- 本章の趣旨
- 日本は帝国主義的侵略という暴力をとおして、欧米客を誘致するための「東亜観光ブロック」の実現をはかり、「東洋」における「代理ホスト」の役割を果たそうとした。
- 日本は、「西洋にとっての東洋」と「東洋にとっての西洋」の二つの顔を併せ持ちながら、「西洋」を「誘導」することと「東洋」を「指導」することという二役を果たそうとしていた。
- 日本は「西洋」からは「偽物の東洋」、「東洋」からは「偽物の西洋」と見られるジレンマをつねにかかえていた。
- 戦争と観光圏の膨張
- 外客誘致・外貨獲得
- 「第一次大戦末期に、〔……〕日本ではこの時期に急増した観光客と観光収入に刺激され、さらに関東大震災による経済的な打撃と昭和初頭の不況に見舞われ、官民ともに、主として経済の見地から外客誘致・外貨獲得への関心が次第に高まってきた。1930年4月24日、国際観光局は「外客誘致ニ関スル施設ノ統一連絡及促進ヲ図ル」初の官設中央機関(鉄道省の外局)として創設され、対外観光宣伝の実行機関としての国際観光局(1931年設立)と、内外客の斡旋業者に脱皮したジャパン・ツーリスト・ビューロー(1912年設立)とに支えられ、1942年8月に廃局を迎えるまで、国際観光の振興を牽引してきた。」(213-214頁)
第一節 「西洋」からのまなざしに向けて
- 観光資源は「日本趣味」
- 「〔……〕30年代初頭、外客誘致と外貨獲得という至上命題をかかえていた国際観光事業は、明治期から欧米に定着しているプリミティブなイメージをむしろ観光資源として意欲的に利用し、いわば「日本趣味」に迎合するかたちで出発した。」(215頁)
- 西洋→日本→アジア諸国
- 「日本は、つねに、文化的下位の準拠枠として「支那」や「東洋の弱小国」を位置づけ、「西洋」から受けたヘゲモニックなまなざしをそのままほかのアジア諸国に転位させ垂直的に投げかける、といった「応用技法」を使いこなしているのである。」(216頁)
- 「日本は「西洋」を相手にオリエンタルな自分をみずから演じつつ、同時に「東洋の弱小国」に向かっては「西洋」文明を国威として振りかざしている。オクシデント/オリエントを文明/野蛮の両端に並べながら、日本は、その間にあって、西洋にとっての東洋/東洋にとっての西洋といったヤヌスの顔を都合よく回転させつつ、「西洋」に観てもらえなかった近代日本の姿を、せめて「東洋」にはたっぷり誇示しようとしているのである。」(217頁)
第二節 「観光楽土」の満洲へ
- 国際社会へのアピール手段としての満洲国
- 外客誘致と対日世論好転策
- 「1933年以降、国際観光局は宣伝事業の一環として外人招請に着手し、観光関係や、報道関係、教育関係など宣伝力に富む外国人を日本旅行に招待し、彼らが帰国後メディアや講演などをとおして対日世論を好転させることを期待した。その日程の多くには、内地だけでなく新興満洲国も組み込まれ、1934年11月から運行開始した満鉄の超特急「あじあ」号に乗り、国都「新京」の建設ぶりを実感させるというのがプログラムの定番となっている。〔……〕日本人がいったい満洲のどこを外人にもっとも観せたかったのか〔……〕「原野に出現した近代都市」新京こそ、日本が満洲国開発のためにいかに貢献しているかをアピールするもっともシンボリックな場所と思われているのである。」(218頁)
第三節 「東洋」の代理ホスト
1 「日満支」観光ブロック
- 満洲事変後の観光客の増加
- 日本を盟主とする東亜秩序の再認識を促す対外宣伝効果
- 「〔……〕国際観光局は経済的な効果だけでなく、「日満支観光ブロック」を生かして、日本を盟主とする東亜秩序の再認識を促す対外宣伝効果も狙っている。〔……〕日中戦争の時局下に、「日満支観光ブロック」は「一つの大きな集中宣伝機関として」、積極的な外客誘致と並行して、「西洋」諸国に「東洋の一体感」をアピールし、「東洋に於ける我等の国際的地位を更により高く評価づける」ことに利用されていたのである(田誠「北支第六資源の開発」、『国際観光』、1938年4月)。」(223頁)
- 中国人観光客の誘致
- 「〔……〕事変後、国際観光局は一転して意欲的に中国人の観光誘致に乗り出し〔……〕「日支親善」の国策の見地から、欧米人誘致以上の効果を期待するようになった」(224頁)
2 「東亜観光ブロック」
- 欧米誘致ができなくなったあと
第四節 「見えざる宣伝」
- 国際観光は見えざる日本宣伝として大いに活用されていたのだが・・・
- 「〔……〕国際観光にあっては、「見えざる輸出」だけでなく、いわば「見えざる宣伝」というもうひとつの役割がおおいに期待されていたのである。満洲事変と日中戦争を機に躍進をとげてきた国際観光は、帝国主義的な侵略とは相容れないどころか、むしろ「宣伝らしくない」観光の持ち味をフルに活かし、そのカモフラージュのもとに、宣伝と銘打つ宣伝よりも巧妙な効果を収めてきた。しかし、ついに1941年以降、観光は赤裸々な「宣伝戦」の一環に組み込まれるようになり、「見えざる宣伝」は「見え見えの宣伝」へと変わってしまった。国際観光の挫折は、まさにこういった観光宣伝の弾力の限界をはるかに超えるほど日本の帝国主義が暴走してしまったことを意味するのである。」(228頁)