【先行研究】「第六章 「楽土」を走る観光バス」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、189-212頁)

  • 本章の趣旨
    • 観光による権力構造の再生産
      • 内地客のまなざしの介入により、在満日本人は「代理ホスト」と化し、満洲を表現し、「翻訳」し、パフォーマティブに振る舞う。このような振る舞いのなかで、内地客/在満日本人/ネイティブの間の不均衡な権力関係が強化されたり、ゲストと代理ホストが共謀するまなざしのもとで、ネイティブが代理呈示される暴力的な権力構造が再生産されたりする。
    • 観光そのもの政治性
      • 「観光楽土」としての満洲は、内地客が観客、在満日本人が俳優、ネイティブが舞台道具であるような巨大な「野外劇場」。ゲスト/代理ホスト/ネイティブが織り成すシナリオのなかで、「観る/観せる/観られる」という重層的な政治的・社会的関係性を演出する、観光自身が発動する「劇場的権力」そのもの。

第一節 「楽土」での邂逅

  • 観光バスのコース
    • 「〔……〕観光バスのコースは、考案者による都市のヴィジョンや都市の意志を具現するものである。〔……〕都市の支配者にとっての「望ましい」、「意味ある」巡礼ルートを浮かび上らせる。〔……〕いいかえれば、観光バスは都市に誕生するのではなく、都市を登場させる上演装置である。」(193頁)

1 帝国の聖地

  • 帝国が武力による侵略で勝ち取った公式・非公式領土で展開される観光の常態
    • 「1940年9月、ガソリン消費の統制で、内地の遊覧バスはすべて運行停止になったが、満洲の観光バスは、「娯楽本意」「何等国策的な一貫したものが見出せない」内地の遊覧バスとは異なり、「最初からはつきりとした使命を持つて」、日本精神を奮い立たせる戦跡を重点的に取り込んできたため、大連を除く5都市では、43、44年まで存続することが出来た。なぜなら、「内地と違つて満洲の観光は何処へ行つても草木一本から土に至るまで皇軍勇士の血潮を流した処ばかり」なのである。戦跡巡礼を基調とする満洲の観光バスは、決して特殊なケースとして片付けられるべきではなく、むしろ、帝国が武力による侵略で勝ち取った公式・非公式領土で展開される観光の常態としてみるべきであろう。」(197頁)

2 帝国の展望台

  • 在満日本人の存在証明
    • 「〔……〕在満日本人が、自分たちの根付いている満洲を、内地人から「野蛮」「蒙昧」と見下されたくないという心情の裏返しとして、満洲の近代文明を誇示し、内地客に自らの存在証明を認めてもらいたいという「求愛願望」を抱いている〔……〕満洲最大の見どころとして、在満日本人による満洲開発の壮観を挙げている〔……〕「驚異の絵巻物」への「展望」空間は、観光バスのコースにきちんと組み込まれている。〔……〕1937年ころの、「国都観光バス」の締め括りには、「国都建設局」の屋上で、都市計画概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させたところで満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっていた。〔……〕新京のこのような展望空間と同じく、旅順の「白玉山」、大連の「山の茶屋」(展望台)、撫順の「露天掘」(露天炭田)といったようなパノラミックな景色が展開される場所は、ガイドの力の入れどころであり、在満日本人の功績を誇示するのに最適のステージであった。」(198頁)
  • 客体を分類・序列化する視覚装置
    • 「〔……〕「客体」を分類・序列化する視覚装置も観光バスのコースに取り入れられている。旅順攻囲戦当時の状況を一覧できる「戦利品陳列館」(旅順)、満洲などの考古的資料を展示する「博物館」(旅順)、満州資源のアウトラインを示す満鉄経営の「満洲資源館」(大連)、満洲国の国宝3500点を収蔵する「国立博物館」(奉天)などと、征服、発掘、開発、保存される欲望対象としての満洲の「全貌」が、絵巻物のように繰り広げられてゆく。」(199頁)
  • 近代産業への展望的まなざしと、「客体」を分類・序列化する博物館的まなざしとが、直結している大連「埠頭」(満鉄経営の港湾)と「碧山荘」(苦力収容所)の見学
    • 「在満日本人ご自慢の機械文明の産物である埠頭への眺望は、必然的にそこで働く中国人苦力の生活風景と遭遇する。帝国と植民地という不均衡な権力構造下に生まれた特異な景観は、容赦なく観光客の目に突きつけられてしまう。「近代」と「前近代」を同時に目にする観光客の居心地の悪さを、満鉄は、規律・訓練の労働統制機関としての碧山荘を「観光化」し、消毒・消臭ずみの苦力や「一見粗野の観があるが、極めて温順」な苦力は、はたまた「安楽郷」を得た幸せそうな苦力を展示することによって、きれいに払拭してくれた。言い換えれば、苦力は、在満日本人による監視のまなざしと、観光客による観光のまなざしという二重の「権力の凝視」が折り重なるなかで、近代産業を支える労働資源として動員されているのみならず、鑑賞に耐える「去勢された」観光資源としても欲望されているのである。」(200頁)

3 帝国の盛り場

  • 大連の「露天市場」
    • 「〔……〕内地客が期待している「満洲情緒」への想像も、あくまでも「代理ホスト」から提供された旅行メディアに頼ることが多い。「満洲情緒」豊かな名所として最も知られているのは、「満支人の社会相の縮図」といわれる「満人街」西崗子にある「露天市場」であった」
    • 「〔……〕旅行関係のメディアは、概ね二つのポイントから露天市場を「代理表象」している。〔……〕植民都市の盛り場「露天市場」は、内地客にはまさに「異郷における異民族の<異界>への窓」として映っていた」
    • 「露天市場のもう一つの観光価値とは〔……〕「日本人と満洲人との生活程度の大きな差から生じる交換経済の奇現象が見え」、「満支人の生活は瀑布の落差のような激しいコントラストを見せてゐる」ことであった」
    • 「ここで、異郷・異民族・異界という三つの「異」が重なるトポス・露天市場は、単なる生活風習の違いなど日満人の空間的な距離を示しているのみならず、線形化された時間的な開き――日本人社会の<近代=未来>に対置する<原始=過去>的な「満人」社会――を呈する恰好な場となった」
  • 植民地観光と在満日本人
    • 「植民都市のネイティブの盛り場は、明るい展望に適する在満日本人の功績である近代的な景観とは逆に、エキゾチックな暗さのあふれる満洲都市の裏面を「覗き見」するのに絶好の場所であった。このような「観光」と「観影」のコントラストのなかで、「代理ホスト」は、単に内地客の好奇心や「窃視欲」に媚びるためならず、旧態依然の「彼等満人」とは別世界にいる在満日本人の優越感と存在感を、さりげなく誇示しているのであった。」(202頁)
  • 在満日本人同士の対立
    • 「「代理ホスト」がゲストに向かってネイティブのなにを、いかに「代理呈示」するかは、けっして一枚岩のものではなく、在満日本人という帝国の周縁を常に生きている両義的な立場から、内地客との緊張関係のなかで、ネイティブを選択的に代理表象しているのである」(203頁)
  • 大連以外の都市における「異国情緒」提示
    • 「大連のほかに、奉天(城内)やハルピン(傳家甸)でも、「一日の行楽の一つ」として、「満洲情緒溢れる空間」を巡ることになっていた。一方、国都新京だけは、長い間、「満人街」の「大馬路」を観光コースに組み入れることを躊躇していた(『観光東亜』第七巻第四号、1940年4月、114頁)。帝国のユートピアを視覚化しようとする未来都市・新京には、「満人」の<異界=過去>的な空間は「楽土」と逆転的な存在と見なされていたのである。」(203頁)」

4 帝国の歓楽郷

  • ハルピンの観光バスと白系ロシア娘ガイド
    • 「六大都市観光バスのうち、最も異彩を放つのはハルピン観光バスである。〔……〕白系ロシア娘も乗勤して交替で説明するのである。〔……〕エキゾチックな「ハルピン情緒」を日本人観光客に味わわせるために、〔……〕日本語に堪能なロシア人女性二名をガイドに採用し、「露人墓地」のような観光地で自らの風習を語らせるなど、ユニークな工夫を凝らしている。」(203頁)
  • ベストセラー小説による複合的な欲望の対象としてのロシア人女性創出
    • 白系ロシア人バスガイドに代表されるハルピンの昼の顔とは逆転的な存在として、「奔放なエロティシズム」を放つロシア人ダンサーが彩る夜のハルピンがある。ロシア人女性が一種の複合的な欲望の対象として浮上してきたのは、満洲旅行ブームが始まる前夜の1923年頃のことであった。満鉄の姉妹機関である満蒙文化協会の招聘で渡満した作家奥野他見男は、ハルピンまで足を伸ばした。キャバレーでのロシア娘の裸踊りの様子が描かれた彼の著書『ハルピン夜話』は、〔……〕飛ぶように売れ、様々な出版社から何度も再刊されていた。「異国人の性欲」を露骨にかつ面白く綴ったこの本には、ロシア人女性の人種のセクシュアリティが、ロシア/日本の転倒する国力と、日本人男性/白人女性の転倒する人種の性的消費構造と絡み合うものとして現れている。〔……〕ベストセラー『ハルピン夜話』を火付け役に、また満洲旅行ブームにも乗じて、ハルピンは、内地客に手の届くエキゾチシズムとエロチシズムを提供してくれる国際的歓楽都市として広く知られるようになり、殊に裸踊りが一躍ハルピン名物として有名になった。」(204頁)
  • 歓楽資源の管理と演出
    • 「国威の増強を象徴する邦人の急増と、観光客を吸い寄せるロシアムードの喪失――このようなジレンマのなか、「代理ホスト」は、『ハルピン夜話』時代からの歓楽資源をすぐには一掃せずに、むしろ、それを巧みに管理しながら、夜の「ロシア情緒」を豊かに演出する戦略を取ったのである。1936年、満鉄が『内鮮満周遊の旅』という観光映画の企画に着手した。内地の鮮満案内所から送られてきたシナリオにある、ハルピンの項目のところに、本社の満鉄側は、「(夜景(都市美)一カット、日本化をなるべく避ける)とわざわざ注文を書き入れたのである。」(『満洲日日新聞』1936年6月1日)」(205頁)
  • 享楽方面の強化と歓楽資源の整備
    • 「1939年3月、ハルピン市の観光事業を統括する哈爾濱観光協会(1937年3月設立)は、これまでの「露西亜寺院のみの仄かな異国情緒」に、「夜の盛り場」と松花江の遊覧とを加える新しい観光誘致のプランを発表した。「華やかなキタイスカヤ街の夜景を始め、キヤバレーや地下室の絢爛たる舞踏場の雰囲気を紹介〔……〕協会の斡旋でキヤバレー、妓館等も安心して遊べる様便宜を図る筈である」(「異国情緒な哈爾濱に 観光客を招く新プラン」、『観光東亜』第6巻第3号、1939年3月、119-120頁)。このような方針のもとで、二カ月後に発行された同協会編纂の『哈爾濱ノ観光』というパンフレットは、「享楽方面」を積極的にアピールする姿勢で、「キヤバレー」の項目を設け、「ロシヤ美人の酌む甘酒に酔ひ、美人と踊り、合ひ間のステージの催し物を眺め、国際都市の豪華絢爛の夜を更すのはまた甚だ味なものであります。/経費は色々ですが先づ二人位ひで、七、八円辺りから四、五〇円、百円と段階があります」と値段まで明記している(『哈爾濱ノ観光 附サービス読本』、哈爾濱観光協会、1939年5月、17頁)。」(206頁)
  • ハルピンで享楽することの正当化「外人征服道場」
    • 「〔……〕哈爾濱観光協会の主事・南部春雄は、1940年、酒間に次のように話したことがある。「単に異国情緒を満喫させるだけが哈爾濱の使命じやない。哈爾濱こそは、吾々日本人の外人征服の道場なんだ。〔中略〕日本人は碧い眼の人種となると、どんなアンポンタンだらうと、吾々より遥に文明人であるかの様に考へ、徒らに崇拝する。アリヤいかんネ。彼等より吾々日本人の方が数等勝れた人種であり、文化人であるを自覚しないからだ。そこでだ。彼等が何も神様の如く偉くなく、下等動物みたいな奴等だと云ふことを身を以て体験することが必要なんだ。それには外人の女を征服するに限る。一たん彼女等を征服すれば君イ、外人なんてもう屁のカツパだよ。大いに自信の出来てくること覿面だ。どうだ分かつたかネ。哈爾濱は実に外人征服精神を鍛練する唯一の道場だと云ふ意味がワハハ…。(「突撃隊」、『ま満洲観光連盟報』第四巻第五号、満洲観光連盟、1940年9月、32頁)」(206頁)
  • 観光資源として欲望・消費されるロシア人女性
    • 「〔……〕「外人征服」の暗喩としての、ロシア人女性への屈折した欲望が秘められてる。昼の観光バスに花を添えるロシア娘バスガイド、夜のキャバレーを彩るロシア人「踊り子」。ハルピンという「外人征服精神を鍛錬する唯一の道場」において、ロシア女性の身体は、在満日本人と内地客の共謀するまなざしのもとで、「亡国の女」、「楽土」の安住者、そして歓楽郷の愛玩物など、豊饒なナショナル幻想を投射するオブジェとして、かつ「外人征服」の快感を達成させてくれる「肉体の勲章」として、欲望・消費されているのである。」(207頁)

第二節 ネイティブ向けの観光バス

  • 「満人客」向けコース
    • 「〔……〕六大都市の観光バスのなかで、新京だけは1939年頃から「満人」のバスガイドを採用し、「満人向け」客向けの「満語」(中国語)コースを併せて運営したことがある。〔……〕「満語コース」には「寛城子」と「南嶺」といった満洲事変の激戦地が、日本語コースには「衛生技術廠」と「放送局」が含まれていない。すなわち、日本人コースは戦跡を、中国人コースは科学的、文化的施設をと、それぞれに力点の置き所を違えている様子がうかがえた。〔……〕中国人観光バスは、これまで単に見られる客体としてしか期待されてこなかった「満人」に、観光のまなざしを植えつけ、彼らを、飼い馴らされた「観光欲」を持つ主体として作り変えようとしている。」(207頁)
  • 「満支人」向けの観光宣伝
    • 「〔……〕「満支人」向けの観光宣伝は出遅れている〔……〕観光宣伝の必要性が浮上してきた背景には、日中戦争勃発後、満洲と地続きである中国に対する宣撫宣伝が重要性を増してきたという事情があった。」(207頁)
    • 「1940年11月9日、JTB満洲支部の情報誌「旅行情報」(1928年8月創刊)は、通巻第411号から「日本国情の紹介、国威の発揚、交通関係事項の報導、ビューロー業務の宣伝」を内容とする中国語版を並行して発行していく。また、満洲映画協会(1937年設立)は、1941年に、中国語の啓民映画『観光満洲』(二巻、辻野力弥編集)、翌年に『楽土満洲』(二巻、辻野力弥、玉置信行監督)を次々と製作公開し、ネイティブを帝国の「野外劇場」へと召喚するようになった。」(208頁)

第三節 「野外劇場」の増殖

  • 大東亜共栄圏旅行日程」
    • 「1943年2月、「観光東亜誌」に、既存、現存の交通機関に基づいて考案された「大東亜共栄圏旅行日程」が掲載された。〔……〕皇軍の進むところ、街の地図が暴力的に改竄され、帝国の「野外劇場」が増築され、観光バスが上演装置となる在外邦人征服者演出の芝居が繰り広げられていく。「大東亜共栄圏旅行日程」のもう一つ重要なポイントは、発着点は帝都東京ではなく、満洲国の首都新京だということである。観光する「大東亜共栄圏」は、もはや内地客だけが観客なのではなく、在外邦人自身も観客になりうる「主体性」のもと、ネイティブが舞台装置であるような巨大な「劇場帝国」である。」(209頁)