボンボンのために身を引く。煩悶の答えは宗教的解決に帰結しキリスト教戒律エンドとなる。

以下印象に残った所メモ

自分の立場を正当化するために人生や善悪の観念を歪める

何より彼を驚かしたのは、マースロワが自分の立場を恥じていないばかりでなく― ……娼婦という立場を恥じていないばかりでなく―それに満足し、ほとんど誇りにまでしているように思えたことだった。だが実は、それ以外にはありえなかった。どんな人間でも、行動するためには、自分の行為を重要でりっぱなものと考えなければならない。だから、ある人間の立場がたとえどのようなものでも、その人間は自分の行為が重要でりっぱに思えるようにな人生観を自分のために作り出すのだ。……だが富、つまり略奪を自慢する金持ち、勝利、つまり殺人を自慢する司令官、権力、つまり暴力行為を自慢する為政者の間に、はたして同じ現象が生じていないとでもいうのか?これらの人々が自分の立場を正当化するために、人生や善悪の観念を歪めているのに我々が気づかないのは、このような歪んだ観念を持っている人々のサークルが、泥棒、娼婦、人殺しのサークルより大きく、我々自身がそれに属しているからに過ぎない。

娼婦の人生観

あらゆる男、老人、若者、中学生、将軍、教養のある者、教養のない者、例外なくすべての男の最大の幸福は魅力的な女性と性的交渉を持つことなのだ、だから、男はみんなほかの仕事に没頭しているように見せかけていても、つまるところ、ただそれだけを望んでいる。ところが自分は―魅力のある女で―男たちの欲求を満たしてやることも満たしてやらないこともできる、だから自分は重要で必要な人間なのだ。

不労所得者の存在による民衆の貧困

≪民衆は絶滅しかかっている、もう自分たちが絶滅しかかっていることに馴れてしまっている。民衆の中には絶滅に特有の生活形態ができている―子どもたちは死ぬ、女たちは無理な仕事をしている、みんな食う物が足りない、特に老人には。民衆はこんな境遇にほんの少しずつ落ち込んでいったので、自分自身その境遇のおそろしさを十分さとっていないし、不平も訴えない。だから、我々もこの状態を自然なものと考え、それが当然だと考えている≫

民衆自身が意識しており、いつもおもてにも出している生活苦の根本的な原因は、民衆が食っていく唯一の拠り所である土地を、地主達が民衆から取り上げている点にあった―今ではそれがネフリュードフには火を見るより明らかだった……土地は民衆にとってなくてはならないものであり、それがないために人間が死んでいるほどだのに、その土地が他でもない、ひどい貧困におとしいれられた民衆たちによって耕されている、そしてそれは収穫された穀物が国外で売られて、地主が自分のために帽子、ステッキ、幌馬車、ブロンズなどを買う為なのだ。

知的成長による宗教的自由と社会における宗教的迷信の呪縛

彼の階層と時代の人間がみなそうだったように、彼は宗教的迷信の中で育て上げられたが、自分自身の知的成長によってその束縛を何の苦もなく断ち切ってしまい、自分でもいったいいつその束縛から解放されたのかわからなかった。まじめで誠実な人間にふさわしく、彼はごく若くて、学生でネフリュードフと親しくなったころは、自分が公認宗教の迷信にとらわれていないことを隠そうとしなかった。ところが年を取るにつれ、勤務の地位が上がるにつれて、特に当時上流社会に現れた保守主義の反動が強まるにつれて、この宗教上の自由は彼の邪魔になりはじめた。身内の関係、ことに父親が死んだ時の法要や、母が彼に精進を守るように希望していたことや、ある程度それが世論の要求でもあったことなどは言うまでもなく―勤務の関係で、祈祷、聖化式、聖恩感謝、その他、似たような礼拝式にひっきりなしに出席しなければならなかった。何らかのかたちで宗教の外面的形式に関係しない日はまれで、それを避けることは不可能だった。

正教批判シリーズ1 信仰の商業化

 司祭は自分のしていることを何から何まで、良心をもっておこなっていた、なぜなら、これこそ、昔生きてきたすべての聖人たちが信じ、今では宗教界と俗界の上に立つ人たちが信じている唯一の真の信仰だということにもとづいて、子どものころから教育されてきたからだった。彼が信じていたのは、パンから肉ができるとか、たくさんの言葉を唱えるのが魂のためになるとか、自分は本当に神の切れ端を食べたとかいうことではなかった―そんなことは信じるわけにはいかない―信じていたのは、この信仰を信じなければならないということだった。何よりも彼にこの信仰を固めさせたのは、彼がもう一八年もこの信仰の儀式を行って収入を得ており、それで家族を養い、息子はエリート中学に、娘は神学校に行っていることだった。

 雑役僧も同じように、いや、司祭よりも一層堅固な信仰をもっていた。なぜなら、この信仰の教義の本質をすっかり忘れてしまい、湯で薄めたワイン、法要、詩篇つき祈祷、ただの祈祷、賛美歌つき祈祷など、すべてに一定の料金があり、本当のキリスト教徒は喜んでそれを払うということしか知らなかったからだった。だからこそ彼は、人が薪や、麦粉や、じゃがいもを売るのと同じように絶対必要なことだと、落ち着き払った確信をいだいて、例の「しめぐみたれたん、しめぐみたれたん」を大声でさけびもし、決められたことを歌いもし、朗読もしていたのである。

正教批判シリーズ2 信仰による無知な民衆の再生産

彼のやっている職務の矛盾は次のようなものだった―その職務の役割は、暴力までふくむさまざまな外面的手段で教会を維持し擁護することだったが、教会とはその定義によれば、神ご自身によって打ち立てられたものであり、地獄の門によっても、あるいはどのような人間の力によっても、ゆらぐはずのないものだった。神聖で何ものにもびくともしないこの神の機関を、トポロフと部下の役人たちに支配される人間の機関が維持し、擁護しなければならなかった。トポロフはこの矛盾をさとらなかったか、さとろうとしなかったので、地獄の門に打ち負かされるはずのない教会が、カトリック僧や新教の牧師や異端に破壊されないようにと大まじめで心配していた。

トポロフは根本的な宗教的感情、つまり人間は平等で兄弟同士だという意識を持たない全ての人々と同じように、民衆は自分とは全く違った人間どもから構成されていると信じ、自分ならなくても十分うまくやっていけるようなものを、民衆に絶対必要だと信じていた。彼自身は心の底で何一つ信じておらず、その状態を実に便利で快適なものと見なしていたのに、民衆がそれと同じ状態になっては困ると思い、彼自身の言葉によると、自分の神聖な義務はそんな状態から民衆を救うことだと考えていた。

トポロフのような人物は知識の光に浴したのに、その光を当然使うべき方向に、つまり無知の闇からもがき出ようとしている民衆を助けるためにではなく、ただただ民衆を無知の中に押さえつけておくために、使っているのだった。

ロシア人物像シリーズ1 出稼ぎ労働者

「馴れねえもんは、つらいにきまってらあな」彼は言った。「けど、辛抱しきっちまえば―なんともなくなる。ただおまんまさえちゃんとしてりゃいい。はじめのうち、おまんまが酷かったがね。なに、そのうちみんなが怒りだして、おまんまも上等になった。働くのも楽になったよ」
 それから、彼は自分が二十八年の間ずっと出稼ぎに行っていること、稼いだものは全部家に、はじめのうちは父親に、その後は兄貴に、今では家系を握っている甥に送っていること、自分自身は一年稼ぐ五、六十ルーブルのうち、二、三ルーブルを気晴らしに―煙草とマッチに使うに過ぎないことを話した。
「疲れてちょっと一杯やるなんて、罪なことよ」彼は申し訳なさそうに笑いながら言い添えた。

ロシア人物像シリーズ2 民衆出身のインテリゲンツィア

彼は壮年期の半分を監獄と流刑地で過ごした。この流転は少しも彼の気持ちをすさませなかったし、エネルギーを弱めもせず、かえってそれをかきたてた。この男は、食べ物の消化がすばらしくよく、すばしこい男で、いつもかわらず活動的で、快活で、元気だった。彼は決してどんなことも後悔したためしがなく、何一つ遠い先のことを憶測せず、現在の中で、自分の頭脳、機敏さ、実務的能力をありったけ働かせ活動していた。自由の身だったとき、彼は自分で自分に課した目的のために、つまり働く大衆、主として農民大衆の啓蒙と団結のために働いていた。自由を奪われた時にも、彼は自分自身ばかりでなく、自分のサークルのために、外部との連絡をとったり、与えられた条件で最善の生活を築くことにエネルギッシュに事務的に活動した。彼は何よりもまず共同体の人間だった。自分自身のためには彼は何一つ必要としていないように見えた、そして無一物で満足することができた、しかし仲間たちの共同体のためには、彼は多くのものを要求し、どんな仕事でも―肉体労働でも知的労働でも―休む暇なく、寝食を忘れてやることができた。農民らしく、彼は勤勉で、機転がきき、仕事が速く、節制が身についており、努力しなくてもいんぎんで、他人の気持ちばかりでなく、他人の意見にも気を配るのであった。

ロシア人物シリーズ3 虚栄心を満たすためだけの活動家

ノヴォドボーロフは自分の革命運動を弁舌さわやかに、実に説得力のある論証をあげて説明できたけれども、ネフリュードフには、それが虚栄心、つまり、人の上に立ちたいという願いを根底にしているにすぎないように思えた。はじめのうち、彼は他人の考えを身につけ、それを正確に伝える能力のおかげで、勉強をしているうちは、そういった能力が高く評価されている教師や学生・生徒の間で(中学、大学、大学院で)人の上に立っており満足していた。ところが卒業証書をもらって勉強をやめ、そんなやり方で人の上に立つことができなくなると、彼は急に……新しい環境で人の上に立つために、自分の考えをすっかり変え、穏健な自由主義者から左翼的な「人民の意志」党員となった……仲間達はその大胆さと決断力のためにノヴォドボーロフを尊敬していたが、好きではなかった。一方、彼は好きな者は誰もおらず、すぐれた人物を一人残らず競争相手として扱い、できることなら、年とった雄猿が若い猿に向かってするようなことを、喜んでその人物達にしたことだろう。彼は自分の能力を発揮するのをじゃまされたくないばかりに、他人からあらゆる知力、あらゆる才能をもぎ取ってしまったことだろう。

キリスト教戒律主義エンド

農夫たちは主人のために働くように葡萄園に送られていながら、その葡萄園を自分たちの財産のように思い込み、葡萄園の中のものは全部自分たちのためにつくられたのであり、自分たちは主人のことを忘れて、主人のことや主人に対する義務を思い出させる者を殺しながら、この葡萄園の中で、ただ自分の人生を楽しんでいさえすればいい、と思い込んでしまったのだ。
≪ちょうど同じ事を我々もしている≫とネフリュードフは思った。≪我々自身が自分たちの生活の主人で、その生活は我々が楽しむために与えられているなどという、ばかげた確信の中で生きている。これは明らかにばかげているではないか。我々がここに送られている以上、誰かの意志によるものだし、何かのためではないか。ところが、我々はただ自分の喜びのために生きていると決めてしまった。そして明らかに主人の意志を果たしていない作男がよくないことになるように、我々はよくないことになっているのだ……神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。ところが、われわれはそのほかのものを探し求め、明らかにそれをみつけられずにいる……≫