「国民国家形成を歴史的に正当化する一国史創出の根拠付け」という機能・役割を、博物館の調査・発掘・展示が果たした。
はじめに
- 本稿について
?.国立博物館の概要
1.国立博物館の成立過程
- 国立文化院構想とその変更(123頁)
- 「『大同元年 礼教事業概要』(2)によると、「満洲国」において博物館は社会教育の一環と位置づけられ、文教部礼教司社会教育科の成人教育股の所管にあった。〔……〕国立文化院を設立して図書館とともに博物館を併設する計画が掲げられた〔……〕しかし実際には、国立文化院の設立を見る前に関東軍が接収した旧張学良邸を利用して国立奉天図書館が設立され〔……〕博物館も瀋陽故宮とは別に、湯玉麟の邸宅を利用して設立されることとなる。つまり国立文化院構想は計画の立案からほどなく方針が変更され、図書館と博物館が別々に設置されることとなった〔……〕「満洲国」の国体整備の一環として、ともかくもいち早く図書館や博物館といった文化施設を完備していることを対外的に顕示しようとした政策的な意図を垣間見ることができる。」
- 羅振玉の国立博物館開設建議(123-124頁)
- 博物館のための建物の接収(124-125頁)
- 収蔵品収集(125頁)
- 朱啓詹旧蔵の刻絲・刺繍と国立博物館との関係(126頁)
- 「「満洲国」では、国立博物館の設立と同様に、貴重な文物を所蔵し、かつ建国後間もない時期に豪華な図録を刊行することで、文化国家的側面をアピールしようとした〔……〕ただし、〔……〕朱啓詹旧蔵の刻絲・刺繍を文化事業において珍重することは大きな問題を孕んでいた。〔……〕「満洲の文化ではない」〔……〕朱啓詹旧蔵の79種、百数十点の刻絲・刺繍は、宋・元・明・清代の作品で〔……〕来歴を辿れば紫禁城の旧蔵品でそれを朱啓詹が市場から買い集めたものが含まれていた。〔……〕とにかく博物館の建設が急がれていたことと、豪華かつ貴重な文物である刻絲・刺繍を展示の基礎とすることで博物館としての体裁を整えることが優先された〔……〕そのためには「満洲の文化ではない」文物を博物館展示の中核とすることも厭わなかったが、爾後「満洲国」内の考古学調査で得られる発掘品を展示することが前提となっていた」
?.古蹟調査と国立博物館
1.熱河宝物館の設立と古蹟調査・保存事業
- 古蹟調査・保存と博物館(128頁)
- 熱河宝物館の設立(128-129頁)
- 「〔……〕「満洲国」における古蹟調査・保存事業と博物館設立の関連を示す例として、熱河宝物館の設立背景について考察する。1933年3月4日、関東軍は、熱河作戦によって承徳を占領し、避暑山荘に師団司令部を置いた。承徳占領後すぐに「満洲国」文教部は、熱河古墳の調査を東方文化学院東京研究所の関野貞・竹島卓一に委嘱した。同年7月1日に「古蹟保存法」が制定され、9月12日に「古蹟保存法施行規則」が公布されると、10月には〔……〕古蹟調査が実施された〔……〕熱河古蹟調査を主管した五十嵐牧太は〔……〕熱河の地が「匈奴の地であつて、漢土とは無関係であり、漢時代にも矢張匈奴の地であり全く漢の文化には霑はなかつた処である」(五十嵐1982:5)ことを強調している。一方、「日満(満日文化協会)」の黒田源次や三枝朝四郎等が中心となり博物館の解説準備も進められ、1935年2月に熱河宝物館を設立し、1936年8月から展示を開始した〔……〕新たに「満洲国」の領内となった地域の文物保存という政治性も垣間見ることができる。」
2.渤海古蹟調査と国立博物館
- 1930年代の古蹟調査や歴史・考古学に関する学術潮流(129頁)
- 東亜考古学会の成立(129頁)
- 渤海史研究の重視(130頁)
- 「「満洲国」文教部では、1933年の「古蹟保存法」、9月の「古蹟保存法施行規則」制定後、すぐに古蹟調査を計画した。まず着手されたのが、「満洲国」牡丹江省寧安県東京城(現在の黒竜江省寧安市東京城鎮)にある渤海国の上京龍泉府の考古学調査であった。ではなぜ、渤海史研究が重視されたのだろうか。東亜考古学会の設立に尽力した東京帝国大学教授・原田淑人は〔……〕渤海国を「満洲民族」の王朝であると主張し、「満洲国」史研究の一環として調査することを表明している。それは、「満洲国」史を、中国史から切り離して構築しようとする「満洲国」の政策的意図と符合したものであり、「満洲国」史に考古学調査から、歴史的実体を与えようとする主張であった。〔……〕日本との交流が歴史的に確認できることも、日「満」一体という両国の強固な同盟関係が標榜された「満洲国」で渤海史研究が重視された大きな理由である」
3.遼代古蹟調査と国立(中央)博物館
- 遼代の古蹟調査と「満洲国」史の創出(pp.131-132)
- 「国立博物館は、開館当初から遼代の古蹟調査とその成果の収蔵物等に深く関わりを持っており、陶磁器類では「遼三彩」や100点近くの「鶏冠壷」、さらに遼朝の最盛期を築いた6代聖宗・7代興宗・8代道宗の陵墓から湯佐栄によって盗掘された墓誌が収蔵されていた。〔……〕「鶏冠壷」について〔……〕発掘される特徴〔……〕は興安省南部と熱河省北部にあたり、1933年に関東軍が熱河作戦によって占領した地域であり、かつての東三省、いわゆる満洲を西方に越える領域である。すなわち熱河作戦で占領したこれらの地域も含めて、中国史から切り離した「満洲国」史を創出するためには、この地域に王朝の中心があり、しかも長城以南には大きく踏み越えない遼朝の存在が極めて重要だったのである〔……〕国立博物館では「鶏冠壷」をはじめとする数多くの遼代の文物が展示され、国立中央博物館奉天分館となって以後も積極的な発掘調査が継続されたのである。遼代の古蹟調査は、考古学調査から「満洲国」史に歴史的実体を与えようとする点において、渤海史研究の企図したものと共通している」
4.高句麗古蹟調査と国立(中央)博物館
- 国立中央博物館と高句麗古墳(132-133頁)
- 「満洲国」政府の古蹟調査・保存事業(133頁)
- 「1937年3月、民生部および「日満(満日)文化協会」後援のもと、「満洲古蹟古物名勝天然記念物保存協会」(代表:于静遠)が新京に設立され、「満洲国」内の古蹟古物に関する調査研究、その保存・維持ならびに顕彰作業が行われることとなった。そして文物保存の思想普及を図るために講演会や展覧会を開催し、機関紙『満洲古蹟古物名勝天然記念物保存協会誌』(第1集〜8集、1941年〜1944年)を刊行した」
- 「〔……〕国立中央博物館の機関誌『国立中央博物館時報』に、「従来殆ど閑却されていた満洲の先史及有史時代遺跡の闡明、遺物の蒐集こそ今後の本館が力を入れるべき部門であって、今迄も日本の東亜考古学会等の厚意により、満洲国内での発掘品は調査後本館へ寄贈を受け、本館の学術的価値を昇めつゝある」(『時報』4号:24)とあるように、該館の活動が東亜考古学会の活動と不可分となり調査が進められていった」
?.国立博物館の展示内容の変化と国立中央博物館の特別展
1.国立博物館の展示内容の変化
- 満洲色を出すための展示替え(134頁)
- 「〔……〕開館が急がれた国立博物館では当初、羅振玉の寄贈品や朱啓詹の旧蔵品である刻絲・刺繍など「満洲の文化ではない」文物が博物館展示の基調をなし、清代の文物が圧倒的多数を占めていた〔……〕しかし、展示替えを重ねるにしたがい、上記のような特徴を持っていた従来の展示内容が変更されていく。国立博物館で着手された展示の再構成において最も顕著な変化として認められるのは、高句麗・渤海・遼代の発掘資料を展示のメインとした点である〔……〕国立博物館の展示が1937年展示替え以降、東亜考古学会を中心に盛んになされていた「満洲国」内の発掘調査で出土した資料に偏重していったことを示している。そしてこのことを〔……〕「満洲色」を出すと表現している。なおこのばあい、「満洲色」の「満洲」とは「満洲国」の「国土」を指しており、清朝の支配民族を指しているのではない。すなわち〔……〕「清朝色」に代わって、当時考古学者・東洋史学者が考古学調査の成果に基づいて新たに創出しようとしていた「満洲国」史像にかかわる文物が表象するものを「満洲色」と言っている」
- 「国立博物館は1939年の分館化後、東亜考古学会による学術発掘品の収蔵・展示の場という性格をより強くしていった。高句麗・渤海・遼各王朝の文物が徐々に国立中央博物館の主要な展示を構成するようになった結果、かつての「清朝色」や中華文明的要素は薄められていく。それは、単に考古学資料収蔵の増加がもたらした相対的な変化ではなく、「満洲色」という直接的な言葉こそ他の史料に現れないが〔……〕「満洲色」とその創出を意識したものであった」
- 開館当初、博物館を代表する展示品であった刻絲・刺繍の扱われ方(135頁)
2.「飛鳥奈良文化展覧会」・「満洲国国宝展覧会」と国立中央博物館
- 和同開珎の重要性(136頁)
- 「1939年1月1日をもって国立博物館から改組された国立中央博物館奉天分館では〔……〕改組後に行われた展示替えによって、1933年と1934年に原田淑人ら東亜考古学会によって発掘された渤海国東京城の文物が展示されるようになった。その中には1934年の第2回調査の際に宮城址の敷地から発掘された「和同開珎」が含まれていた。」
- 「この「和同開珎」について、三宅宗悦による奉天分館の資料解説(『時報』4号:24-25)には次のようにある。〔……〕わけても重要なのは、日本最古の銅銭「和同開珎」を宮城址より出してゐる事であつて、これは国史にも明らかな如く日本と渤海国との間には日本の聖武天皇神亀4年(西暦727年)に渤海国が入貢したのに始まり、彼我両国人の交渉は屡々繰返されたのである。たつた1枚の古銭とは云へ、悠久な千年の昔、海を渡り、山野を越えて北満の地に齎されたこの古銭に我々は限りなき愛着を覚えるし、又満洲と日本との関係と云ふものが決して近代に始まつたものでなく、千年の昔から切つても切れない関係にあつた事を雄弁に物語る日満両国の国宝とも云ふべきものである。」
- 「「たつた1枚の古銭」であったが、奉天分館ではこの「和同開珎」を、日本と「満洲国」の交流を歴史的に遡って物語る確たる証拠品とし、「日満両国の国宝」と喧伝して展示した」
- 「飛鳥奈良文化展覧会」と「和同開珎」(137頁)
- 「この「和同開珎」の展示が古蹟調査と不可分の関係にあったことと、日「満」友好親善の歴史叙述の材料となったことを端的に示す例」
- 「1940年は日本の紀元2600年にあたる。「満洲国」でも祝賀行事のひとつとして4月25日〜5月2日に〔……〕「飛鳥奈良文化展覧会」が開催された〔……〕すなわち「飛鳥奈良文化展覧会」の開催は、日本と「満洲国」の友好親善の淵源を日本の奈良時代の渤海国との交流に求め、渤海国を「満洲国」一国史の内に位置付け、日本と「満洲国」の友好親善に歴史的実体を与えることを目的としたものということができよう」
- 「国立中央博物館の収蔵品のうち、「奈良飛鳥文化展覧会」に唯一出品されたのが、〔……〕奉天分館蔵「和同開珎」であった。東京城出土の「和同開珎」は、平城京出土の「和同開珎」・「神巧開宝」・「万年通宝」の3銭と並べて展示された。この展示には〔……〕1200有余年前の日満親交の跡を此の遥かなる両京から出土せる2つの古銭を通じて想ふ時、感慨今また更に深きを覚える。との解説文が付された」
- 「このような展示内容から、当時「満洲国」の政治的理念を浸透させるために博物館展示の場が有用であると認識されていた〔……〕東京城の調査成果は、「満洲国」と日本の友好を渤海国時代に遡って確認できることにより、「満洲国」を一国史を創出する役割を果たしたと考えられる〔……〕なお、その後「和同開珎」は、ソ連軍が奉天に進撃した際に、奉天分館の他の収蔵品とともに亡失した」
- 「満洲国国宝展覧会」(137-138頁)
- 「1942年、「満洲国」の建国10周年を記念して、9月10日〜25日に日本の東京帝室博物館表慶館において〔……〕「満洲国国宝展覧会」が開催された。この展覧会は、16日間で50000人以上の来館があった〔……〕日本で開催されたこの展覧会に奉天分館の収蔵品が出品されたことについて〔……〕「満洲国」の国宝とは何か、当時「満洲国」の博物館ないし文化事業において何が重視されていたのか、その背後にある政治性を読み取ることができる〔……〕まず確認できるのは、国立博物館の開館前に刊行された『纂組英華』に収録された刻絲・刺繍が、なお一貫して珍重され続けていたことである。また、遼代の陶器が「満洲国」の「国宝」として扱われていた点も着目される。すなわちこの展覧会は、〔……〕領内の学術発掘を推進する文化国家「満洲国」を顕示する意図があったのである。」
- 「では、なぜ他でもなく遼代の陶器が出品されたのだろうか〔……〕満洲は古来有力国家の発祥地であつて、渤海は此土に拠つて海東の盛国と称せられ、遼金はその余勢を駆つて支那の北部をも領有し、清朝は300年に亘つて支那全域を支配した。今や盟邦満洲国は建国10周年を迎え、内は国力大に充実し、外は我国を始め枢軸諸国と親交を結び、国運隆昌、王道楽土の理想を達成した」
- 「〔……〕渤海国と日本の関係は、前述した「和同開珎」の展示の例にもみられるように、当時日「満」両国において再三強調されてきた。そしてまた、中国史から切り離した「満洲国史」は、「満洲国」の領内における清朝以前の渤海国および遼の存在を強調しながら、展示という場を利用して日本でも語られた」