齋藤義朗「軍港呉と進水式-昭和前期の臨時イベント-」(河西英通編『軍港都市研究Ⅲ 呉編』、清文堂出版、2014年、233-238頁)

  • 本稿の趣旨

内容まとめ

  • 進水式のイベント化
    • 「式場内では、記念絵葉書販売や臨時郵便局での記念スタンプ押印なども行われたが、式典は、おおむね当日の午前中だけで終了してしまうものであった。にもかかわらず、進水式軍港都市全体で盛り上がりを見せる臨時イベントとなっていた。」(233頁)
  • 海軍工廠(1903-1945)と進水式
    • 海軍工廠では、前身の呉海軍造船廠時代(1897-1903)も含めると135隻の艦船が進水。
    • 工廠での進水式日本海軍では広く市民一般に公開されていた。
    • 進水式参観者は万単位。入場管理用の整理券を配布された対象は来賓1000人の他、軍人、軍属、工員とその家族および小中学校児童生徒などを含む諸団体。呉工廠での主な進水式における参観者は昭和期で5万から10万と報じられている(234頁-表)。
  • 呉への移動と宿泊
    • 呉市在住者以外も進水式に参加。広島からは臨時列車の増便、列車編成の増結が行われる。
    • 朝の式典であるため前泊希望者が多数あったが、1935年時点での呉市内旅館の収容能力は全等級合わせて4691人。相当混雑することが注意喚起されていた。
  • 『芸備日日新聞』に見る進水式当日の呉市内の様子
    • 一等巡洋艦愛宕進水式
      • 「軍港街呉市では各戸に国旗を掲揚し、(略)早朝から市中は愛宕拝観の人出でうづまり、時刻が迫るにつれて工廠東門、北門の道路は文字通り人の流れと化」す。
    • 一等巡洋艦那智進水式
      • 「拝観券所持者丈でも7万に上り工廠裏山腹からの拝観者を合すれば無慮13万に上つたと言はれてゐる」と報じる。
    • 進水式に盛り上がる人々
      • 進水式当日の呉軍港は市の総人口の大半に匹敵する人出で溢れ、整理券を入手できなかった数万の観衆も、呉工廠の船台や船渠を眺望できる呉市宮原地区の山手に陣取って遠巻きに新鋭艦の誕生を見守っていた。
  • 進水式における事故 
    • 1914年3月28日、戦艦「扶桑」の進水式 → 式典終了と同時の降雨のため観衆が出口の門に殺到して将棋倒しになり群集雪崩が発生する。
    • 以後、会場入りには年齢制限が設けられ、一等巡洋艦那智進水式の頃には、「10歳未満ノ者及扶助ヲ要スルト認ムル者」は「一切入場ヲ拒絶」された。
  • 学校教育への配慮
    • 1919年11月9日 戦艦「長門進水式 → 造船船渠を見下ろす宮原地区道路上(現・宮原5丁目付近)に「学校及団体拝観席」が新設される。
    • 1936年11月29日 水上機母艦「千歳」進水式及び1937年11月19日 水上機母艦「千代田」進水式 → 宮原材料置場(現・宮原8丁目付近)に小学校児童のための場外専用席「宮原拝観席」が設置されるに至る。
    • 式場内については年齢制限が付いたものの10歳未満の子どもたちでも安全に進水式を見学できるよう工夫が施された。
  • ラジオ放送による進水式の実況中継
    • 1934年3月14日『東京朝日新聞』ラジオ番組欄 午前10時「軍艦最上命名式実況(呉海軍工廠より)」の記載 → 放送エリアは東京・大阪などの全国主要地域。当日、日本放送協会は式場御座所近くと軍港内を一望できる呉鎮守府気象観測所の二箇所にマイクを配置。「最上」進水式の模様を全国に実況中継していた。
    • 呉では1937年にも水上機母艦「千代田」の進水式のラジオ中継が行われる。
  • 情勢緊迫化と進水式の非公開化
    • 1938年10月17日 海軍省軍務局長から関係各庁宛て「新造艦艇特務艦艇要目公表二関スル件申進」
      • 「進水時二於テハ其ノ艦種艦名ノ外一切公表セザルモノ」(軍務1機密第370号)とされ、進水式は非公開となり、新聞紙面でも艦名が公表されるだけとなる。
    • 1940年11月21日 「自今新造艦艇、特務艦艇進水ノ公表ハ行ハザルコトニ定メラレ候」(軍務1機密第754号「新造艦艇、特務艦進水ノ公表二関スル件申進」)
      • 艦艇の進水自体が秘匿対象となる
      • かつて呉のまち全体を挙げた<お祭り>のような盛り上がりを見せた呉工廠の進水式は、防諜対策強化によって市民生活から完全に切り離された。
      • 以後、呉市民は、どのような新鋭艦が誕生したかを知らされることもなく、戦争に突入し、終戦を迎えた。
  • 戦後呉における進水式の再公開
    • 1952年11月1日、NBC呉造船部(旧呉工廠造船ドック)で建造された当時世界最大のタンカー「ペトロ・クレ」(3万8000重量t)から。
      • 見守る観衆は来賓や市民を含めて約5000人。戦争による荒廃から造船のまちとして復興する呉を市民に印象づけるものとなる。